01……火刑
誤字脱字などありましたらこっそりお知らせいただけると嬉しいです。本家サイトに追っての連載になります。
一、火刑
濃い夕闇のような炎が辺りを包んでいた。差し迫るそれは、ひとりの娘を黄昏に誘う。娘は床に肢体を横たえたまま、長い睫毛が縁取る印象的な翡翠の瞳でこちらを眺めていた。
「このままここにいたら、わたし、死にますか……?」
恐ろしいほど優しく微笑んで、娘は言った。恍惚にも似たその表情に、思わず見惚れてしまう。この世界にこんなにも美しいものがあったのかとさえ思った。
火の粉が降り注ぎ、今にも天井は崩れ落ちそうだ。
「あなたは、死神さん?」
娘は金玉の声で無邪気に尋ねる。この惨事とは不釣り合いな娘の様子は絵画の一片のようでもある。男はまるで夢でも見ているような心地で、けれど確かに現実であるこの有事になにか底知れぬ悲しみを抱いた。
哀れみではなく、間違いなくそれは悲しみであった。
「ああ、死ぬだろうな」
男は思った。自分は死神などと言った大それたものではない。けれどこの娘にとっては死神以外の何者でもないのではないか、と。黒い髪に赤い瞳はこの世界では風変わりで、この世ならざるものの形容としてしばしば用いられる。男はいつでも人々にとって畏怖の対象としかなり得なかった。
この際その死神とやらを演じてやろうか――死を待ち望んでいるような、この娘のために。
男はそっと娘に手を差し伸べる。娘は意識を手放しかけながら、けれどしっかりとこちらを見据えていた。向けられる翡翠は、一縷の濁りさえなく澄み渡って底知れない。娘は何を思い、何を示そうとしたのだろうか――恍惚の微笑を一層深めると、長いまばたきにも似たような自然な挙動で、そっと意識を手放した。
差し伸べられた手に、娘が縋ることはなかった。
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鉛色のどんよりとした空から、しんと雪が降り続く。セレネは仄暗い空を見上げると、ふと息をのんだ。降る雪の白さに、際限の無さに、静かさに……。この街に来てまもなく、セレネは初めて雪というものを見たが、それは感動に値する美しいものだった――この寒さと、足場の悪さを除いては。
セレネはしばらく空を見つめた後、再び歩き出した。もっとも行き先など、行く宛など、なかったのだけれど。立ち止まってはいけない気がして、歩けば何か得られるのではないかと願いながら。
今のセレネには本当に何も無いのだった。何も無くなれば、人は死んでしまうのだと思っていた。けれども人は、そう簡単には死ねないのかもしれない。少なくともセレネは何も無いままに生かされてしまった。
「こんばんは、美しいお嬢さん」
声を掛けられて振り向くと、そこにはニヤニヤと下賎な笑みを浮かべた男が立っていた。もちろんセレネには見覚えなど無い。
「あの、なにか……?」
品定めでもするようにこちらを見る男に、たじろぎながら言うと、男はいっそう笑みを深めた。
「こんなトコロに一人で来るのには、何か深ぁい理由があるんでしょう。宿を取ってあげるから私に」
「結構です」
セレネは咄嗟に駆け出した。男は追っては来なかったけれど、止まったら恐怖と疲労で、もう歩く事もできない気がした。
しかし先へ進めば進むほど辺りは怪しく、胡散臭く、気味悪く、どこか色めき立ったような街の深層に入り込んでしまっているようだ。もう長い事外を出歩いている上、ろくに防寒具も持たないセレネの身体は、すっかり冷え切っていた。慣れない雪も彼女を嘲笑うように足を取る。
そり立つように迫る建物が、彼女を愉快そうに見下している。
雪に埋もれていたらしい側溝の凹みに躓くと、とうとうへたり込んだまま、動けなくなってしまった。息も絶え絶えになり、酸欠になった頭もぼんやりとして、その場で眠ってしまいたい衝動に駆られる。棒のようになった足には、感覚など無かった。少し近くに、鴉の羽音が聞こえる。
「マスター……」
そうつぶやく声は本当にかすかで、音は雪に吸収されてしまっていただろう。
「おやおやお嬢さん。こんなところで眠ってしまったら、死んでしまうよ……」
見上げればやつれた顔をした男が、こちらを眺めていた。おそらく魔術師であろう。根拠は無かったが、なんとなくそう思った。
――そうだ、転んだときに怪我をしていたんだ。
セレネはそこで初めて自分の足から血が染み出ているのに気が付いた。咄嗟に逃げようと身じろぐが、いとも簡単に男に組み敷かれてしまう。身体も小さければ、力があるわけでもなく、まして今この時であっては、セレネの抵抗など赤子のそれであった。
「おいしそうじゃあないか、私にもわけておくれ」
「私も飢えて仕方ないんだ!」
血の臭いを嗅ぎ付けて、数人の男達が集まってきた。どの男もみな、飢えた瞳をしていた。
「いやっはなして……!私の全ては、主のものですっ」
叫ぶと男はいらだたしげにセレネの口を塞ぐ。暴かれる胸元に、肌に触れられる感覚に吐き気を感じ必死にもがく。わずかに緩んだ口元を覆う浅黒い手に噛み付くと、生臭い鉄の臭いが鼻を突いた。
「癒し手の分際で……!」
「いや、こいつは噂の花喰いってやつさ。まさかこんなところでありつけるなんてなぁ」
「おい!しっかり押さえつけろ!」
「お嬢さん、悪い事はいわねぇ。大人しくしろ――花喰いは魔術師のために、だろう?」
セレネはびくりと身を震わした。その一言が、呪詛のように彼女を苛む。セレネはにわかに天を仰いだ。滑り落ちる雪は、やはり美しくて、美しくて、もたらされる冷たい痛みは人間を拒絶しているようだ。夜はすぐそこだろうが、この空ではきっと月も出ないだろう。だれが咎めるわけでもない。セレネの事など、もう誰も――……。
自ら首に爪を立てれば、容易にそこに血が滲む。白くそまった路地裏に、深紅の花がひとつ。
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