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Heart  作者: 洋巳 明
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プロローグ 春の訪れ


 カタカタカタカタ。タイピング音が静かな事務所に響いている。カタカタカタカタ、と滑るようにディスプレイに文字が打ち込まれていく。

 すっかり慣れてきてしまった手順で綴っていくのは報告書。内容は。


「永坂、おつかれ〜!」


 忠直は後ろから肩に腕を回されてハッとする。懐かしい声。あわてて振り向くとそこには。

「……御厨さん。」

 随分と懐かしい顔だ。御厨みくりや 真彦まさひこ。宵人と隼人の父親で、忠直の入局当時は彼が主任であった。新人の教育係も担っていた彼にはかなり世話になったものだ。

「どうした?お化けでも見たような顔して。はは、新人には相応しくない疲れ顔だ。」

 へにゃりと笑うその顔は。既にここが夢だと気づいていた忠直は目を細める。宵人は雰囲気が父親に本当によく似てきた。

「岸さんは容赦がないので。」

 夢の中の自分は勝手に口を開く。懐かしい。岸との稽古を終えて再びデスクに向かうことはよくあった。これがいつのことかはわからないが、わりと仕事に不慣れな頃である感じがする。この程度の報告書なら、今は数分もあれば大体の骨組みはできているから。

「永坂は鍛え甲斐あるからな。それに岸は楽しいんだよ。あいつのところ、娘しかいないし。」

 岸と真彦は確か同期だったはずだ。ついでに親交も深く、彼らはよく飲みの体でお互いの情報を共有していた。相棒関係にも近かったかもしれない。

「反対にうちには男しかいねえけどな。ははは、むさ苦しいことこの上ない。だが、まあ、宵人は随分と柔らかく育った。」

 忠直の隣のデスクに尻を置きながら真彦は実に嬉しそうに勝手に息子のことを話し始める。忠直も少し微笑みながら彼の声に耳を傾けた。

「あいつな、大学目指すんだ。保父さんになりたいって、優しいあの子らしい。」

 上司は父親の顔をしている。そういう顔を息子に正面から向けてやるべきであった。

 大人になった宵人の真彦の印象は背中姿になってしまっていて、それはどちらにも恩がある忠直にとって少し切ない。お前はきちんと愛されていたんだぞ、と自分が言うべきではないことを口走りそうになるほど。

 この光景をぼんやりと客観的に見ながら、今の忠直は感傷に浸る。

「永坂、もしあいつから相談を受けたりしたら、局直下の保育所なら人手も足りていないし、その目があればたくさんの子どもたちの力になってやれるって話してやってくれないか?宵人はお前のことを慕ってる。」

 真彦のこういう不器用さはたぶん、隼人の方が似てしまった。今であれば呆れ顔をしつつ、何かしら言えていたかもしれないが。

「宵人が求めてるのは父親の言葉ですよ。」

 上手い配慮などできないこのときの自分は不躾にも真っ直ぐにこう返したのだ。真彦は、情けなさそうに気まずそうに笑って。


「求められても、俺にはもう無理だから。」


 その言葉に夢の中で曖昧に浸っていた心地よさがスッと冷える。忠直は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 パキパキッと真彦の体に日々が入る。割れた隙間からどろりと黒い何かが流れ始め、不気味に彼は笑った。

「お、おれは、むすこに、もう、あえない。」

 がぼがぼと胸の悪くなるような音。黒い泡と共にの口から言葉が溢れる。それは最早彼の声ではなかった。

「なが、さか、おれは、おれはおれはおれは……。」

 最後の方はもう言葉として聞き取れない。忠直は自分の意識が肉を持ち始めた気配を感じて、苦く笑った。

「……久しぶりの邂逅くらい、幸せなものでありたかったよ。御厨さん。」


 ぱしゃ、と。床に落ちる水の音で目が覚める。ワイシャツにじわ、と液体の染み込む感覚と冷たさ。どうやら意識を失っていたらしい。

「おはようさん、永坂忠直。」

 水の滴る前髪をグッと掴まれた。だんだんと明瞭になる視界に映るのは派手な化粧をした女の顔。毛先だけを紅色に染めていて、不自然なほどにくびれた体に黒い治安の悪い服を纏わせている。

「こんな状況でも寝れるなんて、その神経が羨ましいぜ。」

 彼女は忠直の指先を自分の爪でぐり、と押した。彼の指に爪はなく、女の爪で傷つけられたことによって露出したピンク色のじゅくじゅくした皮膚から粘液が染み出す。忠直は小さく呻いた。

「うなされていたようだが、そろそろ旭兎美のことを話す気になったか?」

 女の、カラコンやら何やらで取り繕った目が忠直を見据える。しかし忠直の目は彼女を見つめ返さない。彼はどこかに意識を飛ばしたような虚ろな目をしている。

「…………フン。相変わらずだんまりか。」

 女が白けたようにそう言って忠直から体を離す。彼女は部屋の一角に移動して、様々な器具の置かれた作業台の前で何かをいじり始めた。

 ここは狭い正方形の部屋。忠直はその真ん中で椅子に縛り付けられていた。ドアが正面にあって、その向こう側には監視の人間が立っている。部屋の中には忠直の他に先程の女しかいない。実に無機質な拷問部屋。

 かちゃかちゃと金属と器具の当たる音。今日もまた、始まる。忠直はどこか疲れた顔で女の背中を見つめていた。

 そのとき、不意にドアが開く。薄暗い部屋の中に少しだけ明るい光が差し込んだ。

「失礼。ミリン、ちょっといいか?」

 男の低い声。鼻歌混じりに作業をしていた女はミリンと呼ばれているようだ。彼女はあ?と不機嫌な声を出してドアの方に向かう。

 2人はその場で何かをこそこそと話し始めた。途中でミリンが目を見開いて、それからニヤッと笑う。その表情に忠直がピクリと反応した。

 ドアが閉まり、男が去っていく。それと同時にミリンは忠直の方に向かってきた。彼女の持つトレーの中にはシリンジとアンプルと脱脂綿。

「今日の分だ。……嫌なら、さっさと吐けよ。そうすりゃ楽になれるぜ?」

 じっとトレーを見つめている忠直。ミリンの言葉に対する反応はない。つまんね、と舌打ちをしたミリンは投薬の準備をしながらどこか楽しそうに口を開いた。

「どうせ報われねえって。どれだけてめえが旭兎美のことをひた隠しにしようと、その女は戻ってくる。それが、運命だから。」

 忠直に表情の変化はない。ただただミリンの言うことをなんでもない顔で聞き流しているようだ。だが、それをどこまで保っていられるか。ミリンの口角が吊り上がった。

「お前が吐かないなら本人に訊いてもいいんだぞ。俺は男でも女でも楽しめる性質だ。じっくり可愛がってやる。」

 纏わりつくような甘い声。だけど、それがいくら耳に絡みつこうとも忠直は動かない。

 アンプルの中身がシリンジに吸われていく。その透明な液体は信用してはいけない気配を放っていた。

「それに、ククッ、折角お前が身代わりになったってのにな。クククッ、可哀想だよ、お前。」

 堪えられないというように笑い声を漏らしながらミリンはニヤつく。その表情に何かしらの違和感を感じた忠直が顔を上げた。


「お前が守ったはずの榊惣一な、死んだぞ。」


 忠直は目を見開いた。さすがに驚きを隠せなかったらしい。

「さっき報告が入った。あーあ、お前の犠牲は無駄になっちまったなあ。」

 挑発するための神経を逆撫でするミリンの声。目を伏せた忠直は、痛みに耐えるように眉間に皺を寄せてそっと目を瞑った。

「せめて、お前も死ぬ前に旭兎美の顔くらいは見てえだろ。知ってること洗いざらい話せば解放してやる。嘘じゃねえ。ほら、ちょっと待ってやろうか?」

 アルコールで湿らせた脱脂綿で腕を拭われる。そこに針先をあてがわれて、そのままミリンは忠直が口を開くのを待つように止まった。忠直はそれに反応して顔を上げ、ミリンを見る。

「……お前たちに話すことは何もない。」

 言い終わるか終わらないか。針は容赦なく忠直の腕に刺さった。ミリンは苛立ったような表情で無理矢理口角を上げる。

「ああそうかよ。聞き飽きたぜ、その言葉。」

 内容物が流れ込んだ途端、忠直の腕に激痛が走って彼の額に脂汗が浮かぶ。びくんと固定された腕が震えた。体の内側から割られるような感覚。忠直は歯を食いしばった。

「……ったく。ここまで口割らねえとは面倒だな。なら榊の次はあいつだ、早岐一巳。あいつ連れてきてお前に洗いざらい吐かせた後、目の前で殺してやるよ。」

 トレーにシリンジを置いたミリンは忠直の頬を捕まえて自分に視線を向けさせる。彼女はイラついているようだ。

「ムカつく顔だ。はー、さっさと殺してえ。」

 ミリンが睨みつけていると、ついぞ、忠直の顔から感情が消える。脂汗と苦しげなひゅーひゅーという呼吸音だけが先程の投薬による激痛を表していた。

「……けっ。」

 乱暴に解放された忠直は顔を顰める。彼のその反応をつまらなさそうに流すと、ミリンは手を拭いてトレーを片付けた。慣れたその仕草は今日のこの時間の終わりを示している。

「じゃあまた明日な、永坂忠直。」

 そう告げて出て行くミリンと入れ替わりに監視の男が2人入ってくる。

 椅子の拘束が解かれ、忠直は素直に立ち上がった。いつも通りの流れ。すっかり慣れてしまったそれに眉一つ動かさない。

 部屋を出る前に目隠しをされて、ひたひたと冷たい廊下を歩く。これも、いつも通りの。

 だが、そのときふと、忠直の頬を柔らかい風が撫でた。誰かが窓を閉め忘れていたのだろうか。そちらに顔を向けると、真正面から春の風を浴びることになる。

 たった一瞬のことだったが忠直は久しぶりの外の気配に目を細めた。

「……すみません、1つ訊いても?」

 返事はない。だけど彼は細く掠れた声で続けた。

「今一瞬、春の匂いがした。桜は、もう咲きましたか?」

 やはり返事はない。しかし、忠直を連れている2人は変わった質問だなと思った。


 窓などここにはないのだから。

 

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