7.僕の為すべきこと
「……んん?」
—―ふと目を開けたらそこは暗闇だった。
僕は暗闇に這いつくばっている。
既視感。ちらつく忌々しい記憶。ここに僕は来たことがある。それもすごく最近に。
「獣臭い。それに汚らわしい。出来損ない、この私に会うのだ、身綺麗にしろ」
パチンと、指を弾く音がした。
体の表面をなぞられるような感覚がして、体が強ばる。
この声を、この音を僕は聴いたことがある。
ゆっくりと顔を上げる。
すらりとした長い足に、起伏に富んだ体型。長い銀髪がふわりと揺れていて、真っ赤な瞳が僕を見ていた。
恐ろしい程にかんばせの整った女
彼女だ。ソレイユの妹。セレネ。
僕を散々に痛めつけた、悪魔のような女。
「なかなか言うではないか、出来損ない」
「そりゃあ、どうも」
また悪夢の続きか。
セレネは黄金の玉座に腰かけて、僕を見下ろしていた。
「私は時間を無駄にしにお前を呼んだのではない」
「それじゃあなんでここに」
「お前が為すべきことを伝えに来た。姉様はあまりにも言葉足らずだったからな」
僕が、為すべきこと。
それは如月さんを見つけ出すことだ。それから、それから日本に連れ帰る。危険な目に遭わない、平和な場所に戻るんだ。
「そうかもしれない。だが、お前はそうであってもアイツは違う。世界を救うことを求められた人間が、そう簡単に帰れるものか」
セレネの言葉に、僕はソレイユが話していたことを思い出した。
如月さんは、如月玲は世界を救うことの対価に彼女の願いを叶えているんだ。僕のように、たまたま願いが届いた者とは違う。正当な契約の上での報酬なんだ。
「そうだとも、そうだとも。お前とは違う。だからアイツは帰れない。戻れない。ならばお前はどうする? 見つけたとして、どうするのだ?」
セレネはつまらなさそうに問う。
答えは、ひとつしかない。ソレイユが言っていたこと。彼女が求めたこと。
つまるところ、『世界を救うこと』。それが、如月さんの目的で、彼女を見つけた僕の目標になるんだ。
「そうだ。姉様はお前にも期待している。アイツと比べるとあまりにも貧しい才能だが、いないよりはマシだろう。精々励むといい。餞別に贈り物でもしてやろう」
彼女は立ち上がると、僕の方へ向かって歩いてきた。
無意識の内に体が震える。彼女に怯えてしまう。
「ふん、出来損ないめ。何を怖がる。お前如きに振るう力など無駄の極みだろう」
彼女はパチンと指を鳴らした。
僕の目前に1冊の本が落ちてきた。
「出来損ない、お前の貧弱な身体は異形の神々の眷属の足下にも及ばない。醜いウェアシュにも劣る。お前の唯一の取り柄は魔術の才能だけだ」
魔術の才能。異世界らしい言葉だ。
あの灰色の化物の長と対峙した時に出た炎が魔術なのかな。
「そうだ。お前がアイツの役に立つにはそれを十全に使いこなす必要がある。それを読みあげてみろ」
恐る恐る、足元に落ちている本を拾う。
革表紙の本だ。タイトルは読めない。よくわからない言葉で綴られている。
豪華な装飾が金箔で箔押しされてて、値が張りそう。古書店にでも置いてありそうな、如何にも高い本みたいな見た目をしている。
表紙を開く。
中身はごわごわとした触り心地の紙だな。
そこには日本語で文字が記されている。
「『セレネの加護』を受けし者。魔道を探求する者に贈る。祈り、捧げ、望み、賜れ」
なんだこれ。背中がむず痒くなるようなこの感覚。久しぶりに感じたよ。これは、あれだ。僕が中学の半ば頃に書き溜めていた、今は灰になった『黒歴史ノート』に通じるものがあるじゃないかな。
まだ続きがあるみたいだ。
「神に懇願せよ。対価を捧げよ。汝が願いを述べよ。そして汝が望みを受け取れ。それこそが魔術。神の奇跡なり……か」
「出来損ない、お前にも神の力の一端を扱う才能がある」
セレネは僕の間近まで来ると、右手を翳した。
その手からは炎が。次いで氷。稲妻。風を切る音がしたかと思うと、あの恐ろしい黒の液体が蠢く。
地球にいた頃にはありえない現象だ。あらゆる物理法則に喧嘩を売っているぞ。科学者が見たら卒倒ものだろ。
「やってみろ」
セレネはそう告げると、僕に視線を合わせた。
いや。いやいや、いやいやいや。手本を見せて真似ができるなら、日本にいた頃の僕は天才って呼ばれているぞ。
「出来損ない、私は愚図が嫌いなんだ」
「……はい」
有無を言わさない。セレネは無表情で、ただ迫るだけだった。
やるしかない。それもぶっつけ本番一発勝負で。
魔術の発動までの過程を考えろ。そのプロセスはなんだ。
セレネに祈って、効果を伝えて、対価を払う。そうすれば魔術が発動するらしい。
なら、僕もそれに倣うべきだ。そうするしかない。
「クソ女神に伝える」
女神様女神様。僕を、如月さんをこんなことに巻き込んだクソッタレな女神様へ。
「炎をこの手にもたらせ」
僕は右手を掲げた。
「対価として……」
対価として払える物。僕は改めて今の持ち物を思い浮かべた。
何もない。真っ黒なローブくらいしかぱっと思いつかない。本当に無一文だ。思わず笑ってしまう。
いや、あった。
今の僕には対価として渡せるものがひとつあった。
僕の背でゆらゆらとする長い髪。
女の人にとって髪の毛は命に等しいものだと聞いたことがある。それをほんの少しだけ、クソ女神にくれてやる。
「僕の髪をくれてやる」
頭が少しだけ軽くなった気がする。
そして、世界が真っ赤に染まった。
「えっ……」
まるで光のない独房のような空間は一瞬にして炎に包まれる。暑さは感じない。けれどそれが酷く恐ろしい。
まるで夢だ。幻想だ。
現実感のない炎がめらめらと燃えている。
「阿呆が」
「ひっ」
火の中から怒気の混じった声が聞こえた。聞き覚えしかない。間違いない、彼女だ。
「どこの誰に己を捧げる馬鹿がいるか。ましてや未熟者の出来損ないが。いいか、教えてやる」
セレネは右腕を伸ばすと僕の頭をがっちりと掴んだ。持ち上げる。痛い。
みしみしと骨が悲鳴をあげている気がする。気のせいだと信じたい。
「この空っぽの頭に直接叩き込んでやる。出来損ない、自分の魔力を感じろ」
「ひゃ、ひゃい」
魔力。魔力を見つける。魔力を感じる。必死に魔力の存在を探るけど、今まで感じたこともないことをやるのは無理だ。それらしきものすら見当たらないし、どれが魔力なのかわかりもしない。
「そうか、無理か」
セレネは笑みを浮かべた。それもとびっきりの笑み。僕にはどこか薄ら寒い笑みにしか見えないけれど、傍から見れば人を魅了する表情だ。
「なら直接感じさせてやる」
笑いながら、彼女は左腕を伸ばしてきた。ゆっくり、ゆっくりと。そして僕の脇腹に辿り着く。
「叫ぶなよ、出来損ない」
「な、なにを—―」
僕の疑問の声なんて無視して、彼女は腕を進めた。僕のことなんて知ったこっちゃない、そう言わんばかりに。
腹を抉る。
「声を出すな」
喉から溢れた叫びは、塞がれた。
痛い。痛い痛い。クソ。クソが。
クソ女神が僕の中を侵す。
針が暴れてるみたいだ。鋭い痛みがあちこちに刺さる。あいつの腕がずるずると動く感触が気持ち悪い。
「やっ……いっ……」
「もう少しだ、我慢しろ」
セレネは妖艶な微笑みのまま囁いた。心底、楽しそうだ。
この、サディストが。死んでしまえ。
僕の呪詛なんて届くわけがないけれど、毒を吐けば幾分か気分がマシになる。
「見つけた」
クソ女神の腕が、僕の奥底にある何かを握った。
ぶわっと、身体の奥底が熱くなる。それから力が全身に漲る。
「これが魔力だ」
この燃えるような物が、魔力。
「そうだ。これを使え」
これを、使う。
この、体を満たす万能感を使え。イメージしろ。このクソ女神を焼き尽くす炎を。
祈れ。
「クソ、女神」
僕の、この痛みをお前も味わえ。そうじゃないと、気が済まない。
「僕の敵を燃やし尽くす炎を」
僕の魔力を対価に!
「—―っ!」
僕は吹き飛ばされた。地面を情けなく何度も転がって、えずく。
起き上がる力が足りなくて、地面に横たわる。
「それでいい、出来損ない」
声がして、僕は頭を動かした。
クソ女神は燃えていた。全身に炎を生やして、元の端正な顔立ちすらわからない。真っ赤な人の形をした火だ。人間だったら間違いなく死んでいる。
けれどもアイツは何事もなく生きている。
「出来損ない、くれてやった物を忘れるなよ」
「わかっ、てる」
「ならいい。そろそろ時間だ。姉様の期待を裏切るなよ、出来損ない」
セレネはそれだけ言い残すと、跡形もなく消えた。
「わかってる。僕だって、如月さんの役に立てることを、証明してやるんだ」
僕はもう、無力じゃない。この力を使えこなせれば、僕は如月さんの役に立てる。もうコバンザメみたいに引っ付くだけじゃないんだ。
痛みが疼く。
次に会う時は、やり返してやる。
痛い。もっといい方法があっただろ、馬鹿女神。
脇腹が痛みを訴えている。ここ最近こんな目ばかりだ。ついてない。本当に。
「—―おい。おい!」
ぐらぐらと揺さぶられる。
誰だよ、うるさいな。僕は疲れたんだ。もう少しだけ休ませてほしい。
「大丈夫か、嬢ちゃん?」
「……んあ?」
「起きたか」
視界いっぱいに、男の顔が映った。青色の瞳が心配そうに僕を覗き込む。
「どうしたんですか?」
「どうしたも何も、嬢ちゃん、すごいうなされてぜ?」
たぶん、セレネにやられた時だ。あれは夢の出来事だったのか。それにしては、現実味がありすぎる。
思わず服を巻くって脇腹を確認してしまった。
よかった。怪我ひとつない。
「お前なぁ……」
アルは溜め息を吐いた。
でもこればかりは許してほしい。僕は死にそうな目にあったんだ。勘弁してほしい。
必死に訴えたけど、アルは話を聞かなかった。
これだから筋肉馬鹿は。
「嬢ちゃんはもう少しお淑やかさというものを学ぶべきだぞ。せっかくの見た目が台無しだ」
「以後気をつけますよ」
「はぁ……」
僕の美少女の皮はあっさりと取れるらしい。これだとせっかくの素材を持て余してしまう。美少女たるもの、美少女らしくしなければならない。
美少女には美少女たるものの務めがあるのだ。ノブレス・オブリージュと似たようなものだ。
「それで、昨日の話なんですけど」
「今それを言うのか?」
「早いほうがいいと思って」
「それもそうだが」
彼は焦げ茶の髪を掻き乱した。
「僕はなります。傭兵になります。そして、彼女を見つけるんです」
過程はどうであれ、あのクソ女神のおかげで魔力を扱う術を手に入れたんだ。僕は戦う力を身に付けた。だから、もう迷うことはない。
「それが嬢ちゃんの出した答えなんだな」
「はい」
じっと彼の顔を見る。
アルは見定めるよう見てきたけど、僕が折れないことを悟ったらしい。
「ならギルドに連れていってやる。ちょうど朝だしな」
「……ありがとうございます!」
「どうも」
やっと、僕は一歩踏み出せた。
小さな小さな前進。凡人の僕には相応しい進み具合だ。
ついつい笑ってしまう。
「どうした?」
「いえ、なんでもないです」
アルが怪訝そうに僕を見てきた。
いけない。不気味に笑う美少女にも需要はあるかもしれないけど、それは僕が求める理想とは違うんだ。
「それじゃあギルドにいくぞ、迷わないように付いてこいよ」
「はい!」
見落とした手直し部分があるかもしれないです……(力不足)