ボタン
これまでと少し違います。ホラーというよりもミステリーかな。
無表情な灰色のコンクリートの壁に囲まれたこの部屋にあるものは、粗末な簡易ベッドにうすっぺらな毛布、むき出しのトイレ。
そして、ここに似つかわしくない一台のモニターには、監視カメラで撮られている女性を映しだしている。
この部屋と同じような作りの部屋の中で、ベッドに腰かけていた彼女がふいに立ちあがり、壁に埋めこまれたボタンをじっと見つめる。
わたしの心臓は破裂しそうなほどドキドキして、太い針でブスブス刺されるように痛くなった。
けれどしばらくボタンを眺めていた彼女は頭を左右に振って、またもとのベッドに座りこむ。
ハアハアハア。
やめてほしい。
あのボタンが押されるとどうなるのか、わたしには知らされていない。
この部屋の壁や床をよく見ると、落としきれていない黒っぽい茶色のシミがあちこちにこびりついている。
ここでなにがあったかなんて知りたくもない。
どうしてこんなことになったの?
確かにわたしにも責任はある。けれどこれほど恐ろしいことになるなんて思わなかった。
わたしがここを出られるまで、あとまだ2年11か月と3週間あまり。
ほんの1週間前まで、わたしは彼女のいる部屋にいたのに。
出所まであと1週間だったはずなのに……。
わたしが彼を殺したのは、彼のDVにあれ以上たえられなかったから。
だからいつもどおりお酒をのんで、わたしに暴力を振るったあと眠っているところを首をしめた。
もう大丈夫だろうと思って手を離すと、まだ完全に死んでいなかったらしく、苦しそうにうめき声をあげた。
もし彼にわたしが殺そうとしたことがばれたら、間違いなくわたしが殺される。
急いで台所から包丁を持って、今度こそ完全に動かなくなるまで何度も何度も刺した。
それが裁判で、明らかな殺意があったことと、何度も刺すという残酷さを指摘された。
けれどわたしが受けたDVも考慮された上で執行猶予なしの懲役1年7か月が言い渡され、これ以上彼の話を聞かされ、そのたびにあの時の場面を鮮明に思い出さなければならないのがいやで、控訴しないことにした。
その後、わたしは模範囚としてすごし出所1週間前に、看守から個室へ移るよう指示された。
なんでも出所が近い受刑者は、長期の受刑者から嫌がらせを受け、問題を起こさされて懲役が伸びることがあるらしいから。
ただその部屋に入る前に看守から「壁にあるボタンは絶対に押してはいけない。24時間ずっと監視していることを忘れるな。万が一押すと、最悪の場合おまえは死刑囚になる」と言われた。
何もない部屋の壁には、確かに赤いボタンがついている。
天井にはわたしを監視するためのカメラがあり、じっとこっちを見ている様子がうかがえた。
1週間したらここから出られる。そのことで、初日、2日、3日目までは耐えられた。
だけど、なにもなく、作業もない日が続くと壁のボタンが気になってしょうがない。
それでもカメラが見張っていることと、最悪わたしが死刑囚になるとの言葉がボタンへの興味を押しとどめていた。
でも。このボタンを押せばどうなるのか?
模範囚として過ごしてきたわたしが、ボタンを押しただけで本当に死刑囚になるのだろうか?
もしこのままボタンを押さずに出所できたとして、これがいったいなんだったのか一生知ることができないなんて。
日を追うごとにボタンへの興味と、押してみたい欲求にかられ、ついにはボタンを押している夢まで見るようになった。
押したい。でも、だけど、押したい。
いよいよ明日が出所日という夜中、どうしても我慢できなくなったわたしは、そっと起き出してボタンを押してしまった。
そのとたん、部屋の外から「きゃああ!」「やめて、いやあ!」「助けて助けて!」と絶叫が聞こえ、すぐにシーンとなった。
1分もたたないうちに看守がやってきて、無言でわたしに拘禁服を着せて出て行った。
その後、救急車が何度もやってきて刑務所は騒然とした雰囲気に包まれた。
翌日、わたしは隣りの部屋へ移され、やってきた副所長からあのボタンを押した場合、無条件で禁固3年が決定すると告げられた。
「ただし、生きて3年を迎えられたらの話だ」とつけ加えた副所長の言葉の意味は、この部屋のモニターを見てやっと分かった。
モニターに映る部屋に、確かわたしより一週間刑期が長かったとこっそり話したことがある女性が連れてこられた。
そこでわたしが受けた説明と同じ話がされ、彼女は部屋のベッドに座った。
彼女がボタンを押さずに出所できたとしても、またすぐ次の出所予定者が連れてこられるんだろう。
どうかそのボタンだけは押さないでほしい。
どうか、お願いだから。お願いだからボタンは押さないで。
どうか、どうか、どうか……。