最初の目覚め
――――頭が痛い。
世界が回っているような感覚。違う。回っているのは私だ。引きずられながら、螺旋を描くように落ちていく。落ちる先が暗いのか明るいのか分からないけど、不思議と恐怖や不安はなかった。そこに行くことが当たり前のような、そんな感じは悪くない。頭の痛みさえなければだが。
痛みと格闘しつつその感じを甘受していると、不意に何かと混ざり合い、融けていく感覚が全身を支配した。唐突なそれは無性に気持ち悪くて、今にも吐いてしまいそう。私が私じゃなくなっていくのに、それでも『私』は自我を保っている。混沌、暗転、消失。それらから導き出される言葉に、私は自嘲の笑みを溢した。
* * *
散り散りになっていた思考が戻ってくる感覚は、私の目を覚まさせた。最初は脳、次は胴体、最後に四肢に意識が向けられる。どうやら私は俯せになっているようだ。体のあちこちが痛い。硬い所に寝ていたからだろうか。でも自室にはカーペットが引いてあるのに、その感触がない。だとするとリビングか? 食事の後で横になり、そのまま寝てしまうことは何度かあったから、今回もそれかもしれない。
私は僅かに疑問を抱きながらも、いつものように目を閉じたまま両手をつき、上半身を起こそうとする。だが手が触れたのは使い慣れた布団でも、自室のフローリングでもなく地面で、掌を通して伝わってくる土の感触に勢いよく体を起こし、辺りを見渡した。どこを見ても木、木、木。緑と茶色以外の色が目に入ってこないなんて、街中で倒れたとしても有り得ない。というか街中で倒れたことも、夢遊病者みたいに気付いたら別の場所にいましたなんてこともなかったのに、これは一体……。
〈やっと起きやがったか〉
地面に寝ていたことよりも未知の場所にいるという事実に呆然としていると、誰かの声が脳内で響いた。鼓膜ではなく頭全体を震わせるようなその声に慌てて周囲に目を配るが、人の影はおろか、動物の姿すらない。そもそもこんな風に言葉を届けることができる人間がいるのだろうか。これじゃあテレパシーじゃないか。
〈何きょろきょろしてんだ? ここだ、ここ〉
声が『ここ』と言ってくるので上下も含めて隈無く見たが、木と空以外のものはなかった。起きて間もない頭を振ったせいか、脳が揺れている。声のせいというのもあるが、やはり寝起き直後に大きく動いたことが一番の要因だろう。しかしこの声の主はどこにいるのやら。
〈だーっ! ここだって言ってんだろうが! 馬鹿かお前!〉
姿の見えない誰かを考えつつ一人首を捻っていると、それがお気に召さなかったのか声が怒鳴り出す。その言葉を聞きながら、未だ本調子ではない頭で理不尽だと思った。声の主の基準がどのようなものかは分からないが、『ここ』だけで場所を特定できるような人は早々いないはずなのだが。
〈いや分かるから!〉
私の思考を読んだみたいに、声がツッコミを入れてくる。もう驚く気力すらなくなってしまった私は、静かに息を吐いた。地味にノリがいいと思ったのは内緒である。
〈ため息吐きたいのはこっちだっつの。何で分かんねぇのかなぁ。自分の中に他のもんがあったら分かるだろ、普通〉
声はそんなことを言いつつため息を吐いた。疲れ果てたような雰囲気を纏う声に同情し、そこでふと先程の言葉が頭を過った。
『自分の中に他のもんがあったら分かるだろ、普通』
自分の中に他のもの。この自分は声のことではなく私のことだ。私の中に他のもの。それが正しいのならこの声は私の中から発せられていることになって、それはつまり……。
〈おら、目ぇ閉じてみろ〉
自身が弾き出した仮説を確認する前に、声が静かに指示を出した。乱暴な言葉なのに大人しく従わなければならないと思わされる声に、私は黙って目を閉じた。目の前が真っ暗になる。木々が生い茂っているせいか、瞼越しに見えるはずの光は届かない。完全ではないけれど深い黒が広がったことに、私は体を震わせた。暗がりを恐いと思ったことは殆どなかったのに。それもこれも正体不明の声のせいだ。
〈ここだ。見えるか?〉
先程まで反響するだけだった声が、ある一点から響いてくるようになった。私は目を閉じたまま意識だけをそちらに向ける。そうしてしばらく、といってもほんの数秒だが、意識を声の方に傾けているとぼんやりとした輪郭の人影らしきものが見えてきた。私が更に意識を集中させると、人影の輪郭もはっきりとしてきた。
〈お、初めてなのに早ぇな〉
どこか飄々とした調子の声は聞き覚えがある。そう思った瞬間、こめかみが痛み出した。痛みに意識がばらけ、輪郭がぼやけた途端、痛みは消えた。再度人影に意識を向けると、またこめかみが痛み始めた。どうやら体は人影を見たくないらしい。でも私は見なくちゃいけないと思っている。本能と理性。勝ったのは理性だった。
私は痛みを無視し、人影に意識を集中させていった。人影が鮮明になればなるほど痛みも増し、とうとう頭が割れるのではと思ってしまうほどになったが、それでも意識を向け続けていると、輪郭が線に変わった。やっと見えたと安堵する間もなく、はっきりとなった人影に言葉を失う。
白にも似た長い銀髪、ともすれば心を持っていかれそうな紫眼。蔦を模した刺青が左目の下に入れられていたが違和感がなかった。整った顔とすらっとした出で立ちはどこぞのモデルみたいで、現実離れしている。彼が纏う革製の衣服がそれを更に際立たせているが、何よりも異質なのはその背から生えた蝙蝠のような対の翼だ。
「…………あくま」
〈ぴんぽーん〉
掠れた呟きを聞いた悪魔は楽しそうに笑った。その笑みが衝撃により封じられていた記憶を蘇らせる。
見慣れた通学路。朝特有の爽やかな、でもどこか煙たいような空気。塗り潰したと形容するのが正しい暗闇。動かない体。回らない思考。飄々とした態度と、それにそぐわぬ言の葉。驚愕、焦燥、恐怖、冷笑。それらの光景が一連の映像のように浮かんだ瞬間、私は目を開けて駆け出していた。
〈おい、どうした!?〉
脳内で響く声を無視し、木々の隙間を縫うように全力で走る。風が頬を切り、髪を弄んでいった。時折何かが飛び立つ音が鼓膜を震わせるも、頭には入ってこない。葉や枝があちこちをかすっていくことすらも気にならない。ただがむしゃらに走ること以外の思考も感覚も、私の頭の中には存在しなかった。
目的も理由もない逃走は、体力が底をつくことにより終わりを告げた。荒い呼吸を繰り返し、膝をつきそうになりながら、それでも前に進むことは止められない。
今にも倒れ込んでしまいかねない体を叱咤し、最早何故歩むのかも忘れたまま脚を動かしていると、不意に開けた場所に辿り着いた。途端に差し込んだ陽の光に目を細めつつ、何があるのかと数歩進むと、澄んだ空気が鼻を掠める。目を凝らしてみれば、波紋一つない穏やかな水面が視界を埋めた。
それは大きな湖だった。青と緑と白と、その他様々な色を混ぜ合わせたかのような水は、澄み渡っているのに底が分からない。綺麗だからこそ人を寄せ付けない輝きは、荘厳と呼ぶに相応しい雰囲気を漂わせていて、思わず息を詰まらせてしまう。何者にも侵されない神域。そんな言葉が脳裏を過った。
私は覚束ない足取りで湖畔に近付き、へたりこんだ。体も心も疲れ果てているのに倒れないのは何故だろうなんて考えながら、ゆっくりと地面に手をつき、俯いた。肩甲骨を過ぎる辺りまで伸ばしていた黒髪が重力に従って落ちる。僅かな揺れがさざ波を生むのをぼんやりと見つめ、鏡のような水面に目をやり、絶句した。
長くまっすぐな黒髪も、黒い瞳も私のものだ。飽きるほど見た平凡な顔だって変わらない。ワイシャツに似た白い上着と黒いTシャツは今朝着たものだ。間違いない。間違いないのなら何で。
何で左目だけが紫なんだろうか。
私は恐る恐る左目をなぞってみた。水面に映った私も同じように目の周りをなぞっている。左目の下には悪魔と同じ蔦を模した紋様があって、手をやるとざらりとした感触が指から伝わってきた。
浅く彫り込まれた模様を触っているかのような感覚は、嫌が応でもこれが現実だと教えてきた。だから分かった。分かってしまった。己が悪魔と同じものになったのだと。もう人と呼べるような代物ではないのだと。
「あ……、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
刹那、己の口から悲鳴とも絶叫ともつかぬ声が溢れ落ちる。行き場のない感情を吐露するように喚く姿はさぞ滑稽だろうと、妙に冷めた頭の片隅で思った。
* * *
俺は索敵を使いつつ枝から枝へと飛び移り、森の中を駆けていた。高位の魔物かそれに似た存在が引っ掛かってくれればと思うのだが、反応した点にいるのはD級やC級の魔物ばかり。このままでは任務を失敗してしまう。俺は小さく舌打ちをした。
あの女操現士の術は成功していたはずだった。召喚のために描かれた魔方陣はこちらが指示したものだったし、発動までの流れにもおかしな点は見受けられなかった。唯一予想外だったのは生贄の数が三倍だったことだが、発動したのなら問題はない。
そう、正確に発動したのだ。魔方陣は発光と共に突風を巻き起こし、三つの陣の交点に粒子を集めていった。あの術の要は術士ではなく生贄の生命力。一度発動してしまえば、たとえ術士を殺しても止められない。俺は発動を確認し、指令通りに女を殺した。
術士の女が息絶えた後も魔方陣は動き、粒子を中央に集め続けた。ただの光の粒は次第に人らしき形を取り始め、段々と輪郭が鮮明になっていった。その様は美しく、見惚れるほどだった。
だが、輪郭が線となった瞬間に強風が消え、人型を形成していた粒子が一気に霧散してしまったのだ。何も召喚することなく沈黙する魔方陣。それは術の失敗を示していた。
俺は慌てて魔方陣に近寄ったが、血に塗れ、中央に穴の開いた三つの陣と、抉れた交点以外のものはなく、生贄とした人間たちの姿は欠片も見当たらない。『失敗』の二文字が俺の頭の中で回った。
術士による対象の固定が必要だとは聞いていない。俺の存在が影響したとも、術士の血が妨げたとも思えない。それならもっと早くに術は止まっている。後僅かで成功した術が消えた悔しさと、術が途絶えた理由が分からないもどかしさに歯噛みしていると、目の前の魔方陣が消えていくのが目に入った。
召喚に使われる魔方陣が消えるのは成功した時のみ。失敗した場合は陣や生贄の痕跡が残ると聞いている。先程までは魔方陣と生贄を貫いた跡、粒子が収束した跡がはっきりと残っていた。しかし今、俺の目の前にあるのはなだらかな地面のみ。これは一体どういうことだろうか。
俺は魔方陣があったはずの場所を呆然と眺めていたが、すぐさま我に返り、左の袖を捲った。服の下に隠されていた通信用の魔方陣を顕にし、左腕を伸ばす。
「《【交信 リーゲルング卿】》」
通信相手を指定した途端、俺の眼前に人間の頭二つ分程の大きさを持つ、白い魔方陣が現れた。円の内側に書かれたフェルノーム文字がゆっくりと回転し、内部に描かれた八角形の中央が渦を巻く。渦はやがて俺の上司の顔を形造っていく。少しして、茶髪をオールバックにした、険しい表情の男が八角形の内側に現れた。
[どうした]
ただ語りかけているだけだというのに、威圧感が全身に降りかかる。魔方陣越しということを忘れて平伏しそうになるのを抑え、現状を報告すべく口を開いた。
「召喚の魔方陣が発動しましたが、粒子が対象の線を形成した瞬間に停止。粒子は霧散し、痕跡が残ったため失敗と判断しようとした刹那、術を発動した形跡が消失致しました」
簡略的な報告を聞いた上司は、顎に手を当てて考え込み始めた。俺は緊張した面持ちでその姿を眺める。
[術士は]
「発動を確認した瞬間に殺しました」
[その後、陣に変化は]
「特にありませんでした」
[唐突な停止だったのか]
「はい」
上司は目を閉じながら頷いている。思い当たる節でもあるのだろうかと考えた時、切れ長の目が開かれた。
[お前の報告から鑑みるに、何者かに妨害、或いは干渉された可能性が高い。粒子は人の形となったのだったな?]
「はい。成人男性と思われる形に落ち着こうとしていました」
[だが確かな型を取る前に霧散し、そして間を置いて陣が消えた]
「その通りです」
[ならば近くに召喚されている可能性が高い。高位の魔物に似た気配を探せ。近くを捜索しても見つからないのなら、生贄の出身地へ向かえ]
「畏まりました」
俺が会釈したと同時に通信用の魔方陣は消えた。俺は左袖を元に戻し、近くの枝に飛び移りながら、今度は右袖をたくしあげる。
「《【索敵】》」
俺の合図に右腕に巻かれた布製のブレスレットが発光した。俺の脳内にこの森の地図と魔物の位置が浮かんでくる。それらの点を確かめるために枝を蹴った。そうして今に至る。
いくつかの点に近付いたが、どれもこれも雑魚ばかり。腹立ち紛れにゴブリンの巣を潰したが気は晴れない。これはもう生贄の出身地に向かうしかないかと諦めた時、大きな点が一つ、沸いたかのように表れた。急に出没したそれを怪訝に思うが、新たな可能性を調べる方が先だ。幸いにも点は俺が潰した巣からそう離れておらず、そのため力の度合いを見ることができた。だが頭に浮かんできたのは『測定不能』の文字。その事実に俺は目を見張る。
俺が使っている【索敵】は、有史以来存在する魔物全てに反応し、その居場所と強さを知らせるものである。個人の力量で索敵範囲は変わってくるが、反応の差は存在しない。これが売り出されて三百年近く経つらしいが、その間に『測定不能』なんて事態はなかったと聞く。これらから導き出される答えは未知の魔物が現れたか、我々の認識を遥かに越える強さを持った魔物が現れたかのどちらか。
俺は即座に地を蹴り、『測定不能』と書かれた点に近付く。だが半分程距離を縮めたところで、点は表れた時と同じように消えていった。そのことに一瞬動きを止めかけるも、すぐに気を取り直し、移動を続ける。
反応が不安定ということは、力の制御が不安定だということに他ならない。力の制御ができない魔物など聞いたことがないが、召喚された存在だとすれば違和感も減る。耳を切る風の音を聞きながら、俺は意識を戦闘時のものへと切り替えていった。
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