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宴の終わりと最後の祝福




さぁさぁと、夏の終わりの静かな雨の降る日の事だった。


窓から床に投げかけられる影は青灰色で、その中を落ちてゆく雨の筋が不思議な影絵のよう。


ゆっくりと暮れてゆく最後の夏の艶やかさは抜け落ち、どこか詩的で悲しげな空気の温度には、既に秋の気配がする。

窓から落ちる陽光は頼りなく、その向こうに広がる深い森は、静かな影の中に沈んでいた。


窓辺の飾り棚に置かれた月光水晶の花瓶には、オルディアがもじもじしながら持って来た、淡いラベンダー色の薔薇が生けられている。


花を貰うのは初めてでびっくりしてしまったが、ふっくらと咲いた美しい花の馨しい香りに、アンディエールはすっかり夢中になってしまった。

ついつい四回もお礼を言ってしまい、庭園いっぱいの薔薇を摘んで来ようと張り切ってしまったオルディアを、慌てて叱ったところだ。



「…………今日は、随分と激しく降りますね。嵐が近いのでしょうか?」

「お化け岩魚の機嫌が悪いようだ。勝手にこの森に住み着いてしまって困っているのだけれど、どこかに、網にかかった最後の一匹を川に返さなかった者がいたのだろう。約定を損ねられたあの祟りものにも、災いになるだけの権利はあるのかもしれない」

「まぁ、そのような事で生まれるものなのですか?」

「水辺の系譜の者達が、乱獲を戒める為に敷いた魔術の理なんだ。けれども、そのせいであのように狂う羽目になった岩魚は、果たしてどのような気持ちでいるのだろう」

「それが、気になってしまうのですね?」

「不思議だね。君に羽の庇護を与える迄、僕はあの祟り物を哀れだとは思っていなかった。でも今は、…………そういう事が少しだけ、分かるようになった気がする」



伸ばした手のひらをじっと見つめ、淡く微笑んだ妖精の王様は、酷く無防備な目をしている。


そうして動かす心があるのなら、きっとオルディアは、元々優しい妖精でもあったのだろう。

けれども、自分事として知らず意味や形を成さなかった心の動きが、沢山あったのかもしれない。

アンディエールと出会ったからというだけではなく、そんな自分の心の内側に踏み込んでみたからこそ、オルディアは様々な感情を知りつつあるのだろう。



(贄ではなく、妖精の側の視点を持つことを許されて初めて、私は、この人が立派な王様である事を知った…………)



オルディアの羽の庇護を受けてから、アンディエールにも学ぶべき事が沢山あった。


どこに立ち、どの角度から物事を見るのか。

そして、線引きのどちら側から心を動かすのか。

そんな事でくるりと変わる視点を与えられれば、どうしてアンディエールの祖国が滅びたのかも見えてくる。



最初からオルディアは説明してくれていたが、それはやはり妖精の側の意見で、人間が理解するのに必要な言葉が足りていなかったのだ。



(魔術の上で結ばれた約定を破れば、その災いは破棄した側に降りかかる。だからこそオルディア様は、王としてその履行を躊躇いはしなかったのだと、私は、妖精達の事情も知る事が出来た)



とは言え、長く親しんだ隣人を食べてしまうのだから、妖精はやはり、残忍で獰猛な生き物だ。

だが、妖精達がどんな約束であれ約定そのものを重んじるのは、魔術の結びから派生する妖精が、他の種族の生き物達よりも、魔術のしきたりに逆らえない繊細な生き物だからなのだとは、これ迄知らなかったのだ。



「だからこそ妖精は、他のどんな種族よりも別の種族への転属が叶い易い。同時に、他の種族の者達を妖精に作り替えてしまうのも得意だ。でもそれは、この成り立ちが繊細だからだと、覚えておいで。………それもあって、妖精は、魔術の理に抗う事だけでなく、悪変したものや祟りものを嫌うんだ。特に僕達は、森の系譜の者だからね。この身を変質させられてしまうと、もう二度と元の自分に戻れなくなるかもしれない。それは、とても怖い事なんだよ」

「それなら、森のお化け岩魚は本当に厄介な存在なのですね…………」

「うん。でも、彼にだって、時々わぁっと声を上げて暴れたい日もあるんだろう。…………あれ、彼女かな?」

「魚類の性別まではちょっと…………」



ふくよかな香りの紅茶を楽しみつつ色々な話をしていると、雨足が強くなってきたようだ。

こうして降る雨は、お化け岩魚が暴れている印らしく、アンディエールには分からないが、妖精の目には、普通の雨と祟りものの齎す雨との違いは顕著なのだそうだ。


オルディアは、また始まってしまったねと呟き、部屋を出てゆくと、夜までには戻るからねとアンディエールの頭を撫でてゆく。

最近この妖精は、人間は、年長者が頭を撫でるという愛情表現があると知ったばかりで、隙あらば頭を撫でるのだ。


伸ばされた腕の中に収まるようで嫌いではないが、何だかむず痒い気持ちになるので、アンディエールは三回に一回は脱走してしまう。




(きらきらと、きらきらと…………)



空っぽだったアンディエールの手のひらに、綺麗に光って温かいものが、少しずつ降り積もってゆく。

その輝きに目を細め、どれだけぎゅっと抱き締めるかは、アンディエールの自由だった。



今朝のオルディアは、舞踏会の日だよと、青い水面のような瞳をきらきらさせて、美しい宝石を透かしたような光を落とす妖精の羽を広げ、アンディエールを起こしに来た。


呑み込みの悪いアンディエールよりも愛情上手だったらしい彼は、今やもう、森の精霊の侍女達がまた始まったぞという顔をするくらいに、アンディエールを甘やかしてくれるようになった。



そんな時、アンディエールは考えるのだ。



潰えて滅びてゆく王国最後の夜に生まれ、正しい形の愛情を知らずにただお腹を空かせていた自分よりも遥かに、妖精らしい酷薄さは種族特性として持ちつつも、話を聞けば慈悲深く良い王であったらしいオルディアの孤独は、どれだけ寂しく悲しいものだったのかと。



最初から空っぽの箱を渡されたのなら、諦めも付く。

だが、オルディアの持たされた箱には、沢山の素敵なものを詰められた筈だ。

それなのに空っぽのままの箱を見つめ、彼は、アンディエールより遥かに多くの羨望や孤独に晒されてはいなかっただろうか。



そう思う度に、運命が最後に帳尻を合わせてくれたかのように、偶然が重なってアンディエールを拾い上げてくれたこの優しい妖精を、大事に守ってゆかなければと思う。


それは、きらきらと手のひらに降り積もる、アンディエールの大切な宝物で、他の人達はそんな宝物を幾つも持っているかもしれないが、アンディエールの宝物はオルディアしかないのだから。


だからアンディエールは、侍女達を下がらせている間にそっと部屋を抜け出し、とても大切なことを済ませてきた。




そしてその帰り道で、見知らぬ妖精達の襲撃を受けている、オルディアを見かけたのだ。




(…………オルディア様?)



せめてオルディアには気付かれない内に部屋に戻ろうとしていたアンディエールが彼の姿を見付けたのは、注意深く周囲を見回してこそこそしていたからだろう。


けれども、柱廊の交差する中庭の向こう側にオルディアの姿を見付けても、最初は見たものが理解出来ず、目を凝らしてじっと見据えてしまい、それがたまたま誰かが武器を構えたという場面ではなく襲撃なのだと気付き、息が止まりそうになる。


ぎらりと光った剣先に血の気が引き、アンディエールは、叫び出しそうな思いを押さえ込んで走り出した。

ドレスのスカートの裾を持ち上げて全力疾走するアンディエールに驚いた通行人達も、奥の回廊で事件が起きている事に気付いたようだ。



なのになぜ、誰も自分達の王の危機に駆け付けないのだろう。

おろおろとする妖精達を叩きのめしたいけれど、そんな余裕はない。

向けられた剣の先が触れただけでも、あの美しい羽が裂けてしまいそうなのに。



(そんなのは駄目。絶対に駄目!私の宝物は一つしかないのだから、絶対に取り上げたら駄目なのに!!)



じゅわじゅわと心が焦げ付くような恐怖に駆られて走ってゆけば、漸く回り込んだ中庭の向こう側で、アンディエールに気付いたオルディアが、ぎょっとしたように目を瞠る。


そして、そんなオルディアに剣を向け、同じようにこちらに気付いて顔を上げたのは、ヴァシリーであった。



「アンディエール?!」

「け、怪我はしていませんか?!」



勿論アンディエールは、オルディアの側に回り込めるよう、計算した上で左側から駆け付けた。

なのですぐに伸ばされた腕の中に飛び込む事が出来て、大事な宝物がどこも欠けていないかを慌てて確認する。


最近になって読むことを許された物語本では、こんな時、襲われている人に駆け寄るのは大抵が悪手であった。


計画もなしに駆け寄って愛する人を失ってしまう王女の話は辟易するくらいに沢山あったが、幸いにも今のアンディエールは、オルディアが贈ってくれた魔術金庫の腕輪の中に、あの新月のナイフを持っているのだ。

寧ろ、オルディアを傷付けるものなど、片っ端から滅ぼしてくれよう。



「どうして部屋の中にいなかったんだい?!アディ、すぐに部屋に……」

「戻りません!そもそもあなたには、護衛もいないではないですか!剣を向けている妖精が七人もいるのに、どうして一人でいるんですか!!」

「お、落ち着いて。これでも僕は王だからね。このくらいは…」

「よくも私の宝物を脅かしましたね!そんな妖精めは、こうです!!」



オルディアは、慌ててアンディエールを嗜めようとしたようだ。

しかし、怒り狂った人間がここで取り出したのは、後程、誰かに褒めて貰おうという魂胆で持ち帰った獲物の尻尾であった。


さっとオルディアの前に飛び出し、間違って大事な友人兼伴侶な妖精を損なってしまわないように、細心の注意を払う事も忘れない。

ここにいるのは、既にこのくらいの事を想定していた、たいそう疑い深い人間であった。



(でも、事が起こされるのなら、絶対に舞踏会だと思ったのに!!)



とは言え大事なところで予測を外してしまったのだから、まだまだ未熟なのだろう。

離れている時にオルディアを狙われるのなら、昨晩の内に、ヴァシリーの部屋にちくちく草の種でも放り込んでおけば良かった。



「…………っ、アンディエール?!危ないから下がろうか!」

「いいですか、私の大事なものに悪さをしたら、これを投げつけますよ!!或いは、隠し持ったナイフで、その羽を切り落とします!」



次の瞬間、襲撃者達にたった一人で囲まれながらも冷静さを失っていなかったオルディアが、茫然と立ち尽くしたのには理由がある。


アンディエールが腕輪の金庫の中からずるりと引っ張り出したのは、仕留めたてほやほやの、お化け岩魚の尻尾だったのだ。


尻尾だけとは言え、アンディエールの腰くらいまで大きさはある。

可憐な乙女の手には重過ぎる代物だが、そんな獲物を持ち帰れるよう、これ迄鍛えてきたのだ。

アンディエールよりも遥かに大きな祟りものを倒す為に己に課した鍛錬は、その程度の事は軽々とこなせる強靭な体を育てていた。



(今夜迄にはと思っていたけれど、間に合って良かった!)



アンディエールが初めて大々的にお披露目されるのは、森の妖精達が宴の輪を閉じてこの地を去ると決めて行われる運びとなった、今夜の舞踏会である。


あれはきっと何かしでかすぞと、常々ヴァシリーの動向も警戒していた人間は、他の妖精達の心象を良くするべく、その時迄に少しでも自分の価値を高める成果を得ておこうと、作戦を実行に移してしまったのだ。


きっと、アンディエールを大事にしてくれているオルディアは反対するだろう。

それが分かっていても、どうしても譲れなかった。

何しろアンディエールは、手の中のものを失いたくないと考える贅沢を得られたのは、初めてなのだから。



元々は、そんなお化け岩魚を食べて己の体を変質させる事こそがアンディエールの目的であったが、妖精は自分達を助けた者に報い、素晴らしい祝福を与えると言う。

であれば今度は、そんな祝福目当てで、妖精達を困らせているお化け岩魚を倒そうと思ったのだ。


「…………これ、お化け岩魚の尻尾だよね?!」

「倒したてです」

「ええ?!倒しちゃったの?!一人で?!」

「その為に、日々戦いに備えて研鑽を積んできたのですから、当然の結果でしょう。所詮相手は、にゃんこ耳があって陸地で直立して暴れる程度の、巨大魚類なのです」

「……………異種族の耳を持っているのは、悪変が進んで合成獣になっているからだし、僕にも排除出来なかったんだよ」

「まぁ、掴んだお塩をかけたら、一瞬にして弱りましたよ?後はもう、地面でびちびちしている魚類めを、ナイフでバラバラにするだけでした」

「バラバラに……………」



唖然としているのはオルディアだけではなく、アンディエールが大騒ぎしたせいで集まった妖精達も、一人で森の祟りものを狩ってしまった人間の告白にざわついている。


感謝や称賛だけではなく、怯えすら入り混じった畏怖の眼差しをこちらに向けているが、アンディエールとしては、成すべくして成したという程度に過ぎない。

ほらこのように、あなた方の王に相応しい力を示したぞと胸を張るばかりだ。




(だってそれが、私の願いだったから……………)




誰かに省みて欲しい。

愛してくれる者は勿論だけれど、それよりもまず、愛する者が欲しい。

贄として残された自分がそう願うのは、愚かな事だろうか。



取り立てて美しくなく賢くもない少女を、そうして拾い上げて慈しむ者はいないのかもしれない。

だがもし、誰かが大事にしてくれるのなら、私だってあなたを大事にしよう。

そう考え、小さな欠片のような希望を胸に抱いて、アンディエールはここまで生きてきた。


健気でも清廉でもなく、とても冷淡で身勝手な人間だが、そうして誰かを大事に大事に愛してゆけば、この個性も物語もない一人の人間だって、少しは良い人間になるだろう。



ずっとずっと、そう思ってきたのだ。



だから、待ち焦がれて与えられた大事なものを守る機会を、強欲なアンディエールが逃す筈もない。


とうとう、この空っぽの腕にしっかり抱き締めてもいい宝物がやって来たのだから。

だからこれは、絶対に守るのだ。

それはオルディアの為ではなく、アンディエールがやっと手にした最高の贅沢である。



「私がやっと手にした宝物を、よくも傷付けようとしましたね!まだ若干、伴侶なのか以前に友達とは何なのかすらよく分からない関係性ではありますが、でもこれは、私の大切な物なのです!宝物なのですよ!!」



怒りが収まらない人間からぶんと投げつけられたお化け岩魚の尻尾に、ヴァシリーは、真っ青になって素早く後退る。


だが、近くにいた武器を構えた数人の妖精達は、逃げ遅れてその尻尾が当たってしまい、きゃぁっと悲鳴を上げると霞のようなものになって消えてしまった。



「…………当然の報いです」

「よしよし、もう僕は大丈夫だからね。と言うか、王である僕を、彼等が損なう事は元々出来なかったんだよ。……………それより、その手を拭こうか。………うん、どこも怪我はしていないね。………はぁ、君が無事で良かったよ。どうかもう、無茶なことをして僕の寿命を縮めないでおくれ」

「………なぜ、私が叱られているのですか?」

「え、まだ怒ってるの?!…………ええと、誰か食べ物は持っているかい?………ほら、アンディエール、美味しい無花果の焼き菓子があるよ?」

「……………やきがし」

「これを食べる為に、まずはあの魚を持っていた手を魔術洗浄しようか!それから、もう二度と、一人で危ない事をしてはいけないよ?おっと、焼き菓子は手を綺麗にしたらあげるから、取ろうとして暴れないでね?!」



襲撃なのは間違いなかったようだが、どうやら、彼等にはオルディアを傷付ける事は出来なかったようだ。

けれども、アンディエールにはそれだけでは許せない理由がある。


武器を手に同族である妖精達に取り巻かれ立っていたオルディアの瞳が、どれだけ悲しそうだったか。

その寂しそうで悲しそうな瞳を見た途端、アンディエールはわぁっと声を上げて暴れたくなった。

ヴァシリーにだって、事情があり、彼なりの悲しみもあるだろう。


けれどもそれは、所詮アンディエールの心の外側なので、知った事ではない。




「さて、先程は話が出来なかったけれど、君が僕を傷付けようとしているのは知っていたよ。でも、今の僕にはこの子がいるから、その刃を受け止めてあげる事は出来ないんだ」



伴侶を落ち着かせ、オルディアはヴァシリーに向き直る。

手に持っていた剣はもう下ろしていたが、ヴァシリーの緑柱石の瞳には、ぞっとする程に深い憎しみが浮かんでいた。



「…………例えシーでも、妖精王を傷付ける事は出来ない。それは、我々が森を司る者であり、覆せない事は知っていた。それでも、…………あなたの目や腕くらいであれば、削り落とす事が出来たでしょう」

「それでもと僕に剣を向けたのは、君が、………愛する者を自らの手で喰らわなければならなかったからかい?」

「……………あなたのせいだ。あなたが人間達と交わした約束こそが、俺の手から彼女を奪った」



ヴァシリーのその言葉に、また周囲の妖精達がざわりと揺れる。

美しい瞳に涙を浮かべて肩を寄せ合う愛し子達は、寵愛を与えていたヴァシリーの味方なのだろう。

責めるような瞳をこちらに向けたので、アンディエールは、必要であれば、腕輪の金庫の中に残してあるお化け岩魚の頭を投げ付けるつもりだった。



ふうっと、深い深い溜め息が落ちる。

それはとても悲しそうで酷薄で、ああ、これが妖精なのだなと思わせる美貌の翳りを帯びていた。

アンディエールの隣に立ったオルディアは、僅かに微笑んだだろうか。



「馬鹿な妖精だね、君は。それなら、彼女を失いたくないと、僕に望めば良かったんだ。僕達は家族などではなかったけれど、同族には寛容なのが妖精なのだから、そう言われたなら僕はきっと、同族の望みに応えるべきだと思って、君の為に抜け道を探しただろう。でも君は、その女の子の為に何もしなかった」

「言うのは簡単ではないですか!王であるあなたが決めた契約だ。それを、俺に破ってみせろと?」

「そうだね。大切なものなど何もない、誰も愛せなかった僕が決めた契約だ。君は、僕が誰も愛さないと知っていたのに、そんな約定に君の愛する者を預けたのかい?」

「…………っ、それはあなたが王だからこそ言える言葉ではないか。俺達の苦悩を知らず、簡単にそのような事を……」


苦しげに顔を歪め、ヴァシリーはそうオルディアを責める。

けれどもアンディエールは、隣の妖精の気配が、ふっと冷ややかになったのを感じた。



「君だけだと、思うかい?あの約定で失いたくない者達がいたのは、何も君だけではない。そして彼等は、僕にそう言いに来たよ。………ねぇ、ヴァシリー。僕は、君達が望めば何でも与えてきた。美しい城を建てる為にと、僕の瞳が欲しいと言われた時にもすぐにあげただろう?」


そう問いかけた声音の寄る辺なさに、アンディエールはむかむかする。

この妖精達は、そんな風にオルディアから色々な物を与えられ、そのくせにオルディアを一人にしていたのか。


だが、ヴァシリーはそう言われても、己の行いを恥じている素振りはなかった。

それどころか、ぎらぎらとした憎しみの目でこちらを見ると、ますます声を荒げる。




「その娘を使って、あなたには、庇護を与えた者に殺される苦しみを知って貰うつもりだった」

「……………そのようだね。だからこそ君は、私が示したようにこの子を守ってはおらず、惨めな思いをさせて妖精達を憎むようにと育ててきた。それで?こんな事を告白してどうするつもりだい?より罪を重くしたいのかな」

「……………だからこそです。だからこそ、その人間の娘は、きっとあなたを裏切るだろう。あなたが今更愛を得たと言うのなら、それはいずれ、同族の憎しみを忘れずにあなたを滅ぼすものだ。その時になって、俺の苦しみや絶望を理解すればいい」



(…………この人は、何を言っているのだろう)



あんまりな言い分に、アンディエールは唖然としてしまった。


そもそもアンディエールは、同族だという人間を知らないのである。

である以上、そこには思慕の念など抱きようがない。

ましてやオルディアは、やっと見付けた大切な人で、その伴侶となったアンディエールは、これから徐々に妖精へと体を作り替えてゆくところである。




「まぁ。人間に会った事もない私が、どうして人間の為に、やっと得られた大切な方を傷付けねばならないのです?」


だからと思わずそう言えば、ヴァシリーは信じられない物を見るかのようにこちらに顔を向けた。



「……………なん、だと?」

「当然ではありませんか。私が恨みを抱くとすれば、それは寧ろ、ずっと意地悪な婚約者であったあなたなのです。妖精の作法しか知らない私は、約束を破った人間達が食べられてしまったと聞いても、そうなるのかなと思うぐらいでしょう。もし、あなたが私を復讐の道具にしたかったのであれば、あまりにもやり方がお粗末だと言わざるを得ません。人間は、よく知りもしないものの為には、己の心を割きません。私が何かをするとしたら、それは、私自身の為なのですから」

「……………であれば、裏切られるのはお前か。妖精と人間など、所詮上手くいく筈がないのだ。俺の愛した女も、やはりあの約定に触れたではないか」

「やはり……………?」


それはもう、自分が上手くいかなかった苛立ちをこちらにぶつけているだけなのではと遠い目になったアンディエールを、オルディアがそっと腕の中に収める。


「どうかな。僕は我が儘で強欲だから、君とは違うと思うよ。やっと愛する者を見付けたんだ。手放すつもりなどないし、傷付けたり怖い思いもさせたくない。でも僕は妖精だから、彼女の事が分からなくて沢山仕損じるかもね。だからせめて、そうならないように、この子と沢山の話をしよう」



だから、君はもういらないよと、美しい妖精の王様は微笑む。


その美しさは隣に立ったアンディエールですら竦み上がるような恐ろしさで、森というものが、決して穏やかで優しいだけの存在ではないのだと、全ての者達に知らしめるかのよう。


向かい合って立ったヴァシリーもそんな妖精の王族の一員である筈なのだが、彼は、微笑んだオルディアを見つめてがたがたと震えるばかりであった。



「妖精は狡猾で執念深い。君はいつか、それが僕の所為で、だから僕もそうあるべきだと言って、この子を傷付けるかもしれない。僕はとても身勝手で残忍な妖精だから、そう思うだけで我慢がならないんだ」

「俺は、…………」

「そんな事はしないと言うつもりかい?でも、そうはならなかったからこそ、君はこの子を使って、宴の片隅でずっとナイフを研いでいたのだろう。であればこれからもいつだって、君は同じ理由で僕を憎む筈だ。…………それがね、今の僕にはもう分かるんだよ。本当に馬鹿だね君は。君にとっての誰かが、僕にとってのアンディエールのように、こんなに大事なものだったのなら、どうしてそれを守ろうとしなかったんだい?」



その静かな問いかけに、がくんと膝を突いて床に蹲ったヴァシリーの啜り泣きが聞こえてくる。



(多分この人は、ずっと人間の恋人の愛情を、疑っていたのではないだろうか…………)



アンディエールはふと、そんな事を考えた。

先程、ヴァシリーは、やはりという言葉を口にした。

どこかでその愛情や信頼を疑い、二人の間の結びが完全ではなかったからこそ、彼は禁を犯した恋人を許せなかったのではないだろうか。


裏切られたような思いで突き放してしまい、失ってからとても後悔したのかもしれない。



(でもそれはやはり、あなた方の問題なのだ)



そう考えてしまうアンディエールは、冷たい人間なのだろう。


そして、ヴァシリーの恋人とは違い、家族も国も失ったアンディエールは、そもそもがどこにも行けない。

だからきっと、オルディアとヴァシリーと、自分が喪った者との間にあるこの条件的な不公平さを、いつかきっとヴァシリーは憎むだろう。



あなたは持っているのに、どうして私はと。



長い長い間、このお城の妖精達を羨み続けてきたアンディエールが言うのだから、きっと間違いはない。

心の中に育ててゆく孤独と羨望は、その輪から抜け出せるまで引き剥がせない頑固さで、どのように生きたいかなどという子供染みた小綺麗な願いなど、簡単に吹き飛ばしてしまう程に獰猛なのだ。



「今夜の舞踏会が終わったら、君はここに置いてゆくよ。もう、僕達の国への門は閉じてしまうから、君が妖精の国へ戻る事は二度とないだろう。さすがに僕も、数百年も地上で宴を開いていたから、この後は暫く、国で真面目に働かなきゃだからね。…………ねぇ、ヴァシリー。ここで君を殺してもいいけれど、君はもう少しだけ、ここで探してみるといい。僕だってやっと見付けられたくらいなのだから、もしかすると君も、また何かを見付けられるかもしれない。連れて帰れないお客人達は残してゆくから、彼女達と一緒に暮らしてもいいし、地上で暮らす他の妖精達に会いに行くのもいいかもしれないね」

「…………はは、甘いお方だ。ここに残された俺が、あなたへの報復を企むとは思わないのですか」

「思わないよ。なぜなら、この先の、君と僕達との時間は違うからね」



そう言うなり、オルディアはヴァシリーの羽を掴み、いとも簡単に毟り取ってしまった。

ぎゃあっとひび割れた声で悲鳴が上がり、アンディエールは、オルディアの腕の中で思わず後退ってしまう。


背後に控えた他の妖精達も怯えたように息を呑み、近くにいた愛し子の中には、真っ青になって倒れてしまった者もいた。



「羽だけではなくて、妖精の資質も奪わせて貰った。これで君はもう、僕達とは違うものだ。…………もっと早くに自分でこうすれば、僕がここに暮らしていた人間達に示した約定からだって、簡単に逃れられただろうに。どうして君は、あの時にそうしなかったのだろうね?…………あの夜、お気に入りの人間達を連れて、自ら羽を落として森を出た妖精達が何人かいた。それを知らなかった筈はないのに、選べず失った愚かな男だ」



そう呟いて悲しそうに微笑むオルディアの横顔に、アンディエールは小さく息を呑む。



(…………かつては知らなかった事を、そうして知ってしまったから、悲しいのだろうか)



もし、王国の滅亡の夜にオルディアが今と同じ心を持っていたのなら、彼は、愛する女性を森苺にして食べてしまおうとしたヴァシリーを叱り飛ばして、その羽を奪って森から追い出したのかもしれない。


この優しい妖精王は、ヴァシリーが望めば叶えられた恋が、無残に破れて失われたのが悲しいのだろう。

けれどもそれはもう、叶う事はなかった過去の話なのだった。





その夜の舞踏会は盛況であったと伝えておこう。

初めて見るような美しいドレスを着たアンディエールは、大きなシャンデリアの下で、何曲も踊った。

お披露目の挨拶の席では、懸念していた反対派の声も聞こえず、寧ろ妖精達は、アンディエールを恐れているか讃えているかのどちらかのようだ。




そして舞踏会が終わると、いよいよ、何百年も続いていた宴を閉じる瞬間がやって来る。



「さぁ、みんな」



王様がそう声を上げると、妖精達は、宝石から削り出したような美しい羽を広げた。

満開の花のような色とりどりのドレスを揺らした森の乙女達に、騎士のように凛々しいケープを揺らした男達。


そのどちらもが、まるでお伽話から抜け出てきたように静謐な美しさを湛えている。


はらはらと、どこからともなく花びらが舞い散り、いつの間にか、森の中のお城の床にはたっぷりと水色の花びらが振り撒かれていた。

そんな花びらの道を踏んで、妖精達はどこかひやりとするような人ならざるものの微笑みを浮かべる。


美しい妖精王を見つめる眼差しは、群れの主人の合図を待つ獣のよう。

優雅な所作や美貌がどこかちぐはぐな印象を与えるくらい、そこにいるのは、人間とはまるで違う生き物に思えた。


でもアンディエールも、これからは妖精になってゆくのだ。

隣に立ち、しっかりと手を握ってくれている、オルディアの伴侶として。



(だから、もう恐れることなど何もないし、これからはきっと、素敵な事が沢山あるわ)



「そろそろ、この森での宴はおしまいにしようか。みんな、僕達の国に帰ろう」




そんな号令が響いた途端、しゃりしゃりんと、水晶のベルを鳴らしたような音があちこちから聞こえてきた。


羽を広げた妖精達は、ふかふかとした花びらの道を惜しげもなく踏んで飛び立つと、その先に現れた大きな鈴蘭の円環に吸い込まれるようにして、次々と姿を消してゆく。



やがて、森から舞踏会に訪れていた小さな毛玉のような妖精までもがその円環に吸い込まれてしまうと、最後に残った妖精王が、隣で、こんな帰り道なのだと茫然と目を瞠っている伴侶に手を伸ばす。



「僕達も行こうか。ごめんよ、やっと見付けた君を、人間達の輪に戻してあげる事は出来ないからね。君が逃げ出す事がないように、ここへの扉は今夜限りで閉ざしてしまうつもりだ」

「それは構いませんが、……………あの方達はどうするのですか?取り替え子は、もう人間にも戻れないのでしょう?」



そうアンディエールが視線で示した場所には、取り替え子の乙女達が体を震わせて身を寄せ合っている。



舞踏会には現れず、傷の痛みに耐えながら、森でその時を待っているヴァシリーとは違う。


彼女達は一緒に行けるものだとばかり思っていて、だからこそ、何が起きたのか分からないのだろう。

不安そうに周囲を見回し、これ迄大事にしてくれていた妖精達に置き去りにされた事が、まだ信じられないようだ。



「近くには人間の国もあるし、妖精の羽を得ていても、美しい乙女達だから、誰かが見付けて面倒を見るのではないかな。残念だけれど、僕達はもう飽きてしまったから、連れてはゆけないよ」

「…………まぁ、そのように放り出してしまうのですか?」

「この森での全ては宴の席での事で、彼女達やここにあった国の人間達は、その宴のお客だからね。それに、取り替え子なら国にも沢山いるんだよ」



そう説明したオルディアは、まるで、獣の子はお家では飼えないのだと嗜める家人のようだ。

妖精にとってはそのようなものなのかと頷き、アンディエールも、それ以上は食い下がらなかった。


何も、また森苺にしてぱくりと食べてしまう訳ではないのだ。

彼女達は、妖精の取り替え子として、階位の高い魔術も扱えるのだから、この場に取り残されてもさしたる危険はあるまい。




「宴を終える際には、きちんと戸締りもしないとね。では、ごきげんよう」



アンディエールを片手でひょいと抱き上げたオルディアが最後に優雅に一礼すると、門になっていた円環状に咲いた白い鈴蘭が凍りつき、ぱりんと砕けてしまう。




その時にはもう、その場から消えていたアンディエールは知らなかった。


オルディアが妖精の国への扉を閉じた瞬間、その場にあった古くて深い森は跡形もなく消え失せてしまい、後に残されたのは、抱き合って震える少女達と小さな泉の側に立ち尽くすヴァシリーだけだった事を。


その泉の畔には一本のニワトコの木が生えており、まるで最初から他には何もなかったかのように、繊細な枝葉を泉の上に広げていた。


だが、残された泉には、森守りの妖精の王からの餞別代わりに、たっぷりと妖精の祝福が授けられていたという。




これが、深い深い森の中にあった、小さな王国の顛末。

そして、長い間続けられていた森の宴を訪れた客人から伴侶を得た、幸せな妖精王が地上に残した最後の祝福である。




その森の跡地にはもう、今は新しい国が育ったという。


そこにはまた沢山の人間達が暮らしているそうだが、アンディエールにはどうでもいい事だ。

それよりも、伴侶と一緒にお忍びで出かける、妖精の星空市場でのお買い物計画の方が大事なのである。







このお話で完結となります。

お付き合いいただき、有難うございました!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 妖精の人間味のなさが本当に良いです....。完読しました。ありがとうございました....。
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