エピローグ
エピローグ
忠直が目覚めてから諸々が落ち着いたのは結局12月になった。彼は病室を訪れる人のほとんどに泣かれて辟易していたようだが、自分の周りにいる人がどれだけ想ってくれていたかを知るいい機会になったようだ。
朝の光が瞼を刺す。それで起きても良かったのだが兎美は微睡みの中、彼を待った。半年も放って置かれたせいで前よりも甘えたになった自覚はある。でもいいのだ。忠直はそれに対して呆れたように笑ってくれるから。
「兎美、起きろ。」
ドアの開く音がして、肩を揺らされる。1度目はわざとぐずる。ベッドに腰掛けた彼の太腿に擦り寄って頭を撫でてもらうのだ。
「こら。今日は大事な日だろう?」
兎美がとっくに起きていることには気づいているのだろうが、忠直は素直に頭を撫でてくれる。その距離感が心地良くて、兎美はふふふ、と笑い声を漏らした。
「……ナオさんが昨日寝かせてくれなかったから眠たいです。」
戯けたようにそう言うと鼻をつままれる。ぎゃ、と悲鳴を漏らすと忠直はくっくっと喉奥で笑った。
「いつの間にそんな生意気を言うようになったんだ。俺はちゃんと11時にはお前を寝かしつけた。」
あと5分、は通用しないらしい。兎美は降参、と目を開けて体を起こした。
「おはようございます、ナオさん。」
「ああ。おはよう、兎美。」
挨拶を交わすとなんとなく気恥ずかしい。照れたように笑うと忠直が手を差し出してくれる。
「朝飯にしようか。うがいをしてこい。」
先に起きて朝ご飯を用意してくれていたらしい。いい匂いと共にやってきたからわかっていたのだが、やはり嬉しい。兎美は礼を言いながら洗面所に向かった。
朝の空気は冷たい。白い息を吐きながら、2人はとある丘の上に立っていた。
兎美は忠直を一度だけ振り返り、彼が静かに頷くのを見届けた後、花束を解く。そして、下でゆらめく青い海にパッと花々を散らした。花が遠くなるのを眺めながら、兎美は口を開く。
「……咲本家の両親も、私のことをとても愛してくれていたんですよ。」
この丘は兎美が嘉七から逃げるために身を投げた場所である。そして、本当の両親の眠る地の近くでもあった。
一度くらいはここに戻ってこなければならないとは思っていた。それでも嘉七に追われた恐怖は体に染み付いていて、つい足が向かなかったのだ。
「2人の優しい笑顔をはっきりと覚えています。失われていい人たちではなかった。……本当に、本当に、私たちはたくさんの命を奪ってしまいました。」
兎美はそこに膝をついて手を合わせる。届くかはわからないが、私は幸せになったよ、と告げるように。
目を開けて立ち上がると、兎美より一歩後ろの方で忠直も静かに手を合わせていた。それに安堵したように微笑んで、兎美はそっと忠直に背中をもたれかけさせる。
「……私、ナオさんといられることが本当に幸せなんですよ。お父さんとお母さんに、あなたを会わせたかった。」
そう言うと頭をくしゃくしゃと撫でられた。お前は悪くないよ、と示すようなそれに救われながら兎美は小さく鼻を啜る。
「俺も会いたかった。娘さんにいつも幸せにしてもらっています。そう、伝えたかったな。」
お互い様だ。互いに互いのことが必要で、傍らにいてくれる幸せは同じなのだから。
寒い丘の上、忠直は兎美が満足するまで共に海を眺めていた。
世間はクリスマスイブだというのに、一巳は宵人と共に事務所にいた。もう少しで退勤時刻。円と杷子は早めに帰らせた。
「よいっちゃんも早く帰んなくてよかったの?娘と過ごす初めてのクリスマスイブでしょ?」
戸締まりをしながら一巳が尋ねる。御厨家には4ヶ月前の8月に待望の第一子が誕生した。“ひなか”と名付けられたその女の子は元気いっぱいで、目元が明鈴によく似ている。
宵人は育休を取って、と言いつつ彼は『目』のことから全く出勤しない、ということが不可能なので週2回の出勤日を作っているのだが、それはもう妻子ともに溺愛している。
「明日は休みだから。まあ、帰りにはケーキとプレゼント取りに行くけど。」
相変わらず夫婦仲は問題ないらしい。はいはい、一巳は惚気が始まる前に肩をすくめてバレないように小さく微笑んだ。
「……一巳、ごめんな。」
不意にそう言われて、でもなんとなくその用件はわかる。一巳はへらりとシニカルに笑いながら返した。
「俺に全部の面倒押し付けて死のうとしたこと?……フン、前に俺に対して死んだら殺すとか言ってた奴は誰だったかなぁ。」
さすがに言い返す言葉がないらしい。宵人は顔を顰める。
「気負う必要はねえ。お前の決断だ。誰も口は出せない。」
一巳の口調は淡々としていた。それを心がけているような。早岐家の人間がこういう話し方をするときは大抵、自分の感情を悟られたくないとき。
「ただ。その中で俺や明鈴がお前を踏みとどませるきっかけにならなかった、ってのが癪だね。……人のこと、勝手に過信すんなよ。寂しいだろ。」
宵人は俯いて小さく笑う。もし、自分が死んでいたら、こいつはたぶん一生背負い続けたのだろう。そういう奴だ。頼りになる分、甘え過ぎた。
「一巳、諸々落ち着いたら一晩だけ飲むか。」
明鈴も酒は好きな方。彼女が飲めないなら、と宵人も禁酒していて、それに応じてなぜか一巳も禁酒状態。彼が宵人と飲むことに何かしら特別な意味を持っていることは知っている。わざわざ問いただすようなことでもない。
「今すぐじゃねえのがお前らしいわ、宵人。」
皮肉じみた言葉。でもその中には確かに嬉しそうな響きがあったので余計なことは何も言わない。
そのうち2人は手を止めて、戸締まりを示し合わせたかのように共に済ませた後、事務所を出る。並んだ背中はどこか凸凹なのに、その歩幅だけはピッタリと揃っていた。
12月24日。3人にとっては少しだけ特別な日。惣一は今までで1番嬉しそうに今年もまたこの家に帰ってきた。
「おかえりなさい、榊さん。」
ドアを開けたのは兎美。彼女がこの日にいるのは2年ぶり。髪が伸びて、雰囲気が落ち着いて、前より幾分か大人っぽくなっていても兎美は兎美だ。彼女がいなかった2年、忠直と2人で過ごしたクリスマスイブは壱騎や唯子を失ったときの雰囲気に似ていて寂しかったから。
「うん。おかえり、旭ちゃん。」
惣一の言葉に一瞬目を丸くする兎美。それでも彼女はすぐに表情を緩めてはい、と答えた。
「今年もいつも通りの順番ですね。」
惣一の好物を詰め込んだ夕食を食べ終えた3人は惣一を最初に風呂に押し込んだ。いつも通りの流れである。片付けを済ませてしまった兎美と忠直はソファに腰掛けてぼんやりと目まぐるしく動くテレビの画面を眺めていた。
「ああ。なんとなく、な。榊と2人だったときもあいつが先だったな。」
そうなんだ。自分の存在を無きものにされていなかったことは嬉しい。兎美はひひ、と笑って忠直の膝の上にごろんと寝転がる。
「最初のとき、ここでナオさんに脅されましたよね。噛み付くぞ〜って。」
そんなこともあった。まだ付き合ってもいなければ互いに自分の気持ちに気づいてもいない頃にあまり気を許すな、と忠直に脅されたのだ。俺だって男だぞ、と。
「よく覚えているな。結局お前の方が先に噛み付いてきたが。」
揶揄う口調で返されて顔を顰める兎美。脅したのは忠直でも、先に2人の曖昧な均衡を壊したのは兎美の方だった。あれはわりと苦い記憶である。
「だって、私の方が絶対先に好きになってましたもん。何の心配もなければナオさんの優しさにつけ込んで襲ってたかも。」
呪いから解放された兎美は前よりも随分素直になった。というか、少し生意気だ。
忠直は何も言わずにそんな彼女の頭を撫でる。ん、と兎美が見上げると油断していた顎に手が伸びてきて、動物に向ける手つきに変わったそれに更に撫でられた。
「……ナオさん、私、犬じゃないんっ!?」
手つきで揶揄われていることに気づいた兎美が少しだけむくれた顔を見せた途端、ちゅ、と奪われる。離れる直前にぺろりと唇を舐められて。
兎美はぽかんと目を見開いて、忠直が小さく目を細めるのを意識の端で捉えた。
「…………お互い様だよ、兎美。何の心配もなければ俺だって一切我慢していない。」
襲われていたのはこちらだったかもしれない。そう匂わせる笑みだ。久しぶりに兎美は全ての余裕を刈り取られて真っ赤になる。
しばらく見つめあった後、軽めに頭をぽんぽんとされて兎美が体を起こしたのと同時に惣一がいい湯だったー!とリビングに入ってくる。
「……ッ!お風呂!!!」
兎美は逃げるように浴室の方へ急ぎ足で消えていった。すれ違っていく兎美をじぃっと眺めていた惣一はソファの背もたれに肘をつく。
「仲が良いことで?」
忠直は澄ました顔でコーヒーを啜った。
「今年は榊さんが真ん中です!ナオさんはこっちに来ないで!」
布団を敷きながら喚く兎美。何かしらの身の危険を感じ取ったらしい。珍しく惣一が呆れたような顔を2人に向ける。
「えー……もう婚約まで一応したんでしょ?やめてよね、ここで仲違いとか。」
惣一に枕を渡しながら忠直は肩をすくめた。端に追いやられた彼は少々不服そうだ。
「……や、その、嫌いになることは有り得ないので安心してください。もう2度と逃がしません。」
反抗していた兎美は惣一の言葉にどこかもじもじしながらそう答える。仲違いと言われると焦るらしい。惣一はやれやれ、と首を横に振った。忠直が10月に目覚めてから2ヶ月、彼らがわりともだもだしていたことは知っているのだ。
「式はいつになるのやら。俺、旭ちゃんのドレス姿楽しみにしてるのに。あ、白無垢でも最高だけど。」
兎美と忠直は2人の間だけではあるが、結婚の約束を交わしている。仕事や家庭のことの兼ね合いから籍はまだ入れていないが。
「少なくともひなちゃんが一歳を迎えるまでは無理ですね。まあ、もう焦ることはないので。」
兎美は忠直が眠っていた期間、宵人の気遣いで御厨家に居候していた。その間、彼らの娘であるひなかのベビーシッターとして2人の子育てを手伝っていたのだ。それを今も続けているのでそちらが落ち着くまでは忠直とのことは一旦置くことにしている。
そのことに関して2人に焦る様子はない。もう一生一緒にいられるのだ。たぶん、間に横たわるのがどんな関係であろうと構わないのだろう。
そんな彼らを慈しむように惣一は目を細めた。なんとか一緒にいる時間を作ろうとしていた頃を思い出すと感慨深い。
「俺の方も全快ではないからな。一巳にせっつかれながら仕事をしている状況だ。」
惣一の脳裏に人をこき使った分の埋め合わせをさせてます、とニヒルに笑っていた一巳の顔が浮かぶ。宵人が目覚め、忠直も目覚め、2人の容体に関して報告を受けた一巳がほろりと彼も無意識であっただろう安堵の涙を零したのは惣一だけの秘密だ。今回、彼と惣一は似たような辛さを味わった。
「……ふふ、まあ、2人が納得してるならなんでもいいか。スピーチは任せてね。」
その辛さは、自分たちの見つめる2人が幸せそうであれば払拭されるものだ。気づかれないように目を伏せて、惣一は布団に潜り込む。それに合わせて兎美が布団を被り、忠直が電気を消した。
「…………ねえ、ナオ、旭ちゃん。」
「何だ。」
「何ですか?」
「2人とも、生きててくれてありがとうね。」
「……ああ。」
「……はい。」
翌朝。どういう経路を辿ったのか、結局忠直にくっついて眠っている兎美。それを見つめながら惣一は目を細める。
良い光景だ。今回ばかりは本当にどちらかが死ぬかと思った瞬間があって、惣一は内心やきもきしていたのだ。彼らが最期を迎えるとき、高確率で自分はそこにいるだろうから。
ゆっくりと惣一は忠直の布団に潜り込んで彼の背中に耳をつける。どく、どく、と安定した心臓の音。忠直は惣一にとって唯一の家族。彼を失わなくて、本当に良かった。
「……榊。」
どうせ起きていると思った。惣一はぐり、と頭を忠直の背中に擦り付ける。
「いつも、悪いな。」
わかっているなら簡単に自分を投げ出すなよ。彼の温もりから抜け出して、惣一は忠直にデコピンを喰らわせた。
「ほんと世話が焼けるよね、センパイって。」
自分の胸元を握り締めていた兎美の手を優しく剥がして布団を掛け直した後、忠直は惣一と並んで胡座をかく。もうベランダに出る必要はないのだろう。それは嬉しいような寂しいような。
「……ああ。それをわかってくれている奴がたくさん俺の傍にいたんだ。榊、兎美、一巳、宵人、岸さん、池田、柴谷、蓮。兄さんに、八千代さんもか。……麗佳や、令悟さんも。」
どこか愛おしむように大切な人たちの名前を呼ぶ忠直。惣一はきゅっと目を細める。
「ずっと、俺にはもう失うものがないと思っていた。特務課は再生して、兎美も呪いから解放されて。……でも違った。全てを失ったに等しかったあの日から9年。俺はたくさんのものをまた抱えていたんだ。」
忠直は兎美の頭に手を伸ばしてさらさらと撫で始めた。ずっと、何かしらの暗さを抱えていた彼の目に光が戻っている。それを見ている惣一の中には込み上げてくるものがあった。
「榊、俺は生きていて良かったよ。今、本当に心からそう思える。」
忠直は晴れやかな顔で笑う。自分の存在を断固として認めなかった彼がやっと、心から笑った。
「……遅えよ、ばか。」
惣一は目を潤ませながらつられて笑った。