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力と命と

 柔らかな風が頬を撫でていく。草花や枝葉が踊るように揺れ、優しい音を奏でていた。不思議な輝きを放つ湖も僅かに波立ったが、すぐに静けさを取り戻した。私は喚き続けたせいで荒れた息を整えつつ、緩慢とした動きで辺りを見やる。

 穏やかだ。これ以上ないくらい穏やかな風景だ。のんびりとした時間を過ごすには最適な空間は、けれど今の私にとって酷なものでしかなかった。

 頭の中でいくつもの言葉が駆け巡る。何故、どうして、何で私が。無駄と知りつつも、考えることは止められない。もしもあの道を通らなければ。もしも少しばかり遅くに家を出ていたら。今となっては手遅れな仮定ばかりが浮かんでは消えていく。これが現実逃避だと理解していた。過去を振り返ったところで無意味だと分かっていた。でも現実を受け止め、前に進む力など残されていない。

〈…………おい〉

 それまで何一つ言葉を紡がなかった悪魔が声をかけてきた。応えることも目を閉じることも億劫で、私は水面に映る自分をぼんやりと眺める。こちらを見返してくる瞳は一切の表情が欠落しているみたいで、随分ひどい顔だと他人事のように思った。

〈おい、聞こえてるか?〉

 悪魔は尚も話しかけてくる。頭に直接声を流し込んでいるのに、聞こえているか確認するなんて、妙なところで律儀だ。

〈聞こえてるんなら返事ぐらいしろよ。…………って言ってもその有り様じゃ無理か〉

 無理だと分かっているなら聞かなきゃいいのに。そう思いながら湖に触れる。水の冷たさと包み込むような流れが心地よかった。

〈それでも確認は必要だろ。てか会話が成立していることに関しては無視か〉

 悪魔の言葉に、私は返事していないことを思い出した。だが少し前にも心の内を読まれていたはずだから、さほど驚くことでもない。正直、もう驚くことに疲れた。

〈おーおー、こりゃなんとも頼もしい話だ〉

 明らかに茶化している口調に僅かだが苛立つ。弱っているところを突いて馬鹿にされるのは気分のいいものではない。揚げ足を取られるのも嫌いだ。そもそも元凶はお前だろうと言いたくなったが、寸でのところで言葉を飲み込んだ。でもきっと彼には届いているのだろう。その証拠に密やかな笑い声が響いている。

〈怒りを表せるようになってきたところで、ちょいと右を見てみな〉

 彼に言われるがままに顔を右にやると、数メートル離れた先の茂みが不自然に揺れているのが目に入った。まるで何かの到来を告げているかのような揺れは段々と近付いてきているようだ。そう理解した途端、妙な寒気が背筋を走り抜けた。

〈お、お前も感じたか。この感覚は十中八九魔物だな。今のお前じゃ逃げないと死ぬぜ? どうするよ〉

 物騒な単語と、それに似つかわしくない愉しげな口調。ここに来る前もそうだったから、これが基本なのだろう。そんなどうでもいいことを考えながら、揺れる緑を見つめ続けた。

〈おーい、俺の話聞こえてたかー? このままじゃ死ぬって言ってんだぞー〉

「…………だから、何?」

〈は?〉

 私は黙って立ち上がり、茂みの揺れを見据えたまま湖から離れる。得体の知れない空気がそこから放たれていた。心なしか先程より強くなっている気がする。死ぬと言う言葉は間違いや脅しではないのだと素直に思えた。普通ならここで怯えるなり混乱なりするのだろうが、私の思考は妙な方向へと流れていった。

「死ぬのって、そんなに恐ろしいこと?」

 気紛れという名の暇潰しに巻き込まれ、異世界に飛ばされた挙げ句、人間じゃなくなることと、得体の知れない生き物に殺されること。どちらがより恐怖を煽るかと聞かれれば、殆どは後者だと答えるはずだ。生きられる可能性が低い選択肢は選ばない。生き物として当然の反応。けど、今の私にそんな感情は存在しない。私には今ここに自分が存在していることの方が百倍も恐ろしいのだから。

「こんな訳の分からない状態から抜け出せるのなら、いくらだって死んであげる」

 救いを求めるものにとって、死は恐怖となりはしない。どこで聞いた言葉だか忘れたが、まさか実感することになるなんて思ってもみなかった。しかし本音なのだから仕方ない。

 死んだところで何かが変わるわけもない。それどころか全てが終わってしまうだろう。でも、もうどうでもいい。考えることに疲れた。楽になりたい。

 私がそう思った瞬間、茂みから緑色の小鬼が六匹ほど現れた。小鬼といっても私より頭一つか二つ分ほど小さいだけで、横幅は人間の倍ぐらいありそうだ。手足や腹の筋肉が引き締まっているあたり、相応の力も持っているのだろう。

 彼らは腰に布を巻いただけの格好をしている。棍棒や鉈などの武器を持っているところから見ても、知能は高いのだろう。その証拠に醜い顔を愉悦に歪ませて私を見ている。自分より弱いものを見つけたというような、笑みとも言えない笑みは気持ち悪い。

〈ゴブリンか。お前、殺される前に犯されるぞ。あいつらは人型の女とくるや見境なく襲うからな〉

 悪魔の言葉に、だからあんな笑みを浮かべているのかと納得した。魔物のくせにやけに人間くさい。これではそこらのチンピラなどと変わりはしないだろう。生理的な不快感を抱くが動きはしない。

「そう。それで?」

〈おいおい……。輪姦されてぇのか? そんな趣味があるとは知らなかったぜ〉

 刹那、彼らにめちゃくちゃにされる自分の姿が脳裏に浮かんだ。だがそれもすぐに消える。悪魔は確かに『殺される』と言った。ならそこに至る過程が何だろうと構わない。だが訂正だけはしておかなければ。

「言っとくけど、そんな趣味は持ってない」

〈じゃあ何故だ?〉

「些末なことだと思ったから」

 私の言葉に悪魔が呆気に取られたのが分かった。私は彼から目の前のゴブリンたちに意識を向ける。彼らはいつの間にか距離を縮めてきていた。先頭にいる奴がこれみよがしに棒で肩を叩いている。脅しのつもりだろうか。そう思った時、押し殺したような声が微かに聞こえた。

〈ぷっ、くくっ、くはははっ、おまっ、うはっ、はははははははははははは!!〉

 最後には大笑いしだした悪魔に、私は呆然とするしかなかった。脳内では弾けるような笑い声が木霊している。その声で徐々に我に返った私は耳を塞いでみたが、それぐらいで声が聞こえなくなるわけがなく、仕方なしに彼の笑いが収まるのを待った。何とはなしにゴブリンたちの方へ目をやると、皆揃って私を注視していた。様子がおかしいと思ったのだろうか。

〈はははははは! はは……げほっ、ごほっ! やべ、地味に腹筋痛ぇ……〉

 そう考えている間に悪魔は笑い終えたらしい。私はため息を吐き、脳内に意識を戻す。ゴブリンの動きも気になるが、先に片付けるべきはこの悪魔だ。

「気は済んだ?」

〈おー。しっかし凄ぇな、お前。俺が気に入るわけだ〉

 姿を見ずとも悪どい笑みを浮かべていると分かり、自然と眉間に皺が寄る。そんな私の反応をどう取ったのか、悪魔は宥めるような声を出した。

〈そう怒んなって。これでも誉めてんだからよ。流石は悪魔に選ばれただけはあるってな〉

「あれは無作為なものじゃなかったの?」

 私の切り返しに、悪魔は喉を震わせて笑った。彼は笑い上戸なのだろうか、それとも笑いのツボが浅いだけだろうか。どちらにしろ迷惑な話であることに違いはないけれど。

〈やっぱいいわ、お前。ゴブリンなんかにゃ勿体ねぇ〉

「それはどうも」

〈ついでに、ここで死なせるのも勿体ねぇ。たとえ離れられないとしてもな〉

 悪魔の言葉に疑問を抱いた瞬間、体から力が抜けた。突然のことに驚く間もなく、奥底から沸き上がる何かに突き動かされるような感覚が全身を支配していく。手足どころか神経から乗っ取られていく、そんな感覚。

〈だから手伝ってやるよ。何、ただのお節介だから気にするな〉

 茶目っ気を含ませた言葉と共に視界がぶれる。右手に鈍い衝撃がきたと思った瞬間、視界の端で緑色の何かが吹き飛んだ。蛙が潰れた時みたいな声が鼓膜を震わせる。

「え……?」

〈こら、ぼんやりしてんな。前見ろ、前。すぐに終わるぜ〉

 彼の言葉通りに前を見ると、いきり立つゴブリンたちが視界一杯に広がって、思わず引いてしまった。どうやら手が届くところまで近付いていたらしい。先程のぶれはそのためか。

〈引くなっつの〉

「や、無理。気持ち悪い」

〈いたぶられるのを覚悟してた奴の言葉じゃねぇな〉

 悪魔はおかしそうにそんなことを言った。確かにその通りではあるが、生理的に受け付けられるかどうかというのはまた別の話だ。

〈まぁいい。続けんぞ〉

 悪魔がそう言った途端、私の体が勝手に動き、棍棒を振り上げていたゴブリンの腕を掴んだ。刹那、ゴブリンが隣の一体を巻き込みつつ右へと吹っ飛んだ。頭がその光景を認識したと同時に、鈍い衝撃が脚から伝わってくる。ゴブリンの胴体を蹴ったのだと理解した時には、既に残りの三匹に近付いていた。彼らは鉈や棍棒を頭の上で振り回し、威嚇しながら距離を開けている。

〈そろそろだな〉

 悪魔がそう呟くのと、ゴブリンたちが棍棒や鉈を降り下ろすのはほぼ同時だった。だが武器が飛んでくる気配はない。何をしたのかと思った時、頭上から何かが接近してくる音が聞こえ、私はつられるようにそちらを見上げた。そこには巨大な火の玉が三つ。

「……うそでしょ?」

 あまりのことに唖然とする私をよそに、火の玉は私に降り注いだ。反射から顔の前で腕を交差させる。高熱が腕に触れるか触れないかという瞬間、左目が熱を帯びた気がした。

〈弱い〉

 悪魔の囁きが頭を震わす。刹那、火の玉は消えていた。まさに一瞬のことで、頭がついていかない。

〈がっかりだ。こんなんじゃ糧にもなりゃしねぇ〉

 悪魔の言葉を聞き返す前に、私の体はゴブリンとの距離を縮めていた。バスケットボールぐらいある頭を掴み、力まかせに左へ曲げる。ばぎんという嫌な音と共に、ゴブリンの頭はおかしな方向へと曲がっていた。掌から腕にかけて、無理矢理硬い何かを折った時みたいな、否、それよりひどい感覚が走っている。それに嫌悪を示す前に、私の両手は残った二匹のゴブリンの首を掴んでいた。左目の熱が上がっていく。

〈そういや数字見えるか? こいつらの額付近にある奴〉

 数字なんて刻まれてなかったし、それらしきものを持ってもいなかったはず。そう思いながら、私は苦しそうなゴブリンの顔を改めて目をやると『25』と『13』という紫色の数字が、額の部分にぼんやりとだが記されているのが見えた。あまりに唐突な変化に言葉を失ってしまう。

〈見えたみてぇだな。上々、上々〉

 この数字が見えることに何の意味があるのかと疑問を抱いた瞬間、暖かいお湯に触れた時にも似た感覚が手から腕、胸へと流れてきた。微かな抵抗を見せていたゴブリンの体から力が抜け、目は虚ろになり、口は半開きの状態で固まる。

〈あー、やっぱ駄目だな。雑魚過ぎる〉

 すっかり動かなくなったゴブリンたちを投げ捨てた途端、再び体の力が全て抜けた。私は重力に従ってその場にしゃがみこむ。嵐のように過ぎ去っていった出来事も、胸に訪れた虚無感と微かな安堵も、全てがフィルター越しのことみたいで、私はぼんやりと目の前に転がるゴブリンの亡骸を眺めていた。

6/17 誤字修正しました。

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