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ウツロヤミ  作者: ミーン
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ニオイ

アメリカのロードアイランド州にあるケアホームには、人の最期の時を看取ってくれるオスカーと呼ばれる猫がいる。

入院している方が亡くなる2、4時間前になると、部屋に入ってきて患者さんに添い寝するそうだ。

だからその施設では、オスカーが添い寝をはじめた患者さんの家族にはすぐにくるよう連絡を取るという。


世間ではこれを不思議だというけれど、私の勤める病院のナースにとっては、そう不思議な話ではない。

何度も患者さんのご臨終の場に立ち会うと気づく。

亡くなられる数日前になると、患者さんから独特のニオイが漂いはじめるから。

これを感じたら、私たちは暗黙の了解で最終的な終末期医療、「最期のターミナルケア」を開始するため、婦長さんから担当ドクターへ連絡をいれてもらう。


それは残り少ない時間のなかで、寿命に影響なく、副作用で苦しんでこられた方の薬をどれだけ抑えられるか、食べたいものをがまんしてこられた方に、どのくらいまで自由に飲食していただけるかを判断してもらうため。

そして、ご家族へいつ連絡するか決めてもらうために。


他の病院や医療施設がこのニオイに気づいているのか、いるのならどんな治療……どう向きあっているのかは、経験の浅い私にはまだわからない。

ただ少なくとも、機能を維持できなくなった体の内側からだんだん死んでいくための「腐臭」だなんてとらえかただけは、してほしくない。



もう長くご入院されている患者さんの病室へ、体温と血圧を測るためドアを開くと、「ターミナルスメル」のニオイがただよっている。


「おじいちゃん、気分はどうですか? 欲しいものはありますか?」

するといつものように、「家へ、家へ帰りたい」とかすれた声を出されます。

意識がはっきりしている患者さんの多くは、この方と同じ願いを口にされますが、それをかなえてあげられることはほとんどありません。


「それなら早く元気になって。それから家へ帰りましょう」

気休めなのはわかっています。ですが、ほかにどう言えばいいのか私にはわからないのです。

体温は低温を保ったまま、血圧は日を追うごとに下がっていくのに、私にはなにもしてあげられないのが、たまらなく悔しいです。


「ほら、またご家族のみなさんがお見舞いにきてくださるんですから、元気な顔を見せないと」

私の言葉に患者さんはフッと目を細められました。


だけどそれは励ましに喜んでくれたものでも、歳の離れたナースの私を娘のように感じてくれたものでもありません。

なにもかも悟った上で、私の気休めを受け入れてくれたような視線だったのです。


目を合わせていられなくなり、急いでドアから出ようとしたとき、足元をなにか小さい生き物が通り抜けたような気がしました。

もう一度病室をのぞき込んだのですが、気のせいだったのでしょう。なにもいませんでした。

私はツンと鼻を突くニオイの病室から出て、すぐ婦長さんへ「至急ご家族を呼んであげてください」と報告にいきます。

あと2時間から4時間。間に合ってくれればいいのだけど。


患者さんのご臨終に立ち会い、その時に見たおじいちゃんの顔は、なんとか間に合ったご家族と会えて満足そうだった。


ホッとしたのもつかの間、数日後にはまた別の患者さんからターミナルスメルのニオイがただよってきた。

深夜の見回りをしながら、私はさすがに考える。

患者さんごとに長い人生を経験され、たくさんの思い出があるぶん、「最期のターミナルケア」の形はそれぞれ違ってくるのはわかっているし、できる限り望みはかなえてあげたい。

だけど、自分の家族からこのニオイがただよってきた時に、「家へ帰りたい」という希望がかなえられないのがわかっていて、いつも患者さんに対するような、あんな気休めが言えるだろうか。


いつの間にか足元へすりよってきた猫を抱き上げて背中をなでると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。

そうか。例えウソしか言えなくても、なにもできなくても、ただそばにいる。そばにいてあげるだけでも心は癒される。

あのおじいちゃんの目が語っていたのは、これだったんだ。


気がつくと、抱いていたはずの猫がいない。いいえ、そもそも病院に猫なんているはずないのに……。

私はボルヘスの書いた『幻獣辞典』に記された、人間の魂を猫が足元にじゃれ付くようにしながらも、涅槃にたどり着かせる“ア・バオ・ア・クゥー”を連想したけれど、そもそも、そんな生き物なんているはずがない。


けれど私はこの先もずっと、この仕事を続けていける気がした。


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