2.人の形をした悪魔
推敲はしていますが、誤字脱字おかしな表現があったら教えていただけると助かります。
……名前を呼ばれている気がする。
僕が聴いたこともない言葉。英語でも、中国語でも日本語でもなく、そのどれとも共通点がない。テレビで聞いたことすらない、まるで架空言語を題材にした曲を聴いているみたいだ。
けれども感覚的にわかる。わかってしまう。
それは僕の名前。僕という存在の証。そういう言葉で呼ばれているのだと。
水底からゆっくりと浮上するみたいに、僕の意識ははっきりとしてきた。まだ消えていない。僕はまだここにいる。
おいで、と。そう呼ぶ声がする。
僕は独りでいた苦しみから逃れたくて、あの悍ましく僕の心も体も弄ぶような光景を忘れてたくて、導かれるままに進んでいく。
未だにここは暗黒だ。黒く、粘性のあるモノで満たされている。
ここは僕の部屋なのだろうか。
あそこの液体とは違って、ここのモノは冷たくもなく恐ろしさを感じない。
あの液体は酷く現実的で、それでいて非現実的。氷のように冷え冷えとしていて、僕の心を、人格を蝕み溶かすほど惨たらしいものだった。
ゆっくりと水を掻き分けていく。不思議なことに呼吸をしなくとも息苦しくならない。これは夢なのだろうか。
前に進んで、進んで。その先にやっと一筋の光が見えた。
出口だ。
水を掻く作業に力が入る。
「で、でれた!」
ずぽっ、と間抜けな音がして僕は地獄から脱出した。嬉しさのあまりつい飛び跳ねてしまう。
しばらくして、僕は落ち着きを取り戻した。
周囲を確認するだけの余裕を持った。
ここは円柱のような空間みたいだ。周りはあの不気味な黒の液体に覆われている。遥か上空からは光が差し込んでいて、宗教画にでも描かれていそうな光景になっている。
「――ああ、この言葉か」
「すごい……」
この場所の中央に、それはいた。
言葉に形容することすら烏滸がましいほど美しい存在。僕は、如月玲という人の枠組みを飛び越えそうな幼馴染を見慣れていたから綺麗なモノに見惚れることがほとんどなかった。
けれども、あれはそんなレベルじゃない。視界に入るだけで、あらゆる情報が美しさとして認識される。だからか、その存在は光り輝く美しいモノとして目に映っていた。その細部のパーツはどうなっているのかわからない。ただ美しくあるというのだけ理解できる。
「やあ、出来損ない」
どこか棘のある妙齢の女性の声。
僕は返事をすることができなかった。口から溢れるのは言葉にもならない声。吃ってしまう。
「返事は必要ない。あの忌々しい女に片割れを持っていかれてしまったからな。私は今とてもイライラしているんだ。出来損ないと話したくない程に」
身の毛がよだつほどの怒気を感じる。いや、これはもう殺気だ。スポーツをやっていて感じていた緊張感とは違う。あれは、その気さえあれば僕を一瞬で消せる。そう確信できる。
「話すな、出来損ない。虫唾が走る。わかるか? 私は、いま、とても、この上なく、イライラしている。お気に入りの玩具を盗られたからだ」
突然、僕はその存在を認識することができた。
やっぱり、綺麗だ。思わず息を呑んでしまう。テレビで騒がれていた芸能人が霞んで見えるほどに美しい。月とスッポンの差があるぞ。
僕よりも頭1つほど高い身長。たぶん、180cm近くはあると思う。
世界中の女性が羨むほどの体つきをしていて、腰まで伸びた、上質な絹糸を思わせるほど艶やかな銀の髪。炎のように赤く燃える双眸。顔のパーツも寸分の狂いなく、美を体現する位置に置かれている。
身につけた夜色のローブを、煩わしそうに払いながら彼女は僕を見ていた。
綺麗を飛び越えて、恐ろしさすら感じる。
あまりもの美しさに、人間味を感じない。これではまるで人形だ。腕に覚えのある職人がその生涯をかけて、丹念に作りあげた人形と言われた方が納得がいく。
彼女は、立つのも面倒に感じたのかどこからか椅子を出して座った。
もはや玉座と形容した方がいいか。
黄金で形作られ宝石が散りばめられたそれは、僕みたいな凡人が座ると不釣り合いなものだけど彼女には似合っていた。支配者の風格というのか、そういうものを漂わせている。
どういう原理なのかその椅子は宙に浮いている。
玉座に肘をついて、彼女は僕を見下す。
「やっと私が見えるようになったか。本当に貴様ら人間は出来損ないだ。失望する。役に立たず、愚図で、無力で、憎たらしい」
彼女はその真っ赤な瞳で僕を睨みつけた。
その瞳に宿る感情は、僕にはよくわからない。憎しみなのか、怒りなのか、失望なのか。確実に言えるのは悪感情であるということだけだ。
「あの糞女に玩具を盗まれたこの腹いせは、お前にしてやるとしよう。呪うなら己の運のなさを呪え。苦しみと嘆きの果てでお前の魂を八つ裂きにしてやる」
彼女は億劫そうに足を組むと、指を鳴らした。
僕は、何かを言い返そうとして声が出ないことに気づいた。いや、出ないんじゃない。反論することを体が拒絶しているんだ。本能的に、彼女に逆らってはならないと察してしまっている。
「まずはその体を」
「なっ、なんで!?」
僕の体は独りでに動きだし、地に伏した。もうあの女の人を視界に捉える事もできない。
「ふん、それではダメだな。お前自身の体が貫かれる瞬間が見えないではないか」
彼女はもう1度指を鳴らした。
僕の体はまた勝手に動いた。光差す天を見えるように、それでいてまるでキリストの処刑のように十字に体が固まる。
「それでいい。お前はそこから、嬲られる様を見ていろ」
頭だけは辛うじて動かすことができた。
彼女はつまらなさそうに肘をついている。玉座から僕を見下ろして、その瞳にはなんの感情も浮かんでいない。
無関心。それに尽きた。
「まずはその右手を」
指が鳴る。
「嘘だろ」
虚空から、真っ黒の刀身をしたナイフが現れた。光を反射しない、そこだけ世界が塗りつぶされたかのように、黒い。
漆黒のナイフは僕の右手の上で静止していた。
「痛みを味わえ、出来損ない」
彼女の言葉を合図に、ゆっくりと、ゆっくりと下降する。まるで見せ付けるかのようにじわじわと。
「なんでだよ!? やめろ! やめてくれ!」
僕の哀願の声も、なにもかもを彼女は無視した。興味がないと言わんばかりに眉1つ動かなさい。
そうして、ナイフが僕の手の平に到達した。
「痛っ! やっ! ぐっ!」
鋭い痛みが走る。
真綿で首を絞めるように、僕の手をゆっくりと刺していく。頼むから、一思いにやってくれ。
僕の思いとは裏腹に、ナイフが早く動くことはない。
継続した痛みが僕の右手から脳に伝わり、悲鳴をあげる。声にもならない声が口から絶えず溢れて、それを彼女は観察するように、表情1つ変えずに眺めている。
「次に左手を」
また、指が鳴った。
僕は左手の上に同じナイフが現れたことを悟った。そうしてそれも、ゆっくりと落ちていく。
「やだ! やだっ! いやだ!」
僕は恥も外聞もかなぐり捨てて叫んだ。
彼女は相も変わらず、つまらなさそうに見ているだけ。真っ赤な瞳にはなんの色もない。
そしてナイフは僕の手を貫いた。
痛みという電撃が脳を犯す。脳が叫んでいる。痛みの嵐が僕の脳を揺さぶり壊す。
獣のような声をあげる僕には苛立ったのか、彼女は声を発した。
「煩い」
そうして僕の声は奪われた。
僕の喉は一切震えず、悲鳴は洩れない。叫んでいるはずなのに、僕の耳には届かない。
涙が枯れそうだ。痛みで流れる涙が、もう底をつきそうだった。
「次はその右足を。そして左足を」
彼女は、僕に見せつけるように指を鳴らした。
見なくてもわかる。ナイフから感じるこの世のものとは思えないほど悍ましい気配が。
徐々に、徐々に両足に近づくのが、わかってしまう。
両手の痛みに慣れた頃。それは来た。
痛みが濁流となって脳みそに届いた。僕は、反射的に声をあげた。いや、あげたつもりになっていた。
肉を貫く感触が、両手足から伝わってきて吐きそうだ。喉奥まで来た吐瀉物も、彼女が一言かけることで留まる。
「私の世界を汚すな、出来損ないが」
それだけで僕の体は血を流すことをやめ、嘔吐することをやめた。これが、夢でなくてなんだというのだ。
けれども確かに伝わる痛みが、僕に夢ではないと教える。
叫び声をあげるほどの痛み。僕が日本にいる間に感じたことのないほどの、激痛。
「まだ意識があるのか。意外だ。だが相も変わらずおまえたち人間は弱いな。おまえの隣にいた女の方が余程マシだろうな」
隣にいた女……そうだ、彼女だ、如月玲だ。彼女のことだ、よっぽどのことがない限り命を落とすことはないだろう。なんたってあの如月玲だ。命を落とす未来が見えない。
「あの女ならばもっといい反応をしただろうな。お前ではダメだ。役不足だ。根本的に足りない。直に壊れるだろう。そうしたら次は魂をバラバラにしてやる。この世に生まれたことを呪いながら死ぬような痛みを感じるさせてやる」
僕は絶句した。
今でさえ、頭が張り裂けそうなほどの痛みに襲われているのだ。
両手足に刺さるナイフは、未だに動いている。というよりもあまりにも遅い動きですべて刺さりきっていないというべきか。
徹底的に僕を痛ぶるつもりだ。絶えず脳が泣き叫んでいる。助けて、と僕は彼女に目で縋る。
返ってくるのは冷めきった視線だけ。
「もういい。やはり所詮は出来損ないか。求めるばかりで自ら何もしようとしない。本当に愚図だ」
彼女は、そこで初めて笑顔を見せた。この場にそぐわないほどに綺麗で見惚れてしまうほどの満面の笑み。
「だが私も悪魔ではない。会いたいというのなら会わせてやろう。如月玲に」
僕は固まってしまった。
会えるのか、彼女に。如月さんに。如月さんとは生まれた頃から同じ道を進んできた。才能には天と地ほどの差があったけれど、僕は彼女に追いつこうと努力していたのだ。彼女が進む後ろ姿を、遥か後ろから追い続けてきたのだ。
最後の別れが、一言もなしというのも辛すぎる。彼女は僕にとっての長年の憧れなんだ。例え僕が死ぬ前だとしても、遺言ぐらいは、許されるのかな。
「許されるとも。ああ、許される。おまえの願い、述べてみよ」
「ぼくは……」
必死で、口を動かす。喉を震わす。声を紡ぐ。痛みに負けないように、心が折れないように。僕は、彼女に希望を見出していた。
会いたい。彼女に、如月玲に会いたい。そして、最後にその姿をこの目に焼きつけたい。
迷惑かもしれない。彼女にいらぬ重荷を背負わせるかもしれない。これは僕のエゴだ。そこまでしてでも会いたい。
「あい……たい。如月さんに、彼女に!」
その言葉を聞いて、彼女は笑みを深めた。
そして高笑いをする。面白いことを聞いたと言わんばかりに、彼女は口を抑えて嗤う。
「ふっ、ふふふ、ふははっ! 会わせてやろう、言葉通り!」
ぼとりと、鈍い音が僕の近くでした。
柔らかい物が落ちる重い音。左耳から、確かに僕は認識した。
この音はなんだ。
僕は恐る恐る左を向いた。
「なん、で」
なんで。どうして。なぜ。
彼女が、如月玲がなぜこんな、こんなに赤いんだ。
ありえない方向に曲がった足が、色を失った肌が、見開かれた目が、流れた涙のあとが、何よりも致命傷となるお腹に抉られた大きな穴が、彼女は死んでいるのだと現実を突きつける。
顔を見ればわかる。たぶん今の僕と同じ表情をしている。
救いの手が届かなかった者の顔。神が見捨てた者の顔。この世を全てを呪いながら死んでいったかのような、絶望の色。
彼女の烏羽色の髪は長さもバラバラに乱雑と切られていて、綺麗だった闇色の瞳も濁っていて見る影もない。
あんな、何をしても死ななさそうな彼女が、死んだのか。彼女ですら、殺されたのか。
僕は、如月玲という存在を追いかけ続けてきた僕は、恐怖も何もかもを忘れてあいつを睨んだ。
許せない。許さない。
「おまえを」
そうだ。あいつを。
「なんだ、出来損ない。おまえに何ができる?」
如月さんと同じ目にあわせてやる。同じ苦しみを、痛みを、その果てにある絶望を。
「ころしてやる」
「ほお」
「ぜったいに! 殺して、やる!」
あいつは、座っていた玉座から立ち上がって僕の方に呑気に歩いてきた。
もう僕が死ぬことはわかっている。けれども、やっぱり、一応は男だったんだ。冴えない男だった僕でも、その矜恃はあるんだ。
一矢報いてやる。
あの如月玲ですら殺された相手に。
「できないことを口にするのも出来損ないらしいな。気が変わった。魂は最後に壊す。まずはその肉体を壊してやる」
彼女はわざわざ玉座から降りて座り込み、僕の顔を覗き込んでそう言った。
ひらひらとローブの裾が揺れる。
朱色の瞳が妖しく燃える。
あいつはまた指を鳴らした。
「出来損ない。おまえがどこまで耐えられるのか、期待しているぞ」
あいつは立ち上がって、僕を見下ろした。
周囲を覆っていた黒い水が流れ込む。あの恐ろしく悍ましい液体が、僕に襲いかかろうとしていた。
僕の体を這いずる。気持ちが悪い。恐ろしい。怖い。どろどろとした液体が、僕の体を蹂躙していく。
ここで全てを諦めたら、それはなんて幸せなんだろう。如月玲ですら敵わない相手だ。諦めて、尊厳さえ捨てて、なすがままに蹂躙される。僕の命は無くなり、魂は弄ばれる。その先には僕という存在の消滅が待っているだろう。
諦めたなら、諦めたのならば、その間の苦しみも痛みも何も感じない。僕は自分の殻に篭って、全てが終わるまで目を瞑り、抵抗しない。
その死に方はさぞ楽なことだろう。
だが、駄目だ。僕は諦めない。
何もしないで死ぬのは、人間の死に方じゃない。僕は、抗って、逆らってその先で死ぬ。彼女の言う出来損ないの人間の意地を見せてやる。諦めない。もがいて、足掻いて、彼女に出来損ないじゃないことを見せてやる。
僕は獣じゃない。人間なんだ。僕にだって意地がある。
「ふん、なら見せてみろ。その気概を」
「いわれず、とも」
彼女はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
なろうは横書きで見る人が多いと思うので漢数字ではなく算用数字を使っています。