1話 さくら
ひらひらと桜が舞っていた。配達のために通った道で、普段は通らない道だから綺麗だな、なんて呑気に考えながら車を走らせる。
そんな余所見をしていたら、野良猫が車の前を横切った。慌ててブレーキを踏んで猫と同じようにびっくりしてしまう。危なかった。
シャーっと威嚇して去っていく猫の背を眺めながら、ため息を吐いた。桜に見惚れて何か殺しかけるなんて縁起でもない。
(降りるか。)
配達の仕事は終わっていた。ちょっとぐらいいいだろう、と路肩に停めて降りる。
春の陽気はぽかぽかと暖かく、川沿いのその道も柔らかく照らされている。
そこに、ぽつんと誰かが立っていた。桜に縁取られてぼんやりしている彼女はどこか羽二重ずれしているようだ。
肩より少し先まで伸びている髪は触れると柔らかそうな蜂蜜色をしている。綺麗な女性だ。その赤くて丸い瞳は。
「あれ、アンタ。」
その目に見覚えがあった。以前よりも髪は伸びていて、少し雰囲気が大人しくなっているが近づくと間違いない、と確信できる。
「旭 兎美か?」
呼ぶように尋ねると彼女はゆっくりと振り向いた。じぃっと見つめられると思わず息を呑んでしまうほどに美しい。
だけどその顔にははっきりと面影が残っている。間違いないだろう。
「……あなたは、誰ですか?」
だけど、彼女は怪訝な顔をしてそう訊いてきた。おや、と目を見開くと更に彼女の眉間に皺が寄る。
「俺は御厨隼人。……ああ、いや、俺のことは覚えてなくてもおかしくないか。だけど、宵人のことはわかるだろ?御厨宵人。俺はあいつの兄だ。」
隼人は3年前になる事件の加害者で、旭兎美は被害者であった。彼女からしたらもう忘れてしまいたい記憶かもしれない。もしくは嫌われているとか。
しかし、宵人は違う。事件後も関わりがあって、兎美とは仲良くしていたという話を聞いたことがある。彼の名前を出せばピンとくるだろう。
「アンタ、こんなところで何してんだ?帰ってきたんなら、早く忠直サンに会いに行ってやれよ。あの人、今も律儀にアンタのこと待って……。」
そこで隼人は固まった。彼女の表情は曇っている。隼人が何を言っているのかさっぱりわからないという顔だ。
「悪い、アンタの名前を伺ってもいいか?」
なんとなく嫌な感じがした。1人でにぺらぺら喋ってしまったかのような気まずさ。彼女の方も戸惑っているらしく、おずおずと口を開いた。
「……私は、さくらと申します。」
彼女の様子をじっと窺っていたが、嘘をついている感じではない。ならば、兎美の姉妹か何かだろうか。そう思わされるほどに見れば見るほどそっくりだった。
「さくらサン、ね。アンタ、旭兎美の親戚かなんか?その名前に聞き覚えない?」
なんとなく気になってしまって追及してみる。だけどさくらは表情を曇らせたまま、首を横に振った。
「ありません。たぶん、人違いだと思います。」
キッパリと否定されてしまった。だけど喋れば喋るほど彼女としか思えなくて。
(……ま、俺が首突っ込むとこじゃないか。一応宵人には連絡入れとこ。)
隼人は1人でに頷いて、へら、と笑顔を浮かべた。
「そっか。悪かったな。邪魔した。」
そう言って彼女に背を向けた。
「ッ!伏せて!!」
だが次の瞬間、柔らかい重みに押し潰される。体勢を崩してしゃがみ込むと、頭上を速い何かが通り過ぎた気配。はらはら、と数本の髪の毛が散った。
隼人を抱き込んで庇うように伏せさせたのはさくら。何やら厄介な事情を察して、隼人は顔を上げた。
そこには男が1人立っていた。すらりとした長身で、真っ黒なスーツに身を包んでいる。頭にとん、と乗せた山高帽は時代錯誤。大正あたりから抜け出してきたようだ。
「お迎えにあがりました、さくら様。」
感情の起伏の全くない声。隼人は目を丸くした。何が起こっているのかさっぱりだ。ただ、面倒くさいことになりそうなことだけがわかる。
「……行きません。こうやって一般の方を巻き込むような人間は信用できませんから。」
立ち上がって、山高帽を睨みつけるさくら。驚いている様子のない彼女から鑑みて、たぶん何度も襲われているのだろう。
「そこな男は昔、貴女を害したことのある男です。信用できないのは果たしてどちらでしょうか。」
さくらの目が隼人に向く。隼人は別に表情を動かすこともなくじっと男を見定めていた。
(……壱騎サンの事件を知ってるってわけか。どういう手合いだ?)
隼人も体勢を整えて、2人の様子をじっと窺う。先に口火を切ったのはさくらだった。
「それが本当だとしても、今のところ彼に敵意はありません。」
肌がピリついた。それはいつか経験したことのあるような感覚。
(くる!)
隼人は飛び退いた。しかし、上から押し潰すような『力』は襲ってこない。代わりに山高帽の足を縛り付ける何かが視えた。
ぐいっと腕を引かれる。さくらは隼人の腕を掴んで走り出していた。
「逃げましょう!」
あまりの剣幕に一瞬呆気に取られる。しかし、隼人はすぐに頷くと彼女を付近に停めていた車の方へ誘導した。
「乗れ!」
助手席にさくらを座らせて、隼人は運転席の方に回り込む。そんな彼の頭上を冷たい風が通り抜け、いつの間にかすぐ傍にいた山高帽が隼人に殴りかかった。
すんでのところで避けて蹴り払おうとするが止められる。なかなかの手練れのようだ。
「ああ、くそッ!」
一旦距離を取る。隙の見えづらい相手。それを崩すには。
手を前に出して『力』を集中させる。奥に放つようなモーションを取ると、山高帽が遠距離からの攻撃を警戒した。
「残念でした!」
しかし、それが『異能』として発言することはなく散る。想定外の動きに山高帽がたじろいだのを見逃さず、隼人の蹴りが顎に入った。
よろけた隙をついて隼人は車に乗り込み、携帯をさくらに向かって投げた。
「パスワードは0820!電話の仕方わかるか!?」
エンジンをかけながら訊くと、さくらが戸惑いつつも返事をしてくれる。
「電話帳の御厨宵人って奴に電話して。スピーカーにしてくれれば俺が喋る!」
指示通りさくらが操作してくれて、プルルルル、と機械音が車内を満たした。5コールくらいしたところでやっとプッと相手が電話に出た音。
『もしもし。どうした?』
隼人が電話をすることなどほとんどない。宵人の声は落ち着いてはいたが、戸惑っているようだった。
「仕事中に悪ぃ、厄介事だ!」
何かしらの緊急事態を察したらしい宵人が堅い口調に変わる。
『今どこ。何が起こったのかざっくりでいいから伝えて。』
「移動してる。面倒な手合いに追われて」
ゴガンッ
聞いたこともないような轟音。驚いてさくらの側の窓を見ると、一瞬、あの山高帽と目が合った。
『……音が聞こえた。状況はなんとなく察した。お前の反応追うから、事故んなよ!』
電話は一応繋ぎっぱなしにして、隼人は冷や汗をかきながら車を走らせる。どこに行くべきだろうか。とりあえず街道から逸れて、人気のない山道に入った。
「おい、さくらさん?でいいか!?アンタ、あいつが何したか見えたか?」
尋ねると返答はすぐだった。
「たぶん、瞬間移動の類だと思います。私の方のドアに攻撃を加えてきました。」
なるほど。それなら車に乗るときに妨害されたことへの説明もつく。『異能』としてはオーソドックスで、対処がしやすい。
「へえ、そうかい!なら、車は悪手かもしれねえな。今の一撃でマーキングされてるはずだっ!?」
ゴガンッ
再び響く轟音。隼人は思わず顔を顰める。
「おいおい、これ、母さんの車なんだぜ。」
完全にドアが凹んだ音だ。長くは保たない予感。
『兄ちゃん!10メートルくらいいったところ、左に曲がって!そこの廃墟で落ち合うぞ。たぶん、そいつを人通りの多いところに連れ込むと危ねえ!』
電話越しに喚かれて、一瞬気が逸れた。その間に。
「前!前です!」
さくらが叫ぶのが聞こえた。山高帽が行く手を阻むように前に立っている。もう避けられない。
「ああ、くそッ!さくらサン、しっかり掴まっとけよ!」
男を轢いて、そのまま車はガードレールを捩じ曲げて、宙に投げ出された。
体を痛めつけるような衝撃と目の回る感覚。あまりの非現実さに眩暈がした。
(……あーあ、キッツいな、これ。)
辛うじて生きているだけでも奇跡だ。痛むところを確認してハッとする。さくらはどうなった。
慌てて助手席の方を見ると誰もいない。まさか、もう。
別に助ける義理も義務もないが、後味が悪すぎる。なんとか車から這い出して、隼人は立ち上がった。
(動けるな。あの子はどこに。)
あたりを見回して、ここが雑木林の中だということに気づく。べこべこに凹んでしまった車以外に何も見当たらない。彼女はどこに行ってしまったのだろう。
そう思いながら一歩踏み出したときだった。
「ッ!?」
蹴りが飛んできて体勢を崩した隼人は飛び退いた。しかし、背後にあった木にぶつかって胸ぐらを掴まれてしまう。
「女はどこだ。」
山高帽の冷たい声。ひび割れたサングラスの奥から自分を見つめている目は黒々としていて感情を読み取れない。
「知ら、ない。」
持ち上げられて首が絞まる。息も絶え絶えにそう吐くと、グッとその手に力が籠った。
「女は、どこだ。」
再度同じ質問。隼人は答えずに睨みつけた。山高帽は不快そうに顔を顰めて忌々しげに言う。
「お前はあの女の価値を知らない。言えば逃がしてやってもいい。」
価値?何のことだ。自分の頭の中にある材料だけでは推し量れなくて隼人は眉を顰めた。
(その価値とやらのせいであの子は追われてんのか。)
一体全体何が起こっているのだろうか。隼人には皆目検討もつかないが、ただ1つ。
「……わかった。教えてやるよ。」
そう言うと、山高帽の手から力が少し抜けた。隼人がニヤリ、と笑う。
「てめえが気に入らねえってことをな!」
隼人は油断した彼の鳩尾を蹴り上げた。綺麗に入って、山高帽は隼人から手を離してよろめく。
その瞬間、彼の体にぐるんっと『力』が絡み付いた。そのまま山高帽は後ろに引っ張られて木に縛り付けられる。
「逃げましょう!」
隼人の腕を引いたのはさくらだ。隠れて隙を窺っていたらしい。彼女に引っ張られるがまま、隼人も走った。
「アンタ、なかなか大変なことに巻き込まれてるようだな。」
そう言って笑うとさくらが申し訳なさそうに答える。
「ええ、まあ。巻き込んでしまってすみませんでした。」
謝られながら、アンタも相変わらずだな、と言おうとして踏みとどまる。なんとなく余計なことは言わない方がいい気がしたのだ。彼女はあくまでも“さくら”なのだろうから。
「あの『異能』、アンタのか?」
男を縛り付けたもののことだ。尋ねるとさくらが頷いた。
「はい。物体と物体を結びつけることができます。だけど、瞬間移動の相手には。」
あまり効果がない、と言おうとしたのがわかるかどうか。そのくらいでさくらの背後に山高帽が。
いち早く気づいた隼人は彼女の手を引いて、その脇腹を蹴り払った。
「ったく、しつけえな。」
2人は立ち止まって、山高帽の攻撃に備える。ここはどこだかわからない。つまり、山高帽の相手をしながらの逃走は不可能だと捉えたのだ。
隼人を退けるよりもさくらを捕らえることを優先したらしい山高帽は彼女の背後に現れて、後ろから抱くようにして捕まえる。さくらは自分の口を塞いだその手に思いっきり噛み付いてなんとか逃れた。
「おい。」
「わかってます。」
隼人が声をかけるとさくらは頷いて、彼と背中合わせの体勢を取る。さっきから山高帽は背後に現れるので鬱陶しい。
「アンタ、あいつをずっと縛り付けてらんねえの?」
応戦しつつ訊くと、さくらは首を横に振った。
「『異能』で抜けられます。あれをどうにかしない限り。」
相手の『力』不足を待つか、絞め落とすか。もしくはこちらが崩されるか、だ。
だが、隼人には確信があった。
「さくらサン、無駄でもいい。とりあえず『異能』使っておいてくんねえ?」
きょとんとするさくら。その彼女の眼前に現れた山高帽を蹴り倒す。瞬時に反応したさくらが縛り付けるが、確かにすぐに抜けられてまた見失った。
どちらも退かない攻防。山高帽はそこまで強くない。2対1に勝るわけでもないが、まだ連携の不慣れな2人に劣るわけでもないといった感じ。
ここに第3の勢力が現れればどうなるか。
隼人の足が山高帽を捉えた。軽くよろめいた彼はまた『異能』で逃げようと集中して。
「!?」
『力』が出ない。驚いた山高帽が辺りを見渡す。
自分では視えないだろう。美しい藍色の『力』がピッタリと山高帽を包んでいるのだ。それが山高帽の『異能』を妨げていた。隼人が安堵したように息を吐く。
「事故んなっつったろうが、クソ兄貴。」
苛立ったような声が雑木林の中から聞こえてきた。ザクザクと枯れ葉を踏む音と共に。
「遅え。兄ちゃん、『異能』使えねえんだぞ。」
現れた彼に対して不満げに悪態をつく隼人。自業自得だろうが、と宵人はため息をついた。
「……異能対策局か。」
苦々しげに言って、逃げ道を確保しようと辺りを窺うような行動を取る山高帽。彼の目が宵人の登場にきょとんとしているさくらを捕らえた。
あわよくば、と考えた彼はそちらの方へ静かに移動しようとして。
「逃げんなって。」
山高帽の脳味噌がぐらぐら揺れるような感覚を覚える。彼は立っていることができずにぐらりと地に倒れ伏した。その前に彼を支える手。
「御厨さん、こいつどうしますか?」
自分の眼前に現れた青年を見て、さくらはきょとんとした。なんとなく面立ちが少しだけ凛々しくなった気がする。なんて、勝手に頭が考えていた。
「ありがとう、芝谷。重要参考人だ。連行する。G以上の『異能封じ』持ってる?」
言われた彼は頷いてテキパキと山高帽を縛る。その様子にも何だかよくわからない懐かしさを覚えた。
「それで、貴女は。」
隼人の手当てを軽く済ませた宵人がさくらの方に近づいてくる。
ふさふさしている天然パーマのかかった髪の毛。両耳につけているピアスと、真っ白いワイシャツ。垂れた目尻はどこか人懐っこく、若いのに雰囲気が落ち着いている。
「…………そっか。」
さくらが彼を観察している間、彼もまたさくらのことを視ていたらしい。宵人はどこか切なげに微笑んで、さくらに対してペコリと頭を下げた。
「“初めまして”。俺は御厨宵人と申します。そこの隼人の弟です。どうぞよろしくお願いします。」
見た目はどこか砕けているのに態度はきちっとしている人のようだ。おずおずとさくらが頭を下げるとにこりと微笑んでくれる。
「すみません、貴女にもお話を伺わないといけないので、同行をお願いしてもよろしいですか?」
頷くさくら。態度が誠実だということもあるが、体が勝手に彼を見て落ち着いている。それは彼が信頼のおける人だと語っていた。
「あれ、怪我してる。ちょっと失礼しますね。」
彼は腰につけた程よい大きさのポシェットから消毒液とガーゼを取り出して、さくらの擦りむいていた額を拭うとそこに絆創膏を貼り付けた。そのとき左手の薬指に指輪が嵌っているのが見えて。
(……結婚したんだ。)
その光景には変な感慨深さがあった。すごく話が聞きたい、なんて考えているのはなぜだろうか。
「兄貴、お前も連行な。車に関しては総務に任せるから、母さんに連絡入れておいて。」
しかし、さくらが何も聞けないうちに彼は隼人の方に意識を向けてしまう。そっと目を伏せて、後は宵人の指示に従った。
男は途方に暮れていた。心の中に生まれた不可思議な感情を持て余して、彼は夜の雨の中を彷徨う。
己の人生は己のものだ。人間は傲慢にもそれが当たり前だと思っている。守らなければ誰かに掠め取られるものだと知らずに。
ドチャッと濡れたゴミ袋の上に腰掛ける。強い雨だ。全身びしょ濡れで、情けなさに笑い声が漏れた。
こんなことになるならば思い出さない方がマシだった。ニュースでひっきりなしに報道されているその名前を聞いた瞬間、記憶が一気に蘇った。でもそれは同時にもうどこにも戻れない絶望でもあって。
かしゃかしゃと濡れたビニール袋が雨に打たれて嘆く。非常に不快な音。でも最早どうでも良かった。男は目を瞑る。雨は一定の速度で彼を濡らし続けた。
「こんなとこで何してんだ。」
ザッザッと濡れた靴音。ゴミに埋もれる男の目の前で1人、背の高い男が立ち止まる。
「こんな雨のひどい日に趣味が悪いな。“杉崎勇気”さんよぉ。」
自分の名前であったはずのそれで呼ばれて思わず笑ってしまう。もう、それは犯罪者の名前だ。
「……貴方が誰かは知りませんが、ほっといてください。」
今はもう、人と関わる気力がなかった。なんでもいい。放っておいてはくれないだろうか。
「いいや。放っておかない。」
しかし、その背の高い男は傘を勇気の方に傾けたまま動こうとしない。それを焦れったく感じた勇気は次第に目の前の男に対して興味のようなものを抱く。なぜこの男は自分の名前を知っていたのだろうか。
「貴方は何者ですか。」
ずっとどこかに向けていた視線を男に移す。そこに宿った光を見た彼はニヤリと笑った。
「俺は記者だ。マスタード。そう呼ばれてる。」
明らかな偽名かペンネームか。こういうときに本名を名乗らない怪しさがプンプン漂っていたが、勇気は特に気にしなかった。
「僕は何も知りません。普通に工場の作業員で、普通に暮らしていただけです。あの事件には関与していない。」
自分に辿り着くとは大したものだ、と内心思う。だって、本当の杉崎勇気である自分は既に死亡しているとされていたのだから。
「ああ、知ってる。可哀想だな。あんたのばーさん、もうボケちまって孫が死んだこともわからなくなってた。いや、あれは孫が帰ってきたと信じたかったんだろうな。」
マスタードは本当にきちんと調べたらしい。祖母は14年もの間、勇気の偽物を孫だと思い込んで共に暮らしていたのだ。現在、認知症を患った祖母が本当はどういう腹づもりでその偽物と暮らしていたのかはよくわからない。
「じゃあ、貴方は何故僕に接触してきたんですか。貴方の欲しい情報を僕が持っているとは到底思えない。」
勇気は噛み付くようにそう尋ねた。そこまで調べたのであれば、勇気が至って普通の作業員であることは知っているだろう。何を思ってここへ。
「特ダネってのはな、止まってても降ってきちゃくれねえ。自分から取りに行かねえと。」
思わず怪訝な顔をしてしまう勇気。それは、まるでこれから勇気が特ダネになると言われているような。
「取り戻したくねえか?あんた自身を。」
それはまるで悪魔の囁き。勇気はぼんやりと目の前の男を見上げた。長身痩躯、切れ長の目で長く黒いコートを身につけている。マスタードはどこか不気味な出立ちであった。
「取り戻すって、どうやって。」
視線が初めて交わる。勇気がこの話題に惹かれ始めたことにマスタードはほくそ笑んでいた。