最終話 私の幸せ
片腕をもがれたような気分に襲われた。ベッドに横たわる彼はピクリとも動かず、ただ天井を仰いでいる。それはひどく虚ろな光景で、兎美は膝から崩れ落ちた。
嘉七の消滅から3日。惣一の診療所で兎美は目を覚ました。惣一がホッとしたのも束の間、兎美は忠直を求めてふらふらと危なっかしくベッドを抜け出す。
まだ、酷だと思った惣一はどうにか止めようとしたのだが、結局その勢いに押されて彼女を忠直の元まで連れてきた。
忠直はなんとか一命を取り留めた。しかし、彼の状況は宵人のときよりも難解で、生きるために“嘉七”の『力』を利用した、ということくらいしかまだわかっていない。いつ目覚めるかなど更にわからない。惣一は彼を見て崩れ落ちた兎美の背中をさすってやることしかできなかった。
「少し、落ち着いた?」
病室から出て、先程よりかは気分がマシになっていた兎美が頷くと、惣一はにこりと笑ってくれる。彼だって、今回の件でかなり被害を被った。決して余裕があるわけではないだろうに、こうして気を遣わせていることが心苦しくて兎美は目を伏せる。
「俺、ナオの主治医と話してくるね。旭ちゃんは、落ち着くまでここにいてもいいし帰るなら一度俺に連絡してくれる?」
彼女が頷いたのを見届けて惣一はゆっくりと歩いていった。
今も、心臓を鷲掴みにされているような気分だ。忠直の緩く上下する胸。そこに耳を当てて、彼が生きているということを確かめるために埋もれていたかった。
このまま、彼が呼吸を止めてしまったら。彼と一言も話せないままに死んでしまったら。
その考えが兎美の頭をぐるぐる巡って止まらない。忠直はこんな思いを、1人で抱えていたのか。目覚めない唯子を見つめて切なげに微笑んでいた忠直の横顔が浮かんで、また涙が込み上げてくる。どうして、あの人ばかり。
そんなことを考えていたとき、フッと少しだけ目の前が暗くなる。誰かが兎美の前に立ったらしい。鼻をくすぐる線香のような香り。それには覚えがあった。
「……あなたは……。」
掠れた声でそう言うと、その男は珍しく感情を露わにする。目に滲む明確な同情。
「お久しぶりですね、旭兎美さん。……ひどい顔色だ。あれもずいぶん酷なことをする。」
予見令悟。麗佳や一巳、酉七の父親で、予見家の前当主。子息たちのそれより落ち着いた翡翠の瞳は兎美を相変わらず静かに見据える。
「ナオさんなら、その中です。」
なんとなく令悟と対峙していたくなくて目を逸らす兎美。だけど令悟は動かなかった。
「あれに会いに来たわけではありません。私は今更、あれを見舞ってやるほど優しくなってはいけませんから。」
では、何をしに。兎美は顔を上げて視線で彼に用件を問う。令悟の目はスッと細まった。その仕草が忠直に似ていて、ぐぶ、と喉の奥が鳴る。今は泣きたくない。なんとか堪える兎美に令悟は言った。
「忠直は、自分が貴女に関わり続ければこうなることをわかっていましたよ。」
彼の言葉に思わず目を見開く。どういうことだ。訊く前に令悟は淡々と説明をしてくれる。
それは、2年前の麗佳が当主を継いだ日のこと。立会人を頼まれていた兎美も忠直もその場にいた。
そのとき、令悟に呼び出された忠直は彼とある話をしていたのだ。
令悟に兎美と関わり続けることはお前にとって毒になる、そう言われた忠直は訊き返す。
「……何を視たんですか。」
尋ねると令悟の静かな目がこちらを向いた。
「私はな、お前に恨まれてでも麗佳によってお前をここに繋ぎ止めておきたかった。助けたかったのは麗佳ではなくお前だ。」
グッと腕を強く引かれて令悟に抱き締められる。驚いて動けない忠直。線香のような香りが鼻をくすぐった。
「忠直、お前はあの子の元で死ぬ。」
忠直は大きく目を見開いた。さすがに衝撃的な内容であったから。
「……美しくも悲しい光景だった。血に塗れたお前が旭さんの膝の上に横たわっていて、彼女は悲しそうに顔をぐしゃぐしゃにしていた。」
令悟は忠直の未来をそう『予知』したのだ。忠直が子どもの頃にもう既に彼の最期を知っていた。
「お前たちの関係性は見るだけでわかった。だから、お前には別に愛する人を用意しようと思ったんだ。そうすれば、あの未来は訪れないだろう。」
忠直は令悟にとって、手放し難い“息子”である。だから強引でも、忠直に恨まれることになろうとも、麗佳の婚約者に優秀な人形として仕立て上げようとした。
「旭さんはお前を殺してしまうだろう。あの子と関わればそれは避けようがない。彼女の『呪い』を視たときから私はずっと不安なんだ。」
隣に座る男の見たことのない顔に忠直は静かな目を向ける。この人はこんなに人間らしい表情ができたのか、と驚いて少し固まる。
「……忠直、あの子と縁を切る気はないのか。」
懇願するような令悟の声。しかし、忠直は首を縦に振らなかった。
「ありません。たとえ死のうとも俺はあいつと一緒にいます。」
令悟はその返答がわかっていたかのようにそうか、と目を伏せる。ここで首を横に振る彼であれば、あんな予知は視ないだろうから。
「むしろ、あいつのためにこの命を賭せるのであれば本望だ。俺の命など、今更あってないようなものなので。」
このときの忠直はどこかすっきりした顔を見せた。それを見ていられなくなった令悟はそっと目を逸らす。
「……それに令悟さん、それは悲しいことではありませんよ。」
ゆっくりと忠直の中で何かが固まっていく。覚悟や、想いの清算。令悟からすればいつまでもこちらを見上げてくる子どもだった彼はいつの間にか自分の足で立っていて。
「あいつといることができて、俺は本当に幸せだった。今まで生きてきた中で一番。そんな感情を得ることができたんだ。今更、あいつに関することで躊躇うことは何もありません。」
忠直は屈託なく笑っていた。
「……このことは貴女に伝えておかなければならない。そう、思ってここに参りました。」
令悟は小さく微笑む。兎美は先程からずっと涙をこぼしていた。死ぬことがわかっていて兎美と一緒にいたなんて、それはなんて残酷な。
「悲観してはいけませんよ。私が本当に伝えたいのはここからです。」
絶望に浸りかけた兎美を引き戻す一言。え?と思って見上げると、令悟の笑みはどこか嬉しそうだった。
「私の視た忠直は、確実に死んでいた。呼吸も心臓も止まり、傷も血の量も助かるものではなかった。ですが今、あれは生きている。」
それは。兎美が目を見開くと、彼はきゅっと目を細めた。
「貴女が気負う必要はない。貴女はあれの運命を変えたんです。それだけで、十分だ。旭兎美さん。ありがとう、忠直を幸せにしてくれて。」
深々と頭を下げる令悟。彼の言葉とそれに耐えられなくなった兎美は泣きながら呻くように言った。
「……ッ、私があの人をこんな目に遭わせたのに、お礼を言われる筋合いはありません。そんな、あの人がこのまま死んでしまうみたいなこと、言わないでください。」
顔を上げた令悟は切なげに兎美を見て、彼女を諭すように口を開く。
「追い詰められるくらいならばあれを待つ必要はありません。貴女はもう自由なのだから。あれは、貴女の幸せを一心に願っていましたよ。」
何か言い返したいのに忠直のことを理解している兎美は何も言えない。彼の最後の言葉がそうだったから。
令悟は泣きじゃくる兎美に対してもう一度頭を下げて、去っていった。
『旭へ
お前がこれを読んでいるということは、俺の身に何かあったということだろう。死にたくなかったのは本当だ。信じて欲しい。だけど、それ以上に俺はお前を自由にしたかった。お前が30歳でも40歳でも生きたいだけ生きることを選べるようにしたかったんだ。勝手で、悪い。
なるべくたくさんのものを遺してやりたかったが、せいぜい同封したもの程度しか思いつかなかった。使いづらいだろうがお前のためのものだ。ちゃんと使って欲しい。
伝えたかったことがある。お前は綺麗になった。どんな人と並んでも遜色ないだろう。だからどうか、俺のことは忘れて幸せになって欲しい。やっと、選び取れた旭の人生だ。お前自身のために生きてくれ。
お前に出会えて本当によかった。俺はお前が隣にいてくれて、ずっと幸せだったよ。予想していたことだ。死んだことに悔いはない。どうか、笑っていて欲しい。
旭は俺の頼もしい相棒だ。それはもう一生変わらないだろう。その立場をお前から奪っていく俺を許して欲しい。
お前が幸せになることを切に願っている。
永坂 忠直』
忠直は、惣一にいろんなことを託していた。といっても、自分が死んだときの処理はほとんど済ませていて、遺書も退職届も家に関することもその全ての書類が揃えてあった。
惣一はナオを死なせるつもりはないから、これは突き返してやる。そう言っていたのだが、兎美に対しての遺書だけは渡してくれた。旭ちゃんも文句を考えておいた方がいいよ。戯けてそう言う彼の目尻は少し赤かった。
兎美はその封筒を忠直のベッドに寝転がりながら開いた。そうしないと彼がいないことに心がついていかなくなりそうだったから。
遺書の内容は忠直らしいものだった。同封されていたのは通帳。名義が兎美のものになっていて、中には彼が2年間コツコツと貯めていてくれたらしいお金が結構な額入っていた。
彼がしてくれたことはそれだけではない。忠直は兎美が帰ってきて行き場を失わないように旭家の両親、兄弟に対して全ての説明を行っていた。できれば彼女の好きなようにやらせて欲しい、そう一言添えて。
家族にはひどく怒られた。血が繋がっていなくてもどれだけ大切に想っているのかを解かれ、全員に抱きしめられてしまった。彼らは2年間、忠直が言った通りに兎美が好きにできるように耐えてくれたらしい。それが落ち着いた後、忠直はどうなったのか兄の瑞樹に問われたが、兎美は曖昧に笑うしかできなかった。
『特務課』の面々は忙しいだろうに全員が兎美に定期的に連絡をしてくれる。返信を待たない内容のそれは心地いい距離感を保ってくれていて、彼らの優しさが染み渡るのだ。彼らだって忠直に対して思うところがないわけじゃないのに。
そんな彼らに心配をかけていることはわかる。だけど、それでも兎美の体は完全に萎えてしまっていた。忠直を求めるように彼の家に入り浸り、彼の匂いにくるまる。病院にすら行けていない。忠直を失う。そう考えるだけでもう駄目なのだ。
この家も物が少なくなってしまった。忠直は引き払うときに迷惑をかけないように、と様々なものの整理も済ませてしまっていて、彼の部屋はほとんどのものが最小限の量になっていた。忠直は事件が終わった後に合わせて私物を人に譲ったり、処分するように依頼していたらしい。
そして、彼の元に置いて行ったあのブレスレットや簪はどこを探しても残っていなかった。兎美が渡した物はとても大事そうにデスクの引き出しに残していたくせに。そこから、忠直の『別の人と幸せになれ』という意思が伝わるのが残酷であった。
ひどい人だ。そこまでしなくてもいいではないか。そう思うのに嫌いになれない。むしろ愛しさが募って、彼のことしか考えられなかった。
(……あなたとじゃないと意味がないのに。)
カサリ、と音を立てて遺書に皺が寄る。こんなもの、破り捨ててしまいたかった。勝手だ。自分の幸せならば自分で決める。望まない幸せもどきをあてがわれてもなんの意味もない。でも捨ててしまえば彼との繋がりが一つ失われてしまう。
自分でもこんなに落ち込むなんて思っていなかった。あれからもう1ヶ月が経過しようとしている。実家からここまで通うのにも手間がかかるのにいつまでこうしているのだろうか。もう、いっそ、彼と同じように眠り続けてしまえれば。
ピンポーン
突然、インターホンが鳴った。兎美は一瞬、惣一だろうか、と思った。でも彼であれば合鍵を持っている。では、一体。
ピンポンピンポンピンポンピンポン
立ち上がるのも面倒でベッドに突っ伏しているとものすごい勢いで鳴らされる。なんというかこの感じ、覚えがあった。このしつこさ。インターホンの画面を見ると、予想通りの人物が映っていた。
『よー、旭兎美。やっぱりいたな。開けろ。』
麗佳だ。その後ろには酉七の姿も。誰かに会いたい気分ではなかったが、麗佳のしつこさを思えばたぶん、最悪惣一のところに押しかけてでも入ってくるだろう。兎美は素直に彼女を通した。
「久しぶりだな。……辛気くせえ顔しやがって。ちゃんと飯は食ってんのか?顔洗ってこい。腫れてるぞ。俺様に見せる顔じゃねえだろ。」
麗佳のぞんざいな態度は今の兎美にはとても心地よかった。続いて入ってきた酉七にも心配げに見られてしまって、すごく恥ずかしくなる。兎美が麗佳に言われた通りに洗面所に向かっている間に、彼女たちについてきていた夕鈴がテキパキとお茶の用意をしてくれた。
「1ヶ月。それがあいつの決めた期限だ。まあ、俺様にそれを託したのは英断だな。」
お茶を啜りながら麗佳はそう言った。何の話かはわからないが、忠直関連であることは確定だ。
「俺様は忠直にお前さんのことを託されていた。旭兎美があまりにも立ち直れなかったら酉七による“記憶の消去”を受けさせて欲しい、とな。」
兎美は目を見開いた。どうしてそんなこと。いや、聞かずともわかる。彼はすっぱりと辛い記憶など消して生きていくほうが楽だということを知っているから。
「別に無理強いをするつもりはない。選択権はお前さんにある。なあ、酉七。」
麗佳に話を振られた酉七はゆっくりと兎美に視線を向けた。彼女の目は他の兄弟たちと違って、令悟譲りのものではない。黒い深淵の中に一点の煌めきがある。
「……私、兎美様と忠直様の幸せを願っていますの。」
酉七は兎美に対してどこか悲しそうな顔を見せた。彼女は“王子様”と慕う2人に幸せになって欲しかったらしい。忠直が欠けた状態を望んでいたわけではない。
「それでも貴女が望まれるのであれば、忠直様に関する一切の記憶を消してみせます。それが、兎美様の幸せなのであれば。」
前回は問答無用で消したのに今回は確認を取るのだ。麗佳の差し金だろう。
兎美は即答はしなかった。視線を彷徨わせ、どこか困ったかのように麗佳を見る。
「……あの人、どういう様子でそれを麗佳に託したんですか?」
もしも彼がそれを切に願っていたのであれば。怯えた顔を見せた兎美に向かって、麗佳は彼女らしく堂々と答えた。
「懇願するようだったよ。あいつは失う辛さを十二分にわかってるからな。都合よく記憶の消せる奴がいるんだ。辛いことは封じ込めて新しいお前で再出発することは全く悪いことじゃねえ。そこが共通の理解だったから、俺様は託されてやった。」
しばらくその場に沈黙が流れる。麗佳はじっと兎美が答えを出すのを待っているようだ。
不意にゆら、と兎美の体が揺れる。そして彼女はお茶を手に取るとゴッゴッゴッと一気に飲み干して、それを皮切りにキッと麗佳を睨みつけた。
「ナオさんとの記憶、辛いだけじゃありません。」
おや、と麗佳は目を丸くする。兎美の声色には先程の落ち込み様と打って変わって、怒りが滲んでいた。これは何やら愉快なことが起こりそうな気配。
「……っんと、ほんっとうに勝手ですね、あの人!」
夕鈴と酉七は面食らったように目を見開く。兎美の目からはぼたぼたと涙が零れ落ちているのに、彼女はかなり怒っているようで。
「ああ、もう。何にもわかってない。麗佳や酉七さんに頼んでまでこんなことさせるなんて、未練タラタラじゃないですか。」
再び麗佳を見た兎美の目は何かしらの覚悟を掴んでいた。彼女の次の言葉が読めた麗佳はくっくっと笑い始める。
「誰が忘れてやるもんか。私、ナオさんといるのが1番幸せなんです。それを見ないフリした幸せなんていりません。」
そう言い放つと兎美は麗佳と酉七に向かって深々と頭を下げた。
「すみません、私、あの人のことを忘れたくないんです。どれだけ苦しくても、あの人がくれたものは捨てません。それを思い出させてくれてありがとうございます。」
顔を見合わせた麗佳と酉七は2人とも嬉しそうに笑う。それでこそ兎美だ、というように。
「ま、断るとは思ってた。そんなお前さんにプレゼントをやろう。」
麗佳が鼻歌混じりに取り出した2つの箱。見覚えがある。というか、これ。
「…………ッ。」
慌てて受け取ってそれを検める兎美。麗佳が差し出してきたのは忠直がくれたブレスレットと簪だった。とっくに捨てられたと思っていたのに、どうして。
「忠直は捨てられなかったんだとよ。それを見てるとお前がどれだけ自分のことを想ってくれてたかを思い出す、とかで。」
だから麗佳に託したのか。なんとなく忠直に突き放されてしまったかのように感じていた兎美の体に血が通い始める。
彼はきっと強がっているだけだ。兎美に自分と同じ苦しみを味わわせないように、守ろうと必死なのだろう。
でも、嫌だ。彼を忘れるなんてそんなこと耐えられない。
「……ああ、本当に駄目な人。私、一言言ってやらないと気が済みません。だから、ナオさんが起きるのを待ちますね。」
やっと、兎美の中で何かしらの踏ん切りがついた。それを認めた麗佳は目を細め、兎美に1つの封筒を渡す。
「上等。じゃ、記憶を投げ出さなかったお前に1つ頼みがある。旭兎美、俺様のところに来る気はねえか?」
急に何の話だ。少し鼻白んだ兎美に麗佳はそのまま続ける。
「今、無職だろ?兄貴のところでまた働くっつーなら止めねえが、俺様は予見家で『異能者』のための塾を開こうと思ってる。お前さえ良ければ協力して欲しい。」
就職の面倒まで見てくれるというのか。兎美は思わず苦笑いを浮かべる。麗佳には世話になりっぱなしだ。
「私で力になれるのなら喜んで。」
満面の笑みを浮かべると麗佳は安心したように頷く。
兎美はこのときに初めて生き残った、という実感に襲われた。犠牲にしてしまったものはたくさんある。それでも、今、こうして自分を支えてくれる人たちがいる以上、前を向くしかないのだ、と。
忠直が目を覚ましたら文句をたくさんぶつけよう。駄目な人だと叱りつけよう。そして、彼にやっと伝えられる想いを目一杯口にするのだ。
病室の中はいつもと変わらない。一定の温かさ、消毒薬の匂い、機械の音。
忠直にはもう、点滴すら繋がっていない。嘉七の『異能』で保存されている彼には必要がないから。
兎美はいつも通り椅子を彼の横に引っ張っていって、ゆっくりと腰を下ろした。落ち込んでいた最初の1ヶ月以外、彼女はほとんど毎日ここに来ている。彼が起きたときに真っ先にその目に写して欲しいから。
「こんにちは、ナオさん。今日であなたが眠りについてから半年経ちましたよ。もう、いつ起きるんだか。」
動かない彼の手を握る。惣一の治療は正確だ。ぐるりと手首を一周する傷跡は残ったものの、問題なくくっついている。血の通った温かさには素直に安堵した。
「そういえばこの前、麗佳に心配されたんですよ?……私、綺麗になったそうです。油断してたらどこかの誰かに掻っ攫われちゃいますよ。」
つんつんと忠直の頬をつつく。脅すように言っても動いてすらくれない。それに魔がさして、兎美はそっとキスをした。
「…………物語だったらここで起きないと台無しなんですよ、ナオさん。」
冗談めかしたようにそう言って額を合わせる。キスなんて、この6ヶ月で何回もしている。最初のうちは期待を込めて。最近は彼がいつ温もりを失うかわからないことに恐怖を覚えて。
忠直の腕に擦り寄って、ぺたぺたと温もりをなぞる。しばらくそうしてから兎美はしんみりと最近は言わないようにしていた言葉を口に出した。
「ねえ、ナオさん。もし、もしも行ってしまうなら私も連れて行って。旭兎美は、もうあなたしか愛せないの。」
弱音はもう吐かないと決めた。それでもやはり、こうやって微動だにしない忠直を見ていると彼がいつ死ぬかわからないという現実を突きつけられる。それにはずっと胸を締め付けられているのだ。
兎美は小さくため息に似た息を吐いて、忠直の手をぽす、と自分の頭に乗せた。擬似的でも撫でてくれたあの温もりを思い出すために大好きな手を。
「……私、頑張りましたよね。今回はまだ褒めてもらってませんよ。頭、撫でてよ。よくやった、って無愛想でもぶっきらぼうでもいいから。」
そう、言ってよ。囁くように吐いて、そのまましばらくベッドに突っ伏す。しかし、何も起こらない。彼の熱が髪を通して伝わって、ほんのりとした満足感を得ただけ。
いい歳してこんなこと恥ずかしいな。何期待してんだろ。自分に呆れてはあ、とため息をついた兎美が体を起こそうとしたそのとき。
ぱさ、と自分の髪の毛が動いた。最初は忠直の手に巻き込まれた髪の束がくるん、と元に戻っただけかと思った。
でも、違う。だんだんと力が籠って。
兎美はバッと顔を上げた。すると、あの黒の奥に青の控えた大好きな瞳が自分で止まる。言葉が、出てこなかった。
「……ぅ、あ、ああ、ッ……!」
兎美の声に反応して、ぼんやりとしていた彼の目が何かしらの強さを持つ。する、と再度頭を撫でられた。記憶の中よりも、ずっと、心地いい。
「……旭、か。」
忠直がくしゃりと笑う。兎美の顔を見て嬉しそうに。それを見るともう耐えられなかった。兎美は忠直に抱き着いて喚いた。
「……ッの、馬鹿!馬鹿馬鹿馬鹿ぁ!!」
責めるなんてお門違いだろう。だけど、彼のいない日々に耐える原動力を怒りにしていた兎美はもう抑えられなかった。最後の馬鹿、は涙声でぐちゃぐちゃになって、子どもみたいに泣き出してしまう。
「…………ああ。すまなかった。」
忠直が宥めるように頭を撫でてくれて、安堵した兎美はそのまま体を預ける。もう離れたくなかった。
しばらく泣いて、互いの熱が同じになったくらいに兎美が顔を上げる。目が合って、2人は示し合わせたかのように唇を重ねた。ああ、これだ。この人が、欲しかったんだ。
「馬鹿。もうちょっとで寂しさから他の人に転がるところでした。」
もちろん嘘である。忠直への想いに割って入れた人は結局いなかった。
しかし、何も知らない忠直は一瞬怯えを見せて、その後平静を取り繕った。
「……待たなくても、よかったのに。」
つれない答えだ。兎美はつん、と唇を尖らせて、そのまま忠直の胸ぐらを掴んでもう一度引き寄せる。そして、ほとんどくっつけたまま囁いた。
「未練タラタラだったくせに。お馬鹿さん。嘘ですよ、あなたのことしか考えられなかった。」
忠直が苦笑いを浮かべる。虚勢を見透かされたことへの照れだろう。
「…………悪い、強がった。お前がこうして待ち続けていてくれたことに心底安堵している。……ありがとう、旭。」
ぎゅうっと強く抱き寄せられる。彼の心臓は早鐘を打っていて、顔に出ないそれが嬉しくて。
「ナオさん、好きです。」
兎美は、そのときやっと忠直に対して笑顔を見せた。口にしたのはずっと伝えたかったこと。忠直は彼女の表情と言葉に目を見開く。そうか、もう言えるのか。
「大好きです。だから、もう、どこにも行かないで。私と一緒にいてください。」
忠直の首に腕を回すと、彼は応じるようにもう一度強く抱き締めてくれる。
「……ああ。」
もっといろいろ文句を言おうと思っていたのに、もう今はこれだけでいいか、と兎美は笑う。やっと寄り添えたのだ。言葉を発するよりも抱き締めあっていたかった。これから先、時間はたくさんあるのだから。
この後2人とも、早く俺を呼んでよ!と半泣きの惣一にぶつくさ言われることになるのだが、そんなことは露知らず、兎美と忠直は幸せそうに笑い合った。
(Heart 完)
これにて兎美と忠直が再会するまでのお話は終わりとなります。ここまでのご愛読ありがとうございました。
予定よりもずっと長くなってしまったこの「Wrist」「Throat」「Heart」の3連作、拙い点は多々ありましたが、楽しんでいただけたのであれば嬉しいです。
この後の話を描くエピローグを1話投稿したのち、本編は完結致します。長かった……。
あとは作者のネタバレありの作品通しての後書き兼設定資料のようなもの、兎美と忠直がひたすらにイチャイチャする糖度高めのお話を年内にちょっとだけ投稿する予定です。
その報告は連絡用アカウントTwitter@gyouza3738にて。最終回記念絵なども投稿しますので是非。
最後に。重ねてになりますが、2人が幸せになる姿を見届けていただきありがとうございました。
洋巳 明