第十九話 【危険な香り】
出来るだけ抑えて書いたつもり……です。
付き合い始めるよりも先に身体の関係を持ってしまったわたし達は、互いの都合が合えば顔を合わせ、体を重ねた。実家が隣同士の幼馴染だけあって、子供の頃から共に過ごす時間が長かったせいか、傍にいて安心もしたし、気も楽だった。
あれは何時だったか──もうはっきりとは覚えていないが、いざ愛し合おうかと桃哉がわたしに覆い被さった時のことだった。
『桃哉、わたしのことちゃんと好き?』
ふいにそんなことを口にしたわたしの顔を不思議そうに見ながら、あいつはただ短く、
『ああ』
と耳元で囁いてわたしの足を開き、体を捩じ込んできたことがあった。
あの出来事を境に、徐々に──なんとなく気持ちが冷めていったのだ。肯定の言葉の後に、好きだ、とか、愛してる、と言って欲しかっただけなのに。
愛情は、体を重ねて確かめ合うだけじゃなく、言葉にしてくれないと分からない。何度もそう言ったはずなのに、桃哉は──。
こういう風になる前から一緒に出掛けたり、恋人のようなことはそれなりにしてきたはずだった。しかしそっけない桃哉の返しにわたしの彼への愛は薄らいでいったのだった。もともと浮気っぽいところもあったし、少し顔が良いからといってすぐに調子に乗る奴だった。だから交際を始めて二年弱──二十四歳の冬にさよならをしたのだ。
「桃哉、どうして……」
その男が、後ろ手に玄関の戸を閉める。カチャリと音がしたのは、恐らく鍵の閉まる音だったのだと思う。
「これ、持ってきたんだ」
そう言って野菜の入ったビニールを突き出した。
「見ればわかるわよ」
「そっけない奴だな」
まあ、ありがとう──と言いながらその袋を受け取った。
「…………ッ、なに」
途端、手首をぐい、と掴まれた。
「……離してよ」
「酔いざましさ。ちょっと飲み過ぎちゃって」
「人の話聞いてんの?」
「聞いてるさ」
「じゃあ、離してよ」
わたしの手首を掴んでいる桃哉の手首を、反対の手で掴む。離せ、と引っ張り力を込めても、流石に単純な腕力では敵わなかった。喧嘩じゃ負け無しのわたしでも、桃哉にあまり手荒なことはしたくなかった。
「……おじさまは?」
「いつものジムだよ」
「で、なんで桃哉が来るわけ?」
「親父の筋トレが終わるまで久しぶりにほたると飲んで待ってるから、一緒に車に乗っけて行ってくれって頼んだんだ」
「ここでまだ飲むつもり?」
「まさか」
桃哉は靴を脱ぎ、玄関を上がる。わたしの手を掴んだまま前進してくるので、仕方無しにわたしは後退する。リビングへと続く廊下の真ん中まで、トトトッと進みかけた所を、壁際に逃げた。
「半年ぶりくらいか? ほたる」
「だったら何。用がないなら帰ったら?」
「彼女にフラれたんだよ、慰めてくれよ」
「……知らないわよ」
わたしと別れてからというもの、桃哉は女と付き合い──そして別れては、「慰めてくれ」と言ってわたしの部屋を訪ねてきた。慰める、というのが何を意味するのかは、言わずもがなである。
「親父、最低でも二時間はここへ来ねえよ」
「……だったら、」
「だから──」
「痛いっ」
両手首をギリリと握られる。そのまま背中は壁へとぶつかり、激しく叩きつけられ頭を打った。
「いやっ、ちょっと……!」
「なぁほたる、いいだろ」
「お酒くさっ…………やだ、もうこういうのは止めにしようって言ったじゃん!」
「とか言って、いつも委ねてくれてたのはどこのどいつだよ」
「それは、桃哉が無理矢理……」
「嬉しいくせに」
「や……やめっ…………んっ…………!」
乱暴に唇を塞がれる。声を発することが出来なくなり、両腕も封じられたままだ。
「……誰かいるのか?」
唇を離した桃哉が、脱衣場の扉を振り返る。湯船に浸かったセバスチャンが、水面をぱちゃぱちゃと叩くような音が聞こえた。
(セバス……さん)
声を発そうとした刹那、手で口許を押さえつけられた。そのまま更に後退し、勢いよく床に叩き付けられてしまった。
「……誰だよ」
「……」
「彼氏か?」
「……」
「イイご身分だな」
わたしのショートパンツの金具に手を掛けながら、桃哉が低い声で言う。彼の手を叩いて反撃をしたが、手首を踏みつけられ封じられてしまった。ファスナーを下ろしきると、今度はトップスの裾から手を滑り込ませてきた。
「んっ!」
再び反撃を試みる。空いた左手で桃哉のこめかみをグーで殴り付けた。
「っ……流石に痛ぇな……」
言いながらも滑り込んできた右手は、わたしの肌を撫で回す。触れてほしくない部分に指が伸びてきたので、口を塞いでいる桃哉の指に噛み付いた。
「痛え痛え! 噛むなよ馬鹿」
「馬鹿はどっちよ!」
「彼氏が入浴中に元彼に犯されるっていうシチュエーション、なかなかいいんじゃねえの?」
「よくないわよ! 馬鹿ッ!」
「デカい声出すなよ」
「や……やだ、ちょっと……変なとこ触んないで……やめッ……て」
──その時。
──ピンポーン
インターホンが鳴った。次いでドアをドンドンと叩く音──誰だ。
「おーい桃哉! 車の中にスマホ忘れとったぞー!」
大家さんだ。助けを乞おうと声を出すも、一言目で唇を塞がれた。
「んッ! んーんーッ!」
「桃哉ー?」
わたしの上に跨がるこの馬鹿は、一体どうするつもりなのだろう。大家さんは部屋に入って来れないにしても、本当にこの場で──
──あ。
次の瞬間、桃哉の体が吹っ飛んだ。どうやら飛び膝蹴りを食らったらしい。激しく壁にぶつかった彼は体を丸めて痛みに耐えている。
「ってぇ……」
その脇に立つのは──。
「セバス……さん……」
拳を握りしめ、怒りを剥き出しにしたセバスチャンだった。長い髪から水を滴らせながら、彼は桃哉の胸倉を掴み拳を振り上げた。
「……ほたるさんに何をした」
着衣の乱れたわたしを横目で見ながらセバスチャンは言う。いつもの優しげな声色とはかけ離れた酷く怒気を孕んだ声に、一瞬気圧されてしまう。
「見ての通りだよ、彼氏さん」
「っ……こいつ!」
「やめて!」
セバスチャンが拳を振り下ろそうとしたところで、わたしは身を起こし叫んだ。それにつられて彼の拳は空中でぴたりと動きを止めた。
「何故止めるのですか」
セバスチャンの目線は桃哉に向けられたままだ。胸倉を掴まれ体を起こされた桃哉は、下からセバスチャンを睨み付けている。
「だって、血が……」
壁にぶつけたときに切れたのか、桃哉の額からはうっすらと血が流れていた。何か血を拭うものはないかとわたわたしていたが、それを見た桃哉は「大丈夫だ」と言ってわたしを制した。
ほたるは大家さんが大家として仕事をしに来た時には「大家さん」と呼びますが、そうでない時には「おじさま」と呼びます。幼馴染のお父さんですからね。




