第二話
情報屋が漆黒の闇を駆け巡るなか、全ての準備は整えられた。
「あっ、あっ!! あっっっっつっ……! ちょっ! まっ!! それ洒落にならないっすよ!! やめてーーーーっすーーー!!! ああああーーーーーーーっっ!! ほああああーーーーーーーっっ!!」
正しい倫理感とはほど遠いところに位置している眠り知らずの街では、夜もふけた街に響き渡る悲鳴などただの日常に過ぎない。もっともここは天紅姫が私的に買収した酒場の一室で、どれだけ声を上げようと外に漏れ聞こえることは無いような造りになっている。
「シアン様、あれは一体……」
伴は困惑しながらもシアンに説明を求めた。もっともそれで何かが解決するとは当人も思っていない。形式的な質問だった。分からないことは分かっているが、それでも聞かなければという半ばやけっぱちに近い義務感がバンを突き動かしていた。
「おもてなし、というやつですよ。偶然にも敵勢力の刺客を鹵獲したもので」
熱々のおでんだ。刺客は羽交い絞めにされ無理やりおでんを食べさせられている。おでんの汁だか流した涙だか知らないが、刺客の顔はべちゃべちゃだ。見るも無残。そんな言葉がバンの頭に浮かんだ。シアン曰く、これは東の島国スタイルの拷問らしい。店の従業員(シアンに買収されたのであろう)らしき人物のうち、ひとりが刺客を押さえつけ、ひとりが菜箸でおでんを掴む。それからもうひとりは沸騰した鍋で懸命におでんを煮込んでいる。部屋の一角には、あまりに不毛な地獄が広がっていた。
バンは悪質な冗談を笑い飛ばそうとして失敗し、ぎこちない苦笑いを浮かべるはめになった。それから従業員にいくらか軽食と果実酒を持ってくるよう頼み、深いため息のようなゆっくりとした動作で備え付けのソファに腰を降ろした。
バンと別行動をとっていたシアン達は闇夜に乗じてこの隠れ家で集合する手筈になっていた。もちろんそれは余計な騒ぎを起こさないようにするためであって、間違っても敵勢力と衝突して交渉材料を鹵獲するためではない。こうした些細なアドリブは望むと望まざるとシアンによって頻繁に引き起こされ、そのたびバンの心は泥の溜まった川底のように淀んでいく。そして行き場を失った淀みは限界を超え急激にあふれ出すのである。バンは従業員から酒瓶を受け取ると片手の握力だけで蓋を開け、グラスに注ぐことなくそのまま一気に喉の奥へと流し込んだ。
「この天性のトラブルメイカーを前に! 私は! 眩暈を禁じ得ない! 得ない! 得ない……!」
バンは頭を抱えて天に吠える。神のいたずらか、その声にはエコーが掛かった。そうした室内に響く魂の慟哭であってもシアンの心にまでは響かない。
「しかし現実は無情なのですよバン。諦めなさい、そして立ち向かうのです! これも神のお与えになった試練というものなのでしょう。辛いとき辛いと言えたらいいのにな。そんな言葉もあります。さあ、みなでこの辛さを分かち合いましょう。辛さとは! 辛さとは、かくのごとし熱々で、かくのごとくおでんなのです! さあ! さあさあ! 刺客におでんを分け与えるのです!」
「巻き込むのはやめてほしいっす!!!!!!!!」
「ああ、なんて可哀想な刺客なのでしょう。しかし私には荒ぶるバンの心労をどうすることもできません。無情! なんたる無情! これも神のお与えになった試練というものなので……」
「やめるっす!! 繰り返しをやめるっす!!!!」
シアンは菜箸でほどよく煮詰まった大根を掬いあげてから、新しいおもちゃを前にした小学生のように瞳を輝かせゆっくりゆっくりと刺客の方へ近づいていった。バンは何も見なかったと言わんばかりに酒を煽る。もはや誰にも止めることはできない。刺客は大いなる悪戯心の犠牲となったのだ。
「やめっ……あっっっっっふっ!! ほあああーーーーっっ!!!」
ひとしきり騒いだあと、二人はサンドイッチと酒をつまみながら本題に入る。
もともとシアン一行が中汪市を訪れたというのも、祚教の最高決定機関である枢密院に呼び出されたからだ。そして今回の枢密院議会には祚教のトップである天老公の側近、バンのみが出席を許されていた。
「それで、枢密院からの指令というのは?」
「ええ、<<不滅の法>>らしきものによる被害が確認されたそうです。場所は中汪市北部の農村。出自は不明。今は上級教団員によって近隣を封鎖している状態で、噂が広がる前に背後を洗って撃滅せよとのこと」
* * *
「<<不滅の法>>ですか」
近頃めっきり聞かなくなった名前をぽんと出されて、シアンは戸惑いがちに言葉を繰り返す。しかしその反面、少しばかり胸を躍らせてもいた。何を隠そう、シアンはオカルトや非科学が好きだ。大好きだ。心の奥底から愛しているといっても過言ではない。
命脈の法が技術として科学的発展を遂げてから約4000年。確かに命脈を使って可能になったことは増えたが、しかしそれは同時に「出来る事」と「出来ない事」をより明確に線引きする副作用も持ち合わせていた。たとえ魔法のように見えても、その背景には厳密なロジックが働いている。不可能から先へは決して踏み入れることができないのが命脈の法、技術としての基本概念ともいうべきものだ。
シアンはそれが気に食わなかった。世界は無限の可能性に開けているべきだ。不老不死、時空転移、世界崩壊、なんだってあればいい。命脈に限らず、力とは誰かの願いを否定するためのものではない。世界は「かくある」ではなく「かくあれ」、それがシアンにとっての譲れない信条だった。
もちろん命脈の法を信奉している天家の立場として、そういう話をおおっぴらに言うことは出来ない。もどかしい思いをしがちなシアンにとって、今回の話は願ってもないものだった。
「フフ……」
と思わず妖しげな笑みをこぼしてしまう。シアンは涎が垂れそうになって思わず袖で口を拭うと、バンからは馬鹿にされたような視線を送られた。しかしシアンは大して気にも留めない。
「フフフン……。いいですね、いいでしょう、やってやろうではありませんか」
「意気込むのは結構ですが、まずは情報収集からです」
熱意に燃えるシアンを横目に、落ち着きを取り戻したバンは冷静な手つきで食後のコーヒーを注いで二人分を机に並べた。バンは普段から楽観的な男ではないものの、こと仕事に関してはどうにも慎重で生真面目でクールすぎる節がある。シアンはそれがバンの良いところであり悪いところだと思っていた。
「将を射んとする者はまず将を射るんですよ。首謀者取っ捕まえてそいつに全部吐かせればいいんです。情報なんてあとから勝手に集まります。我々のあとに道が出来るのですよ」
「その自信は一体なんなんでしょうかね……」
「ではひとつだけ譲歩して、そこに転がっている情報源から話を聞きましょう」
いつの間にか簀巻きにされていた刺客は、すべてを諦めたような目でぐったりとしている。いささか遊び過ぎたような気がしないでもないが、まあそれも過ぎたことだ。本気で力尽きているわけでもないだろう。
「彼女の背後は三結社です。まともな話が出るとは思えませんが、聞かないよりはマシでしょう。ウィガダリルビッ。エヴィシンオーケー。情報が有益であっても無益であっても次に進む、いいですね?」
「人を思慮深くする命脈とか無いものですかね」
バンを無視して刺客に詰め寄るシアン。
「さあどうです。あることないこと喋りたくなってきたでしょう? 三結社はクロなんです?」
と、そのとき、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「結論から言うと正解は白だよ、ただしこれから黒に染まる」
突然の乱入者はやたらと派手な男だった。いやに身長が高く、それでいて細身の体付きはどこかアンバランスな印象を受ける。透き通るような銀髪で、後ろ髪は尻尾のように結わえている。キザったらしい大きな羽根つきの中折れ帽子をかぶり、服も祭儀用の紅服をベースとした上着だが、細部が魔改造されていてとにかく華やかだ。まるで王侯貴族のパーティー会場から抜け出してきた吟遊詩人のような恰好は、しかし不思議とその男には似合っていた。
男の背後からは護衛らしき重装備の集団が現れる。統一された甲冑と鎧は身動きこそ取りづらそうであるが、複雑に刻まれた紋様や少ない光源の中でもやたらとぎらついている装甲からは何らかの魔力めいたものを感じる。
「ごきげんようシアン殿、バン閣下! おっと、返事はしなくて良いよ。この空間は<<静寂の法>>に支配されているからね。うるさいのは僕だけで結構だ。まずは挨拶をしよう。僕はギャラード。君たちと直接顔を合わせたことは無かったけど、もちろん知ってるよね? 三結社のトップ三人、三つ首って言われているうちの一人が僕だよ」
ギャラードと名乗る男は人を小馬鹿にしたような仰々しい振る舞いを見せつける。人をたぶらかす悪魔のような甘い声だ。ギャラード。シアンには聞き覚えがあった。資産家の生まれで、本人は芸術家、造形師、服飾デザイナー、実業家などなど多岐にわたる分野で名を轟かせている期待の新星だ。シアンは一度だけ彼の個展に行ったこともある。当時のシアンには理解できなかったものの、重くて古臭いテーマをキャッチーに捉え直して表現することが彼の十八番だという。
「うちの部下がお世話になっていると聞いて迎えに来たんだよ。ああソフィア、可哀想なソフィア。彼女は最近の中ではすこぶるのお気に入りなんだ。こんなところで退場させるにはあまりに惜しい。彼女は、そう、努力家だった。目標を決めてそこに向かって食らいつく。執念に近いものを感じるときもある。とにかくそういうタフな生き様に惚れた。分かるね? タフにハードに努力している人の前で怠慢は許されざる罪だ。それが僕の世界観。だから僕は彼女を裏切れない。僕はいつだって僕の世界観を守るために生きているし、そのためならどんな手間だって惜しむことは無い」
シアンが話に割り込もうとしたところ、呼吸が掠れてうまく発話出来ない事に気が付いた。これが先ほど口走っていた<<静寂の法>>によるものなのだろうか。確かにほかにも違和感はあった。部屋の扉が開け放たれているというのに、酒場からの騒音も一切聞こえてこない。
「この服良いだろう? 降ろしたばかりなんだよね。つまり何が言いたいかって、今日は別に荒事をしにきたわけじゃないんだ」
そうは言ってもどこに信用できる要素があるというのだろうか。バンもシアンも警戒を解くことなくギャラードの一挙手一投足を見守る。
「ところで黒蛇は? 『黒の獣』と一度お話ししたかったのだけれど」
と、ギャラードはシアンに向かって指を鳴らす。瞬間、シアンの周りだけ張り詰めたような空気が元に戻ったような感覚がした。独特の息苦しさも無くなった。ここぞとばかりにシアンは思い切ってギャラードを挑発する。
「さあ、暇なら探してみたらどうですか? 幸せの青い鳥は案外近くに隠れているかもしれませんよ」
「<<隠匿>>ね。まあ、いずれ出会えるだろう」
ギャラードはさして残念そうな様子も見せない。まるですべてが手のひらの上にあって、物事をいかようにもできるといった傲慢さが滲みでていた。それからおもむろに簀巻きにされている刺客ソフィアのもとに歩み寄り、彼女を米俵のように肩に抱えた。
「身柄の対価は冒頭のヒントってことで。それではお暇しようじゃないか。エヴィバディグンナアアアァァァーーーーーーーーーーーイ!! HYAHHYAHHYAHHYAHHYA!!!」
ギャラードは勢いよく外套をひるがえすと、背後に詰まっていた重装兵たちを割って立ち去った。わずか数分も経っていない間の出来事であったが、恐ろしく長い時間その場所に縛り付けられていたかのように感じた。ギャラードにはそれだけの圧力があった。あっという間に場を支配してしまうだけの確かな存在感があったのだ。
* * *
重装兵たちの姿も完全に消えたあたりで周りの空気も変わり、独特の息苦しさから解放された。<<静寂>>も効力を失ったようで普通に声が出せるようになっていた。バンは凝り固まった肩をほぐすように腕を回し、それから部屋の点検を始める。思わぬ大物の出現にシアンも多少は緊張していたようで、崩れ落ちるようにソファに沈んだ。
「……行きましたね」
「ええ、一応盗聴には警戒しておいてください。我々の発言は想定通り筒抜けになっていたようですし」
と言いつつも一通りの確認は終えており、<<相互理解>>による認識阻害を掛けなおした今となってはほとんど心配無いと確信していた。
「まさかトップ直々に顔を見せるとは思いませんでしたが。それはそれとして、いやほんと途中で笑いそうになりましたよ」
「ヘイシーもノリノリでしたね。普段は不愛想でもやるときはやる奴ですよ」
「『やめるっす!!』のくだり、実は録音してあるので後で合成して遊びましょう」
「シアン様のそういうところ好きですよ」
「そんなに褒めないで下さい」
「しかしこれからの関与を匂わせる発言、あれはどういう意図でしょうかね」
「そこもおいおい考えていきましょう。全てはこれからですよ」
* * *
遡ること数時間前。
「まず『ヘイシーのことを刺客だと思い込む』という<<相互理解>>を仕掛けます」
「待て、捕まった刺客に価値があるとは思えない。やはりここで捌いておこう」
ヘイシーが即座に否定すると、隅の方に拘束されて転がされていた刺客が青ざめた顔でガタガタと震えはじめる。
「そうとは限りませんよ。企業は企業であるがゆえに合理的な判断しかできません。こちらに顔が割れているとはいえ異国の刺客、しかも『印付き』は貴重な存在です。回収コストを踏まえても、闇市場の相場を考えれば使い捨てるなんて事はまずあり得ないでしょう」
と、シアンはあらかじめ用意していた意見を述べた。
「まあ一応、分からなくもないですね。あまり嗅ぎ回られるというのも今後支障をきたす可能性がありますし、期間を決めて行うのは有効かと。情報屋の手配は既に済んでいますから、適度にこちらの位置を匂わせることは出来ます。ええ、まあ」
しぶしぶといった雰囲気を隠しきれていないものの、バンもシアンの意見に追従する。元々今夜は枢密院の指令を共有したあと、今後のスケジュール調整を行う予定だった。議会では企業との接触タイミングを綿密に協議し、最も有利な条件を引き出せるポイントでことを起こす算段を立てていた。そしてバンは、刺客を捕らえたというシアンの第一声に反論を起こすだけの気力を根こそぎ奪われることになった。
「そこまで言うならシアンの好きにするといい」
好きにしてくれ。こうしてヘイシーはいつも折れるのである。あるいはシアンを説得する労力と、シアンの思い付きをうまくこなす労力を天秤にかけた結果そうなるのかもしれない。部屋には気だるい空気が流れ始めた。そのなかで確かな熱を放っているのはシアンだけだ。
「ヘイシーには爆弾、いや、おでんになってもらいましょう」
シアンはときおり思考が飛躍する癖がある。結論から話はじめ過程を一切飛ばすため、慣れないうちは周りをよく混乱させていた。何を言っているか分からないと言ったふうなバン。あまり関心が無いヘイシー。しかし誰も発言を拾いにはいかない。これもまたいつもの光景だからだ。
「それで、潜り込ませてどうするつもりだ?」
「我々はいつも合理性の中で生きてるわけではないのですよ。面白いじゃないですか、仕返しって」
「刹那的快楽主義者が」
「全ては意志の名のもとにきちんと意味を成すのです。ご安心を」
「そうなるよう願っているよ」
「真面目に言うとですね、三結社のアジトって天家の情報網をもってしても中々見つからないんですよ。御爺様との交渉材料、別企業との取引、枢密院からの指令によってはそこでも役に立つかもしれません。まあどう転んでも情報に使い道はありますし、私はいま企業との私的で対等なコネクションを欲しています。そのために対等足りうるだけの力を見せる必要があるのです。それがヘイシー、あなたであれば可能です」
良くまわる口だ、とヘイシーはあきれ顔でそれ以上特には何も聞かなかった。
「それでは<<相互理解>>による認識阻害を解除します。のちほど囮の隠れ家で集合しましょう。バンは情報屋にタレコミを。ヘイシーは私と隠れ家で準備です。各位、思考盗聴には気を付けてそれらしく振舞ってくださいね」
「最後の確認ですが」
バンは真剣な顔つきで言った。
「今回の独断行動は、祚教、枢密院、ひいては天家を全て裏切ることになるのですよ。露見すれば敵勢力はあらぬ疑いを吹っ掛け、ありとあらゆる手段でシアン様を陥れようとするはずです。そうなれば天家はあなたを切り捨てるでしょう。表舞台から引きずり降ろされ暗く惨めな将来を歩むリスク、それを背負う覚悟はおありですね?」
シアンは不敵に微笑んで見せる。
「私の<<相互理解>>は世界だって騙しおおせて見せますよ」