第十七話 【その女、変態につき】
『なんてね、嘘です。つまらない理由をこじつけて、私がただ彼女と手を繋ぎたかっただけなのです』
ドラッグストアでセバスチャンに言われた言葉を、脳内でずっと反芻していた。
(冗談だよね、わかってる……でも)
あんなことを言われたとあっては、柄にもなくドキドキしてしまう。
「それにしても驚きましたよ。まさかほたるさんがアルファロメオに乗っているだなんて」
買い物を済ませ、アパートの階段をカンカンと昇る。スーパーとドラッグストアを周り、買い物袋は合計三つ。食品の入ったグレーチェックのエコバックは肩に掛け、日用品の入ったビニール袋は右手と左手に一つずつ。
わたしも持つ、と言ったのだが、セバスチャンは聞き入れてくれなかった。
「ほたるさん?」
「……え?」
足を止め、振り向いたセバスチャンは首をこてん、と傾げる。前髪がさらりと揺れ、蒼い瞳はわたしを見つめていた。
「アルファロメオがお好きなんですね」
「ええ、アルファロメオは格好いいですよ。語り出すと止まらなくなるので止めておけ、と忠告されたことがあるので語りませんが」
「本当にお好きなんですね」
「ローンはヤバイですけどね……」
「ふふ、でしょうね」
そう言って笑顔。ぎこちなく微笑み返すと、セバスチャンはくるりと背を向け、階段を昇り出す。
(さっきの言葉の真意が知りたい──帰ったら聞いてみようかな……でも)
でもきっと、わたしの中から勇気は顔を出してくれない。それに聞いてどうするというのだ。何が変わるというのだ。
やめておこう。そう決断を下し、顔を上げた。
──ガチャリ。
「あ」
「お!」
「……ん?」
三◯二号室──わたしの隣の部屋のドアが開いた。一人の人物が顔を覗かせる。
「おっすーほたる」
「樹李さん、こんにちは」
わたしより年は上らしいが、年齢不詳である彼女の名前は 格子 樹李という。頭のてっぺんでポニーテイルにした黒髪の毛先が、さらりと彼女の首を撫でる。絵の具の付いた白いTシャツに、ハーフパンツというラフな姿。
「樹李さん、お出かけですか?」
「流石にこんな格好で出かけない」
「シャツ、また汚れてますよ……いい加減、エプロンでもしたらどうなんです?」
「めんどくせー」
そう言って、樹李さんは金色のフープピアスがぶら下がった右耳を掻いた。
(そのシャツの汚れを落とす方が面倒そうだけどなあ……)
彼女は普段家に篭って、描いたり書いたり作ったり──まあ色々と、何から何まで創作している人だ。時々仕事終わりにバイトに向かう彼女に遭遇するのだが、日中に顔を会わすことは珍しい。
「珍しいですね、こんな時間にどうしたんですか?」
「ああ、お前が……いや、お前達が帰ってくるのを待ってた」
「……お前達?」
話が自分に飛んできたセバスチャンは、スッと半歩前に出ると頭を下げて名乗り出た。
「申し遅れました。セバスチャン・クロラウトと申します。ほたるさんの──」
「彼氏なのか?」
「「は?」」
二人揃って間抜けな声が出る。待て待て、これは今朝大家さんが来た時と同じパターンになるのではないのか?
何故か期待を孕んだ樹李さんの瞳に、流石のセバスチャンも何か察したらしい。口を噤んでわたしの方を向いた。
「ええっと、樹李さん……この人は、その」
「その?」
執事です、とでも言うつもりか?
樹李さんとは気心の知れた仲ではあるが、出会ったばかりの男を家に連れ込んでいると知られたら、どんな反応をされるかわからない。
「いや、ほたる。彼氏かどうかだけ教えてくれればいい。これから彼氏になる予定があるのであれば、それでもいいんだ!」
彼氏になる予定ってなんだ。というか何故彼女はここまで興奮しているのか。いつもは怖くて鋭い目をキラキラさせているし、鼻息も荒いこの女子は一体何なんだ。
「彼氏でもないですし、予定もありませんっ!」
「えー、なんだよ、つまんねー」
頬を膨らませ、ドカッ、と壁に背を預けた樹李さんは、顎を突き上げて溜息を吐いた。
「昨日一緒に風呂に入ってたのはおにーさんだろ?」
「え、ええ……そうですが」
「一緒に風呂に入ったくせに、エッチしてねーだろ、お前ら。お前のベッド、窓沿いの壁際にあるけど、あたしの聴覚なら余裕で丸聞こえなんだぜ」
「き、樹李さぁぁんっ!?」
思わずわたしは樹李さんに詰め寄る。Tシャツの胸ぐらを両手で掴み、激しく彼女の体を揺すった。
「止めーい! 止めーい! ほたる、なんだよー」
「なんだよー、じゃないです!」
気にはなるのだが、セバスチャンの顔を見ることが出来ない。恐らく赤面しているだろう、とは思うのだが。
「だってよー、ほたるさ。桃哉くんと別れてからもう随分経つだろ? お前のさー、喘ぐ声が聞こえなくて物足りないんだよ」
「樹李さん! ストォォォップ!!」
「隣の畔木の彼女の声は、あんまり好みじゃねーんだよ、甘過ぎて。お前のその、普段はそっけない話し方するくせに、抱かれてる時に出す可愛らしい声が好きなんだ」
すっかり忘れていたのだが、この人は──格子 樹李という女は、真人間ではあるが、ド変態なのだ。夜な夜な壁やら床に耳を押し当てて、隣人の行為を盗み聞いて己の創作の糧にしている、そういう人なのだ。
(──あ、真人間という言葉、取り消そう……)
「なあ、頼むよほたるさぁ、そこのおにーさんとヤる予定がないってんなら、あたしが抱いてやるから、可愛い声聞かせてくれよ」
「ばばばばば馬鹿なことを言わないで下さいッ!」
「お前じゃなきゃ駄目なんだよ! ここんとこ良い漫画描けてねーんだよー! この通りだ!」
腰を折り、深々と頭を下げる樹李さん。人間の頭はこういう時に下げるものではないんだと思うんだけどな。
ていうか、人のそういう声を聞いて漫画を描く糧にするなよ!
「無理です!」
「この通りぃ!」
「土下座しても駄目です!」
「イエスって言うまで折れねえ! いや、こっそり録音しておかなかったあたしも悪かったからさー!」
「録音はもっと駄目でしょ!!」
樹李さんはこうなったらテコでも動かない。一昨年の夏だったか、『ヌードを描かせてくれ! ベランダに隠すように干してあったお前の下着がチラリと見えてから、猛烈にお前の裸体が描きたくなった!』と頼まれた時も、大変だったのだ。
あれ以来わたしは、ベランダに下着を干すことを止めた。
「あの、樹李さん?」
足音もなく、いつの間にかわたしの背後にセバスチャンが立っていた。やはり予想通り、顔が赤らんでいる。
「おお! おにーさん! ヤる気になってくれたのかい!?」
ぱああっ、という効果音が聞こえてくるんじゃないか、というくらい明るく期待に満ちた顔を上げる樹李さん。そんな彼女の両手を包み込み、セバスチャンは片膝をついて笑顔を向けた。
(セバスさん、一体何て言うつもりなんだろう?)
「今すぐに、というのは難しいですが……いつか必ず、ほたるさんの嬌声をお届けしましょう」
「な…………なああああああぁぁっ!? セバ……セバスさん!? なにを……」
「大丈夫ですよ」
いや、待って、大丈夫ってなんだ。
その無垢な笑顔は何なんだ、わたしの執事さんよ。
思った以上に変態になってしまい、作者もびっくりです。




