第十三話 【疑いの目】
違う。そうじゃないんだセバスチャン。誰がご丁寧に挨拶をしなさい、と言ったの。それにセバスチャン・クロラウトって何?セバスチャンって偽名だってことはわかりきっていたけど、仰々しいファミリーネームだこと……。
ちらりと彼の顔を盗み見たが、なんだろう、この違和感。
(あ……隈?)
昨日出会った時にはなかったはずの隈が、目の下にくっきりと現れていた。
(ひょっとして、同じ布団で緊張なり興奮なりして、寝られなかったとか?)
まさかそんなはずは。性欲など捨て置いたと言っていたし──まあ、その言葉に反して、体の方は敏感だったみたいだから、なんとも言えないんだけど。
「セバスチャン・クロラウト!?」
「はい」
「外国の人だったのか!」
大家さんは多分アホだ。きっと脳みその方も体と同じで、ごりごりの筋肉で出来ているんだろう。
鼻も高いし背も高いけれど、セバスチャンの顔立ちはどう見たって東洋人だ。
「凄いなあ、日本語上手いなあ」
「ありがとうございます」
うちの大家さんはこの通りアホだが、非常に面倒見が良い。外廊下に蜂が巣を作っただとか、家に退治できない虫が現れただとか、蛇口の水漏れだとか、ヘルプの電話をするとすぐに駆け付けてくれる。頼りになるオッサンなのだ。
大家さんとセバスチャンは他愛もない会話を済ませたのか、じっとわたしを見つめていた。
「えっと……?」
「いやあ、すまん! 顔を見るとつい思いだしてしまうな! あの綺麗な乳!」
「だから! もうやめて下さいって!」
どうして朝っぱらから乳って連呼されなければいけないんだ。セバスチャンを見ると、彼は何故か正座の体勢から三角座りになっていた。何故?
「……セバスさん?」
「大丈夫です……」
「耳、赤いですよ?」
「大丈夫です!」
あれ、後ろを向いてしまった。まあいいか、放っておこう。
「それで大家さんは何の用で来たんです?」
「あー、忘れとったわ。実はな、騒音のクレームが入ってな」
「騒音?」
「ああ。昨日の夜だ。『風呂に入っている男女が、イチャイチャしながら騒いでいるような声がうるさい』って電話がかかってきたんだ。『多分三◯三号室だ』という情報付きでな」
「「うっ……!」」
わたしが声を発すると同時に、セバスチャンの肩もびくりと跳ね上がった。不味い。
「ほほう……そういうことか、ほたる」
「ええっと……」
「久しぶりの彼氏だからと浮かれて風呂場でイチャイチャして、そのままエッチして裸で寝てましたってか!」
「違います! 久しぶりの彼氏でもないし、そもそも彼氏でもないし、エッチもしてませんッ!」
「ぶはっ!」
バンッ、と大家さんがテーブルを叩いたので、わたしもつられてテーブルを叩く。終わりかけの食事の入った器たちが、小さくジャンプした。
言うまでもないが、吹き出したのはセバスチャンだ。
「ああん? 彼氏でもないやつと、何で風呂に入るんだ?」
この見た目で、ドスの効いた声ならば怖いのだが、大家さんは実にアホっぽい声を出しながらセバスチャンを睨んだ。
「ええと、私?」
「そうだろ。エッチしてないって言うんなら、にーちゃんも否定してくんないと」
「あれ、大家さん信じてくれるんですか?」
「このにーちゃんの返答次第だ」
何故大家さんがここまで執拗に問い詰めるのか──それは。
「してません、断じて」
「ほう」
「お互い一番風呂を譲り合ったのですが、どちらも折れず、結果的に一緒に入ったまでです。やましいことはありませんでした」
「ふむ」
──大家さんはわたしの幼馴染みのお父さんだから。
このオッサンはオッサンなりに、わたしのことを心配してくれているのだ。
*
もう一度騒ぎを起こしたら家賃は二倍、セバスチャンが彼氏なのかどうかについては深くは聞かない。
「──お前たちにも事情があるんだろうからな」
そう言って大家さんは口を結ぶと立ちあがり、スタスタと玄関へ向かった。
「あの、大家さん」
「なんだ」
サンダルに足を通す背に、わたしは声をかける。
「……桃哉には黙っておいてくれますか?」
「なんだ、知られたら不味いのか?」
「……面倒なことになるのが嫌なだけです」
振り向いたオッサンは、「おお、こんなところにあったのか」と言いながら、額の上に乗せていた老眼鏡をズボンの尻ポケットに突っ込んだ。
「多分それ、割れますよ」
「忘れんわ、大丈夫だ」
じゃあな、ご馳走さん、と手を振ると鼻歌混じりに大家さんは帰っていった。
「はあ……すいませんセバスさん。騒がしい人で」
「……」
「セバスさん?」
まだ朝食の香りの立ち込める室内で、燕尾服姿のセバスチャンは拳を握りしめ、揺れる瞳でわたしを見つめていた。
「ど、どうしたんですか?」
まさか大家さんが怖かったとか?いやいや、流石にそれはないだろう。でもなんだろう、何か言いたげなあの瞳は。
「──誰、ですか」
「え……?」
「桃哉って、誰ですか」
どうして──どうしてそんな顔をするの?
どうしてそんなにも、辛そうな──苦しそうな顔をするの?
わたしが何も言わないままでいると、セバスチャンはずいっ、とわたしとの距離を詰めてきた。




