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「次、建速」
新学期が始まって数週間ほどが過ぎた。クラス替えこそあったものの、馴染みのあった同級生と別れ、それぞれの進路へついた昨年の入学式ほどの新鮮味はない。
授業数は増えた。授業の担当教師もほとんど変わり、初めの1週間目こそ紹介の挨拶から始まるどこかよそよそしい雰囲気はあったが、それも翌週には教室の天井を紙飛行機が滑空する程度にこなれてきた。幸いなことにこの学校には絵に描いたような不良はいないが、背筋を伸ばし真面目に板書を写す生徒たちから見れば、それ以外は不良の類だろう。
「建速、聞こえてるか」
特に昼休みが終わってからは、授業は消化試合だ。睡魔と戦いながら、いかに学問に触れることなく、かつサボっている様子が先生にバレないよう有意義な時間を過ごすかが肝要である。例えるならば、これはスパイの潜伏活動だ。真面目な生徒に混じり、さも授業を聞いているフリをしながらサボタージュに手を染める。堂々とやるのは馬鹿のやる事であって、これがバレるのも然り。
(おいイズモ、呼ばれてんぞ)
ひそめた声が背後から聞こえてきた。同時に、椅子を介して臀部に衝撃を覚えた。
「はい!はーい。……何ですか?」
イズモと呼ばれた黒髪の少年は、弾かれたように勢いよく立ち上がった。クスクスと嘲笑の声が辺りに散らばる。先生は教壇越しに、死体を見るかの様な目で呆然とイズモを見つめていた。
「えっ、俺が呼ばれたんだよな?」
不安になったイズモは、状況が飲み込めないまま後ろの席を振り返り同級生であるケンジに尋ねた。
「建速、お前、何を持ってんだ」
ケンジが返すより先に、怒りを押し殺した先生の声が届いた。イズモははっとした。勢いのあまり、机の下で隠しながら使っていたスマホを握ったまま立ち上がっていたのだ。脳内でまさしく光の速さでニューロンが結合されていくのがわかる。そうして得られた回答は次の通りだ。
「……電卓ですね」
「後で職員室に来い」
ジェームズ・ボンドならこの状況からでも英国紳士よろしくスマートに巻き返すことができたかもしれない。純日本人のイズモは「ジーザス」と天を仰ぎ、力なく着席した。
やや黄砂で黄ばんでいた青空は、放課後のチャイムが鳴り終わる頃にはじっとりと暗い雲に覆われていた。職員室でこっぴどく怒られた上にスマホを取り上げられ、反省文を書くための用紙を束で受け取ったイズモはすっかり意気消沈していた。
他の生徒が部活動に向かう中、昇降口で力なく靴を履こうとしていると、首筋に重い衝撃が走った。
「これで勉強に精がでるな!」
馴染みのある声。イズモは自分の首に回されている腕を振り払った。
「お前、ほんっと性格悪いよな。ケンジ」
ケンジは剣道着姿でげらげらと笑っていた。
「お前が悪いんだぞ。俺はちゃんと教えてやってただろう?」と胸を拳で叩く。
「もう、さっさと部活いけ。道場はこっちじゃないだろ」
「今日は新入生の部活見学で忙しいんだ。帰宅部はどんくらい見学に来るんだ?」
イズモはケンジの尻にめがけて蹴りを入れる。ゲラゲラとその場から逃げるように退散するケンジに、「また小便漏らせ!」と吐き捨ててイズモは昇降口を出ていった。
警察官だった父親の影響で始めた剣道。ケンジとは小学校の時に町の剣道場で一緒になってから長い付き合いだ。実力は同じくらいで、大会にもよく一緒に出た。
道場に入りたての頃はケンジの方が体も大きく、彼のほうが先に入門していたのでよく負けて帰ってきた。それが悔しくて必死で稽古に励み、ある時練習試合で会心の一撃とも言える、今でも忘れないほど強烈な面を放ったのだ。脳震盪で気絶したケンジは失禁したのだが、その出来事はイズモとケンジの距離をぐっと縮めた。
二年前に事故で父親を亡くし、同じ時期に怪我をして以来イズモは剣道から身を引いたが、付き合いは続いている。まさか同じ高校になるとは思わなかったが、あまり友達を作らないイズモにとっては嬉しいことでもあった。
昇降口を出て体育館の横を過ぎ、自転車置き場へと向かう。カバンのポケットから自転車の鍵とコードに巻かれた小ぶりのオーディオプレイヤーを取り出す。前カゴにカバンを放り投げ、イヤホンを耳に突っ込んでプレイヤーを起動すると自転車にまたがった。
空はどんよりとしているが、小高い山の上にあるこの商業高校を取り囲む桜は満開だ。風に揺さぶられ吹雪く桜の花びらの中を自転車で駆け抜けていくと、ぬるい春の香りが鼻腔をついた。
スマホを取り上げられたものの、帰路につくと落ち込んでいた気持ちも自然と風に流され晴れていった。というのも、ここ数日前に建速家はちょっとした不可解な事件に巻き込まれており、それどころではないのだ。
厳密には、イズモの祖母の家で起きた事件である。