2話 蛇の目
『異能対策局』。通称異局。警察署に似ていて、辺鄙な、とまでは言えないがなんとなく人通りの少ないところにぽつんとある建物だ。ここに関する説明は道中、自分をここまで連れてきてくれた男性・御厨 宵人がざっくりとしてくれた。
「お疲れ様でした。いや、まあ、ここからが本番みたいなところありますけど。」
宵人が後部座席のドアを開けてくれる。さくらが恐る恐る降りると、既に助手席から降りていた宵人の兄・御厨 隼人がじぃっとこちらを見ていた。成り行きで協力して共に戦ったが、別に信用できるほど関わったわけではない。襲ってきた男・山高帽が何やら気になることを言っていたし。2人とも特に言葉は交わさずに宵人の案内に続いた。
途中で隼人は、宵人の部下である柴谷 円と共に角を曲がっていった。さくらとは違う扱いのようだ。
いくつか角を曲がり、1つのドアの前にたどり着く。そこのプレートには『特別異能業務課』と記載されていた。
宵人がドアを開けてくれて、中に通されたさくらは思わず立ち止まる。
2列並んだデスクで使われている形跡があるのは5つのみ。その中でも1つ、なんとなく1番奥のデスクに視線が向いた。そこが気になったのだ。
「……今は、誰もいらっしゃらないんですね。」
さくらが呟くようにそう言うと、宵人の返答が後ろから降ってきた。
「はい。このところバタバタしていて。かく言う俺もすぐに行かないといけないんです。少しの間、ここで待っててもらっていいですか?」
申し訳なさそうにそう言った後、宵人はさくらを事務所内にあるソファに案内する。彼女にお茶を淹れて渡すと、彼はぺこりと深く頭を下げる。
「すみません、すぐに戻ります。」
お構いなく、と伝えると宵人はありがたいと笑ってすぐに事務所を出て行った。パタン、とドアの閉じる音とそれから訪れる沈黙。さくらは息を吐いて辺りを見回した。
室内に染み付いたコーヒーの匂い。窓際に置かれた元気な観葉植物。たくさんあるのにいくつかしか使われていないデスク。そして。
立ち上がって、なんとなく近づいてみる。そのデスクは綺麗に整えられていて、無駄なものがない。カレンダー、何かしらの書類、そして一冊、書籍があった。
(……この席の人、娯楽が本なんだ。)
積み上がった書類だけでもう活字が嫌になりそうなものなのに、仕事に関係しないものといえばその書籍だけ。気になって手に取ると。
(あ、栞だ。赤と、青の蜻蛉玉。……大事に使われてるみたい。)
マイ栞を持っているとは、かなりの読書家なのだろう。黒い革紐のそれは使い込まれて擦り切れている部分もあるが、それを繕った形跡もあって随分と大切にされているようだ。
あらかた見終わったにも関わらず、なぜかさくらは書籍を握りしめたままその場を動けないでいた。このデスクを使っているのは、一体。
「それ、付き合ってなかった頃に恋人に貰ったモンらしいですよ。」
急に耳に届いた男性の声。さくらは飛び上がった。顔を上げるとデスクの向こう側から眼鏡をかけた茶髪の若い男性がこちらを見ている。アーモンド型の大きな翡翠の瞳は強い印象を残すこちらを見定めるような輝き。
「ッ、か、勝手にすみません!」
さくらは慌てて本をデスクに戻し、男性に向かって頭を下げる。すぐに上から笑い声が降ってきた。
「別に?俺のじゃないんで謝んないでいいですよ。」
軽い調子でそう言われてさくらは、へ、と間抜けな声を漏らす。彼女が顔を上げると、男性は自分の分のコーヒーを用意しにケトルの方に向かっていた。
「そこ、うちの課長のデスクです。女性に見られて困るモン置いてる人じゃないし、安心してくださいな。なーんも変わってないですよ、あの人。」
それは、含みのある言葉。変わってないと言われても、そもそもここに座っている人が誰なのかをさくらは知らない。知らない、はずだ。
「まあ、あの人今行方不明ですけどね。かれこれ1ヶ月くらいになるかな。」
え。予想外の言葉にさくらは目を丸くした。行方不明。そのことに心臓が冷たい手に鷲掴みにされたような心地を得る。
「……それは、随分……。」
何と言い表しようのない気持ち悪さに目を伏せると、一際強いコーヒーの香りが鼻をつく。男性のコーヒーが仕上がったらしい。
「さ、かけてくださいな。あなたには聞きたいことがたくさんある。」
深刻な話題のようなのにさらりとそう言ってソファに腰掛ける男性。さくらも彼の言葉に従って、もう一度ソファに腰掛けた。
「お、素直に応じていただけるんですね。ありがたい。そんじゃまあ、何から訊くべきかな。……ああ、いやその前に。」
どこからか取り出したメモに目を通していた男性がパッと顔を上げる。彼はニコッとさくらに対して胡散臭い笑みを浮かべ、名刺を渡してきた。
「申し遅れました。異能対策局特別異能業務課主任の早岐 一巳です。どうぞ、よろしくお願いします。」
誠実な自己紹介のはずなのに宵人のそれとは違って、彼の底知れなさを示すような挨拶。真正面から彼を受け止めて、さくらは思わず生唾を飲み込んだ。
ずっと見られている。目の前のこの男に。なぜかそう思わされた。自分が獲物にされたような気分だ。気軽なテンポで話してはいるが、ここに入ってきてからの挙動をずっと見張られていたかのような緊張感。一巳の目は何かのタイミングを測っているようだった。
「さくら、です。名乗れるような肩書きはありません。よろしくお願いします。」
さくら、ねえ。一巳はフッと目を細めてどこか楽しげにペンを動かした。
「さくらさん、あんなところで何してたんですか?花見?桜は今、八分咲きってとこだったかな。あそこ、日陰だからもっと控えめか。」
あんなところとは隼人と会った場所のことだろう。別に嘘をつく必要もないのでさくらは素直に答えた。
「はい。花見です。あそこは思い入れのある場所で。」
目的を果たすには“まだ”だったのだが桜は美しく舞っていた。花見と言っても過言ではない。
「思い入れ。ふうん。家族と過ごした場所だったとか?」
そんなところです。微笑んで応じるとさくらは宵人の淹れてくれたお茶を手に取った。飲むにはちょうどいい温度まで冷めていて、いい香りがする。
「じゃあこの辺にお住まいなんですか?」
一巳もコーヒーを手に取る。少し濃い目に淹れられているそれは苦そうだ。
「いえ。最近こっちに戻ってきました。住まいは、もう少し田舎の方です。」
戯けたように笑うと釣られたように笑ってくれる。よく見ると、目の前の彼はどこか疲れているように見えた。眼鏡で少し誤魔化されているが、目の下にクマがある。
「あ、そうなんだ。ならあの場所はよっぽど大事な場所なんですね。」
何気なくそう言われてさくら胸の中でドキ、と心臓が跳ねる感覚を覚えた。だが、一巳がそれを追求することはなく、彼は普通に話を戻す。
「ご家族は?ご実家はこっちの方にあるんですか?」
さくらは首を横に振った。
「いえ。両親とは死別していて。今は、夫が1人。」
メモを取っていた一巳の手が一瞬止まる。彼は顔を上げてさくらに訊いた。
「へえ、それなら旦那さんとこっちに戻って来られたんですか?」
再び首を横に振るさくら。
「夫はあまり体が強い人ではないんです。私だけで来ました。」
なるほど。うんうんと頷いた後、一巳は柔らかく笑んだ。
「じゃ、あなたはお一人であの桜を見に来た、そういうことで合ってます?」
さくらが頷くときゅ、と一巳の翡翠の目が細まる。それに尻心地の悪さを覚えてさくらは少しだけ彼から目を逸らした。
「ではどうしてあの男に追われていたんですか?何か、心当たりは?」
山高帽のことだ。彼の襲撃に対して、さくらは予測していたように振る舞っていた。まるで、そういうことに慣れているかのように。
「……いえ。心当たりはありません。最近になってなぜか追い回されて困っています。」
最近。その単語に反応した一巳はじっとさくらを見つめた。
「最近、とは?」
「大体1ヶ月前くらいから。撒いても撒いてもしつこく追われるんです。」
ふうん。頷いて一旦ペンを置く一巳。彼はコーヒーを手に取って、意地の悪い笑みをさくらに向けた。
「微妙に嘘つきなんですね、さくらさん。」
彼の翡翠がキラッと光る。ぞくりと背筋が粟立って、さくらは思わず身構えた。『異能』の気配がしたのだ。こういう場で行使される『異能』。嫌な予感が。
「貴女の、本当の名前は?」
訊かれてさくらの体は硬直した。頭の中は真っ白で、自分の声がやけに客観的に耳に届く。
「予見さくら。そう名乗っています。」
さすがにそれは予想外であったのだろう。目を見開く一巳と苦々しげに顔を伏せるさくら。その瞬間にフッと『異能』から解放された。
「……なるほど?あんた、酉七と行動してたクチね。“予見”。そう名乗れ、と言われていて、さくら以外の本当の名前はよくわかっていない。……あー、ほんとあの課長クソだな。“ここまで”は折り込み済みだろうな。」
はあ、と一巳はため息をつく。そしてもう一度目が合ったとき、彼の顔からは緊張感が抜けていた。
「試すような真似してすみませんね。一応、あんたがどういう状況に置かれてんのか知りたかったもんで。」
雰囲気が一気に砕けたせいで、逆に身構えるさくら。この感覚、久しぶりだ。自分のことを初めて会う人間の方がよく知っているような。
「事情は誰にも話すな。酉七にそう言い含められてますね?ふーん、一応あいつは“こっち側”ではあるのな。というよりさくらさん側か。」
訳知り顔をされたさくらは静かに一巳のことを観察する。彼はぶつぶつと先程のメモを確認しながら何かしらの考察をしているらしい。疲れた顔をしているのに、目を見張る集中力だ。
しばらく思考に浸る一巳に置いてけぼりにされる。さくらが所在なさげにお茶を啜ったところで、やっと彼の意識が帰ってきた。
「大体こっちの持ってる情報と擦り合わせられました。で、まあ安心して欲しいんですけど、うちは一応さくらさんの味方です。」
味方。そう言われても手放しで信用できなくてさくらは眉を顰める。警戒する彼女を見た一巳はにっこりと笑いながら口を開いた。
「嘉七。現代では“杉崎勇気”の名を借りて、今から9年前に大きな事件を起こしました。『異能者』の社会で彼は大量殺人鬼です。しかし貴女にとっては“愛する人”、なんですよね?」
さくらは目を見開く。さくらを追っている人間が死に物狂いで求めている情報が一巳の口からぽんぽん飛び出したから。
「さくらさんは花見に来たんじゃなくて、嘉七に会いに来たんだ。2人と縁深いあの場所でもう一度出会うために。ま、会えなかったみたいですけどね。」
どうやら全部知っているようだ。でもさくらは怪訝な顔をする。一体、どうして。
「……ふ、そんな顔しないでくださいよ。そんなに胡散臭いですかね?」
こちらの心情などたぶんほとんど見透かしているだろうに、揶揄うようにそう言われてしまう。やりづらい。
「……貴方の『異能』。自白させる力がありますよね。それで無理矢理聞き出そうとしていない以上、私に敵意はない。そう信じたくはあります。」
淡々と自分の意見を述べる。一巳は微笑みをたたえつつ静かに頷いて、続きを促す。
「ですが、少し、何か、歯触りの悪い何かがあるんです。なんでそこまで私の事情を知ってらっしゃるんですか?」
頭の中にぼんやりと。今から言おうとしたことを忘れてしまったかのような、そんな気持ち悪さがさくらの中を占めていた。目の前のこの男からこういう目を向けられるのは慣れていない。そんな感覚を体が得ていて。
それを静観しつつ、一巳はコーヒーを手に取る。そして言い放った。
「俺には捨てた名前がありまして。早岐一巳改め、予見一巳。あんたと行動を共にしてた予見酉七の兄に当たります。ま、その辺の繋がりとこんな職業ということもあって、酉七から相談を受けていた。そんな感じです。」
けろりと吐かれたそれにへ、と間抜けな声を漏らす。一巳はそれが面白かったようでニッと悪戯っぽく笑った。
「多少、信頼できる材料になりました?どうしても信じられないなら酉七に確認取ってもらって結構ですよ。」
その言葉にさくらの表情が曇る。一瞬だけ見えた彼女の心細そうな表情。それで何かを察した一巳はくるくるとペンを回しながらさくらに訊く。
「……ふーん、酉七、いなくなりました?」
図星だ。さくらはこくんと頷いた。
「はい。……1ヶ月前、私と酉七さんは夫の元を離れました。理由は今日、私を追っていたような輩に追われるようになったから、です。」
一巳のことを信頼していいのかはわからなかったが、少なくとも彼に害意があるようには見えない。それに、あれだけ事情を把握していれば、さくらに無理に何かをしようとすることはないだろう。
そう考えたさくらはここに来るまでの自分の事情を説明し始めた。
「こちらに来てもしばらく、酉七さんと一緒に行動していました。でも、ある日、彼女はいなくなりました。ちょうど1週間前くらいのことでしょうか。私に何も言わず、ホテルから彼女は姿を消した。」
目を伏せて、ため息をつく。さくらには酉七しか寄る辺がなかったのだ。彼女の不在は非常に困ることだった。
「酉七さんは記憶の曖昧だった私と一緒にいてくれました。彼女は戦えないんです。もし、あの連中に捕まってしまっていたら。……そう考えると気が気じゃなくて。」
だからさくらは追手の手から逃れながら酉七を探すことにした。そのうち、“さくら”の記憶に残っていた風景を見つけて、今日あの桜の元に辿り着いて、ぼんやりと花見をしてしまったのだが。
「その、早岐さんは酉七さんの行方を知りませんか?彼女と繋がっていたのなら、連絡先とか知ってますよね。」
先程の彼の様子から知っている可能性は低いと悟ってはいたのだが、一縷の望みをかけて訊いてみる。しかし、一巳はゆっくりと首を横に振った。
「いや、申し訳ないけど知りません。あいつと連絡を取ったのはもうかなり前なので。」
予想していたとはいえ、肩を落とすさくら。また、振り出しだ。ここに連れてこられたときからほんの少し期待していたのに。
「……そうですか。」
ため息混じりにそう言うと、一巳は眉尻を下げて笑った。ほんの少し同情してくれているような気配。
「ま、そう落ち込まないでください。それを俺に相談したのは悪いことじゃない。」
彼はまたメモを置いて、さくらに真面目な顔を向けた。
「先に結論から言います。酉七探しには協力します。その代わり、俺たちにも協力してもらえませんか?」
大体そのようなことは言われるだろうとは思っていたのでそう驚かない。さくらはスッと目を細めて、続きを促すように一巳を見据えた。
「1ヶ月前、うちの課長が退勤後にそのまま音信不通になりました。あの人はさくらさんを付け狙う組織、“ラパノス”に誘拐されたということが一応わかってはいます。」
組織の名前は初めて知った。その連中が自分を追っているのか。さくらの背筋がピンと伸びた。
「誘拐の情報を提供してくれた人はうちの協力者で。俺たちに伝言を残した後、彼も消えました。そちらの消息は完全に不明。もしかしたら課長と同じように誘拐されたかもしれない。」
一巳はさくらを見据える。また、あの感覚だ。こちらを値踏みするような、尻心地の悪い目。
「そうなると貴女が捕まれば2人の命は危うい。……殺させるわけにはいかねえ。」
呟かれるような声量のそれに滲む焦燥感。一巳はどこか必死なようであった。
「“ラパノス”の連中がさくらさんの情報を求めていることはもうかなり前から掴んでまして。彼らは“嘉七”を利用しようとしている。誘拐された2人のことも加味して、局としては貴女を敵に渡すわけにはいかないんですよ。“杉崎勇気”事件の再来なんて笑えない。“ラパノス”という組織が絡むことでより被害も拡大するかもしれない。」
一巳が立ち上がる。何をされるのだろうか、と身構えるさくらに向かって彼は深々と頭を下げた。
「お願いします。俺たちに協力してください。」
少々、呆気に取られてしまう。初対面の相手にここまでさせるほどの何か重要な鍵を自分が握っていることにさくらは身震いした。
たぶん、“ラパノス”とやらにさくらが接触すれば良くないことが起こる。そのことを一巳は十二分に理解しているのだろう。それはもしかすると9年前の事件よりも規模の大きな事件に発展するかもしれない。それを防ぎたい、体裁上の言い訳はそれだ。
だけど、彼の本音としては。
「……1つ、お尋ねしてもよろしいですか?」
さくらは“あの”デスクに目を向けた。栞の挟まった書籍の置かれたデスク。そこが最近、使われている形跡がないのはなんとなく胸に引っかかるものが。
「どうぞ。なんなりと。」
顔を上げた一巳はさくらの質問に頷いた。
「貴方にとっての課長さんは、大事な人ですか?」
予想外の質問だったらしい。一巳はえ、という顔をして少しだけ押し黙り、小さく唸った後ため息をついた。再び彼の目がこちらに向いたとき、彼は照れた様子で。
「……ええ。まあ。絶対に取り戻したい人です。」
そう答えてくれた。なんとなく、その反応は信頼に足り得るものである気がして、さくらはニコッと微笑む。こちらが彼の本音だ。
「わかりました。私にできることがあるのならば協力します。どうぞ、よろしくお願いします。」
ぺこりと頭を下げると、一巳はどこか安心したようだった。小さく息をついて、再びソファに腰掛ける。
そのとき、ガチャリとドアの開く音。一巳もさくらもドアの方を見る。そこには戻ってきたらしい宵人の姿があった。
「すみません、遅くなりました。」
なんとなく彼の姿を見ると安心するものがある。さくらは小さく安堵の息を吐いた。
「遅すぎ。もう大体の説明終わっちゃったじゃん。」
やれやれ、というふうに肩をすくめて首を横に振る一巳。それに対して顔を顰めながら、宵人の視線がさくらに向いた。
「一巳から大まかな話は聞きましたか?」
さくらが頷くと、宵人はくしゃっと笑う。それは良かった、とどこか嬉しそうだ。
「貴方がたに協力すると決めました。こちらの条件も飲んでいただく形にはなるんですけど。」
それに対しては宵人は一巳に視線で説明を要求する。一巳がざっくりと今までの流れを彼に告げると納得したように頷いた。
「なるほど。……本当に災難でしたね、さくらさん。」
同情するような目に滲む優しさはこちらに緊張感を与える一巳とは違う。どこか対称的な2人だ。それでいて補い合えるような。
「そんな大変な中、本当に心苦しいんですが、貴女にはこれから俺の家を拠点にしていただいてもよろしいですか?」
宵人の提案にさくらは目を丸くした。突然の話だったから。
「理由は2つ。“ラパノス”に付け狙われる立場の貴女を1人にしておくわけにはいきません。なるべく身の安全を確保してほしい。そしてもう1つは申し訳ないんですが、監視の意味です。こちらの預かり知らぬ場所で嘉七が目覚める。そんなことがあってはいけないので。」
納得できる理由だ。しかし、さくらは小さく唸る。いいのだろうか、と彼女が悩んでいるのは。
「あの……奥さんは、大丈夫なんですか?」
気になったのは宵人の薬指に嵌った指輪のこと。若い女を連れ込む、というのも妻の立場からしたらいい気分ではないだろうし、もしも敵の襲撃に遭ったときが怖くはないのか。
「ああ、いえ。気にしないでください。うちの妻はそういうのは気にしない人です。むしろ、人の世話を焼くのは得意なので。」
わりと真剣に心配したのに、宵人はさらりとそう告げる。全く心配することはない、という顔。夫婦間の信頼関係が見えるようだった。
「あ、むしろ、もしこいつが変な気起こしたら即言いつけていいですよ。こいつの奥さん強いんで。」
宵人の隣から一巳が茶々を入れる。それに対して宵人が顔を顰める。その一連の流れを見ながらさくらは杞憂だったか、と安堵した。なぜか、宵人の妻のことは気になるのだ。というよりも、彼がきちんと幸せであることを知りたいというか、恋バナしたいみたいな気分になるというか。
よくわからないそんな感情に駆られつつ、さくらは宵人に頭を下げた。
「それなら、よろしくお願いします。私も酉七さんが居なくなってから、自分の身の置き場に困っていたんです。」
正直に言えばそうなのである。そろそろ1人で闇雲に動くには限界が来ていて、助けは欲しかった。
「よかった。それなら、今日はもう帰りましょうか。どうせにいちゃ……兄も送って行かなきゃなので。」
さくらは頷いて立ち上がった。
「よう、永坂。遂にこんなところまで降りてきてしまったな。」
そこは、暗い空間だった。眠るたびに見えていた今までの夢と違い、過去の事象ではない。この夢は、現在進行形だ。
忠直の目の前に1人立つ人物。すらりと伸びた背筋、腰に手を当てるその仕草はなんとなく堂に入っていて。
「お久しぶりです。犬塚課長。」
忠直は彼女に頭を下げる。ショートカットにした髪をきっちりとセットしているこの女性は犬塚かおり。“杉崎勇気”事件で命を落とした『特務課』の元課長である。
「よせ。私はもう課長ではないだろう。それはもうお前のものだ。」
かおりは肩をすくめると、忠直を見据えた。その目はどこか彼の成長を喜ぶように細まる。
「こんなことになって皮肉だが、お前に会えたことは嬉しいな。“保存”の異能。どうやら私たちの存在まで保存されているようだ。」
ニコリと笑うかおりに対して忠直の眉間には皺が寄る。彼は、自分の身に何が起こっているのか十二分にわかっているのだ。
「そう嘆くな。全ての事象は多面的に捉え、絶望を絶望のままにしないようにしろ。それくらいお前がまだペーペーの頃に教えていたはずだろう。」
なんとなくこの人の前では20代前半に戻った気分になる。忠直は思わずはい、と緊張気味の返事をしてしまった。
「……難儀な奴だ。少しは逃げることも教えておくべきだったか?」
不敵な笑み。彼女は全体に目の行き届いた人であった。課の中に親交の浅い相手がいないほど。忠直も目をかけられていたことは自覚している。
「俺は逃げる気がないだけですよ。この件に関しては特に。」
忠直がそう言うとかおりはどこか複雑そうに目を伏せた。重たい荷物を残してしまったことへの罪悪感からだろう。
「……犬塚さんに会えたということは、俺の仮説は当たっているのかな。」
不意に忠直が暗い空間を眺めながらそう言った。それを聞いたかおりはため息をついて口角を上げる。
「あまり良からぬことを考えるなよ、永坂。」
彼女はつかつかと忠直に寄っていって、彼に屈むように示す。素直に腰を曲げた忠直の頭にぽん、と手が乗った。夢の中で体温などわからないはずなのに、程よくぬるい人肌の感触。
「伝えておく。何度だって言ってやろう。私たちは最後の最後までお前たち若手の生存を望んでいた。それは、今だって変わらないからな。」
ハッとした忠直が見上げる前にかおりの姿は溶けてしまう。そのまま、空間が閉じていくとともに目覚めの気配が彼を襲った。
「初めまして、さくらさん。」
淡々と告げてくれるその表情は一切動かない。整った美しい顔をミリも歪ませずに頭を下げるその仕草は見事なまでであった。
「御厨 明鈴と申します。よろしくお願いいたします。」
宵人の家は異局からそう遠くない場所にある。一度隼人を送り届けるために彼の家に寄ったので正しい時間はわからないが、車で15分から20分程度の場所だろう。
玄関のドアを開けて、リビングで宵人とさくらを出迎えてくれたのは宵人の妻である明鈴。灰色の長い髪をさらさらと流していて、吸い込まれそうな瞳は紺色。綺麗な女性だが、無表情なのが印象的だった。そして、彼女の腹は丸みがわかる程度に膨らんでいる。
「さくらと申します。よ、よろしくお願いします。」
萎縮しつつ頭を下げる。顔を上げて、目が合ってもやはりぴくりとも動かない表情。初対面だからだろうか。
「ただいま、明鈴。すみません炊事当番を代わっていただいて。」
そう思ったのだがさくらの背後に控えていた宵人に対しても同じ対応。彼の方は慣れた様子で涼しい顔をしているが、さくらには夫婦の仲としてはそれが少々ビジネスライクなようにも見えて。
「いえ。仔細ありません。すぐに夕飯の支度を致します。」
明鈴はぺこりと2人に一礼をしてキッチンの方へ消えて行った。なんとなくもご、としてしまうさくら。宵人の方を窺うと彼は安心させるように笑って、さくらを2階に促した。
「1番奥の部屋が空き部屋なんです。多少物が置いてある程度の部屋なので、後で客用布団を運びますね。自由に使ってください。」
案内された部屋は確かにまばらに物が置いてあるラックだけがぽつんとある部屋。たぶん、いつかのための部屋だろう。明鈴のお腹を思い出しながらさくらは頷いた。
「すみません。お世話になります。」
宵人に向かって頭を下げる。それを受けた彼はいえ、と笑って一旦部屋を出て行った。
晩御飯は筍の煮物に豆腐と小松菜の味噌汁、きんぴらごぼう。そして、宵人がご飯をよそっている。呼ばれて降りてきたさくらは慌てて彼を手伝った。
「わ、美味しそう!あ、運びます。」
ご飯を運んでいくと、明鈴がありがとうございます、と言ってくれる。彼女は自分が動けないことにそわそわしているようだった。
「明さんは料理が上手なんですよ。今日も美味しそう。」
最後に全員分の茶を注ぎながら宵人がそう言うと、明鈴は恐縮です、と淡々と返す。やはり無表情。こういう人なのだろう。さくらはそう思うことにした。
「いただきます。」
手をつけた料理はどれも美味しかった。家庭料理というよりはレシピに精密に作られたお店の味。これを毎日食べられる立場なのはすごく贅沢かもしれない。そういう気持ちで宵人の顔を見ると、彼は慣れた様子で口に運んでいる。どうしてかはわからないが、それが彼にしては無機質な態度に思えた。
「お口に合いましたか?」
宵人のことを観察していたさくらは明鈴にそう尋ねられて肩を跳ねさせる。慌ててこくこくと頷いた。
「はい!とても美味しいです。ありがとうございます。」
そうですか。そう言って頷く明鈴はどこか安心した様子だった。
そんな感じでほんの少し歯触りの悪い食事の時間を済ませ、風呂に促されたさくらはお言葉に甘えてサッと入った。その間に宵人が部屋に布団を運んでおいてくれたらしい。戻ると丁寧に敷いてあった。
元々、酉七と2人旅のようなことをしていたさくらは最低限の荷物しか持っていない。簡単にそれを整理した後、宵人に礼を言って、明日の予定を聞かなければ、と部屋を出た。
この家は部屋を出て右手に階段に繋がる廊下、その奥にベランダが存在する。階段に近づいたさくらは話し声に気づいて、降りる前にベランダの方を窺った。
ベランダに宵人がいた。夜空を臨みながらどうやら電話をしているらしい。
「……うん。……は、そう。……ね。……か。明日、たぶん……。」
随分と打ち解けた口調と声色。相手は一巳とかだろうか。こんな時間まで仕事のことを考えなければならないとは、ご苦労様です。そう思いながらさくらは彼が出てくるのを離れたところで待った。
話し声が聞こえなくなって、ガラリとベランダに通じる窓が開く。さくらの存在にそこで気づいた宵人はびっくりしたように肩を跳ねさせた。
「わ!?さ、さくらさん!え、今の、聞いて?」
彼の焦った様子に面食らいつつ、さくらは首を横に振る。会話の内容までは別に聞こえなかった。
「いえ。お仕事のお話かと思って、聞いてはいけない気配がしたので聞いてませんよ。」
そう告げると宵人はあからさまにホッとする。なんとなく、ん?と思いつつさくらは自分の用事を済ませることにした。
「お布団、ありがとうございました。それで明日のことなんですけど、私はどう動けばいいんでしょうか。」
その質問で宵人の雰囲気は一瞬で引き締まる。仕事のことだとこういう切り替えができる人らしい。それにしては先程の気配は緩んでいたような。
「まだ特に連携することはなさそうです。ただ、1人での行動は控えて欲しくて。もしも外出するのであれば、うちの兄に頼んでおいたので彼を頼ってもらっていいですか?」
兄といえば隼人のことか。彼については少々信用していいのか悩むところもあるのだが、頷いておいた。この状況においてさくらは誰にも手放しで心を許せないのは変わらない。助けてくれるというのであれば容赦なく頼ることにした。
「そうだ。さくらさん、連絡手段はお持ちですか?」
問われてさくらは首を横に振る。酉七と行動していたとき、そういうのは彼女が担っていてさくらに任されることはなかったため、あまり不便を感じたこともない。
「あ、そうなんですね。一巳の予想通りか。これ、局用の携帯です。使い方はわかりますか?」
たぶん大丈夫だが、一応確認だけしておく。中には一巳や宵人、それに宵人といた柴谷と呼ばれていた青年の名前、あとはわからない名前が登録されていた。
「何かあれば俺や早岐に連絡してください。ここを押せばダイヤルせずとも局自体に連絡が行きますし、この携帯さえ身につけていただければ反応も追えますから。」
丁寧なそれに礼を言うと、局で見せてくれたような優しい笑みを向けてくれる。それには思わず安心してしまうのだ。
「それと、我が家に関しては遠慮なくご自分の拠点として使ってもらって大丈夫なんで。わからないことがあれば明鈴に訊いてください。俺もなるべく定時で上がるようにはしてるんですけど、課長がいない今、何が起こるかわかりませんからね。」
さくらは頷くのを見届けると、宵人は彼女におやすみなさい、と告げて1階へ降りて行った。
特務課の課長の失踪、酉七の失踪、“ラパノス”という自分を付け狙う組織の存在、そして嘉七との再会。
考えなければならないことは多いようだ。それに辟易しながらさくらはとりあえず今日のところは部屋に戻るのであった。