クリームパイと妖精の理由
そのナイフはとても丈夫で、魔術の障りや、森に時折現れる祟りものですら切れてしまうのだそうだ。
我々の王すら脅かす恐ろしい道具なのだと、ぴかぴか青白く光る美しいナイフを手に自慢していたのは、アンディエールが大嫌いな方の王族の妖精で、けぶるような蜂蜜色の髪に鮮やかな緑色の宝石のような目をした美しいシーは、いつだってとても意地悪だった。
だからこそアンディエールは、彼が庭園の片隅に自慢のナイフを落とした時、さっと駆け寄って盗んでしまったのだ。
大事なナイフをなくした婚約者が困っても、ちっとも構わないと考えたからだった。
ここはかつて、人間の国だった土地である。
だからこそ、この地を治める森の妖精の多くは、普段は地下にある妖精の国で暮らしているのだそうだ。
常日頃からお城にいるのは、シーとはいえ王子や王女達ばかりで、そんな彼等も妖精の国とこちらを行き来しているらしい。
彼等にとってここは、接収した離宮のような場所なのだ。
だがなぜか、妖精達は皆、ここは宴席なのだと言う。
その言葉がどんな意味を持つのかは、アンディエールには分からない。
妖精独自の表現かもしれないのだが、学ばされた妖精の言葉の中には、その意味を示す物はなかった。
「お前の髪には、我々への対価としての祝福が宿るが、こうして短くしてしまえばなんとも醜いものだな」
婚約者という肩書きだからではなく、暇潰しの為に、時折アンディエールの部屋を訪れる妖精の王子が、今日もまた、緑柱石の瞳で蔑むような目でこちらを見た。
早速貶された人間は、柔らかな微笑みを浮かべてみせながらも心の中で小さく唸る。
アンディエールを庇護した妖精の王の言葉で結ばれた魔術によって、この魂ごと対価に取られてしまったとは言え、元はと言えば知りもしない誰かの失態の尻拭いなのだ。
何も言い返さずに微笑んだアンディエールが、産まれた夜にはすべてが終わっていたのだから、同胞達の犯した罪など知ったことかと言いたいのをぐっと堪えているだなんて、この美しい妖精はきっと思いもしないのだろう。
それにアンディエールも、不公平さに腹を立ててはいても、理解はしているのだ。
目の前に続く道が少し先でぷつりと途切れていて、もうその先には行けないだろうという事は。
どれだけ理不尽でも、不公平でも、それはアンディエールが持って生まれた運命である。
そのような要素は、配分に差こそあれ、誰にでもあるのだと我慢するしかない。
だが、テーブルの上の分厚い本を掴んで、この意地悪妖精をずたぼろにする想像を楽しむのも、アンディエールの自由なのだ。
なお、その際にはこの豪奢な蜂蜜色の髪を丸刈りにするのが、アンディエールのお気に入りの想像である。
泣いて詫びても、絶対に許すものか。
「ご不快な思いをさせて申し訳ありません。ですが、夏至祭の夜が明けたばかりですから、伸びる迄には時間がかかると思います」
「……………人間は不自由な生き物だな。身に蓄えた魔術で、それくらいのものすら補えないのか」
「魔術に長けた方であれば或いは出来る方もいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも、私には不可能なのでしょう」
「相変わらず、髪を切り上げてしまうと醜いものだな。他の愛し子達のように、美しく優雅に振る舞えないものか。………所詮、贄ではどうにもならぬか」
「あの方々は、あなた方が望んで呼び寄せた人間ですから、仕方なく残された私とは出来が違うのでしょう。皆様とお茶会でもなされば、少し落ち着かれるのでは?」
「………狡猾なものだ。そう言えば、俺を追い払えるとでも思ったか?」
ぐいっと肩口までの髪の毛を掴まれ、顔を持ち上げさせられる。
アンディエールは、引き攣れる頭皮の痛みを堪え、慎ましやかな微笑みを崩さないようにしつつ、暫定の婚約者を頭突きで床に沈めたい思いをぐぐっと堪えた。
この愚かな妖精は、己の頭髪に最大の危機が迫っている事は知らないのだろうが、これ以上目の前の人間に刺激を与える事は推奨しない。
人間とは違い、人外者達の髪の毛は場合によっては簡単に再生しなくなる。
奪われたという形を成された場合は、特に修復が難しいと聞いていた。
「おや、僕のお気に入りの子を虐めているのかい?」
不意に、静かな声が落ちたのはその時だった。
アンディエールの髪を掴んだヴァシリーの手が震え、その森結晶と同じような色の瞳が動揺に揺れる。
そんな反応を間近で見てしまい、アンディエールは、おやっと瞳を瞬いた。
「オルディア………」
「それはいけないな、ヴァシリー。その子はこれから、僕と遊ぶ予定なんだ。砂糖菓子なら、夏至祭に貰っただろう?」
「………あなたには、関係のない事だろう」
「おかしな言い方をするのだね。僕が始めた舞踏会続きの宴席の中なのだから、ここで僕に関係がない事など一つもないよ。さぁ、お腹が空いているのであれば、家事妖精達に軽食の用意を頼むといい。それとも、美しい乙女達に慰めて貰うかい?」
夏至祭の夜に出会った妖精が、オルディアという名前なのだと、アンディエールは初めて知った。
高位の人外者の名前を赦しなく呼ぶ事は出来ないので、その許可を得ていない妖精の名前に触れるのは得策ではないのだが、識別名を知れたのは有難い。
ここ最近は、心の中で名前なしに呼ぶ際のややこしさに辟易としていたのだ。
(オルディア様……………でいいのだろうか……………)
しかし、いざ名前を与えると、それはそれで馴染むのに時間がかかりそうで、アンディエールはむぐぐっと眉を寄せる。
どうも敬称が余分な気がするのだが、気に食わない方のシーに様を付けるのなら、オルディアにも付けてあげたいではないか。
そして、そんなオルディアは、にっこりと柔らかく微笑んでいるだけで、髪の毛を掴まれたままのアンディエールを慌てて助けてくれる訳ではないし、虐めているのではと指摘しながらも、ヴァシリーの行為に眉を顰める訳でもない。
だが、ひたりと落ちた何かの翳りが、ぞっとする程に暗く悍ましかった。
ああ、妖精はこういうものなのだと納得するに至る、人ならざるものらしい機嫌の温度が肌を泡立たせる程に冷たい。
「あなたの気紛れにも困ったものだ。この人間が王女であるのなら、その親兄弟を食ってしまったのは、きっとあなただったでしょうに」
「うーん、そうだったかな。でも、あの夜は沢山の人間を森苺にして食べてしまったから、その中にいたかもしれないね」
「であれば、ご用心された方が宜しいでしょう。人間の子供は、執念深く身勝手な生き物だ」
低く呟かれたその声音に、アンディエールはふと、小さな疑念を育てる。
(………… ヴァシリー様は、オルディア様があまり好きではないのだろうか)
呆れたような物言いを含ませながらも従順に見えて、けれども、心の内側でふつふつと煮え立つような憎しみが立ち昇る。
勿論、そんな感情をオルディアが察しない筈もないのに、咎めたり気にしたりする素振りはない。
となるとそれは、周知のものなのか。
「………っ、」
いきなり手を離され、がくりと床に膝を突いてしまったアンディエールが見たのは、けれどもそれ以上は何も言わずに部屋を出てゆく、ヴァシリーの後ろ姿であった。
結局何をしに来たのかはよく分からないが、オルディアの言葉から察すると、あまり機嫌が良くなくてアンディエールを突き回しにきたのかもしれない。
アンディエールは、そんな婚約者の後ろ姿に、どこかで爪先を強打しますようにと心の中で念じておいた。
「やれやれ、素直じゃないなぁ」
「…………ヴァシリー様が、ですか?」
「うん。彼は僕が大嫌いなのだけれど、いつもああして腹を立てているだけなんだ。………立てるかい?」
「あ、…………手を貸して下さって、有難うございます」
「ごめんよ、助け方がよく分からなくて。………あんな風にされたら痛かっただろう」
「あら、助け方が分からなかったのですか?」
「うん。でも、女の子は小さくて繊細だから、大事にしなくちゃね。まぁ、妖精は羽を毟ってもそうそう死なないけれど、人間はとても脆弱だから」
「………妖精は、羽を毟っても死なないのですね」
「…………え、僕の羽を見ながら言わないで…………」
アンディエールが自分の羽を毟ろうとしていると思ったのか、オルディアは慌てて羽をぴっちりと畳んで背中の後ろに隠してしまう。
宝石の色を透かして床に落とす美しい羽が隠されてしまい、ただ、その美しさに目を留めただけだったアンディエールは、がっかりした。
「僕の可愛いお嬢さんは、いつもあんな風にヴァシリーに虐められているのかい?」
「現在は、なぜあなたに持ち上げられたのか、必死に理解に努めようとしています…………」
「そうだねぇ、大事にしてみたくなったからじゃないかな。君はいつでもこの部屋にいるし、僕の大事な友人だからね」
(…………友人?)
思いがけないその言葉に目を瞬き、オルディアに子供のように抱き上げられてしまったアンディエールは、目を瞬く。
すると、こちらを見たオルディアはなぜか、ほんの少しだけ不安そうに瞳を揺らすのだ。
どこか無防備なその表情には、たった今、何でもない事のようにアンディエールの家族を食べてしまったと告白した酷薄な気配は欠片も残っていない。
「友人、なのでしょうか?」
「………あまり気に食わないかな?」
「いえ、そのような事はありませんが、友人という響きは、もう少し対等な関係でこそ使われる言葉な気がします」
「じゃあ、もう少し対等になろうか。今日は美味しいパイを持って来たんだ。鶏肉をマスタードクリームで煮込んだものが入っているらしい。それで僕を友達にしてくれるかい?」
「クリーム煮のパイ…………」
アンディエールは、妖精達のおやつに過ぎないのだ。
相変わらず友達の定義には届いていない気がしたが、それよりもパイの来訪の方が大事件なのは間違いない。
目をきらきらさせ、早くそれを与え給えとオルディアを見上げていると、こちらを見た美しい妖精は小さく笑う。
「さては、凄く喜んでくれているのかな?」
「とても喜んでいます!パイもクリーム煮も、お皿に鎮座しているのを見た事と匂いを嗅いだ事はあるのですが、盗み出すのに適した質感ではなかったので、初めましてなのですよ。…………その、食べ方を教えて貰ってもいいですか?」
「うん。僕の分もあるらしいから、一緒に食べようか」
「まぁ。となるとそのお土産は、どなたかが作ってくれた物なのですね」
「料理長に、君が喜んでくれそうな料理を頼んだんだよ。僕には料理は出来ないからね」
この妖精がアンディエールの部屋を訪れるようになって、もう半月になる。
だが、今迄は誰もいない時にだけ姿を見せていたので、何となくこの部屋に来ているのは秘密なのだと考えていた。
だが、どうやらアンディエールが勝手に秘密の訪問だと思っていただけで、本人は深く考えていなかったようだ。
アンディエールを床に下し、オルディアがすいっと指先を動かす。
そうするともう、テーブルの上にはほかほかと湯気を立てているパイの載ったお皿が並んでいて、繊細な花模様の彫り物が何とも美しいグラスには、果実の香りのする冷たいお茶が注がれていた。
(わ………!)
妖精なのだから、こうして魔術を扱うのは当然なのだろう。
だが、森の精霊である侍女達ですら扱わないような魔術を可能とするその力の潤沢さに、何度見てもアンディエールは目を丸くしてしまう。
だがそれも、さぁと促されて椅子に座り、食べ方を教えて貰いながら、ほくほくとろりと美味しいおかずパイをいただく迄の事だった。
さっくり焼き上がったパイを切り崩して、中からとろりと流れ出てくるクリーム煮と合わせてお口に入れれば、あまりの美味しさにアンディエールは爪先をぱたぱたさせてしまう。
さくさくのパイ生地も想像していたよりずっと美味しいが、クリームに浸してしんなりした部分はもっと美味しい。
中に入った鶏肉もほろほろと柔らかく、ジャガイモやその他の謎野菜と一緒に、お口の中で幸せに崩れる。
(…………美味しい!)
あの夏至祭の夜から、オルディアは、こんな風にアンディエールの部屋に様々な料理やお菓子を持ち込むようになった。
それは、すっかり熟睡していた真夜中や、夜明けの光の差し込む前の時間だったりと、いささか人間にとっては厄介な時刻である事も多かったが、いつだってお腹を空かせているアンディエールは大歓迎である。
そうして、いつも大喜びで迎え入れていれば、オルディアにもこの人間に何某かの執着が生まれたのだろう。
(…………でも、友達?)
相変わらずこの妖精は、指先で容易く魔術を扱う王族相当の妖精のくせに、心を結ぶような言葉の選び方は不得手であるらしい。
相手はアンディエールなのだから、そんな上等な言葉を使わなくても、お気に入りの玩具程度の表現でいいのではないだろうか。
だが、成人の日のお祝い膳にすら婚約者という称号を与えるくらいなのだから、妖精の感覚はやはり人間とは違うのだろう。
(でも、そもそも私は、妖精や精霊から人間とはこういうものだという教育を受けているだけで、実際の人間がどんなものなのかは、さっぱり知らないのだ…………)
「それで、ヴァシリーとはいつもあんな感じなのかい?」
「………ええ。こちらにいらっしゃる時は、大抵、あのような感じです。私が嫌いで、見るのも不愉快なら来なければいいのですが、大事な食材が無事なのかどうかを確かめたくなるのかもしれません」
「…………それは、君にとっては悲しい事なのかな?」
「幼い頃は、どうして嫌われてしまうのかが分からず、怖かったですし、悲しかったです。………ですが、あの方はそういうものなのだと理解した今は、ああして意地悪をされると、ただひたすらにむしゃくしゃします」
「…………むしゃくしゃ」
「はい。婚約者としては、望ましい感情ではありませんが、こればかりはどうしようもありません」
「ええと、………ヴァシリーに恋をしていたり、彼を手に入れたいと思ったりはしないのかい?」
まさか、そんな質問が繰り出されるとは思わず、アンディエールは思わず眉を顰めてしまった。
それではまるで、アンディエールが他の普通な誰かのようではないかと思いかけ、ああこの人にはそのような線引きが分からないのだと溜め息を吐く。
「いえ。そのように考えた事は一度もありません」
「ふうん。そうなんだね。愛し子達は、殆どの子が彼に恋をしているらしいよ」
「まぁ。あなたもとても美しいのに、愛し子達は、あの方に恋をしてしまうのですか?」
「僕を好きになってくれる子も多かったけれど、僕はすぐに飽きて壊してしまうから、今は、あまり近付けさせないようにしているみたいだね」
「……………壊してしまうのです?」
「もういいよと言っても、なぜだか、泣いたり怒ったりするんだ。けれど、他の者達が言うには、折角招いたお客なのだから、宴が終わる迄は簡単に壊さない方がいいらしい」
「…………宴?」
また耳にした不思議な言葉にアンディエールは首を傾げたが、オルディアは、微笑むだけで言葉の意味を教えてはくれなかった。
(それに、取り替え子にしてしまっていても、愛し子達は、あくまでもお客様なのね………)
であればと気を取り直して、アンディエールは、違う質問をしてみる事にする。
この妖精はお喋りが大好きなので、気を遣って何も話さないと、しょんぼりしてしまう。
妖精の知識はとても貴重なものだと聞くが、こうして、分からない事を尋ねるのは構わないらしい。
(でも、用心しないと)
魔術の理に於いて、知るという事は、即ち知られるという事に繋がる。
意味のない質問を重ねてゆけば、それだけこちらの魂への浸食を許してしまう事にもなりかねない。
寝台の下に、妖精の王様ですら傷付けられるというナイフを隠し持っているアンディエールは、そんな秘密までをも明け渡してしまう訳にいかないのだ。
「ヴァシリー様とは、お知り合いなのですか?」
「そうだね。彼は僕よりは若いシーだけれど、よく会う妖精だよ」
「あなた方は、皆王族なのですよね?であれば、ご兄弟だったり、親戚だったりするのでしょうか?」
「そうして子供たちを増やす妖精もいるけれど、僕達はそうではないんだ。同族を、家族のような呼び方で区分する事はあるにせよ、人間のような血族関係はない。同じ森の中で派生し、同じものを司る同族の妖精だというだけだよ」
「では、………家族という括りはないのですね」
「家族、ね………。一族の者達は大切だけれど、人間が育む、より小規模で密接な関係性は持たないと言えばいいのかな。仲間を傷付けた者には報復するけれど、それはあくまでも、妖精がそのようなものだからに過ぎない。人間の家族のような感情の結び付きは、僕達にはあまりないかもしれないね」
そう教えてくれたオルディアは、手を伸ばして、アンディエールの短い髪に触れる。
夏至祭の夜からそう簡単に伸びてくれる事もなく、アンディエールの銀糸の髪は、まだ鎖骨くらい迄の長さしかない。
そう思うと、いつもは気にならない短い髪がなぜか、とても惨めで悲しい事だという気がした。
何しろ、このお城に暮らす人ならざる者達は皆、髪の短いアンディエールを醜いと言うのだ。
「………僕に触れられるのは、あまり好きじゃない?」
「いいえ。それはないのですが、髪が短い私はとても醜いそうですので、正面から触れられると、ご不快かなと思いました」
「はは、それはきっと、ただの意地悪だよ。髪の長さで造作が変わる訳でもないんだから、君は充分に美しい女の子だ」
「む………。そうなのでしょうか?ですが、似合う似合わないという配分で、髪が短いと醜く感じられるのかもしれません」
「でも僕は、今の君しか知らないし、今の君も充分に綺麗な女の子だと思うから安心するといい」
「ふむ。では、安心しますね」
「………あ、それでいいんだ」
安心していいと言ったから安堵に頬を緩ませたのに、なぜだかオルディアは、それがおかしかったようだ。
くすくすと笑う彼の姿に眉を寄せ、アンディエールは、なぜ笑うのだろうと少しだけ困惑した。
「おっと、怒らせちゃったみたいだから、お詫びに美味しいゼリーを用意しようかな」
「ゼリー…………」
「うん。よし、何とか僕を許してくれたみたいだね。………それと、ヴァシリーが君に執着するのは、彼がこの国の人間達の粛清の夜に、ここにいなかったからかもしれない」
「あれが、執着なのですか?…………食材としてではなく?」
「…………うーん、その表現はやめようか」
苦笑してアンディエールの頭を撫でると、オルディアは、またどこからか美味しそうなゼリーが入った硝子の器を取り出した。
そんな美味しそうなゼリーを受け取りつつ、アンディエールは、珍しく自分の婚約者について考えてみる。
「…………あの方は、その夜には不在だったのですか?」
「うん。僕達との約定を最初に破った女の子を食べてしまったのは彼だけれど、その後は暫く、妖精の国に引き籠ってしまったんだ。約束を破ったこの国の人間達に腹を立てていたのかもしれないし、この国の人間達が大好きで、食べてしまわなければいけなかった事がとても悲しかったのかもしれないね」
(え………)
その言葉は、特に感慨を含ませる事もなく、淡々と語られた。
けれどもアンディエールにはとても大切な事に思えて、はっとしてしまう。
人間の国を簡単に滅ぼしてしまった妖精達は、ここに暮らしていた人間の事など、大嫌いなのだとばかり思っていた。
けれどももし、そればかりではないのだとしたら、それはアンディエールが考えてみる事もなかった、妖精達の別の一面なのではないだろうか。
「あの方は、ここに暮らしていた人間が、好きだったのでしょうか?」
そう尋ねると、オルディアが、青い青い瞳をこちらに向ける。
それは、わぁっと声を上げてしまいたくなる程に悲しそうで、けれども、身を切るような冷たい水にも似た酷薄さでもあった。
「僕達との約定を破ったのは、ヴァシリーの恋人だったそうだ。それが、その場限りの恋だったのか、羽の庇護を与えて伴侶に迎え入れたい程の想いだったのかは分からない。僕は、彼ではないからね」
「…………そうして、あの方は、妖精の国に引き籠ってしまったのですか?」
「うん。………だとすると、やはり悲しかったのかな」
「約束を破ったのが自分の恋人だったからと、何とか見逃して差し上げるという事は、出来なかったのですか?」
思わずそう尋ねてしまったアンディエールに、こちらを見た妖精は不思議そうに目を瞬く。
「それは無理だよ。交わされたのは、魔術的な誓約だ。それを違える事は、人間であれ妖精であれ不可能だからね」
「…………そうなのですか?」
「うん。他の約束の形でも良かったのだけれど、そんな融通が利かない約定こそが、一番普遍的な契約の形で、尚且つ簡単な物だったんだ。だからこそヴァシリーは、そんな契約を選んでしまった僕の事が嫌いなのかもしれない」
「…………もしかして、あなたが、この土地の人間達との契約を交わした妖精なのですか?」
「あれ、言ってなかったっけ?そうだよ。ここに暮らしていた人間達は、宴が終わる迄でいいから、自分達を守って欲しいと言ってきたんだ。あの時はまだ地上に出ている妖精も少なくて静か過ぎたし、それでもいいかなって思ったんだよね。ほら、人間が沢山いると賑やかになるだろう?舞踏会を開くなら、やっぱり賑やかじゃないとね」
何でもない事のようにそう言うオルディアに、アンディエールは茫然としたままこくりと頷く。
学んだ国の歴史が正しければ、人間達と約束を交わしたのは、森の妖精の王様だった筈だ。
つまり、この目の前の妖精こそが、森の妖精王であるという事になる。
「あなたは、………妖精の王様なのですね」
「一応ね。でも、今は宴の最中だから、そういう事は気にしなくていいよ。それとも君は、…………そうして約束を結び、君の家族を食べてしまったかもしれない僕を、呪わしいと思うかい?」
優しい微笑みと、どこか仄暗い眼差し。
まるで謎かけのような質問に、アンディエールは少しだけ考える。
この妖精が家族を食べてしまったのだなと思えば、確かに思うところがあるのは事実だ。
だがそれは、憎しみや悲しみというよりも、そうだったのかという驚きの方が大きい。
そもそもアンディエールは、家族という物を知らないのである。
「よく分かりませんが、呪わしくは思わないようです。薄情かもしれませんが、家族となると、一度もお会いしたことのない方々ですし、となると私は、あなたとお喋りしている時間の方が長いのですから」
「じゃあ、僕の事は好き?」
「…………好き?」
「…………え、そこで首を傾げちゃうんだ。じゃあさ、パイは好き?」
「好きです!」
「よーし、もう一度質問するよ。そんなパイを持ってくる僕の事は、好きかい?」
「…………むむ?」
「木苺のゼリーも付けちゃおう!」
「好き、…………かもしれません。また、燻製ベーコンのステーキも持って来てくれます?」
「そうだねぇ。君が僕を大好きでいてくれるなら、また持ってくるよ」
「おかしいです。難易度が勝手に上がりました」
「残念。気付かれちゃったかぁ…………」
淡く苦笑して、肩を竦めた美しい妖精に、アンディエールはもう一度首を傾げる。
そもそもこの質問にはどんな意味があるのだろうかと、考えてみたのだ。
「もしかしてあなたは、私に、あなたを好きでいて欲しいのですか?」
「うん。でも君は、なかなか懐かないからなぁ…………」
「それは、私が、………寄る辺ないから?」
「そうだね。それと、寝台の下に隠したナイフを磨いている時に、とても悲しそうな目をするからかな」
「…………っ、」
ぞっとして顔を上げたアンディエールに、こちらを見て微笑んだ妖精は美しかった。
それなのに、アンディエールを友達だと言ったり、好きでいて欲しいのだと言ったりもする。
けれども、この秘密に収穫祭の夜まで触れずにいてくれる程、優しくはなかったらしい。
ぎゅっと指先を握り込んだアンディエールは、かたかた震えながら、この妖精にどう答えるべきかを考えねばならなかった。
もしかすると、残された時間は思っていたよりも短いかもしれない。
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