9話 君の膝の上
起きる約束の時刻よりもずっと早く目が覚める。その日の朝は少し冷えて、兎美はもぞりと布団の中で丸まった。
そのときの鎖の揺れ加減で忠直が既に起きていることに気づく。ああ、きっと、彼もろくに眠れなかったのだろう。
コンコン。2回のノックは呼び出しの合図。兎美が叩くと忠直も返してくれた。
「おはよう、旭。」
忠直は既に身支度を整えている。兎美も同様で、今日のために張り詰めていたのがお互いわかるようだ。
「……ベランダに出るか。」
兎美は頷いて応じた。
手に馴染むマグを握りしめながら、2人はベランダから朝日を眺めた。呑気なまでにいつも通りの朝。チュンチュンと鳥が鳴いている。
「まだ少し冷えるんだな。」
それは笑えない一言。忠直は1ヶ月もの間監禁されていたのだ。そのせいか、まだ春の気候を受け入れきれていないきらいがある。
「今年、ナオさんと桜を見られませんでしたね。綺麗だったのに。」
事件を追っている間に桜はほとんど散ってしまった。こちらに戻ってきてから約2週間。非常に忙しなかった。それも、今日で終わるだろうが。
「“今”のお前でも俺と一緒に桜を見たいと思ってくれるのか。」
随分卑屈な一言。兎美はふふ、と笑ってマグの中の茶を啜る。
「ナオさんに対して恋情はなくとも普通に一緒にいたいですよ。相棒ですし。」
チリ、と鎖が揺れる。この3日間、不便を感じることはほとんどなかった。それどころか心地よいまであった。
「ナオさんは、この件が片付いたら何をしたいですか?」
その質問には忠直がむ、と固まる。聞き覚えのあるものだったから。
「……お前との生活が終わる頃にそんな質問をされたな。ふふ、もう懐かしい。」
気づいてくれたことに嬉しさを覚える。それは本当に他愛無い質問だったのだが、なんとなく兎美の中では印象的なやりとりであったのだ。
「以前の俺は、真っ先に仕事の話をしたんだったな。この1ヶ月、課の方を一巳と宵人に丸投げしてしまったからやはり気になりはするんだが。」
忠直らしい返答だと途中まで微笑んでいたのに、そこで区切られて兎美はきょとんとする。いつの間にか、忠直がこちらを見ていた。
「今は旭と食事をしたい、かな。」
この3日間、していたではないか、と言うのは避けた。すごく素朴な願望。でもきっと、これにはいろんな意味が詰まっているのだろう。
「……いいですね、それ。」
兎美はにこりと微笑んで返した。だって兎美も、忠直とご飯を食べながらその日にあった他愛のない出来事を話して一緒に過ごす。ただそれだけのために抗うことを決めたのだから。
行動を起こしたのはその日の午後。局に着いた2人を出迎えたのは。
「こんにちは、兎美さん。」
杷子がそこに立っていた。兎美の記憶よりも幾分も落ち着いた顔つきで、髪もショートカットになっている。
「お久しぶりです、杷子ちゃん。……ふふ、あなたが迎えてくれるなんて、4年前が懐かしくなりますね。」
4年前、兎美が初めて局に来たときが杷子との出会いだった。彼女も懐かしむように目を細めてくれる。
「はい。……あのときは失礼しました。」
恥ずかしそうにはにかんで、彼女は『特務課』の事務所内に入るように2人を促した。
「かっ、あっ、お久しぶりっす!」
中に入って真っ先に目が合ったのは円であった。彼は兎美を見て顔を真っ赤にする。どうやら、まだ、相変わらずのようだ。
「お久しぶりです。柴谷くん。あれ?ちょっと身長伸びました?」
「変わってませんよ!もう学生じゃあるまいし……。」
強気に言い返すその様子は兎美に子供扱いされたようで悔しかったらしい。だけど彼女からすれば少し大きく見えるほど成長していた、ということで。
兎美がそういうことではない、と否定する前に円の肩にするんと絡む腕。
「あはは、まめちゃんは察しが悪いねえ。まあ、そんくらいがお前らしいけど。」
一巳だ。なんとなくこの面々と顔を合わせるとホッとする。だけど、そこに彼がいない切なさもあった。
一巳は円にお茶を淹れてきてくれる?と頼んだ後、ソファの方に2人を促した。
「ここであんたと顔を合わせんのは本当に久しぶりですねえ、課長。」
忠直が戻ってきてすぐに“嘉七”の目覚めがあった。だから、彼はまだ本格的な職務復帰をしていなかったのだ。一巳の言葉に忠直は申し訳なさそうに目を伏せる。
「悪い、お前には負担をかけているな。」
一巳にはなかなか消えないクマと疲労感が滲んでいた。勿論、主任として課長の不在を埋めていた負担もあるのだろうが、仕事に打ち込まなければ嫌なことを考えてしまいそうだったのだろう。忠直と共に様子を見に行ったときの明鈴と似たような顔をしているから。
「課長のせいじゃない。余計なことした“ラパノス”の野郎どもといつまで経っても成仏しやがらない死に損ないのせいだろ。さっさと終わらせましょ。これ以上誰かが傷つくのはごめんだ。」
忠直も兎美もその言葉に深く頷いた。
「じゃ、今からお2人には嘉七の元へ行ってもらいます。だけどその前に最終確認と課長への苦言を少々。」
円の出してくれたお茶を啜りながら3人は額を突き合わせる。円と杷子は既に自分の業務に戻っていた。
「申し訳ないけど俺たちは同行しません。宵人がいない今、嘉七の『力の放出』に耐えうるのは課長と旭さんだけです。駆け付けても犬死にするだけなんで。」
そこに異論はない。また、誰かをあんな目に遭わせるわけにはいかないから。
兎美には嘉七に対する耐性があり、忠直はその『異能』の性質から耐えることができる。事情的にも体質的にも2人が適役であった、というわけだ。
「嘉七の元へは拘留してる“ラパノス”の幹部、ソウスという男が送ってくれます。彼の『異能』は『転移』。どうやらあの土壇場で“嘉七”にマーカーをつけていたらしい。」
どうやって彼の場所を割り出したのだろうか、と不思議に思っていたがそこで頓挫することはないらしい。覚悟ができたらすぐにでも。そういうことだ。
「嘉七の身体能力、『異能』の使用パターンなんかはわかりませんが、たぶん頭を使った動きはできないでしょう。宵人が以前言っていたことですが、嘉七の自我は既に崩壊している。“さくら”を追うために生きているだけですからね。」
彼には既に肉体はない。だから普通の銃では消滅させるに至らなかったというわけで。それに、今までも意思を持って誰かを殺していた様子はなかった。彼も囚われ続けているのだ。この歪んだ運命に。
「試し撃ちはたくさんしていたようなんで大丈夫でしょうけど、早岐の宝銃に関してはなるべく至近距離で撃ってください。打ち損じるなんて目も当てられねえからな。」
兎美はこくんと頷く。今回の不安要素はそこなのだ。銃を扱うなんて、初めてのことだから。
「概要は以上です。現場には行かねえけど、俺たちも被害の及ばない範囲のギリギリで待ち構えてますから、何かあったら連絡してください。走ります。」
やることは至ってシンプルだ。その中で嘉七がどの程度抵抗してくるかはわからない。だけど、今は忠直が隣にいる。それだけで、十分だ。
「そんで、こっからは課長への説教なんですけど、あんた今自分の中がどういう状況なのかご承知で?」
中?首を傾げる兎美と能面のような表情で繕う忠直。一巳の目がキラリと光る。
「まー、我らが課長がわかってないはずないな。ミリンがあんたに投与していた薬品の分析結果が出ました。検出できたのは嘉七の『力』で汚染された粉末状の物体。……それ、あんたの上司たち、元『特務課』職員の『骨』であることがわかりました。」
兎美は目を見開いた。しかし、その隣で忠直は身じろぎもせずに一巳を見つめている。
「要はあれは抗嘉七ワクチンだったってわけ。慣らされてたんだよ、あの真っ黒い『力』に。“ラパノス”はあんたの体を『器』にして嘉七の『力』を保存する腹づもりだったらしい。杉崎から聞き出しましたが、まあ、大体予想はついてた。眠るあんたを見たとき、よいっちゃん吐いちゃったんだからね。」
上司たちの骨、つまり中にはきっと宵人の父親のものも混ざっていたのだろう。兎美も喉の奥が酸っぱくなるのを感じた。
「……俺、思うんですけどねえ。そこまでやる連中が果たして、大人しく勾留され続けてくれますかね?……嫌な予感がすんだわ。だから課長、頼むわ。無理だけはすんなよ。」
一巳が危惧しているのはラパノスに関して。彼らはもう捕らえたはずでは、それを確かめるように兎美が忠直の方を見ると、彼もまた難しい顔をしていた。
「……最善は尽くす。」
忠直の曖昧な返事ほど不安になるものはない。一巳も兎美も顔を顰めた。
「やめろ、その顔。早岐には前にも言ったことがあるが、別に俺は死にたいわけじゃない。薬の正体に気づいても抵抗しなかったのにも理由はある。」
忠直の言葉に兎美は真っ先に一巳の反応を窺った。ハッタリや嘘の類を言っているのであれば彼は怒るだろうから。
しかし、一巳はへえ?という顔をしていた。半ギレくらいだろう。大丈夫そうだ。
「……まあ、宵人にはとても言えないが。早岐の忠告を無碍にするほど馬鹿ではない。安心しろ。これ以上お前に背負わせるわけにはいかないしな。」
話を切り上げるようにそう言って、忠直が立ち上がる。兎美と一巳も続いて立ち上がった。
「そろそろ行くか。あまりここにいると早岐の説教が長引きそうだ。」
ぐに、と骨まで押し潰すような渦の中に飲み込まれたような感覚。兎美は耐えるように忠直が繋いでくれている左手をぎゅっと強く握る。
その感覚が失せて、次に目を開いたときに2人の目に飛び込んできたのは朽ち果てたステンドグラスや黒ずみのついた白壁。どうやらどこかしらの廃教会に到着したらしい。
パッと忠直の手が離れた。彼は無言でここまで送ってくれたソウスに手錠をかけ、同行していた杷子に任せる。忠直と軽く話した杷子は頷くとピシッと2人に向かって敬礼をした。
「お2人の健闘を祈ります。」
兎美と忠直は顔を見合わせて、しっかりと頷いた。
キィ、とドアは軋むような音を立てて簡単に開く。兎美はどこかふわふわした心地で先を行く忠直の背中を見つめた。
“彼”はここにいる。兎美の中でもそれはきちんとした確信があった。作戦通り動くだけだ。何も、怖くない。
だけど、やっと終わるのだ、という感覚と共に無事に帰れるのだろうか、という不安もあった。今世は味方が多いとはいえ、結局のところ手を下すのは“さくら”なのだから。
「旭。」
そんな不安を割くように忠直が振り向いた。彼の目は深い青。ひたひたとしていて、落ち着く。
「全部、終わらせるぞ。」
「……はい!」
廃教会の奥に嘉七はいた。彼は壁に背中をもたれかけ、じっと目を瞑ったまま動かない。ステンドグラスに夕日が差す。すると床に青や赤の光が写って、非常に美しい。そこで腐り果て、茶色くなってしまった桜の花びら。兎美は思わず息を呑む。それほどに静謐で美しい光景であった。
とどめを刺すのだ。今ならば、邪魔は入らない。動くたびにチリチリと揺れる見えない鎖。それだけが兎美の正気を保ってくれていた。
一歩一歩と彼へと近づくたびに胸の中に湧き上がる愛しさ。兎美はそれを拒まなかった。“さくら”として決着をつけなければならない。
あと数メートル。そこに、嘉七がいる。かん、かん、かん、ともう自分の足音しか聞こえない。嘉七の目が、ゆっくりと開く。
「……君は。」
「…………嘉七さん。」
彼の傍にしゃがみ込んだ。嘉七は夢を見るような目で“さくら”を見ている。
「やっと、会えた。」
そう告げて“さくら”は微笑んだ。互いに夢を見ている。夕日がチラチラと“さくら”の笑みを照らして。
「……ッ、あぁっ、ああ!!!!」
嘉七は思いきり“さくら”を抱き締めた。“さくら”も拒まずに抱き締め返す。ズズ、ズズズ、と嘉七に黒い『力』が集中し始める。
「一緒に行きましょう。もう、1人にはさせない。」
カチリ。小さな金属音。十分に練習した。全部、終わらせるのだ。
撃つ直前、そっと背中に温かい熱。それにふっと微笑む。
銃声は、響かなかった。“さくら”と嘉七は黒い『力』に包まれて。
『…………ら。』
『……さくら。』
『さくら。』
兎美はゆっくりと目を開けた。そこは、真っ白い空間。1人の女性が立っている。見覚えのない顔だ。しかし、誰なのかはわかる。
「……あなたが、“さくら”?」
問うとさくらはふふふ、と笑った。和服の袖を上げて口元を隠すその所作は少女らしさを残していて可愛らしい。
『なんとなく、不思議な質問ね。貴女もさくらなのに。』
つられて兎美も笑う。確かに変な感じだ。
「嘉七さんは?」
その質問にさくらはゆっくりと後ろを示す。そこに、黒い影の塊があった。
『私が連れて行きます。彼の行き着く先はとても寒いところ。そこに追いやったのは私なのだから、罰も共に受けます。永遠に、添い続けます。』
そこは地獄なのだろうか。はたまた。真実はわからない。だけど、これで全て終わったのだ。なんだか最後は随分と呆気ない。
『……ごめんなさい。貴女にここまで背負わせて。いえ、貴女たちにまで背負わせて。』
いつの間にか背後に複数の人影があった。顔は見えないが、彼女たちも“さくら”。嘉七とは逆の位置に立っている。間に立つのは兎美とさくらだけ。
「呪いを負っていたのはあなたもです。貴女が謝ることではありません。最早、私たちからすれば誰も恨めないことですし。」
兎美の言葉にさくらは切なげに微笑んだ。その笑顔で全ての終わりを知る。ああ、やっと。
『……そうね。』
呟くようにそう言って、さくらは嘉七の方をちらりと見る。それで何かを得たように兎美に向き直り、彼女は深々と頭を下げた。
『ありがとう、最後の“さくら”。』
その言葉に、成因のわからない涙がつう、と頬を伝う。上手く言葉にできないが、まるで遠い記憶の中で大切に想っていた友人を失うような。
そんな兎美にさくらは微笑み、促すように口を開いた。
『そろそろ、行かないと。ほら、“兎美”。貴女にもお迎えが来ているわ。』
さくらの指した方を見ると、藍色の火の玉のようなもの。帰ろう、と示すようにゆらゆら揺れる。すぐにそれが誰なのかわかって微笑む。彼も、一緒に帰るのだ。
「はい。……嘉七さんをよろしくお願いします。」
一礼して顔を上げる。さくらは黒い塊となった嘉七と手を繋いでいた。やっと彼らは添えたのだ。
『兎美。』
呼ばれて振り返る。兎美には光の中に消えていくさくらの笑みだけが見えた。
『どうか、幸せにおなりなさいな。』
はい。その答えも白の中に消えた。
とく、とく、とく。温かい。誰かに抱かれている。それが誰なのか。確かめるまでもないだろう。
「……ナオさん。」
目を瞑ったまま呼ぶと、ホッとしたように彼が息を吐くのがわかった。彼の『力』がこんこんと自分の中に流れ込んできている感覚。すごく、心地いい。
「嘉七さんは、さくらが連れて行ってくれました。」
あの白の中、彼らはどこか満足そうだった。罰も罪も、2人でいれば。
「御厨くんも一緒に帰ってきました。きっと、今頃。だから全部、もう大丈夫です。」
そうか。囁くように呟かれる。頬をなぞられて、そのときに初めて兎美は自分が泣いていることに気づいた。
「ああ、やっと、やっと終わったんだ。」
目を押さえて溢れる涙を堪えもしない。忠直がぎゅっとしてくれて、それで。
「甘い、甘いなぁ!」
終わらないのがこの世の定石なのだ。
そこは、暗い空間。自分の持つ行燈だけが頼り。
宵人はぽつぽつと足を動かしていた。特に何も考えず、ぽつぽつと。思考を奪われているようだった。靄がかかったかのように。
そのときスッと、自分を追い越していく影。見覚えのある背中。宵人は叫んでいた。
「……ッ、忠直さん!?」
呼んでも彼は止まらない。そのときに宵人は後ろ側に光があることに気づく。もしかするとあれは出口なのだろうか。だけど、彼に忠直を捨て置く選択肢はない。宵人はそれを見なかったフリをして走った。
「忠直さん、待ってください。あんたも、一緒に。」
忠直の足は速かった。走っても走っても追いつけない。光が遠ざかる。それでも気にせずに走り続けて、やっと彼の背中に手が届いた。
「ッ、やっと、追いつい……え。」
しかし、掴んだその背中は忠直ではなかった。ぎょっとして目を見開く。その背中には、非常に見覚えがあったから。草臥れていて、猫背気味。不健康さの滲み出たそれは。
「……父、さん……?」
目の前の人物はくるり、と振り返る。行燈の暗い光に照らされて、はっきりとは見えないがなぜかそれは自分の父親だとわかった。
「……久しぶり、宵人。」
目を合わせたのは生前も合わせると本当に久しぶりで。宵人は思わず涙目になる。
「……まだ、ここに来てはいけない。今年でいくつだ。俺に会うには若すぎるだろう。」
再会して早々に説教か。なんとなくムッとしてそっぽを向く。このくらいの反抗は許せよな。
「もう27。結婚して嫁さんも、もうすぐ生まれる娘もいる。父さんが思うほど若くはねえ。」
宵人の言葉に父・真彦は目を丸くして、そして、へにゃりと笑った。
「……そうか。俺にも孫が。……会いたかったなぁ。」
そういうことを言われると、胸に込み上げるものがある。泣かないように努力しながら、呆れたような表情を作った。
「可愛くない方の息子でも、孫は可愛いもんなんだな。」
このくらいの悪態は許して欲しい。生前、宵人はこの父親に避けられていたのだ。中学生以降、ほとんどまともな会話もできていない。
真彦は一瞬傷ついたような顔をして、それでもすぐに笑顔を作った。
「ずっと、2人とも可愛かったよ。お前たちのことを想わなかった日は1日だってない。だけど、どうしようもなく臆病だった俺はお前のその目に視られて軽蔑されたくなかったんだ。」
ぐるる、と宵人の喉が鳴る。そのくらい、とっくにわかっていた。父親は『吸収』という『異能』に何かしらのコンプレックスを抱いていたから。
だけど、寂しかったのだ。1人しかいない父親に距離を取られて、話したいときに話せなかった。こんな歳になって、親に甘えたかったという事実が突きつけられてものすごく恥ずかしい。宵人は何を口に出すのも恥ずかしい気がして黙り込んだ。
「……ごめんな、宵人。死んでからこんなこと言うなんて、本当に俺は駄目な父親だ。」
しょんぼりと肩を落とした真彦。それを見ているとなんというか、落ち込まれるのは違う。宵人は素直になれ、と自分に言い聞かせながら口を開いた。
「……別に。死んですら顔合わせられないわけじゃないんだし、最低ではないんじゃね。」
駄目ということは否定しないんだな。それでも息子の不器用な優しさに真彦は嬉しそうに笑った。
ほんの少し間が空いて、ここが会話の切りどきだと気づく。だけどまだここで父親と喋っていたい。そんな気持ちに駆られもした。しかし、宵人の脳裏に明鈴の顔が浮かぶ。
強い人だ。自分がいなくともやっていけるだろう。だけどそれは帰らない理由にならない。何より、宵人が彼女にもう一度会いたいから。
「……そろそろ俺、帰んなきゃ。一巳にどやされるし、何より、大事な人を置いてきちまった。」
宵人は父親の笑顔を見届けてからそう口に出した。ここに長居するのは良くない。直感的にそう気づいていて、真彦もそれを示すように頷く。
「ああ。大変なときに嫁さんを放っておくと、一生恨まれるからな。」
経験者の言葉は重たい。宵人は小さく笑って父親に背を向ける。
「宵人。」
「なに。」
「……でっかくなったな。」
「…………うん。だって俺、もうお父さんなんだよ。」
「……そうか、そうだな。……宵人、次は、あと100年くらいしてから来い。」
「はは、うん。わかった。」
ゆら、ゆら、と光が出たり入ったりしている。それを瞼で感じながら、宵人は目を開けた。
体が重い。というか、痛い。俺、何してたんだっけ。思考を張り巡らせて、自分が“嘉七”の放出を防いだことを思い出す。
(無茶、し過ぎたな。)
しばらくぼーっと霞む目で天井を眺め、それからやっと、右手を包む温かさに気づいた。誰か、いる。
「……明鈴?」
宵人の右手を両手で握り締めて祈るようにそこに額をつけているのは明鈴。長い髪の毛が投げ出されていて、肩に緩く絡みついている。その毛先がいつもよりも乱れていて。
声に反応した彼女がバッと顔を上げた。目が合って、宵人は安堵して微笑む。
「よかった、あんたは無事で……。」
彼女の手を握り返そうとした刹那、抱き締められた宵人は明鈴の肩に顔を埋めることになる。宵人はえ、と顔を真っ赤にして慌てた。
「ちょっ、あの、明鈴!?」
「どうして。」
しかし、一旦引き剥がそうとした宵人を遮る明鈴の強い声。宵人は固まった。
「どうして、私を置いて行こうとしたのですか。どうして、1人にするんですか。……ッ、私、そんなに強くありません。貴方を失えば、呼吸の仕方を忘れてしまう。どうして……ッ!」
明鈴が泣いている。怒りと共に慟哭をぶつけられて、スッと頭の冷えた宵人はぎゅっと彼女を抱き締め返した。この人は、たぶん1人で耐えていたのだ。失う恐怖と置いて行かれるどうしようもなさに。
一瞬でもあの暗い空間の中で帰ることを躊躇ったことが恥ずかしくなる。この人はずっと待っていた。もうとっくに明鈴の中では宵人は欠けてはならない存在だったのだ。それがひしひしと伝わって、宵人の声も涙で震える。
「……ごめんね、明鈴。俺が浅はかだった。1人にして、ごめん。」
彼の謝罪に頷いた明鈴はそれ以降言葉を発しなかった。ただ、今まで耐えていた分を発散するように泣き続ける。宵人も黙ってそれを受け止めた。
“ラパノス”とは、ギリシャ語でキャベツ。特に意味などない。マスタードが知っていた中で最もそれらしい名前だっただけだ。
話は9年前に遡る。裏と表の境界でいつもギリギリで生きていたゴシップ記者のマスタードは、1つの特ダネを掴む。“杉崎勇気”は杉崎勇気ではなかった、ということを。
“杉崎勇気”による大量殺人については自分よりも何倍も社会的に認められている記者たちがとっくに話題にしていた。
だから、マスタードはその正体などと題した記事を書いて、他人の事情に首を突っ込みたがる下世話な人々から小銭を巻き上げようと画策したのだ。ほんの小銭稼ぎのつもりだった。まさか、その過程で本物を突き止めてしまうなんて想像もしていなかった。
勇気を唆しながら調べていくと、偽物の“杉崎勇気”についてはほとんど何もわからないことが判明する。事件の詳細については局が握っていたし、それを得たとてあの男の正体を突き止めるには至らなかった。
それが、マスタードの欠片ほど残っていたジャーナリスト魂に火をつけたのだろう。
そんなふうに細々とでも勇気と共にラパノスとして活動している間に、4年前の事件が起こる。あれにより、マスタードは手がかりが『特務課』の職員たちの墓に残っているであろうことに気づいた。
彼らの骨は須く黒化していた。まるで炭のようなそれは、“嘉七”の『力』の塊。それだけでも水原壱騎がそうしたように、十分に事は起こせただろう。
だが、欲が出た。ここまでの間に勇気に発現した『異能』、旭兎美の持つ情報、そして“嘉七”の『力』を受け止めることができる『器』。それが揃えば、この『異能社会』にもう一つ、“ラパノス”という権力を生むことができる。マスタードはその支配欲に呑まれたのだ。
ドチャッ。胸の悪くなるような音だった。開いた扉から投げ込まれたのは血塗れの男。肩で息をしている。それが、杉崎勇気であることに気づいたのは少し経ってから。
兎美と忠直は慌てて構える。入ってきたのは見覚えのある男だった。彼は、マスタード。“ラパノス”の幹部である。
「お疲れ様、お2人さん。さあ、鉄は熱いうちに打て、だ。“嘉七”の『力』が残っている間にやってしまおうよ、ボス。」
『力』が残っている?怪訝な顔をする兎美の隣で忠直が険しい表情になる。
実は、先程、兎美が銃を撃つと同時に嘉七の『力』の放出が起こっていた。それを抑えたのは。
「薬は馴染んだらしいな、永坂忠直。」
弾かれたように兎美が忠直に注目する。一巳が懸念していたこと。それが何かしらの現実味を帯びてきているような。
忠直がゆるりと口を開く。いつも通り、淡々とした口調だが、その中に緊張が入り混じっていた。
「……俺に注入された中に、宵人の父親、御厨真彦さんもいた。彼の『異能』は『吸収』。……彼が中にいる今、俺はそれを使用できる。お前を守るために、先程それを使って“嘉七”の『力』を受け止めた。」
それはつまり、忠直の中にまだ“嘉七”の『力』は保存されているということだ。“嘉七”が消滅した今、いずれそれは消えるだろう。でもその前に手を加えられれば。
ゾッとした兎美は警戒を強める。ここにもし、杉崎勇気の『異能』が加われば忠直は封印の礎となり、今までの“さくら”の犠牲だって無駄になる。振り出しに戻されてしまう。
「ボォス、願ってもない状況だ。永坂忠直を封印しろ。あの2人、繋がれていて、今は自由に動けない。チャンスだ。」
マスタードはぐり、と足元に転がる勇気の体を踏みつける。勇気は血を吐きつつ首を横に振った。
「……い、いやだ。お前がおれを利用しているだけだと気づいた今、お前の言葉には……ぐっ!!!」
蹴り上げられてまた血が飛び散る。止めなければ。兎美も忠直も同時に動いた。
「旭、『異能』は使うな。死ぬぞ。」
忠直が伝えてきたことに従って、彼に庇われつつ『異能』の使用は避ける。先程嘉七を消滅させるのに全ての『力』を注いだ兎美は既にかなり消耗しているのだ。
2人で触手をいなしながらマスタードに近づこうとする。しかし、なかなか壁は厚い。肉弾戦だけではこのぶよぶよとした触手たちには効果が薄いらしい。
「無駄な抵抗だな。うざったいだけだ。」
マスタードが呆れたようにそう言う。彼は既にジリ貧状態である兎美に目をつけた。
一際太い触手が兎美に向かって飛んでくる。素早く反応した彼女はそれをいなそうと。
「!!!」
しかし、蹴りは触手の直前で止まる。彼女の前に示されたのは触手に絡め取られた血塗れの勇気。そのまま蹴り上げれば彼に当たる。
「旭!!」
忠直が援護に入るが間に合わない。彼も嘉七の『力』を請け負ったせいで『異能』の使用に制限があるのだ。無駄に使えば、『力』の放出が起こる。
そんな最悪の連続で兎美が触手に絡め取られてしまった。ギリギリと締め上げられ、彼女は呻く。
「……ッぐ。」
兎美と繋がっている忠直もまた動きを止める。マスタードはほくそ笑みながら勇気にもう一度告げた。
「ほら、ボス。早くやらなければ旭兎美が死ぬぞ。優しいボスはやっと解放された女が殺されることには耐えられんだろう?」
勇気の顔が恐怖に歪む。兎美を締め付ける力はどんどん強まっていて、その最中彼女が悲鳴を上げるように叫んだ。
「……ッ、ぁっ、ナオ、さん!!やめて!!!」
彼女の口からこぼれたのは命乞いでも悪態でもなく、忠直の心配。それにはマスタードも勇気も目を見開く。しかし、忠直に注目するには遅かった。
「……死ぬ気はない。“約束”したからな。」
パンッパンッパンッ
銃声が鳴ると同時に忠直の姿が消えた。身構えるマスタード。しかし、銃弾は飛んでこない。では、兎美を鎖から解放するために自殺を図ったのだろうか。だが、それなら死体があるはず。
マスタードは素早く広げていた触手を集結させ、彼の攻撃に構えた。これなら隙はない。遅れをとることは。
「……馬鹿……。」
ズズズ、と兎美に『力』が集まっていく。マスタードはその圧に思わず息を呑む。
「……貴方が死ぬのなら、私も。」
誰にも聞こえないほどの囁き。兎美の目が怒りに揺れていた。
「滅茶苦茶にしてやる……!」
ズゥン、とマスタードも勇気もこの廃教会も、とんでもない圧に押し潰されそうになる。『力』に気圧された触手も動きを止め、兎美を締め付けていたそれは四散した。
「……ぅ、あっ…まだ、こんな……!」
肋をそのままめしゃりと潰されてしまいそうなほど。兎美は冷めた目でその光景を眺めていた。もうみんな、壊れてしまえ。忠直がそれを選ぶのであれば。左手に繋がる小さな重み。その正体が彼の手首であることにいち早く気づいた兎美はもう。
『旭さん。』
しかし、脳味噌を直接揺らす優しい声。兎美はハッと正気に戻り、自分の『異能』が中から止められたことに気づく。宵人だ。内部にまだ彼の『力』が残っていたのだろう。兎美が命を捨てるギリギリで彼が止めた。
ふらり、と膝をつく兎美。ドク、ドク、ドクと嫌な感じに心臓の音が鼓膜を揺らす。具合が悪くなって、意識を保っていられない。
ブンッ
そんな彼女を触手が嬲った。べしゃ、と呆気なく倒れる兎美。また、絡め取られてしまう。
「くそッ、ふざけやがって!!!男はどこへ行った!言え!!!」
肋を折られてひゅー、ひゅー、と不快な音を立てて息をしながらマスタードが兎美を締め付けた。しかし、彼女に反応はない。もう、どうにでもなれ、という顔だ。
ふざけやがって。マスタードは更に力を強める。べきょ、と嫌な音。兎美のどこかの骨が折れて彼女が苦痛に呻いても止まらない。
「言わないなら今更お前に用はない。死ね。」
グッとマスタードが拳を握った。
ヒュンッ
小気味いい風切り音が鳴った。その瞬間、場を埋めていた触手たちが一斉に細切れになる。ボタボタボタッと落ちるそれらを見ながらマスタードが構えたそこに杷子の蹴りが入った。
「ッ、兎美さんを!!」
彼女が叫ぶと同時に地に落ちようとした兎美を受け止める影。一巳だ。
「……ああ、クソッ。」
兎美の容体を見て、彼は苦々しげにそう言った。
「旭さん、旭さん、わかりますか?早岐です。課長から連絡を受けて来ました。」
腕の中の兎美は虚ろな目をしている。それでも一巳が呼びかけるとピクリと反応を見せた。
「課長、どこにいるかわかりますか?あの人もギリギリのはず……ッ、それは!?」
一巳が話す最中、兎美は自分の左手をぐい、と引いた。そこに繋がっている土と血に塗れた人の手首。それが忠直のものだと気づいた一巳は最悪の事態が頭によぎって吐きそうになる。
忠直は自分の右手を撃ったのだ。兎美から解放された彼は1人で抵抗するのは悪手だと判断し、一巳に連絡を入れた。そのときもかなりギリギリの声だった。それから先の消息はわからない。
「私、行かなきゃ。」
呆気に取られる一巳の腕から逃れて、兎美はそれを抱えてずるずると足を引きずりながらどこかへ真っ直ぐ向かう。
そこに、触手が。
「邪魔、すんな!」
一巳は銃を構えながら兎美に寄り添う。彼は彼女の向かう先にいるのだろう。よく見れば、血の跡が点々とある。
彼女の足では遅い。手遅れになっては困る。一巳は兎美を抱え、その跡を辿った。だんだんと血は新鮮な赤に近づいていき、そして。
「……うっ、ああ……。ナオ、さん。」
兎美は思わず呻いた。そうせずにはいられなかった。
忠直は嘉七がいた場所に背中をもたれかけさせ、肩で息をしていた。触手の攻撃を避けられなかったのか、壁には亀裂と忠直が打ちつけられた跡。肌に滲む脂汗。右腕の先はなく、そこから見たことのないほど大量の血が流れ出ていて。
一巳がそっと兎美を下ろす。彼女はボロボロの体で忠直に駆け寄った。
自分で止血を試みた形跡はあった。だけど、片手では上手くいかなかったらしい。投げ出されたその後を引き継いで、兎美は血に塗れるのも厭わずに彼を自分の膝に寝かせるように抱いた。止血の最中、忠直の目が、薄っすらと開く。
「……ッ、うっ、ナオさん。やだ、止まってよ。なんで、こんなに、血が。」
ぼたぼたと兎美の涙が忠直の頰を濡らした。それに反応して、ゆっくりと忠直の右腕が上がって空を切る。いつもなら届いていたのに。
「……駄目、か。もう、お前の涙も、拭って、やれない。」
小さくて乾いた笑み。忠直の霞む視界の中に兎美の泣き顔が写る。
「ナオさん、行かないで。行かないでよ。私、もうどこにも行かないから。あなたの傍にいられるんです。だから、どうか。」
涙でぐしゃぐしゃだ。折角綺麗なのに。カサつく唇ではそんな軽口も吐けない。忠直は情けない、と顔を顰める。
「……泣くな、よ。おまえの、笑顔が、すきなんだ。」
彼は甘えるように兎美の腹に擦り寄った。それに呼応して、兎美は震える手で彼を抱き締める。
「…………おれは、お前のことがすきだよ、あさひ。だから、どうか。」
小さな声だった。掠れて、それでも絞り出された彼の最後の告白に、兎美は耳を寄せる。その顔には下手くそな笑顔があった。
「……どうか、しあわせに。」
忠直は、兎美の笑顔を見届けたように目を瞑る。その瞬間、また堰を切ったように兎美は慟哭した。
「……ッ、私、あなたと、あなたとじゃないと意味がないの。あなたが隣にいないと、生きたいと願った意味がない……!」
絞り出すように呻いて、ぐしゃぐしゃになってしまったその顔を忠直の胸に埋めた。
「ナオさん、好きです。大好きです。もう、何度だって言えるのに。聞いてよ、お願い。行かないで!」
彼の心音が遠ざかる。どくどくどくと血の流れる速度に合わせていたはずのそれが、緩慢になっていて。
「やだ、やだよ。ナオさん、あなたのことが好きなの。どこにも行かないで。私、あなたと幸せになりたい。」
子どものように泣いても忠直の目が開くことはない。胸を抉られたかのように苦しかった。次第に彼女はぐぅぐぅと喉の奥からひどく泣いた後の音を出すだけになって。
限界が来て気を失ってしまった彼女を一巳がそっと忠直から引き剥がした。兎美も、要救護人だ。せめて、この人だけは。
「ナオ!!!」
そのとき、悲鳴のような声を上げて惣一が駆け寄ってきた。彼は一巳の横をすり抜けて円に守られるようにしていたのを離れて忠直の傍らにしゃがんだ。
「榊先生、課長は、もう。」
出血が多すぎるだろう。一巳は落とした声色でそう言った。
「……いや、絶対に助ける。それが俺の役目だ。誰にも否定させない、俺の仕事。」
彼の気配に呑まれた一巳はそれ以上は何も言わず、兎美が抱えて離さなかった忠直の手首を惣一に預ける。いつもの柔らかい雰囲気からは信じられないほどの気迫だ。
「2人が無茶しても繋ぎ止めるのが俺なんだ。ナオと旭ちゃんが幸せになれない未来なんていらない。」
その言葉にハッと息を呑んだ一巳も同意するように頷いた。
かくして、長く続いた因縁は終結した。見届けるように桜は緑に色を変え、また、新たな季節を目指して。