第四十九話 【決意は軽く砕かれ】
許せなかった。
心に決めた人がいると言いながら、わたしにあんなことを──しかも二度もするなんて。いくら珠緒さんからの交際の申し込みがしつこかったからといっても、人前であんなにも深いキスをするなんて。
(……人の心を弄ぶなんて、酷いよ)
涙を溢しながら駆け、葵の車の傍で膝を抱えて彼女を待った。しばらくして現れた葵は、わたしの頭をポンポンと叩くと「帰ろ」と言って腕を引いてくれた。
自宅のアパートに送ってもらい、キャリーバックに着替えや生活用品を詰め込んで、愛車に積み込んだ。気持ちが落ち着くまで、葵の住むアパートに世話になるためだった。
「好きなだけいればいいよ」
そう言ってくれた葵は、何やら手のひらサイズの紙袋をわたしに差し出した。開けるよう促されるので、その場で開封する。中に入っていたのはセバスチャンが車のキーに着けていた、金魚のモチーフのストラップだった。珠緒さんが着けていたピアスのデザインとも似ている。
「あのカフェの売店に売ってたんだ。可愛いなって思って」
車の傍で葵を待ってる時、なかなか来ないなと思ったら、まさかこんなものを買っていたなんて。
「……ありがとう」
「気か向いたら着けたらいいよ。私とお揃いだよ」
「ついでに言えばセバスさんともだね……」
流石にこんなことのあった日に、もう一度そのストラップを見たいとは思わなかった。葵には悪いが、しばらくは鞄の中で眠ってもらうことにした。
わたしが葵の家で世話になり始めてから五日経った金曜日。この日は前々から決まっていた課の飲み会だった。この日のために仕事を溜めたくないとブーブー言っていた先輩の瑞河さんは、自分の納得する程度までは仕事を片付けてしまったようだった。
この飲み会が終わったら、わたしは家に──セバスチャンの待つあの部屋に帰ろうと心に決めていた。荷物の詰め込まれたキャリーバックは愛車のジュリエッタの後部座席に載っている。お酒を飲まず彼に会って、きちんと話をするつもりだった。
葵は無理をするなと言ってくれたが、わたしはセバスチャンと約束をしていたのだ。──土曜日に開催される花火大会に一緒に行くのだと。その為にもきちんと彼と話をして、どうして好きでもないわたしにあんなことをしたのか、彼の口からはっきりと理由を聞き出さなければならなかった。
──同時に、わたしの本当の気持ちも伝えなければならない。
彼にどう思われていようと、約束はきちんと果たしたい。
それで二人の関係が終わるのだとしても。
*
総勢二十二人で始まった課の飲み会。三十分遅れてやって来た蝶野係長が揃った所で再び乾杯の声が重なった。居酒屋の貸し切り広間の戸ががらりと開いた瞬間、彼女は得意の大声で「みんな飲んでるか~!」と叫んだ。
「ええー!? 真戸乃先輩飲んでないんですか?」
わたしがビールではなくノンアルコールビールを飲んでいることに気が付いた美鶴くんが、目を見開きながらずいっ、と距離を詰めてきた。そんな彼の手には芋焼酎のロックグラス。可愛らしい見た目によらず、なんとも渋いチョイスだった。
「ちょっとね」
「ええー! 僕、真戸乃先輩と飲みたいですよー!」
開始三十分で酔いが回りつつある美鶴くんは、ほんのりと赤らんだ頬を膨らませながら更にわたしに近寄った。太股と肩が触れた瞬間、彼は「あいたぁ!」っと声を上げて床に転がった。
「コラ鶫! 飲まん奴に酒を勧めんな酒を! 体調悪くて飲めんだけかもしんねーだろうが」
美鶴くんの背中を叩き上げたのは、わたしと同期の蟹澤くんだった。いつもおっとりと下がっている眉を吊り上げ、なんとなく怒っているようにも見える。
「カニちゃんよく言った! 美鶴もドンマイ!」
そんな蟹澤くんの背中を乱暴に叩くのは瑞河さんだった。ビールジョッキを片手に今度は美鶴くんの耳を引っ張り上げている。
「で、真戸乃具合悪いの?」
「具合が悪い訳じゃないんですけど」
「飲まないの?」
「本当は自棄酒したい気分なんですけどね……」
「……うん?」
「えっと……」
ちょいちょい、と部屋の隅に瑞河さんを呼び、「実はセバスチャンと喧嘩して、友人の家に世話になっている」という嘘を吐いた。友人の葵の家に世話になっていることは事実だが、喧嘩ではなく、一方的にわたしが怒っているだけなのだから。
「だから今日このまま飲まずにうちに帰って、それで……謝ろうって」
「そっか。でもさ」
瑞河さんはビールジョッキをわたしの前にゴトンと置くと、にやっと笑いながら肩を抱いた。
「ここのビール、真戸乃の好きなサッポロだよ」
「え」
「それにさあ、今日パーッと飲んでスッキリして明日謝ればいいんじゃない?」
「……う」
瑞河さんの言うことにも一理あるような気もする。こういう席ではいつも必ず飲酒するわたしが飲んでいないのを見て、課長も係長も不思議そうだ。
「真戸乃くん、ちょっと」
上座に座っている十紋字課長がわたしを手招いている。近くの瓶ビールを手に、恐る恐る背後に回ると「まあそう身構えるな」と座るよう促された。
「君に話さなければならないことがあってな」
「……なんでしょうか?」
課長のグラスにビールを注ぐ。一気に飲み干すので再び注ごうとするが、制止された。
「先日の『彼』、どこで会ったのか思い出したんだ」
先週セバスチャンがわたしを会社まで送ってくれた時のこと──核村と喧嘩になりそうだった所を、その場に居合わせた課長が止めに入ったのだ。後になって「彼にどこかで会ったことがある気がする」と言われて、わたしはあの時大層驚いたのであった。
「実は、私の家は空手の道場で」
「か、空手ですか!?」
「ああ、父の開いた道場でね、今の師範は私なのだが」
「はあ……」
課長の怖い顔──強面な顔で胴着を着ていても何ら違和はないなと思ってしまう。師範っぽいかと聞かれれば──イエスだ。
「それで、もう十年近く前のことなんだが──彼によく似た子が入門していたんだよ。顔の綺麗な子だったからよく覚えている。恐らくは本人だと思うのだが」
「……そうなんですか」
(十年近く前──高校生の頃のセバスチャンが課長の道場でお世話になっていたの……?)
「真戸乃くん?」
「──すみません」
「どうかしたのか?」
「いえ、あの……何でもないです。わざわざありがとうございました」
やっぱりわたしはセバスチャンについて知らないことだらけだった。彼の実家のことや仕事のことは先日知った──でも。
(肝心の『恩返し』っていうのが何なのかわからないままなんだよね)
彼はわたしのことをどれだけ知っているのだろう。わたしと五分五分といったところだろうか?
課長にもう一度お礼を述べ自分の席に戻ると、瑞河さんに生ビールの中ジョッキを差し出された。
「どうする? 飲むの?」
「むう……」
受け取り、見つめる。ジョッキの向こうの大テーブルには、揚げたての鶏の唐揚げが湯気を上げていて非常に美味しそうだ。
「まーどーのーぉ」
「……飲みます」
黄金色のビールをジョッキの半分ほど飲み干す。あれほど飲むまいと決めていたのに、誘惑に勝てなかった自分が情けなかった。
次回は土曜に更新します。




