4話 夫婦の真実
「もしもし。」
『もしもし。さくらさんの様子はどーお?』
「うん。たぶん俺たちのこと信用してない。逃げるタイミングは図られてると思う。」
『了解。ま、想定内だね。あの旭さんから考えれば、だいぶお利口さんになったんじゃない?警戒心は大事だし。』
「俺は結構悲しいんだけどね。最近すげえ距離取られてる気がする。なんかしたかな。」
『えー、何?手でも出した?』
「出すか!明鈴以外に興味ない。」
『はいはい。惚気は結構。悪いね、よいっちゃん。不便を強いて。』
「ううん。さくらさんに寄る辺がないのは事実だ。せめて、帰る場所くらいは用意してあげたかったのは俺も明鈴も同じ。……で、予見酉七。お前、彼女の居場所は本当に知らねえの?」
『知らないね。あいつとは連絡一切取ってないし。だけど生きてる。麗佳の『異能』で確認してもらった。』
「なるほどね。それなら尚更、ちゃんと見つけてやらねえと。にしてもお嬢さんの『異能』、か。」
『……余計なこと考えんな。『予知』なんて判断を鈍らせるだけで一文の役にも立たねえ。定まった運命なんてこの世界にはない。』
「……肝に銘じる。じゃ、予定通り動くぞ、俺は。」
『ん、よろしく。』
その日、さくらは御厨家で過ごしていた。闇雲に出歩けば敵の罠にはまる危険性が上がる。それに、あんな話を聞いてしまった身だ。明鈴の様子を見ていたかったところもある。
ここに連れてこられて1週間とちょっとが経過した。その間にこの生活にも少しずつ慣れてきたさくらは宵人や明鈴に代わって家事をするようになっていた。仕事に追われる宵人と妊娠中である明鈴。彼らに自分の面倒を完全に押し付けるわけにはいかなかったから。
「明鈴さん、洗濯が終わりました。」
洗濯ものを干し終わると台所に立つ明鈴の姿。彼女の料理は精密で、最近はその無機質な味に緊張感を覚えるようになってしまった。
宵人の浮気に関しては自分が口を出すことではない。しかし、日に日に宵人の優しさと明鈴の無機質さに彼らの間の感情の温度のズレを感じ始めていて。
非常に気まずいのだ。さくらに料理の手解きをしてくれる明鈴も優しい。優しくはあるのだが、その吸い込まれそうな目の奥で何を考えているのか、どこまで知っているのかわからないのが。
「ありがとうございます。助かります。」
ぺこりと頭を下げられる。いえ、と言いながらさくらは明鈴がスナップエンドウの筋取りをするのを手伝った。
「……お2人は、結婚してどれくらいなんですか?」
気まずい思いを払拭したくて取り出した話題。明鈴は無表情にピーッと筋を引っ張りながら答える。
「そろそろ2年になります。」
2年に足らないくらいでこんなことに。人とはわからないものだ。思考がそちらに寄ってしまうのは最早仕方のないことである気がして、さくらはしみじみと頷いた。
「どういう出会いだったんですか?」
定番の質問だ。これまた明鈴は淡々と答える。
「私が関係を迫りました。彼は、それに応じてくれたんです。」
思わずぎょっとしてしまうさくら。関係を迫る?何かの暗喩なのかそのままの意味なのかわからなくて、へえ〜と目を泳がせた。
「じゃ、じゃあ、あれなんですね、明鈴さんの方が先に好きになったんですね。」
笑顔を作りながら彼女の横顔を見上げると、全く変わっていない表情。それがなんだか不気味だった。
「ええ。」
無機質な返事。気まずさを払拭するつもりだったのに、彼女と会話すればするほどその無表情さに呑まれていく気がする。
さくらは黙ってスナップエンドウのまろい黄緑を眺める。ピーッ、ブツッ、ピーッ、ブツッと小気味いいリズムが横からは聞こえていた。
もう気まずいならいっそ、核心に近いことを聞いてしまおうか。止めていた手の動きを再開して、何気なくさくらは訊いた。
「あの、もし、浮気とかされたらどうします?」
淡々と即答していた明鈴が押し黙った。何を言われるかと思って身構えると、彼女はゆっくりとこちらを振り向く。さくらを見るその目は吸い込まれそうな闇に染まっていて、見つめ返したさくらは思わずヒュッと息を吸い込んだ。
「……さあ。私は、彼との婚姻関係が続けばそれでいいので。」
冷めた音量だった。さくらの背筋を駆け抜ける冷たい汗。そうなんですね、変なこと聞いちゃってすみません、たぶん誤魔化すようにそんなことを言った気がするが明鈴の目がかなり怖くてあまり覚えていない。彼女はそのもしもに対して、初めて“怒り”という明確な感情を見せたから。
かえって気まずい沈黙を生んでしまった。さくらはもう余計なこと喋るのやめよう、とスナップエンドウに集中して。
ピンポーン
そのとき、呑気なインターホンの音。誰だろうか。明鈴が手早く手を洗おうとしたのでさくらは自分が出る、と示して手を拭いた。
モニターを確認すると、立っていたのは郵便局の制服を着た人。何か頼んでいたのだろうか。ピッと通話するためにボタンを押した。
『荷物をお届けに参りました。』
女の声。一応明鈴の方を窺う。彼女は淡々と作業を続けていた。声は聞こえていたはずなので、違和感を抱かないということは頼んでいたものがあったのだろう。はい、と応じてさくらはパタパタと玄関へ向かった。
「はい、ご苦労様です。」
鍵を開けながらそう言って、目の前に立つその人を見上げる。彼女のニッと上がる口角が見えたところで。
「うぐっ!?」
さくらは後ろに引っ張られてそのまま投げられる。尻餅をついた痛みに顔を顰めながら何が起こったのか確認すると、明鈴が自分の前に立ちはだかっていた。
「おっと、夫婦揃っていい目だな。」
郵便局の女はいつの間にか中に入ってきていて、先程さくらが立っていた場所には何かが転がっている。
それが小さなビンだということに気づいて、でもすぐにまた女が構えたのでさくらは状況を把握する前に立ち上がった。明鈴は妊婦だ。彼女に守ってもらうわけにはいかない。それに、敵の目的はさくらだろうから。
さくらは集中して、女の『異能』を放とうとした方の手を壁に『異能』で縛りつけた。ガンッと大きな音がして磁石がくっつくように壁に叩きつけられる女。
「明鈴さん、今のうちに!」
明鈴の腕を掴もうとした。しかし、さくらの手は空を切って、ドシンと大きな音。
明鈴が転んだのだと気づいてさくらの顔が青ざめる。それだけでも禁忌なのに。
「お、ちょーどいいじゃねえか。」
ベリッと女が壁から手を剥がすのが見えた。その手にキラリと光るもの。嫌な予感がしたさくらは慌てて2人の間に入ろうとする。でも、たぶん、間に合わない。
ごろん、と明鈴が仰向けにされる姿がやけにスローモーションのように見えた。女の手に握られているのはメスだ。
「やめて!!!」
さくらは叫んだ。
そこは暗闇ではなかった。どこか暖かな、黄色い光のカーテンがゆらゆらと自分を照らす空間。
女が立っている。彼女を見た瞬間、忠直は思わず口に出して呼んでいた。
「……唯子、か?」
染めた気配のない長い黒い髪。丁寧に化粧を施した顔。ほっそりとした体の線。寝顔を見つめ続けた彼女がそこに立っていて、言いたいことをうまく声にすることができなかった忠直は呻く。
かおりと違って唯子は何も言葉を発さない。ただ、こちらを見つめて微笑んでいる。
これは死者との違いだろう。忠直は何かの方法で、眠っている彼女と繋がったのだ。唯子側からすれば、夢の中に忠直が出てきたような気分かもしれない。
唯子は微笑んでいる。外の事情のことをまだ知らないあのときのままで幸せそうに。それに言い表しようのない感情が込み上げてきて、忠直は目を伏せた。
「……お前は、まだ死んでいない。……ああ。わかっている。」
思わず泣きそうになってぎゅっと拳を握る。自分が挫けるわけにはいかない。ほんの少しだけ折れかけていた心を支えられた気がした。
忠直は、目を覚ました。ここのベッドは案外固くない。忠直を殺すわけにはいかないのだろう。相手のそんな意図が伝わるのは、決まった時間に提供される食事と、拷問を受けた後は丁寧な診察と治療を受けることから。
体を起こすと自分が泣いていたことに気づいた。手錠のついた腕を上げ、なんとかそれを拭うとぼんやりと部屋に一つだけあるドアを見つめた。
いつもと変わらない光景。白いドアの見張り窓の奥に監視の後頭部。だけど、何かおかしい。そこで今日はあのミリンという女が来ていないことに気づく。
敵側の予定など知らないが、拷問も投薬もされないことに越したことはない。爪を剥がされて包帯の巻かれた自分の手を見つめる。だいぶ痛めつけられて、ひどい有様ではあるが気分は不思議と悪くない。
(……やはり俺は成功してしまったか。)
投薬の際の苦痛にも慣れてきてしまった。そういう性質であることは把握していたが、まさかここまでとは。自分がギリギリのところを渡り歩いているような心地に辟易する。
(唯子に会った。となると、次は。)
なんとなく次は誰に会うことになるのかわかる気がした。焦がれるほどに会いたい。そんな相手だ。忠直はごろりと横になる。
外は今、どういう状況だろうか。部下たちは大丈夫なのだろうか。面倒を押し付けて、怒っているだろうか。榊は。
不安は尽きない。それでも、嘉七に立ち向かうとなればなりもフリも構っていられないだろう。部下たちは優秀だ。自分は今、できるだけのことをしよう。
忠直はゆっくりと目を瞑った。
ずにゅ、と。
嫌な柔らかさだった。さくらは絶句して、思わずその場に立ち尽くす。
「さあ、元気な声を聞かせてくれよ!」
郵便局員の格好をした女は興奮気味に叫んで、明鈴の腹に刺さったメスでそのまま下半身の方向まで引き裂く。
すぐに鮮血が飛び出し、明鈴の口から金切り声が上がる。そう思って目を背けたのに。
最初に聞こえたのはボンッという爆発音。次に、女の悲鳴が聞こえた途端、さくらの視界は真っ白になった。
それが煙幕によるものであることに気づいたのは少し後。しかし、誰の仕業なのかわからなくて、とにかく逃げようとしたさくらは壁に頭をぶつけた。
ものすごく強力な煙幕だ。本当に何も見えない。でもどうにかして。
『さくらさん。』
え?思わず目を見開くさくら。頭の中に響いたのは、この状況で聞こえるのがおかしい声。
『右へ3歩ほど、それから真っ直ぐ進んでください。』
さくらは動けない。罠の可能性の方が高いから。でもそれを察してか、その女性は付け加えてくれる。
『……早くしなければ、スナップエンドウの筋が満足に処理できませんよ?』
そんな冗談を言う人だったか?でもなんとなくその言葉はさくらの緊張を緩めた。もし罠であったなら、返り討ちにすればいいのだ。
女性の指示通りに足を進める。手を伸ばしたそこにドアノブの感触。さくらは裏口から外に出た。
視界が開ける。パッと目に入った快晴。眩しさに目が眩むさくらの腕を何者かが掴んだ。
「さあ、逃げましょう。」
にこりと微笑む顔は初めて見た。彼女が笑うところなんて一度も。
そのとき、2人に被さるように黒い影。“ラパノス”の構成員だ。どうやら騒ぎに気づいて裏口にも回ってきたらしい。急いでさくらは身構えるが、男の方が早かった。これは、と思って瞬時に自分の腕を掴んでいる女性を庇う姿勢をとる。彼女が虐げられる光景など、2度は見たくない。
パァンッ
銃声。ぎゅっと目を瞑るさくらと、彼女を抱きしめてその肩口から拳銃を撃った女性。2人に襲い掛かろうとしていた男はどう、と地に伏した。
「ご無事ですか、さくらさん。」
柔らかさと甘い匂い。さくらは本能的に察する。この人は、“本当に妊娠している”と。
「……貴女は、一体。」
質問に答える前に女性はさくらの手を引く。裏の戸を開けて、そのままどこか目的地でもあるようにずんずんと進んでいく。
彼女には隙が一切なかった。身重の体で、動きづらいはずなのに、一目で手練れだとわかる動き。彼女に手を引かれていることには不思議と安心感があった。
ふと、彼女は立ち止まる。その横顔がどこか微笑んでいるように見えてさくらはきょとんとした。張り詰めていた女性の気配は、少し緩んでいた。
くるり、と彼女がこちらを向く。その顔をまじまじと見つめたさくらはごくり、と息を呑んだ。
『彼女』よりも片目の色素が少しだけ薄い。でも顔も声も全てのバランスが、『御厨明鈴』にそっくりだった。
「“初めまして”。私は御厨 明鈴と申します。」
微笑むその顔は柔らかい。『あの』明鈴と同一人物だとは思えない。いや、実際のところ、同一人物ではないのだろう。本能的に察してさくらは口を開いた。
「貴女は、私がお世話になっていた明鈴さんじゃないんですね。」
予想通り、明鈴は頷く。
「あれは、私の双子の妹の『早岐 夕鈴』。有事があってはいけない、と私の体を慮った弟の采配です。早岐一巳は私の弟に当たりますので。」
ぽんぽんと飛び出す情報に目を白黒とさせるさくら。一体、自分が今どういうレールに乗せられているのかわからなくて混乱しているのだ。何が起こっているのやら。
「貴女が私の声を信じてくださってよかった。あれは私の『異能』、テレパシーによるものです。さくらさんを誘導するのに役に立つと思って、ここまで足を運んだ次第です。」
あれは、『異能』によるものだったのか。頭の中に急に響いた明鈴の声には驚かされた。先程腹を裂かれて倒れた筈の人物からコンタクトを取られるなど、下手なホラー映画よりもホラーである。
そこまで言って、明鈴はさくらに向かってぺこりと頭を下げた。きっと、謝罪のため。
「騙すような真似をして申し訳ございません。貴女が無事で……。」
「明鈴!!」
そんな明鈴の声に被さるほとんど悲鳴のような声。おや、とその方向を窺うさくらと、彼の登場をわかっていたかのように微笑む明鈴。
はあ、はあ、と息を切らしているのは宵人。この1週間で1度も見せたことのない必死の形相をしている。
「お疲れ様です、宵人さん。さくらさんをお連れしました。」
淡々と告げる明鈴の声にはどこか宵人のことを面白がっているような色が滲んでいた。対してかなり怒っている様子の宵人。
「お バ カ ! あんた、自分が妊娠中って忘れてません!?」
どうやら、危ないところへ突っ込んできたことへの怒りらしい。明鈴の行動は予定外だったのだろう。でもその光景は、なんとなくさくらにも小気味いいものだった。
「忘れておりません。まだ、日課の運動の時間が終わっていなかったのでちょうどいいと思いまして。」
膨らんだお腹をさらさらと撫でる明鈴。無表情のままぬけぬけと冗談を言い放った。この様子は、わりと宵人の方が尻に敷かれているのかもしれない。
「そういう冗談は今要りません!それに勝手に『異能』を使いましたね?もう、俺、あんたの『力』が視えた瞬間、マジで心臓止まるかと思ったんだからな。」
はあ、と眉間を押さえる宵人。その顔は呆れつつ明鈴の豪胆さは知っている、という感じ。
「それは申し訳ございません。でもこの子は久しぶりの外の空気に喜んでいますよ。」
飄々とした態度の崩れない明鈴。宵人は諦めたように少しだけ笑って、無事でよかった、と小さく息を吐いた。
それからやっと、宵人の視線がさくらに向く。彼は深々と彼女に向かって頭を下げた。
「貴女を騙すような真似をしてすみませんでした。さくらさんが警戒する素振りを見せれば相手が現れない可能性が高かったので、ろくな説明もなく不安にさせましたよね。」
さくらはとりあえず素直に頷いておく。今も正直この状況はしっかりとは掴めていないから。
さくらの反応を見た宵人は申し訳なさそうに微笑んで、彼女に対して今回の件に関する説明を始めた。
「うちの課長が誘拐された話は知ってましたよね。ただ、あの人は身長180以上ある体格のいい男性です。それにただで捕まるほどヤワじゃない人だ。よほど人気のない場所でないと目立ちます。」
さくらは頷きながら頭の中をもやもやと這い回る気持ちの悪い感覚を得ていた。特務課の課長。彼の話が出てくると自分の中に処理し難い何かが生まれるのだ。言語化できない何かが。
そんな彼女の様子に気づかずに宵人は続けた。
「それなのに目撃情報はたった一件でした。何が起こったと思います?」
問われて、先程起こったことを思い返すさくら。明鈴の腹に突き立てられたメスの衝撃があまりにも強くて思考停止したのだが、そういえば。
「……今回襲ってきた相手と対峙したとき、玄関に飾られていたビンが落ちたんです。でも、今思うとあのビン、確かもう少し大きかったような。」
明鈴に引っ張られて退がったときのこと。さくらのいた位置に小さなビンが落ちた。玄関に飾られていた物だが、それは普段はもう少し大きかったはず。ということは。
「はい。あの女性の『異能』は物の大きさの操作。まだ検証はしてませんが、俺の所見ではあれは時間経過によって解除されるタイプの『異能』でしょうね。」
つまり、『特務課』の課長も彼女の『異能』で小さくされて攫われたのだろう。いくら強くても、その『異能』について把握していなければ意表を突かれる。
「誘拐に便利な『異能』です。彼女を最初から使えばさくらさんを攫うのも容易だったはず。ですが、敵はそれをしなかった。それはどうしてか。……ここからは一巳の考えですが、あの女性はすごく気まぐれなのだろう、と。」
気まぐれ。そんな一言で誘拐するしないを決められては堪ったものじゃないが、今回、のこのことさくらの前に現れた、ということは一巳の考えが当たっていたのだろう。
「何かしら、興味の惹かれるものがなければ動かないんでしょう。さくらさんの誘拐にあの女性が現れていなかったということは、彼女にとって貴女はあまり興味のない対象だったと思われます。そこで、俺と明鈴を餌にしました。」
宵人の目が明鈴の腹に向く。愛おしげにそこを見つめる彼は父親の顔をしている。
「ああいう手合いは、『特殊な異能』に敏感です。俺の目は少々特別でして。たぶん彼女の興味の対象でしょう。まして、その子どもときたらどうなってるかもわからない。……彼女にとっては格別の宝箱でしょうね、ここは。」
その声に滲む嫌悪。自分で言ってるのに胸糞が悪い、という表情。実際にあんな目に遭ったのが自身の子どもであれば、彼は。
「なので、妹の夕鈴さんに明鈴のフリをしてもらいました。お腹の中に煙幕と女性に対する催涙剤を仕込んでもらって、相手が襲ってきたときに意表をつく作戦。まさか相手の方からお腹に手を出してくれるなんて思いませんでしたけど。」
敵を騙すには味方から、というやつで。明鈴と夕鈴の入れ替わりは一巳と宵人しか知らないことであった。相手にほんの違和感も与えないようにさくらが現れたのと同時期に彼女たちは入れ替わり、虎視眈々と女が現れるのを待っていた、というわけだ。
「そろそろ痺れを切らすとは思っていました。貴女の誘拐に失敗し続けているようでしたので。すみません、こういう事情で何の説明もなく作戦を立てていました。」
特務課のやりたかったことがわかってさくらはホッとした。あの女を捕まえたことで、事は進展するだろう。少なくとも、課長がどこに連れ去られたかくらいは判明するだろうから。
「……そういうことだったんですね。本当に、焦りました。」
それにしても世話になった人間があんな目に遭うのは、演技だとしてもかなり具合の悪くなる光景であった。さくらは安堵したように息を漏らして宵人と明鈴を見つめる。
並んだ彼らはなんというか、ピッタリであった。所謂お似合いの2人。あの無機質な感じはこの2人の間にはない。当たり前だ。宵人の人柄を鑑みれば、顔が同じだからと2人を混同したりはしないだろう。
そこでさくらははたと気づく。あれ、もしや。
「あ!じゃ、じゃあ御厨さんの浮気相手って!」
夜な夜な電話をしていたのはたぶん、作戦のせいで満足に会えなくなってしまった妻を宵人が慮ったことから。つまり、宵人の電話の相手は明鈴であった、ということだ。それだとあの親しげな声も説明がつく。彼は浮気をしていなかったのだ。
しかし言い方が悪かった。浮気相手という単語で宵人に冷めた目を向ける明鈴。
「…………浮気?初耳ですね。」
「違う!!!」
助けを求めるようにさくらを見る宵人。昨夜、具合の悪くなるような思いをして口を噤んだのは何だったのか。さくらは安堵しながらちゃんと誤解を解いてあげるのだった。
「なるほどね。うちの課長はそこに囚われてるってわけか。」
一巳は取り押さえられた女・ミリンの取り調べを行っていた。『特務課』が到着した頃には既に彼女は夕鈴によって捕縛されていたため、監視のために置かれていた人員を片付ける程度で済んだ。
本当はさくらは宵人が助け出す算段だったのだが、どういうわけか明鈴の気配が視えたらしく彼にはそちらを優先させた。今頃よろしくやっているところだろう。
取り調べがひと段落ついた一巳は縛られて座らされているミリンをじっと見つめた。毛先だけを紅く染めた髪の毛、黒を基調としたファッション。頭は悪くないようだが自己顕示欲が強い。
話してみてわかったが、あることを極めようとしてやっているのではなく、それをやっている自分が好きなタイプの人間だ。だからたぶん、このまま『異能』を解いて好きに喋られるようにしたら聞いてもいない不快な事をべらべらと話し始めるだろう。
ここは早く離れるのが得策だ。一巳は小さくため息をついて立ち上がる。
「お、なんだぁ?もう、満足かよ。」
ミリンがニヤついているのが横目で見える。何を言われるのかは大体予想がついていた。たぶん、忠直の現状。知りたいが、知りたくない。
「ええ。ご協力ありがとうございました。」
にこやかに丁寧に自分の感情を押し潰す。ミリンからより詳しく事情を聞き出すのは忠直を助け出した後。なんとなく嫌な予感がして、一巳の独断だがそう決めていたのだ。
「お前んとこの課長、すっかり疲弊しちまって、1ヶ月前とは見る影もないぜ。」
神経を逆撫でするような声。耳を塞ぐことはしなかった。一巳はミリンの方をじっと冷たい目で見る。
「もう完全に頭がイカれちまったよ。苦痛に耐えられなかったんだろう。ひどく痩せて、訳のわからないことを叫ぶんだ。もうあれは狂ってる。殺してやった方がいい。部下にあの姿は見られたくないだろうからな。」
嘘が8割、真実が2割。一巳の目は簡単にそれを見抜くが、2割本当のことがあるというだけで思わず眉間に皺が寄る。
「殺してくれ、ってしきりに言われてたからよ、もしも俺が捕まれば殺してやるよって言っておいた。そして、もうボスたちはこのことに気付いてるだろうよ。あの男、やっと死ねるんだな。」
下卑た笑い声が上がった。それには確かに苛立ちを覚えた。でも。
「……あの人は、逃げることだけはしねえよ。」
一巳の声は冷えていた。ミリンは目を見開いて、また小うるさく忠直について喚く。だがさすがにもう聞く義理もない。総務の職員に任せて一巳はその場を離れた。
「お疲れ様でした、一巳くん。」
今回の1番の功労者、早岐 夕鈴がぺこり、と一巳に向かって頭を下げた。一巳は彼女に対してひらひらと手を振って、ニヤッと笑う。
「義姉さんこそお疲れ。どうだった?よいっちゃんとの擬似新婚生活は。」
悪戯っぽく一巳がそう言った。それによって揶揄う口調にはわ、と唇を震わせる夕鈴が見られると思ったのに。
夕鈴は難しそうに顔を顰めている。何か、あったのだろうか。
「あの、一巳くん。」
何やら緊張しているようだ。一巳も思わず表情を引き締めて頷く。
「宵人くんは、浮気をしているんですか?」
一巳は思いきり吹き出した。
『はーい、もしもし。何?』
「あっ、夜分遅くにすみません!さくらです!」
『知ってるよ。表示されるし。こちらは御厨隼人でございまーす。』
「か、揶揄わないでくださいよ!」
『おいおい。こういうときに食ってかかると更に面白がられるのわかってねえの?』
「……本題に入りますよ。」
『はは、拗ねんなって。』
「……今から特務課とは別の動きをします。」
『……ふーん?それ、宵人たちは知ってんの?』
「いえ、知りません。彼らは今夜、今回の件で得た情報で既に目的地に向かっているので。」
『ま、忠直サン確実に救いてえなら即動くのが正解だろうな。にしても上と話つけんのが早え。今の司令官、優秀らしい。』
「私は待機でいい、と言われました。今回の件でたくさん利用させてもらったから、と。でも、感じたんです。『彼』の気配を。」
『……! おい、それって。』
「嘉七さん。あの人に、会える。」
『1人で行くなよ。俺も同行する。今、どこだ。』
「……貴方には、特務課の方々にお礼と謝罪を頼みたかったんですけど。」
『ふざけんな。俺にもあいつには因縁があるんだよ。恨みごとの1つも言えねえままなんて。』
「……また、あの桜並木で会いましょう。」
『いいか、俺が行くまで無理はすんなよ。』
ピッ、ツー、ツー
静かな夜だ。桜が、舞っている。日陰のこの場所も、もう八分咲き。桜はこのくらいが1番美しい。さくらはそう思うのだ。
気配が近づいてきている。嗚呼、やっと会えるのだ。やっと、この生も。
ザッ、ザッ、ザッ
足音が近付いてくる。そして、それは一定の間隔を空けて立ち止まり、さくらを見つめる。
視線を感じたさくらは目を伏せて微笑んだ。彼女はそのまま、くるりと振り返る。
「……貴方は?」