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窓を打つ雨の音が大きくなってきた。遠くで雷鳴も聞こえ始めた。桜を散らす春の嵐になりそうだ。
テレビはニュースに混じって注意報のテロップが表示されていた。そんなテレビを横目に、イズモはキッチンで米を研ぐ。料理はできないが米だけは炊いて、おかずは近所のスーパーのお惣菜で済ませるつもりである。
「それにしても、すごい雨だな」
炊飯器のスイッチを入れ、タオルで手の水気を取ると、イズモは窓越しに外の様子を眺め呟いた。バケツをひっくり返したかの様な大雨で、数メートル先も見えない。いくら雨の多い地方とはいえ、ここまで豪雨になるのは珍しい。
「これじゃ、買い物に出られないや。お前、晩メシ少し我慢できるか?」
米を研ぐ姿を横で見守っていた犬は、イズモの問いかけにぱちりと瞬きをするとそそくさとその場を後にし、ソファの上に伏せた。ところでこの犬、意外とグルメである。ドッグフードは一切口につけようとせず、むしろイズモたちの食べるおかずを欲するのだ。仕方なく夕飯のおかずを分け与えているが、健康が気になるところである。
雷が近づいてきた。遠くでごろごろと鳴っていた雷は、やがて地響きの様な音を立ててこちらにやってきた。窓が割れそうな勢いで風も吹き荒れている。そんな大荒れの天気の中、唐突にインターホンが鳴った。
──こんな雨の中、誰だろう
モニター越しに玄関の様子を見る。郵便配達の様だ。嵐の中待たせるのは忍びないと、イズモは急いでリビングを出た。
「建速さんのご自宅ですね?」
玄関を開けると、雷雨の音に負けないよう声を張り上げる配達員がいた。イズモは水滴が少し滲んだ小包を受け取ると、伝票に受け取りのサインを書き込んで返した。改めて小包に目をやると、宛名はイズモになっていた。
扉を閉める。小包はノートよりもひと回りほど小さな大きさである。中身は何かの本だろうか。文庫本程度の厚みがあった。イズモは封を破り、中身を取り出す。出てきたのは、御朱印帳の様な帳簿だった。藍色の布地貼りの硬い表紙は四隅に極彩色の雲の刺繍が施されている。帳簿は開かないように赤い紐でぐるりと巻かれていた。
「こんなもの頼んだ覚えないぞ」
イズモは冊子で顔を仰ぎながらリビングに戻り、テレビの前のコーヒーテーブルの上に放った。ソファに寝そべっていた犬は、びくりと背筋を伸ばした。
「明日返送しよう。なあお前、お茶とかは飲めるの?」
イズモは冷蔵庫に手をかけ、犬の方を振り返った時だった。彼は帳簿を口に加え、突然リビングを飛び出していった。
「お、おい!犬!」
イズモは慌てて追う。彼はシャカシャカと玄関の鍵を引っ掻き、器用に開けると豪雨の中に飛び出していった。イズモは傘もささず、続いて飛び出した。
「待て!それ返送するんだぞ!」
あとで知らない請求が来てはたまったもんじゃない。弁償ならなおさらだ。少ない小遣いをそんなことに割きたくはないのだ。
とはいえ、相手は動物だ。無我夢中で追うも、あっという間に姿を見失ってしまった。
「アホ犬ー!」
イズモは握り拳で太ももを叩いた。ふつふつとやり場のない怒りがこみ上げてくる。ずぶ濡れの衣服が肌にまとわりつき、怒りを助長した。
悪態を叫んで踵を返そうとした時だった。雨の中、道の向こうから何かがこちらへ駆けてくる。雫が目に入り視界がぼやける。滲みる目を擦ってこらすと、そこにはあの犬の姿があった。
「お前!この──」
とっ捕まえてやろうと身構えたイズモに、あろうことか犬は飛びかかり、捨て身のタックルをかましてきたのだ。反射的に身を翻して肩で受け止めるも、勢いにイズモは倒れた。
犬は咥えていた帳簿をイズモに押し付ける。不思議なことに、この土砂降りの中でも帳簿は全く濡れていなかった。まるで水を弾いているようだ。呆気に取られていると、犬はシャツを噛み強く引っ張り引きずった。
「この、離せ!」
気が動転したイズモは犬の頭部を殴った。ギャンッと短い悲鳴とともに彼はイズモを離す。刹那、ドンッ!と腹に響く太い音が鳴り響いた。落雷の音ではない。
イズモは恐る恐る立ち上がった。再び、ドンッという太い音。次はもっと近くだ。イズモは辺りを見渡した。ふと、遠くに影が見える。影はすぐにその姿を現した。この距離からでも分かる、信じられないほどの巨体だ。獣か、いや化け物だ。どす黒い血のような色をした、四足歩行の化け物である。それは、イズモと目があった。次の瞬間には、この世のものとは思えない恐ろしい咆哮を上げ、激しく水しぶきを上げてこちらへ向かって駆け出してきていた。四肢がばらばらに地面を蹴るその走り方は不協和音のように不気味だ。
イズモは逃げようにも足が動かない。完全にすくんでしまった。夢でも見ているのか。なんだ、あれは。
突如、足に電気のように激痛が走った。犬がかぶりついたのだ。逃げろと言っているのか。
我に返ったイズモは弾かれたように駆け出した。何が起きているのか全くわからない。先導する犬を追い、死に物狂いで走る。背後を振り返ると、見上げるような化け物はすぐそこまで迫っていた。
この距離でようやく見えた。恐ろしい形相である。飛び出さんばかりの眼球は真っ赤に充血し、顔面の肉は腐ったようにただれている。剥き出しの歪な牙は、空をガチガチと咀嚼するようにけたたましく動いている。
だめだ、追いつかれる。そう思った時、化け物が飛びついてきた。イズモは思わず頭を手で覆う。その瞬間、犬は突如地面を蹴り返し、イズモの頭上を飛び越えていった。どこからともなく鈴の音が響き渡る。そして、どこからともなく現れた木の葉に包まれたかと思うと、人の影が飛び出してきた。
影は化け物に飛びかかった。鈍い音とともに、化け物の顔面が歪む。そして、その巨体はイズモの隣へ叩きつけられた。イズモは痙攣する化け物を見、続いて影の方へと視線を移す。
そこには、尻端折りのうぐいす色の着物を身にまとい、自分と同じくらいの背丈の、凛と立つ人の背中姿があった。いや、あるいは獣だろうか。豊かな尾が揺らぐ。半人半獣の彼には、あの白い犬の姿面影があった。
「お前……あの犬か?」
イズモの問いかけに、彼は振り向く。
「我が名は八千矛丸。主神・ミズオミツノカミの命により、あなたを災厄よりお護りいたすべく馳せ参じました」
凛とした少年の声で語らう彼は、まだどこかあどけなさの残る顔をイズモに向けた。
「ミズオ……なんだって?」
うろたえるイズモに、彼は眉をひそめた。
「ミズオミツノカミ。私の祖父です。狼の」
八千矛丸は自身を狼、と暗に強調した。まだ首をかしげるイズモの様子を見て、肩を落としゆっくりと歩み寄る。
「あなたの持つその朱印帳には、恐ろしい力が宿されている。その力に魅かれ、こうして災厄が現れる」
八千矛丸は隣で横たわる化け物の方を向いた。
「でもあれはまだ祟り神。手を出したくは無かったのに──」
雨の音にかき消されそうな声で、つぶやくように言った。イズモが「えっ?」と聞き返すよりも前に彼はイズモの手を引っ張った。
「私の役目はあなたを護り、その朱印帳をミズオミツノカミの元へ届けること。祟り神が気を失っているうちに、早く行かねば」
八千矛丸は早足でイズモを引っ張っていく。
「あのさ、なんなんだよ。これを盗んだかと思ったらバケモン連れて帰ってくるし」
イズモは依然として濡れることのない不思議な朱印帳をひらひらと仰いだ。
「祟り神に巻き込まれる前に、あなたを朱印帳から離したかった。でも、間に合わなかった……祟り神は、目を覚ませば再び朱印帳を狙って襲ってきます」
「じゃあ倒せばいいじゃんか、お前あんな凄い蹴りができるのなら倒せるんじゃないの?」
イズモが八千矛丸の赤裸足の足を指差して言うと、彼は首を横に振った。
「なんでだよ」
「いいから、急いで──」
急かそうとイズモの腕がぐいと引っ張られたかと思うと、ぱたりと八千矛丸の足が止まる。同時に耳がピンと張った。イズモはその様子に、祟り神の方を振り返った。祟り神は昏睡から目覚め、身を震わせると再びこちらに向かって駆け出してきたのだ。心なしか、先ほどよりも動きが早く感じる。
「お、おい、来たぞ!」
八千矛丸はイズモの手を離すと祟り神に向かって駆け出した。雨を裂くように祟り神が大樹の様な腕を振るう。八千矛丸は水しぶきを上げて地面を滑走し、その腕を交わすと懐へと飛び込んだ。鈍い音とともに祟り神の体が浮き上がる。八千矛丸の蹴り上げが入った。