最後の王女と見知らぬ妖精
深い深い森の奥には、かつて小さな人間の国があった。
淡く青く色づく水晶片を集めたような夜紫陽花の咲くその国は、古くから森の妖精達の守護を受けて栄えていたそうだ。
真っ白なお城の尖塔には美しい瑠璃紺の国旗が翻り、満月の夜には、お城の大広間で妖精の王族達とその国の王族達とが、それはもう素晴らしい舞踏会を開いたと言う。
でもそれはもう昔の話で、こうしてけぶるような月光がひたひたと湛えられる夜に、お城の大広間で笑いさざめくのは妖精達ばかり。
森の中にあった豊かで優しい人間の国は、十七年前に森の妖精達に食べられてしまって今はもう残っていない。
文字通り、小さな子供から病気のお年寄りまでの一人残らずが、それまで守護を与えてくれていた妖精達の美味しい晩餐になってしまったのだ。
「でもさ、それも仕方のない事だよね。僕達はこの国の人間が大好きだったけれど、交わした約定を蔑ろにしていいとは言っていない。僕達は妖精で、彼等は人間だった。まるで作法の違う生き物なのだから、約束というのは決して軽視してはいけない物だったんだよ」
開け放した窓と、夜風の薫るバルコニーにかかる大きなニワトコの木の枝の下で、アンディエールは、そんな妖精の酷薄な囁きを聞いていた。
こちらを見下ろしたのは、腰までの長い水色の髪を持つそれは美しい妖精で、よく見かける二枚羽の妖精どころか、力を持つ人型の妖精である四枚羽でもなく、六枚羽を持つシーと呼ばれる王族である。
ふんわりと波打つ長い髪は、ゆるやかな巻き髪になっていて、淡く淡く混ざり込むライラック色が得も言われぬ美しさだ。
魔術の深い煌めきに包まれる夜の霧を紡いだようなその髪に、こちらを見た瞳は、月光を宿した湖面のような青色であった。
青緑から青までの宝石を薄く削ぎ、ざあっと光の波が打ち寄せるステンドグラスのように貼り合わせたなら、この美しい羽になるだろうか。
そんな事をぼんやりと考えながら、アンディエールは、唐突にこの部屋を訪ねた目の前の男性をひっそりと見返す。
「きっとそうなのでしょう。私の髪を取りにいらっしゃったのですか?ですがもう、今年分のものはお納めしてしまったのです。もう少し切り落として差し上げる事は出来ますが、そうすると、森精霊の侍女達に醜いと叱られてしまうのですが…………」
今は真夜中で、ここは、アンディエールに与えられた王宮の一部屋であった。
本来ならここにあった国の末の王女として侍女たちに傅かれる筈だったアンディエールは、森の妖精達の用意した特別な鍵をかけられた部屋に閉じ込められ、生まれてからずっとこの部屋で暮らしている。
とは言え、アンディエールの髪は妖精達の特別なおやつであったので、その品質管理の為にと森精霊の侍女たちに連れられて城内を散歩したり、妖精の騎士達に引き立てられて舞踏会に参加する事もあった。
そうして外に連れ出して貰う事もあるので部屋の外を知らないとまでは言わないのだが、どちらにせよ、自分でこの部屋を出る自由はない。
(成る程。この妖精は、私が、ここにあった国の最後の生き残りだと知っていて、それでもこの部屋を訪れたのだわ………)
私が誰だか知っているのですかと問いかけると、この妖精は、かつてここに暮らしていた人間達が滅ぼされた理由を話してくれた。
であれば問題はない。
時折、この部屋で飼われているのがどんな人間なのかを知らずに、気紛れに訪ねてきてしまう妖精がいる。
そうすると、外に遊びに行こうよと誘われて、断るのに難儀するのが常なのだ。
この部屋の鍵は特別な筈なのに、悪戯好きな妖精達は鍵の閉まった部屋となると俄然開けたくなるらしい。
おまけに、そんな妖精達に部屋から連れ出されても、叱られるのはアンディエールの方なのだから堪らない。
アンディエールは、国の滅んだ夜に生まれた子供であったからこそ、魔術的な戦場の約束に則って生かされた人間だ。
国の滅びる夜に生まれた子供は、殺さずに庇護すると、その一族が栄えるという魔術の約定があるらしい。
それは、終焉を司る高位者が設けたこの世界の約束事なので、妖精達も疎かには出来なかったのだ。
(…………この人は、あの妖精の王子の、兄弟か何かだろうか)
そう考えて見つめるのは、それはそれは美しい妖精で。
我が物顔にこのバルコニーに降り立ったのだから、きっと、夏至祭の夜のお客ではなく、この城を治める妖精の一人には違いない。
アンディエールがこれまでに見たことのあるシーは、三人である。
この城の主人となる妖精から分岐した森迷いの妖精の王女も知っているが、そちらの一族は女達しか派生しないので、男性のシーはいないらしい。
であればこの妖精は、この城を治める森の妖精の王族なのだろう。
(それならやはり、もう少し寄越せと、この髪の毛を取りに来たのだろうか。森の精霊の乙女達は醜い人間を嫌うから、あまり短くすると虐められてしまうのに……………)
約定の破棄によって滅ぼされた国の、約定によって生かされた最後の人間であるアンディエールは、記憶にない父が治めていたこの城で、妖精への供物として生きている。
この部屋で育てられ、一年に一度、夏至の朝にその年に伸びただけの髪を切り、妖精達に捧げているのだ。
なぜ髪の毛などをと思うだろうが、そうして差し出した髪は、切り落とした端から、アンディエールの淡い銀髪と同じ色の砂糖菓子になる。
元々持ち主の魂の欠片を宿すと言われる人間の髪は、アンディエールには想像が出来なくても、魔術的には優れた献上品になるらしい。
その砂糖菓子は魔術的な対価としてこの地を治める妖精達のおやつになり、十七年前に愚かな人間達が損なった森の約定を、アンディエールの人生と命とで補い続けていた。
「ああ、誤解させちゃったかな。君の髪を食べに来た訳じゃないよ。あれは、定められた量だけその年に取り込むのが、僕たちの課した魔術対価だからね。儀式に紐付く誓約である以上、それより多くの物を君から奪いはするまい。…………今夜はただ、君を見に来たんだ。森の愛し子達が、君はとても邪悪な人間だと言うものだから、どんな女の子なのだろうと不思議に思ってね」
「そうだったのですね。…………邪悪と申されましても、私はここで日々をやり過ごしているだけですので、可能な邪悪さはさして多くないと思いますが」
「だよねぇ。………念の為に聞くけれど、隠れてこっそり僕達の同胞を殺したりはしていないかい?」
長い睫毛を揺らして困ったように微笑む目の前の妖精は、やはり、アンディエールが初めて出会う妖精であった。
(まだ知らないシーが、このお城にいたのだわ)
この城には、果実を収穫する木のようなものであるアンディエールには、さして興味を持たない妖精も多い。
だが、健康管理の為にお城を歩かされていると、必然的にこの城に暮らすシー達に出会う機会も増える。
つまり彼は、アンディエールの過ごした十七年で、記憶にある限りは出会った事のない妖精であるようだ。
「今晩の晩餐の中に誰かが混ぜ込んでいなければ、恐らくは」
「はは、面白い返事だね。でも確かに、そうかもしれないね。普段は、何を食べているんだい?」
「少しのパンと、味の付いたお湯のようなものをいただきます。年に数回は果物を貰えますが、それは私が弱った時だけの配給なのだとか」
「ふうん。あまり愉快なものは食べないんだね。音楽や月光、夜明けの雨なんかは食べないの?」
「あまりお腹に溜まらなさそうな料理ですね。ええ。人間は恐らく、そのような物は食べないのかと」
「では、取り替え子な愛し子達と同じなんだね。でもそれなのに、君は、彼女達と同じような人間の料理は食べないのかな」
「私はあなたがたのおやつで、彼女達は、あなたがたの客人です。役割が違うので、同じような料理を与えないようにしているのでしょう」
ひたりと、アンディアールの目からは流れ落ちなかった涙が、心の内側にぽたりと落ちる。
その滴はぴしゃんと音を立て、今はもう、深い湖のように広がった心の中の湖に溶け込んだ。
静かな声で、自分が蔑ろにされる存在なのだと答えなければいけないのは、どれだけ惨めな事か。
生まれ持った美貌や叡智などを請われ、妖精の取り換え子になった愛し子達を、妖精達はそれはもう大事に扱った。
同じお城の中にそうして慈しまれる人間の子供達がいて、けれどもアンディエールは、もう誰もいなくなってしまった祖国の罪を贖い続けるばかりの人生なのだ。
質の良い髪を育てる為にと、妖精達は、アンディエールを舞踏会にも連れ出した。
いっそもう、この部屋に閉じ込めたままにしてくれれば、自分以外の誰かが、この手のひらには落ちてこない幸せを享受している姿などを見ないで済んだのに。
楽しむ為に舞踏会でダンスを踊る彼女達と、ここで滅びた国の王族の血を整える為だけに義務として踊らされるアンディエールは、同じ人間の形をしていても、どこまでも扱いが違う。
だからこうして、そんな事を何も知らないであろう妖精から酷く不思議そうに尋ねられると、心がくしゃくしゃになりそうだ。
「おや、君は最後の夜の子供なのだから、あの乙女達とさして違わないだろうに」
けれども目の前の男性は、いとも簡単にそんな残酷な言葉を吐くのだ。
アンディエールは、その言葉には答えず、ちらりと、目の前のテーブルの上にある立派な森結晶の燭台を見つめる。
これを握り締めて、目の前の無知な妖精をがつんと叩きのめす事が出来たなら、どんなにかいいだろう。
粛々と髪だけを捧げて生きてゆけばいいアンディエールがそう思ってしまうのは、生育に関わった妖精達や、日常の手入れをしてくれる精霊の乙女達の影響が大きい。
立派なおやつとなるべく、人間の国の王女に相応しい教育を受けさせられ、それでいて、育まれた自我を持つ人間を、引き続き食材の一つのように扱う妖精達はきっと、人間というものの育て方に明るくはなかったのだろう。
自分の扱いに不満を溜め込んだ心の狭い人間の子供が、隙あらば、意地悪な妖精達を窓から投げ捨ててやりたいと思っているなどとは、夢にも思っていなさそうなのだ。
「………あなたは、私の管理方法を、あまりご存知ではないようですね」
「どうやらそのようだね。ええと、…………もしかして少し怒っているかい?」
「私とは違い、今日も贅沢にお城で美味しい物を食べているであろう皆さんが、転んで鼻の頭を強打すればいいのにと思うくらいには、むしゃくしゃしています」
「ああ、やっぱり君の食事は、あまり美味しくないんだね…………」
アンディエールは、この妖精が、失礼な人間に腹を立てて出て行ってくれればいいのにと思ってそう言ったのに、こちらを見た妖精は、漸く腑に落ちたと言わんばかりに微笑む。
(……………あ、)
僅かに開いた羽に落ちる月光が、床石に深い深い森の色を投げかける。
開いた窓からは庭園に咲いている薔薇の香りがして、こんな美しい夜だからこそ、そこかしこから楽し気な妖精達の音楽が聴こえてきていた。
少し早いテンポで奏でられるワルツは、人間の音楽を知らないアンディエールにも、どこかそら恐ろしい人ならざる者達の音楽に聞こえるし、さざめき揺れる笑い声には、時折背筋がぞくりと冷える。
儚く美しく楽しそうな喧騒の全てが、彼等は、どれだけ人間によく似た姿をしていても、人間とは違う生き物なのだと教えてくれた。
(でも、今夜は夏至祭で満月なのに。この人は、大広間の舞踏会を抜け出してきてまで、私が邪悪な人間かどうかを確かめにきたのだろうか………?)
楽しい事が大好きな妖精らしからぬ行動に、ふと、眉を顰める。
そうするとなぜか、目の前の美しい妖精は、悲しい目をして困ったように微笑んだ。
「人間が食べられそうな物は、こんな物しかもっていないけれど、食べるかい?」
「…………クッキー、ですか?」
「うん。クッキーを知っているのなら、食べた事もあるかな。人間の子供はお腹を空かせている事もあるから、従僕達に、もし気に入った子供がいた場合にあげるといいよって持たされているんだ」
「いただきます。…………あなた方は、お気に入りの子供がいれば、餌付けしてしまうのですか?」
クッキーは確かに知っているが、アンディエールは、愛し子の誰かが食べ残した物を盗んで食べた事しかない。
いつもご馳走やお菓子に囲まれている彼女達は、取り替え子として妖精の気質の浸食を受けてゆく事で、とても意地悪になる。
そんな彼女達は、きつく詰っても顔色一つ変えないアンディエールが、その実、自分達の食べ残しを森狼のように狙っているとは思いもしないのだろう。
(だからこれは、…………)
アンディエールが初めて手にする、アンディエールの為のクッキー。
その素晴らしさに、何気なく受け取ろうとしながらも指先が震えてしまい、アンディエールは、自覚なく目をきらきらさせてしまった。
だが、ただでさえ喜びの少ないアンディエールに、甘い香りのする素敵なお菓子を手渡されて、瞳に浮かぶ感情すら殺してみせろというのは酷な話だろう。
何しろ目の前の妖精は、餌付けの加減が分からなかったものか、魔術でどこからともなく取り出した綺麗なクッキーの缶を、そのままぽいっとアンディエールに渡してしまったのだ。
もしそれが森の獣であれば、缶を開けてから一枚ずつ渡し給えと荒ぶるところだが、幸いにもアンディエールは、自分でクッキー缶を開けられる賢い淑女であった。
可愛らしい菫の花が描かれたクッキー缶は、妖精の国で売られているおやつなのかもしれないし、人間の国で買ってきたのかもしれない。
そんな缶を、興奮のあまりにぜいぜいしながら開けると、アンディエールは、目の前に高貴な妖精のシーが佇んでいる事などはおかまいなしに、さっそく一枚をぱくりと頬張る。
(……………美味しい!)
教えられた淑女のお作法としてはなしであったが、妖精は気紛れな生き物なのだ。
やはりやめておこうと取り上げられてしまう前に、少しでも多くお腹に収めてしまわねばならない。
だが、そう考えて堅実にお菓子をお腹に収めてゆくアンディエールの姿に、目の前の妖精はたじろいでしまったようだ。
あまりにも勢いよく食べる人間に、少し怯えたようにこちらを見るので、アンディエールは少しだけ反省する。
「もしかして、………随分お腹が空いていたのかい?」
「もそもそしていて美味しくない食べ物はいただきますが、このような美味しい物は、滅多に食べられませんから」
「けれどそれは、ただのお菓子だよ。…………あ、ごめんなさい」
困惑したように呟きかけ、妖精は失言に気付いたのだろう。
アンディエールの暗く陰惨な眼差しにびくりと体を揺らし、慌てて謝ってくる。
けれども、謝られた事自体が初めてだったアンディエールは、却ってその言葉にびっくりして目を瞬いてしまった。
「いえ。………こんなに美味しいクッキーを下さって、有難うございます」
「うん。気に入ったのなら、また持ってきてあげるよ。それとも、他の愛し子が食べているような料理がいいかい?」
「…………それも、私にくれるのですか?」
「欲しいなら、幾らでも持ってきてあげるよ。ただ、今夜は夏至祭だから、料理人達はもう踊りに出かけてしまったかな。明日までに、用意しておくのでもいいかい?」
「は、はい!」
そんな事を言われればもう、アンディエールは、この妖精を何とかして追い払おうとしていた事などは忘れてしまった。
目の前のシーは、きっと明日の朝には、こうして交わした約束など忘れてしまっているに違いない。
名前を差し出して交わした約定ではないし、彼は、アンディエールなど簡単に蔑ろに出来る残忍で享楽的な森の妖精の王族だ。
けれど、どんな気紛れで、どんな暇潰しだとしても、このクッキー缶はもうアンディエールの物である。
さっさとお腹に入れてしまおう。
「…………は!」
「ん?どうしたの?」
「…………こ、こちら側のクッキーは、色が違います」
「ああ、何種類か入っているみたいだからね。君が手にしているのは、干し林檎とシナモンのクッキーかな」
「林檎…………」
それは、瑞々しく、甘酸っぱくて赤くて、しゃくしゃくしたものだろうか。
以前に食べて美味しかった果物の名前に、もう一度目をきらきらさせてしまい、そんなアンディエールを見た妖精が小さく微笑む。
ふと、肌に触れる妖精の機嫌の温度とも言うべき何かが変化したのを感じ、ぎくりとしたアンディエールは、ゆっくり顔を上げた。
こちらを見て微笑んでいるのは、はっとする程に美しい妖精だ。
大きな力を持ち、人間の国など簡単に滅ぼしてしまうシーは、あまり蝋燭の貰えない、暗いアンディエールの部屋の中で、夜の光を透かして暗く眩く輝く。
僅かに開いた六枚の羽の表面で揺らいだ光を見ていると、星の瞬きを見ているような酩酊感を覚える程だ。
(………これは、とても悍しくて美しい、怖い怖い生き物だわ)
とても美しく繊細だが、決して善良な生き物ではない。
とあるご婦人が、森で見付けた素晴らしい森結晶を思わず拾い上げてしまっただけで、この国の人間を全て食べてしまう恐ろしく獰猛な生き物なのだ。
「いいね。君はとても分かり易くて、とても寄る辺ない」
「…………それは、良い事なのですか?」
「うん。僕達妖精は、寄る辺なくて無垢なものがとても好きだからね。…………でもここには、あまりそういうものはないんだ」
「あなたはシーなのに、そのお城に、あなたの好むようなものがないのでしょうか?」
「おっと、そう言われちゃうと、少し悲しいなぁ。………それでも、この城ではあまり見付からない物なんだよ。例えば誰かが僕を望み、望まれた何かを僕が差し出してあげても、君のように喜んでくれる者はとても少ない。………みんな、すぐにどこかへ行ってしまうからね」
「まぁ。…………もしかしてあなたは、お友達がいないのです?」
「あ、そういう事になるんだ。…………ええと、友達という者は、確かにいないのかな?………うーん、それもよく分からないや。みんな僕を大事にしてくれるけれど、与えた物を僕の目の前で広げて喜んでくれる事はない。持ち帰って、他の誰かと楽しく開くんだ」
そんな事をどこか途方に暮れたように告げられ、アンディエールは、首を傾げた。
(この人はこんなに美しいシーなのに、それでも、とても孤独なのだろうか……………)
遥かに年上の男性なのに、まるで迷子の子供の相手をしているような気分だが、単に仲間外れにされているという感じでもなさそうだ。
もしかするとそれは、王族だから敬われているだけではないかなとも思ったが、当人は、そんな扱いが寂しいのだろう。
そしてこの生き物は、寂しいという言葉すら知らずにいるのかもしれない。
(私ですら、その言葉を知っているのに…………)
「私はどこにも行けないので、ここで贈り物を開くでしょう。もし、他の誰かの為に用意した贈り物への反応が思わしくなければ、是非にこちらに持って来て下さい。なお、食べ物以外の物は扱いに困りますので、お受け取り致しかねます」
したたかな人間がこんな好機を逃す筈もなく、アンディエールは、すぐにお口に入れたい林檎のクッキーをまだ手に持ったまま、そんな提案をしてみた。
思い出どころか記憶すらない家族は、そんな妖精との取り引きで、我が身どころか国そのものを滅ぼしたのだ。
その娘であるアンディエールが、こんな交渉をするのはきっと、愚かな事なのだろう。
(けれどももし、…………これで、今夜はあのナイフを使わずに済むのなら)
そう考えて心の天秤にかけたのは、アンディエールの人生に残された僅かな時間であった。
今年の秋の収穫祭には、森の妖精の王子の誕生日がある。
人間にしてみれば随分なお年寄りだが、妖精の王子は、その日に漸く妖精としての成人の日を迎えるらしい。
そして、アンディエールが生きていられるのは、その日迄なのだった。
『まぁ、可哀想に。知らされていなかったのね?お前は、ヴァシリー王子のお誕生日の夜に、晩餐にされてしまうのだそうよ。人間の乙女の髪が砂糖菓子になるのは、うら若き乙女までと決まっているの。お前の年齢では、そろそろ難しいでしょう?供物にもならない人間を、この城に置いておいても仕方ないのよ』
アンディエールにそう告げて微笑んだのは、春の舞踏会で出会った、檸檬色の瞳を持つ妖精の貴族の娘だ。
おやつ相当の人間と舞踏会で行き会ってしまったのがご不満だったのか、美しく意地悪な声で、そう教えてくれた。
だから、その日からずっと、アンディエールは考えてきた。
このままずっと一人ぼっちで、誰も優しくないお城の中で死ぬ迄摩耗されてゆくのか。
それとも、苦心して手に入れたまま、どうすればいいのか分からずに隠し持っている新月の夜を紡いだ水晶で出来たナイフで、この心の中に残されたちっぽけな願い事に賭けてみるか。
アンディエールという人間の矜持を慰めるのは後者であったが、その為にと考えていた、誰も部屋を訪ねない筈の夏至祭の夜の脱走劇の前に、こんな不思議なお客が来てしまった。
けれども、膝の上に置かれた美しい缶から美味しいクッキーをいただけば、アンディエールは、夏至祭の夜にナイフを持って出かける必要がなくなった事に、自分が安堵している事に気付いたのだ。
(だって、今夜は夏至祭なのだ……………)
妖精達が浮かれ騒ぐ美しい夜で、そこかしこから、楽しそうな音楽が聴こえてくる。
窓の外で薄物を翻して踊る妖精達は、くらくらと目眩がしそうな程に美しい。
そんな風に皆が楽しんでいるのに、どうしてアンディエールだけは、ナイフを持って、暗い夜の中に出かけてゆかねばならないのだろう。
既にもうこの人生は不公平なばかりなのだから、せめてこんな美しい夜くらいは、この惨めさを増やしたくない。
(こんな事は、今迄なかったわ………)
おとぎ話のような幸運が齎された夜なのだから、犯す筈だった罪の代わりに、無謀な交渉に挑むのもいいかもしれない。
どちらにせよ、アンディエールに残された自由など、ほんの僅かなものなのだ。
ここはもう、古き森を治める妖精の国。
深い深い森の中のお城から、この城の外を知らないアンディエールが、たった一人で逃げ出せる筈もない。
「女の子は、妖精でも人間でも、ドレスや宝石も喜ぶものだけれど、そのような物はいらないのかい?」
「そのような物を貰っても、私には、使う場所がありません」
「君だって、ヴァシリーの婚約者だ。舞踏会に呼ばれる事もあるだろう。………今夜のような、妖精達が羽目を外してしまう夏至祭では、逃げ出さないように部屋に閉じ込められていてもね」
その言葉に、どんな顔をすればいいのかは分からなかった。
確かにアンディエールは、とある妖精の王子の婚約者であるが、それは、彼の成人の儀式で晩餐に上がる、生贄としての称号である。
アンディエールが今年の収穫祭迄しか生きられない事を教えてくれたご令嬢は、その王子が、無事に成人を迎えた後にと控える伴侶としての婚約者であった。
「だとしても、私が身に着けられる物は限られています。ですので、私は、私の責任に於いて私自身が消費出来る物を、お受け取りするようにしますね」
「…………それは即ち、料理やお菓子のような?」
「はい!」
ここは、冷静な眼差しで交渉をするべき場面であったが、アンディエールは、うっかり勢い良く頷いてしまった。
目の前の妖精がくすりと笑い、しまったと目元を染めたが、幸いにも彼は機嫌を損ねた様子はない。
「いいよ。ではそうしようか。今夜は夏至祭だ。妖精と人間が契約を交わすのにはもってこいの夜だし、僕は、君が気に入ったからね。邪悪な人間なのかどうかはまだ分からないけれど、すっかり退屈していたんだ」
けれども、そう微笑んだ目の前の美しい妖精は、寝台の下に隠してあるナイフの事まで、すっかり彼に見通されているような気がした。
(………でも、私は、果たして邪悪な人間なのだろうか?)
そう考えて、心の中で小さく頷く。
妖精達に愛される愛し子がそう言うのなら、恐らくは本当にそうなのだろう。
だからアンディエールは、今夜もきっと、隠し持ったナイフをぴかぴかに磨くのである。