3話 渦巻く
透き通った花の匂い、外気温よりほんの少し肌寒い気温。さくらは花屋という場所が嫌いではない。からんからんと鳴るベルの音も心地良かった。
「いらっしゃー……なんだ、アンタか。」
人の顔を見てケッという顔をするのは少々失礼ではないだろうか。しかし出会いの際に迷惑をかけたのは確かなのでさくらは素直に頭を下げた。
「こんにちは、御厨隼人さん。先日はすみませんでした。」
彼女の挨拶で花の手入れでしゃがんでいた隼人はすくっと立ち上がり、ため息を吐く。どことなく気怠げな様子。優しくて穏やかな宵人とは違って、一巳のものに似た緊張感が彼にはある。その人懐っこく垂れた目は宵人と似ているのだが。
「別に。気にしてねえよ。宵人から話は聞いてる。今日は昼までだから少し掛けてて。」
一旦裏に引っ込んでいった彼はパイプ椅子を持ってさくらを適当な位置に座らせる。ついでに持ってきてくれた缶の野菜ジュースを手の中で弄びながらさくらは彼の退勤時間を待つのだった。
「で?さくらサンは今日、何するつもり?」
仕事を終えた隼人はぐいーっと背伸びをしながらさくらにそう尋ねる。彼女はからっとした笑顔を隼人に向けながら答えた。
「酉七さんと行ったことのある場所を回ります。歩き詰めになって申し訳ありません。」
さくらが『予見酉七』という女性を探している話は聞いている。ふーん、と隼人は生返事をしながら気になっていたことに分け入っていくことにした。
「アンタはその酉七って人と何してたんだ?宵人から聞いた話だと旅してたとか。」
素直に頷くさくら。今日はいい天気だ。まだ少し冷たい春の風と日向の気温のギャップを感じながら、隼人はさくらを見つめた。
「私、なんというか、記憶が変なんです。」
記憶が変。怪訝な顔をする隼人にさくらが笑いかける。
「“さくら”が連綿と受け継がれてきた話は知っているんですよね?」
さくらの事情は宵人からざっくりと聞いてはいる。守秘義務とかでそれを越える範囲の情報は得ていないが、『さくら』という女性が代々『嘉七』の運命の人として生まれ変わり続けていることくらいは知っていた。
それを示すように頷くと、さくらは細かい事情は省いて説明をしてくれる。
「先代までの記憶はあるんです。私が“さくら”であること、嘉七さんに会いたいこと、それはわかっています。ですが、今世の記憶がないんです。」
今世の記憶。その言葉で宵人が言い含めてきたことが隼人の頭の中にフラッシュバックする。さくらの前では、“旭兎美”という名前や話題を出さないように。彼はキツくそう言ってきたのだった。
「覚えているのは2年前、道端で蹲っていた私を酉七さんが助けてくれたところから。彼女は見ず知らずの私にすごく優しくしてくれたんです。」
2年前といえばちょうど兎美がいなくなったくらいだろう。誰も明言はしなかったが、このさくらという女性が“旭兎美”と同一人物であると考えて良さそうだ。なぜ記憶を失っているのかはわからないが。
「へえ。いい人なんだな、酉七サン。」
適当なあまり中身のない相槌。正直言って弱っているところに優しくしてくる人物などあまり信頼しない方がいいとは思うのだが、さくらからすれば酉七は大事な人に該当するのだろう。それに、隼人は酉七がどんな人間なのかは知らない。余計なことは言わないことにした。
「はい。ずっとお世話になっていましたから。」
酉七が褒められて嬉しいのか、さくらはニコニコしている。隼人はバレないくらいに肩をすくめた。
「じゃ、次な。なんでその人と旅をしよう、なんて発想になったんだ?自分探しの旅?」
その質問には少し悩む様子を見せるさくら。言えないことというより、説明しづらいことらしい。
「……なぜかはわからないんですが、先代のさくらたちのことが知りたかったんです。いえ、知らなければならないとそう思って。」
彼女の目に一瞬、真剣な光が宿る。それは兎美を思い出させる輝きであった。きっと無意識下で兎美がやらなければならない、と思ったことはさくらの行動にも反映されるのだろう。
「御厨隼人さんの言う通り、自分探しの旅のようなものでしょうね。自我の糸口がそれだけだったから、それに縋ったんです。」
しかしそんなことをさくらは知らない。想像もつかないことだろう。
残酷なのか幸せなのか。自分が考えることではないか、と隼人は肩をすくめた。
「結局、今世の私のことは全くわかりませんでしたけどね。でも夫にもう一度会えたことは幸福でした。」
夫。その単語に反応する隼人。兎美の恋人といえば忠直だが、“旭兎美”のことを話すな、と部下に言わせている彼が夫であるはずはない。では、さくらの言う夫とは。
「夫って、その人は今世の相手ではなく、前世の旦那ってことか?」
正解だったらしい。さくらは微笑みながら頷いてくれた。
「前の私は20代半ばで亡くなっています。彼女が夫と過ごした時間は数年ですが、記憶の中では非常に美しいもので。彼も私のことを忘れられないまま、もう79歳になっていました。」
切ない話だ。50年以上前に亡くした妻を想って生きていた人が、妻であり妻でない女性と再会するとは。
それでも夫のことを語るさくらの表情は輝いていたので口を噤む隼人。幸せの基準など人それぞれだ。
「……夫婦ってのはいいもんだな。」
小さく皮肉を混ぜる。しかしさくらはそれに気づかずににこりと笑った。
「こっちです。」
さくらが示した方向に進み続けて30分くらい経っただろうか。隼人はあることに気づいていた。彼女は人気のない方を選び続けている。たぶん、わざとだ。
ビルの角を曲がって路地裏に入る。いよいよ通行人の姿は見えなくなった。さくらとにこやかに談笑をしながら隼人は背後の気配に気を払う。あちらさんはやる気満々だろう。
路地の奥に開けた空間。猫が1匹、にゃあとさくらを見て甘え鳴きした。その瞬間。
「うおっ!?さくらサン!!」
隼人はピンク色の触手なようなものに捕まりかける。柔らかくてベトベトしているそれは目で追えるか追えないか、ギリギリの速度で襲いかかってきたのだ。
さくらの姿は消えていた。代わりにその場でのたうち回る何か。やっと視認できたそれは『触手』であった。動き方は蛸のそれで、吸盤はない。
隼人はパッと状況を把握する。この広場を満たす異様な刺激臭とうねる触手。そして、帽子を携えた男が1人、2人の歩いてきた方の路地から現れた。
「やあ、ご機嫌いかが?紳士淑女の皆様。」
場の雰囲気がピリつく。隼人は顔を顰めた。この前の山高帽とはワケが違いそうだ。
しゅるんっと男の脱いだ帽子に吸い込まれる触手。ニッと顔を上げた男はサングラスをかけている。季節にそぐわない真っ黒な長い細身のコート。背の高い体躯が異様に伸びて見えて気持ち悪さを放っている。
「……アンタ、“ラパノス”の幹部だろ。さすがにその出立ちでザコとは言わせねえぞ。」
隼人の背中を流れる冷や汗。『異能』の使えない自分で太刀打ちできるだろうか。そして、さくらは一体どこに。
「はは、それは嬉しい言葉だな。英雄は英雄を知る、と言うしなァ。悪役も悪役を知っているのかもしれない。」
悪役と称されたことに苦い顔をする隼人。それを眺めながら触手の男はくるくると帽子を弄んでいる。
「さて、俺はお前のこともなかなか面白いとは思っているんだが今日はお姫様を連れて来い、とのお達しだ。さくらさんは一体どこに行ったのかな?」
捕まったのではなかったのか。隼人は小さく安堵の息を吐く。でもそれならどこに。
にゃあ、と猫の声。そちらを振り向くと、隼人の背後の路地の方へ猫を逃がすさくらの姿があった。それはどこか呑気な光景で、触手の男も隼人も一瞬固まる。
「……あれから逃れるとは、俊敏だな。」
ぎゅるんっと男の帽子から再び飛び出す触手。それはさくらへと真っ直ぐに向かって。
しかし隼人は動かなかった。どうして先程さくらが逃げられたのかを見定めたかったのだ。彼女が自分の『異能』で逃げた気配はなかったから。
さくらから目を離していなかった隼人の耳をヒュンッという風切り音が掠めた。その瞬間さくらに向かっていた触手が切り裂かれて地に落ちる。
その、音の方向は。
(上か!)
隼人が上を向いたことで触手の男も何かに気づいたらしい。彼が上を見上げるのが速いか、再びヒュンッという風切り音。隼人の眼前を何かが掠めていった。
それが切り刻まれた触手の一部だと気づいたのは少し後。鼻先にくっついた粘液に顔を顰めながら、隼人は辛くも相手の一撃を防いだ触手の男の方を窺った。
いつの間にか見覚えのある女が立っていた。艶やかな黒髪を短く切り揃えていて、黄金色の瞳は爛々と輝いている。飛んでくる触手を真正面から蹴散らして、彼女は豪快に足を振るった。
「ッ、お前、一体いつから!?」
触手の男が慌てたようにそう叫ぶ。しかし、女は手を緩めない。
「……笛吹 浩一郎、通称“マスタード”。“ラパノス”の幹部です。御厨隼人さん、さくらさんを連れて離脱してください。」
少しだけぼうっとしていた隼人に女からの檄が飛んだ。ハッとして隼人は呆気に取られていたさくらの手を掴んだ。
「ここはあの子に任せるぞ。」
素直に頷いて隼人と共に路地を駆けるさくら。しかし、2人の目の前に山高帽を被った男が立ち塞がった。隼人は素早く構えようとして。
「そのまま行ってください!」
若い男の声。え、と思いつつ半信半疑で隼人は緩めかけた速度を戻す。
1歩、2歩、と山高帽に近づいていく。その巨躯は身じろぎもせず。
ギィィィィンッ
具合の悪くなるような『振動』。脳を小刻みに揺らすそれに、さくらと隼人も顔を顰める。まともに食らった山高帽は堪ったものではなかっただろう。隼人を捕らえる寸前で彼は崩れ落ちた。
「や、お疲れ様っす。御厨さん。」
路地を抜けたところに特務課の末っ子・柴谷 円が立っていた。彼の姿を見た隼人は安堵したような息を吐く。
「……アンタら、俺たちのこと尾けてたのか。いや、結果的には助かったけど。」
そう言われた円はほんの少し得意げにふふん、と笑った。隼人と円は宵人の影響でそこそこ面識があるのだ。
「あの、一体何が。」
そこで、混乱した様子のさくらが隼人の背後からひょっこりと顔を出した。くりっとした目で円を見上げる彼女は説明を欲しがっているらしい。
しかしさくらと目が合った瞬間、円の顔は真っ赤になってあの、それは、その、としどろもどろになる。隼人は苦笑いをしながら彼の代わりに口を開いた。
「要は俺たちは餌にされたってワケだ。敵はアンタを欲しがってる。ほっといてもアンタに誘き寄せられるだろう。そこを突いて、相手から情報を引っ張ろうってクチ。でも本当に連れ去られちゃ困るから俺に同行させたってところだな。」
そしてその後を尾けていた、ということだ。さくらは少しだけ顔を顰める。何か思うところがあるような反応。
「……大丈夫か?」
隼人が尋ねると彼女はハッとしたように目を見開く。そしてすぐに取り繕った笑顔で言った。
「はい。問題ないです。あの、助けていただいてありがとうございました。この前もでしたよね?」
さくらの笑顔を向けられた円は茹で蛸のようになっていよいよ何も言えなくなる。隼人は呆れ笑いを浮かべながら、ふとさくらの背後に視線を向けた。
すると、そろり、とあの触手が近づいてきている。どさくさに紛れて、といったところか。蹴散らしてしまおうと隼人が構えたところでまたあの風切り音が耳を掠めた。触手は細切れになってドチャッと落ちる。じわぁと地面に染みていく粘液が気色悪かった。
「皆さん、ご無事でしたか?」
凛とした女の声。一滴も粘液を浴びずに顔に返り血をつけた女が奥から現れた。
「お疲れ様です、池田さん。お2人には問題ないっす。」
答えたのは円。先ほどと打って変わって淡々と業務連絡をこなす。
「よかった。……笛吹は取り逃がしました。どうやら彼に殺意はなかったらしいですね。さくらさんを逃した途端、素早く逃げる体勢に切り替わりましたから。」
相手は無駄な戦闘を望まないタイプのようだ。触手での悪足掻きはするようだが。
円と軽く言葉を交わした後、女の視線がさくらに向く。彼女は懐かしむようにさくらを見つめて、そしてぺこりと頭を下げた。
「貴女がさくらさん。……初めまして。私は特務課の職員で池田 杷子と申します。御厨さんや早岐さんの部下に当たる者です。よろしくお願いします。」
おずおずとお辞儀を返すさくら。杷子の顔を見て、彼女は少しだけ眩しそうに目を細めた。
「利用するような真似をして申し訳ありませんでした。」
もう一度頭を下げる杷子にさくらは複雑そうな顔を一瞬だけ見せて、顔を上げた彼女には眉尻を下げて首を横に振った。
「いえ。使えるものは使わないと。彼らの情報が欲しいのは私も同じですから。」
隼人はさくらの表情に何かの含みを感じて、それでも何も言わずにただ『特務課』の2人が後処理に勤しむのを眺めていた。
「なー、さくらサン。あいつらはアンタを利用するだけ利用して見捨てる連中じゃないからな。」
部外者の2人が後処理を手伝うことはできない。現場を荒らす前に帰ることにしたのだが、その道中で隼人はふとそう言った。彼の言葉にさくらはハッとしたように、驚いたように隼人を見る。
「こんな状況で誰も信じられなくなんのはわかんだけど、なんつーか、アンタは自分の振る舞いに困ってる感じがする。」
言ってはいけないと言われているので口には出さないが、さくらはあまりにも自分の中の“旭兎美”を殺そうとしすぎている気がする。そうさせる何かがあるのかもしれない。それは少し窮屈そうで、なんとなく自分と重なった。
「こういうとき、信じるモンとか目的がブレちまったら終わりだぞ。……お節介かも知んねーけど伝えとくわ。」
隼人の言葉にどういう反応を示すのか。立ち止まったさくらに合わせて立ち止まり、隼人はじっと彼女の様子を伺った。
伏せた目をこちらに向けたさくらの目はどこか冷めている。敵であったときに見たような冷たさに隼人はごくりと息を呑んだ。
「……私、貴方のことも信用はしていません。今の私に敵意がないだけで、どこかしらにそれを向けていた人なのでしょう?」
急にスッと彼女の心が閉じた気配。なんとなくそれに気圧された隼人は苦笑いを浮かべる。彼女の目はお前も隠し事をしているのだろう、とこちらを糾弾するようで。
「利用させていただくのはこちらも同じです。私も私の目的を果たすために進むだけですから。」
空っぽだ。この目の前の女から垣間見えた虚構に身震いする隼人。
彼女は旭兎美ではない。旭兎美という人格を抜き取られて、彼女の目的と“さくら”の記憶を埋め込まれた『何か』だ。その確信を得てしまった。
だが、隼人は同時にそれが可哀想だとも思ってしまう。彼女は自分を助けてくれた酉七以外誰も信用せずに役目を終えるのだろうか。それは、少し。
「そうか。いや、それでいい。何だっていいんだ。アンタにブレないスタンスがありさえすれば。」
隼人はニッと笑う。その笑顔にはさくらは少したじろいだようだ。
「お察しの通り、俺は悪党だ。いや、そうだった。だけどもう足は洗ったよ。信じてもらえなくても構わねえけど。」
隼人はさくらの目を見つめた。彼女はじっと隼人の動向を窺っている。それに応えるように彼は目を細めた。
「アンタのこと助けてやるよ。あいつらみたいにしがらみはないし、好きに使ってくれていい。それだけ伝えておく。」
さくらが目を見開く。またあの冷たい目を向けられるか、とも思ったのだが、彼女は戸惑った表情のまま呟いた。
「……変な人。」
思わず笑ってしまう隼人。さくらはそれをムッとしたように見つめながら、宵人に渡された携帯電話を取り出す。
「これ、勝手に登録しても問題ないんですかね。」
何が言いたいのかわかった隼人はそれを受け取って手早く自分の番号を登録した。携帯を返されたさくらはどこか満足げにそれを見て微笑んでいる。
「冷たいこと言ったわりに嬉しそうにするんだな。」
揶揄うように言うと再びムッとした顔。さくらは今度はツン、としながら答えた。
「ええ。利用できるものは利用します。」
さくらの表情の変化を楽しみつつ、隼人は彼女を宵人の家まで送り届けるのであった。
その夜。歩き回った疲れのせいか風呂に入ってさくらは宵人の帰りを待つ前に寝落ちてしまった。目が覚めたのは23時ごろ。眠たい目を擦りながら彼女はトイレに。
(……ん?)
人の話し声だ。ベランダの方から。足音を立てないようにこっそりと近づくと宵人がまた、夜空を見上げるようにしながら通話している。
親しげな声。時折漏れる笑い声。その内容が気になったさくらは聞き耳を立ててみた。
今日、触手の男・マスタードと対峙したときに思ったのだ。特務課はこちらに敵意はない。しかし、こちらに協力する気もないのではないか、と。
餌に使われたことはいいのだ。自分の利用価値くらいわかっている。しかし、マスタードの名前を知っていたということは、特務課は自分に伝えていない“ラパノス”の情報を持っている、ということで。
そもそも彼らには違和感を抱いているのだ。さくらのことを昔から知っているような親しみの目を向けてくると思えば、彼らの緊張のようなものが伝わってくるときもある。彼らは自分に隠し事をしている。
それについて何かわからないだろうか。そう考えたさくらは息を潜めてベランダの窓に張り付いた。
「……うん。上手くやってるよ。大丈夫。」
最初に聞き取れたのはドラマなどでスパイなどが言っているようなセリフだ。そして騙されているのは自分。そんな被害妄想が心を占めて、さくらは胸を押さえる。
しかし、次の言葉で彼女は目を見開いてしまった。
「あはは、そんなに心配しないでください。愛してるのはあんただけだから。」
藪を突いて蛇を出してしまった気分。ゾッと背筋が冷え上がった。
「……うん。そうですね。なかなか、会えなくて俺もしんどい。会おうと思うと細心の注意がいるから。……うん、またそのうち。」
宵人の声に滲む優しさと愛情。吐き気のようなものが込み上げてきて、さくらはゆっくりと立ち上がった。
「“妻”の目もあるから。……うん。俺も、大好きだよ。」
そこから先は聞いていられなくて、音を立てないようにトイレに向かう。そこでたっぷりの息を吐いて、落ち着くまで過ごして。
水でも飲もうと思ってさくらはやっと廊下に出る。しかし、ベランダの前に差し掛かったとき、ガラリとその窓が開いたので飛び上がることになった。
「あれ、さくらさん?起きられたんですか。お疲れ様です。今日も災難でしたね。」
宵人の声は優しい。でもなぜかそれに安堵できない自分がいた。
なんとなく、冷めた夫婦だとは思っていた。でも、明鈴は無表情な人である上に恋人を卒業した男女などこんなものか、と勝手に納得して。
さくらは作った笑顔で宵人に生返事をする。彼が心配げに眉を顰めるその仕草にも聞いてしまった罪悪感を得た。
「顔色が悪いですね。嫌な夢でも見ました?」
顔を覗き込まれたさくらは慌ててのけぞる。宵人の目には一点の焦燥感も悪びれた様子もなかった。
「え、ええ。そ、そんなところです。なので、水でも飲もうと思って。」
宵人が納得したように頷いてくれる。それには安堵しながらさくらはあまり話しかけられたくないと示すように振る舞った。
「あんまり無理しないでくださいね。ここが少しでも安らげる場所になればいいんですけど。」
それは貴方の不貞行為を知ったことで台無しになりました。そんなことを言えるはずもなく、さくらは曖昧に笑ってその場を後にするのだった。
とある古びた一軒家。そこからは味醂と醤油の混ざったいい匂いが漂っていた。杷子から逃げおおせたマスタードは迷いなく真っ直ぐにその家に入る。
ボロい木造建築だが、それなりに清潔にしてあるその様子は生活感があって悪くない。怒られてしまうので手洗いうがいを先に済ませてマスタードは台所へ向かった。
「今日は肉じゃがか、ボス。」
そこに立つエプロン姿の男性はコトコトと鳴る鍋から視線をマスタードへと移す。そして、彼を見てニコリと笑った。
「はい。お疲れ様です、マスタード。」
互いの本名は知っている。それでもこれで呼び合うのは愛称の醍醐味だろう。今やコードネームと化してしまった部分もあるが。
「“さくら”さんは一緒じゃないんですね。」
肩をすくめるマスタード。それは任務失敗をほんの少しだけ責めるニュアンスが含まれていたから。
「意地悪しないでくれよ、ボス。特務課の紅一点、あの女の『異能』はちょっと分が悪い。俺の触手を一掃しちまう。」
杷子の『風』で切り刻まれて随分と可哀想なことになってしまった触手を想いながらそう言うと、杉崎はけらけら笑う。彼は可愛い可愛い触手のことをいつも気持ち悪い、と言っているのだ。
「なぁに言い訳してんだよ、マスタードの愚図。俺はやっとあの女バラせるってわくわくしてたのによぉ。」
そのとき、今の方向から飛んでくる暴言。そちらに移動すると、適当なバラエティ番組に悪態をつきながら茶を啜っているミリンがいた。
「相変わらず横柄な女だな。ボスを手伝えよ。」
皿を運びながらそう言うが、ミリンは素知らぬ顔でマスタードのことを無視する。人の説教は聞かないタイプなのだ。
「で?まさか本当に手ぶらで帰ってきたとか言うのか?」
だけどその目は鋭い。マスタードはニヤリと笑って、脱いだ帽子からうにょ、と先端の切れた触手を出した。
「この子の先端をさくらにくっつけてきた。彼女はどうやら局の寮ではなく、特務課の職員の家にいるらしい。」
興味なさげに爪を見ながら生返事をするミリン。まだ、彼女の興味を惹く何かは出ていないのだ。
「しかしその家、身重の女がいる。『異能者』同士の子どもで、ちょうど膨らんできた頃合い。それに、父親の目は特殊な造りになっている。“中”の子ども、気になるだろう。」
キッチンで忙しそうに動き回る杉崎に聞こえないように声を小さくするマスタード。彼は汚い所業は知らなくていいのだ。自分たちの旗頭であればいい。
「……へえ。」
ミリンの目がきらりと光る。どうやら彼女の興味を引けたらしい。
「さくらに手を出すことは許さねえ。だが、その女に関しては死のうが死ぬまいが関係ない。お前が行けば、全て目を瞑る。」
悪くない話だろう。そういうふうにミリンを見ると、彼女はニヤリと悪い顔をしていた。マスタードは少しだけ安堵して、ミリンから体を離す。
「じゃ、頼んだぞ、ミリン。」
彼はそのまま杉崎の手伝いをするために台所に向かった。ミリンは再びテレビに視線を戻していて、でもその目には猟奇的な何かがしっかりと宿っていた。