契約
周囲に転がるはゴブリンは、どれもこれも死んでいる。殴り飛ばしたやつも、蹴り飛ばしたやつも、衝撃を受けたであろう場所が窪んでいた。体が変形するほどの力を加えられたのなら、まず生きてはいまい。
〈当たり前だ。殺すために攻撃したのに生きてられちゃ困る〉
物騒な言葉が響く。けれど実感は湧かない。自分の意思がなかったからだろうか。そもそも何でこうなったんだっけ。私は死のうとしたはずなのに。倒れてるのは私のはずだったのに。
〈言ったろ? 勿体ないって。それにお前が望もうと望むまいと、俺は手を貸すつもりだったからな〉
悪魔は分かりきったことを話すかのように、気だるげに言葉を紡いでいく。暗に私の意思など関係ないと言われているようで、私は自嘲の笑みを浮かべた。
〈あ、気に入ったからってのは嘘じゃねーぞ? でなきゃこんな状態許してねぇし〉
こんな状態とは、こうして情けなくへたりこんでいることだろうか。それともまともな思考を生み出せないことだろうか。どちらも不可抗力な気がするのだが。
〈違う違う。俺が言ってんのは中身の話〉
「中身……?」
〈そ。さて、ここで問題だ。どうして俺はお前の体を操るような真似ができたんでしょーか?〉
おどけた口調に、私は首を捻った。どうしてなんて私が聞きたいぐらいだ。人を操る方法なんて今まで考えたこともないのだから。それに悪魔の能力だって知らない。でも尋ね返したところで答えはもらえないのだろう。彼と接した時間は短いが、それぐらいは分かる。
「何かしらの術を使ったからじゃないの?」
当たり障りのない答えを返してみると、悪魔は猫みたいな笑い声を上げた。
〈はーずれー。他は?〉
「え?」
〈他に思い付かねぇ?〉
「特にないけど……」
〈んじゃ正解を発表しまーす〉
悪魔の言葉が終わるやいなや、ドラムロールが脳内に響き渡る。あまりにはっきりとした音につい辺りに気を配ってしまったが、すぐに脳内から木霊する音だと理解した。彼はもう、本当に何でもありなのだろうか。
〈正解は『魂が融合したから』でしたー〉
間抜けなラッパのファンファーレと共に放たれた言葉に、私は文字通り言葉を失った。口を半開きにさせ、目を見開く程には驚くことがまだあるとは思っていなかった。突拍子のない話への耐性はついたつもりでいたが、まだ甘かったらしい。
「魂の、融合?」
〈おう〉
「誰と誰の?」
〈悪魔である俺と、人間であるお前のだ〉
悪魔はわざわざ種族まで指定してきた。先手を打とうとしたか、私の追及が面倒だったか。どちらも有り得るが、必要ないとも思う。
〈本当ならお前だけ送られるはずだったんだが、異世界転送の陣を発動させた瞬間、妙な力に引っ張られてな。俺も一緒に飛ばされちまったんだ。俺以外の奴が干渉できないはずの空間なのに引き込まれるなんて前代未聞だよ。んで、強制転送の影響やら、限度を越えた術の使用やら、種族の違いやらで色々な均衡が崩れた結果、今に至るわけだ。全くもって嫌になるね〉
悪魔は心底疲れたとばかりに深く息を吐いた。そこに諦めや悲哀が混じっているように思うのは、きっと気のせいではないのだろう。
〈言っとくが自分の力を過信してたから巻き込まれたわけじゃねぇよ? 油断なんてしてたら悪魔やってられねぇからな。これは事故みたいなもんなんだ。本当なら今頃お前を見て笑ってるはずで……。でもあんなにあっさりと引きずり込まれちまうとなぁ……。それだけ優秀な陣と術士が揃ってたんだろうけど、だからってあれは…………。やばい、悪魔としてやってく自信なくなりそうだ〉
悪魔の説明は、いつの間にか愚痴のようなものに変わっていった。私は彼の声を聞きながら自分の手を眺める。戦闘時の感触はまだ残っていた。血を被っていないのに、掌が赤く染まっているような錯覚を抱く。
あれは自分の意思ではなかった。全て悪魔のせい。ゴブリンを殺したのは私じゃない。
言い訳ならいくらでも浮かんでくるが、どれも通用しないのは明白だ。理由がどうあれ、ゴブリンをこの手にかけた事実は変わらない。魔物相手に悩むなんて馬鹿馬鹿しいのかもしれないが、動物どころか虫すらまともに殺したことのない私にとって、人間と大して変わらぬ姿のゴブリンの命を奪ったという事実は重かった。現実味を感じることができないぐらいに。
〈あんなんで考え込むなよ。これから先、ゴブリンの百や二百どころか、獣みたいな人間相手にしてかなきゃなんねぇんだ。一々落ち込んでたら切がねぇ。それよりも自分が生きることだけ考えてろ〉
先程の雰囲気はどこへやら。悪魔はやけに真剣な口調に変わった。けれど彼の言葉は頭に入ってこない。
生きるために殺す。己の手で動物の命を奪うだけではなく、スーパーの店頭で売られている肉や魚、惣菜を手に入れることすら命を奪っていることに他ならない。そこらにいる犬を殺すことは忌避するのに、生きるために豚や牛を殺すことは許される。戦争だってそうだ。『生きるため』と言った瞬間、最も嫌悪される同属殺しも正当化される。それだけ生存本能が優先されていることなのだろうが、だとしたらゴブリンを殺した私はどうか。生きたいと思っていただろうか。
「…………ってなかった」
〈あ?〉
「私は、生きたいなんて思ってなかった」
あの時、私はゴブリンに殺されようと思っていた。それで全てを終わりにさせようと思っていた。けれどどうだ。私は生き、ゴブリンは死んでいる。そこまで考えた途端、悪魔の纏う雰囲気ががらりと変わった。
〈へぇ。なら何で自殺しねぇんだ? 凶器が無いからか? 手段が無いからか? 違うな。凶器は目の前に転がってる。あの湖に身を投げることだって、餓死だってできる〉
悪魔は蔑むようにそう言った。初めて聞く冷たい声に、私は何も言えなくなる。思わず息を詰めてしまう程の威圧感は、心臓を握られているかのようだ。
〈ゴブリンの【炎球】を受けそうになった時、腕で体を庇ったろ? あれはお前自身の意思による行動だ。俺は何もしちゃいない〉
彼の声が私に刺さっていく。突き付けられた言葉は反論を許さない。許すはずもない。
〈死を望む奴が自分を庇うか? 否。死にたいんなら抵抗なんかしないはずだ。両手を広げて歓迎しているはずだ。なのにお前は拒んだ。それがどんな意味を持つか分かるか?〉
初めて私に向けられた問いかけに、私は首を横に振る。悪魔は僅かに間を置いた後、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
〈生きたかったからだよ。反射とはいえ、お前の体は生き残ることを選んだ。いくら可能性が低かろうと、少しでも生き残れる道を選んだ。ゴブリンが全滅した時、最初に浮かんだ感情は何だ。罪悪感か? 虚無感か? それとも苦痛か? どれでもないことはお前が一番よく分かってんだろ〉
目の前が眩む。悪魔の言葉を否定しようと脳が動くが、何一つ浮かばなかった。必死で口を動かすが、声が出ない。喉が渇いていく。違う。私はそんなこと思ってなんかいない。
〈思っていない? なら何故安堵した? 何故俺に文句を言わなかった? 何故俺を振り切らなかった?〉
彼の反論に、私は完全に返す言葉を失った。茫然自失となる私に悪魔は止めを刺す。
〈お前は『死にたい』んじゃない。『逃げたい』んだ〉
その声はやけに鮮明に響いた。逃げるという言葉が頭の中をぐるぐると回る。
「に、げる……」
〈そ。訳も分からないうちに巻き込まれ、異世界に飛ばされた挙げ句に人外と変わらぬ存在にされた。だから逃げようとした。つらい、苦しい、助けてほしい。そう思って、でもどうすればいいか分からない。そんな時に俺から告げられた『死』という言葉。お前はそれを救いだと勘違いし、自分は死にたいのだと思い込んだ〉
悪魔はぺらぺらと私の内面をまくし立てていった。私は思考を放棄した頭でその声を聞く。湖の側にへたりこんだ時もこんな感じだったと、霞みがかった頭で思った。
〈馬鹿馬鹿しいが、よくある話だ。人間ってのは追い詰められると妙な結論に至るからな〉
悪魔はそう結び、それきり黙ってしまった。緩やかな静寂が訪れる。密やかな風の音がやけに耳についた。
〈…………助けてほしいか?〉
どれほどそうしていただろうか。不意に悪魔がそんなことを聞いてきた。その声には先程までの冷たさなどなく、それどころか優しささえ感じるような声音だった。
〈このままじゃ嫌なんだろ? 逃げたいんだろ? 助けてやるよ。元々の原因は俺だしな。アフターサービスってやつだ〉
おどけたような口調は軽いのに頼もしげで、私は泣いて縋りたくなった。助けてと叫びたくなった。答えようと口を開き、そこで固まる。悪魔の思うがままに言葉を発していいものかと、辛うじて残っていた理性が私を止めた。
「……何を、するの?」
代わりに出てきたのは疑問。彼の提案を了承したも同然な言の葉は、最後の悪あがきだ。
〈簡単だ。俺と契約して、俺のために動けばいい。息をするのも、体を動かすのも、誰かを殺すのも全部俺のため。心も体も、魂も俺のものになって、俺が望むままに生き、俺が望むままに死ぬ。それだけだ〉
悪魔の言葉は甘い毒のようだった。逆らおうという思いを悉く溶かしていく、甘美な毒。事実、私も侵されている。頷いてしまいたくなる。
〈本当はお前を元いた場所に帰すのが一番なんだろうが、転送の陣に力を使い過ぎたのと、強制的な融合による影響で力が殆ど残ってないんだ。時が経てば自然と元に戻るが、五百年近く待つことになる。それじゃあお前の精神がもたない。そこでだ。ちょいと反則気味だがお前に『糧』を集めてもらい、半ば無理矢理俺の力を戻す。お前は元いた場所に戻れるし、俺も自由になるし、いいこと尽くめってわけだ。そのために契約を結ぶ。あぁ、多少はお前の意見も尊重してやるから心配すんな〉
悪魔の提案は理に敵っているように思えた。利害による取り引きは、同情や憐憫によるものより信用できる。けれど私は素直に頷けなかった。
「本当に戻れるの?」
〈おいおい、俺を誰だと思ってやがる。確かに行くことより戻ることの方が難しいが、それはそこら辺の三流の場合だ。一流の俺からしてみりゃ何てことない話だよ〉
「嘘じゃない?」
〈契約に関して嘘は吐けねぇようになってる〉
私は眼前に転がっているゴブリンの骸を見つめる。彼らを殺したのは私なのか、悪魔なのか。もう分からない。魔物や動物だけでなく、人間をこの手にかけるかもしれないと彼は言っていた。それが本当かどうかはまだ半信半疑だが、可能性が高いとは思う。その時私はどうするのだろうか。今ですらこんなに不安定だというのに、そうなった時に正気を保てるかどうか……。
〈どうでもいい話だけどよ。戦場に出た兵士が人を殺しても平気な理由、知ってるか?〉
私の思考を止めるかのように、悪魔がそんなことを聞いてきた。唐突な問いかけに、私は首を小さく横に振る。
〈死にたくないからって奴もいるだろうが、半数近くは『上司に命令されたから』らしいぜ〉
その言葉に、彼が何を言いたいのかうっすらと分かった。私は小さく頷き、口を開く。
「……約束、してください。私を元いた場所に帰すと。…………私を、助けると」
〈あぁ、確かに約束しよう〉
刹那、目の前に紫色の魔方陣が現れた。一番外側の円と二番目の円の間にはアラビア文字やルーン文字のようなものが描かれ、二番目の円の内側からは六本の線が均等に円の中央へと伸びている。線の交点は小さな円で囲まれ、中央の円の左右にある線と線の隙間に、六芒星を内包した円が描かれている。簡易な形だというのに、どこか惹かれてならない魅力を持った魔方陣だと思った。
〈そういや、名前何てぇんだ?〉
「……耒」
〈OK。んじゃ、そこに両手を翳してくれ〉
言われるがままに両手を翳すと、魔方陣は発光し、ゆっくりとだが回り始めた。
「〈我が望みは帰還、我が望みは救済、我が望みは安穏〉」
悪魔の言葉がそのまま私の言葉となって出てくる。それに応えるかのように魔方陣の光が増した。
「〈我が名は耒。己が魂を対価とし、悪魔ヴェルノートとの契約を求む者なり〉」
瞬間、魔方陣がこれ以上ない程強く輝いた。目が潰されそうな閃光に、私は瞼をきつく閉じ、腕で目を覆ってしまう。魔方陣はその後も数秒ほど輝いていたが、急速に光を失っていった。
〈これで契約は完了だ〉
悪魔の言葉に私は恐る恐る腕を下ろし、目を開ける。あれほど強い光を発していた魔方陣は既に消えていた。私は自分の体を見下ろしてみたが、目立った変化は見当たらなかった。
〈本当なら体のどこかに印が現れるんだが、魂が融合した時点で半分契約してたようなもんだからな。今回はそれが深まるだけだ〉
その言葉に、私は左目の下を撫でてみた。確かに刺青の彫りが深くなっている。これはそういうものだったのか。
〈俺の力が強まると、印の範囲も広がっていくが……。まぁ、女だしな。そこまで目立たさせねぇつもりだから安心しろ〉
悪魔は律儀にもそんな約束をしてくれた。冷たいのか優しいのか分からない。雲を掴むようというのはこのことだろうか。そこではたと、どうでもいいことを思い出した。
「……ヴェルノートって」
〈ん? あぁ、俺の通称だ。真名は言えない決まりでな〉
「そうなんだ」
〈普段はヴィーノでいいぜ。改めてよろしくな、相棒〉
悪魔――ヴィーノはおどけたようにそう言った。拍子抜けしそうなほど明るい声は、けれど私の心を晴らしはせず、私は未だ風に揺れる木々を見るともなしに眺めることしかできなかった。