機械仕掛け時計技師と、ある男の出会い…。
錆びついたチェーンが、乾いた音を立てて回る。二ノ宮秀明(60歳)は、幾度目かの痛みに耐えながら、ペダルを踏みしめていた。
「くっ……!」
腰の爆弾が、また鈍い疼きから鋭い激痛へと変わる。だが、足を止めるわけにはいかなかった。前かごには、苦労して手に入れた特売品の卵や納豆、ふりかけが、生活の重みとなってのしかかっている。
定年を迎えたものの、退職金はわずかで、年金だけではその日暮らしをやっと支えるのが関の山だった。彼の自宅の冷蔵庫を開ければ、奥の方で白くカビた味噌や、いつ買ったかも分からない傷んだ野菜が、無残な老後を映し出している。
「100円の卵のためにな、俺は……」
腰がどれほど悲鳴を上げようとも、特売の文字を見れば、足は自然とスーパーへ向かってしまう。往復に丸一時間をかけ、命を削るようにして手に入れた戦利品だ。
「腰さえ治れば……もう少しマシな生活ができたはずなのに。この貧乏は、一体どこまで続くんだ……ちくしょうっ!」
先が浜公園の緑陰にたどり着いた二ノ宮は、自転車を放り出すように止め、ベンチに崩れ落ちた。額の汗を拭いながら、痛む腰をさする。この公園で息を整えることも、日課の一つとなっていた。
そこに、一人の男が静かに歩み寄ってきた。青山三郎。二ノ宮と同じく、60歳を越えたばかりの男だった。
「いい天気ですね」
穏やかな声とともに、青山はベンチの端に腰を下ろした。そして、ふと自分の左腕に目をやる。そこには、見慣れない腕時計がはめられていた。
木製のボディに銀色の塗装が施された、手作りの品だ。文字盤の細部に至るまで丹念に削り出されており、中の歯車までが木で作られているように見える。
時計塔の鐘が遠くで正午を告げたその時、青山の腕の秒針が、正確に時を刻み、5秒目を過ぎていった。
それは、彼がかつて時計技師だった頃の情熱と試行錯誤の結晶であり、裏蓋には「タカハシ時計会社」「1970年」という刻印が誇らしげに刻まれていた。
青山は自分の腕時計を眺めたまま、何気なく言った。
「お昼どきに、ここで何をしているんですか?」
その言葉を聞いた瞬間、二ノ宮の顔からサーっと血の気が引いた。彼は青ざめた表情で、ガバッと立ち上がろうとして激痛に顔を歪めながら、叫んだ。
「時計なんて嫌いだ! 見せないでくれ!」
その剣幕に、青山はわずかに目を丸くした。
「時計が、お嫌いでしたか。それは失礼しましたね……ですが、差し支えなければ、理由を聞かせてもらえませんか?」
二ノ宮は荒く息を吐きながら、忌々しそうに吐き捨てた。
「時計ってやつは……人間を縛り付けるから、大嫌いなんだよ!」
時間に追われ、時間に縛られ、定年を迎えてもなお、時計の針に急かされるように貧しい日常を生きる男の叫びだった。
青山は、その言葉の裏にある深い疲弊と孤独を敏感に察知した。ここで立ち去るべきではない、そう直感した彼は、穏やかな口調で提案した。
「なるほど、長くなりそうですね。よければ明日、私の自宅へいらっしゃいませんか。ゆっくりお話しを聞かしましょう」
翌日、指定された青山の家へ、二ノ宮はやってきた。
乗ってきたのは、長年乗り古した一台の自転車だった。車体全体が赤茶けた錆に覆われ、チェーンはキシキシと悲鳴を上げ、サドルは表面がひび割れて中のスポンジが覗いている。それは、二ノ宮の人生そのもののように、くたびれて、痛々しかった。
ホコリだらけのジャンバーを着ていた。生地は擦り切れ、破れかけているところもあった。
「夜になると寒くなるだろうな」と青山は心の中で呟きながら、温かく客を迎えた。
青山は妻に先立たれ、子供たちも独立し、今は一人暮らしだった。二ノ宮も同じ境遇だと知り、二人はすぐに親近感を覚えた。
玄関には銀色と金色のトロフィーが4つ飾られていた。二ノ宮はちらりとそれらを見たが、深くは尋ねなかった。
居間は小綺麗な和室だった。青山は謝るように言った。
「時計が嫌いとのことなので、仕事部屋はお見せできません。時計製作所の展示品があるので…」
二ノ宮は部屋を見回し、時計がないことを確認すると、ほっとした様子で腰を下ろした。
冷蔵庫から緑茶のパックとドラ焼きを出し、青山は笑顔で言った。
「特売品で買ったんですよ」
「俺も特売品買うけど、卵を買う時と納豆とか竹輪が安いと嬉しいねぇ」
二人は特売品の話で笑い合った。
「俺も特売品派だ」と二ノ宮は応じ、二人は買い物の話で盛り上がった。
盛り上がり見せた頃…、青山は自分の生い立ちを語り始めた。
「父が時計技師の知り合いで、時計製作所の子会社の経理事務員が父だったんですよ。
そこで、父は、時計技師から人が欲しいと聞かれた父が、それを聞いて、僕にチャンスをくれたんです」
二ノ宮は一口緑茶を飲んでから言った。
「俺は青山さんと違い、酒屋で酒売りしてたねぇ。昔は人気の酒屋で年中客が来てて、品出しもしたけど、裏方の仕事も多かった」
「お互い懐かしい話になりましたね」
青山は話を続けた。
「父のコネで時計技師の会社の居候になり、技を覚えていきました。厳しくも優しい時計技師の前田さんがいたお陰で、今の僕があるんです」
二ノ宮は話を聞きながらドラ焼きを三口食べた。朝から何も食べていなかったので、胃に染み込んでいくのがわかった。
「恩師がいるのはいいねぇ。青山さん。オレの場合、喧嘩が多くて恩師なんていないぜ」
「それはお辛いでしょう…」
青山は労りの言葉をかけた。
二ノ宮は深く考え込むようにして言った。
「時計技師のいい話に悪く言うようだが、昔から時計が俺は嫌いでね…。青山さんに話そうと、大分昔の話を考えてまとめてきたよ」
「是非失礼でなければ、お伺いしたいです。何故そこまで時計嫌いなのか、知りたいですね」
青山は真剣な眼差しで二ノ宮を見つめた。
二ノ宮は話し始めた。
「時計って奴は、昔から思うんだが、束縛し過ぎてると俺は思う訳だ。青山さんにも昨日、公園で話したがねぇ。その束縛するのが嫌いで、今に至る訳だ」
「束縛ですか?成程。差し支えなければ、もっと詳しく理由を知りたいです」
ドラ焼きを食べながら、二ノ宮はさらに語った。
「仕事で束縛されると毎日嫌だった。時計見て行動するのも嫌だった。仕事以外、友人と会うのも時計が束縛するものだから、俺は腕時計捨てた。腕時計があると落ち着かないからだ」
二ノ宮が緑茶を飲み干すと、青山は気を利かせておかわりと追加のドラ焼きを出した。
「青山さん、悪いねぇ…。腹が減ってて」
二ノ宮はドラ焼きを半分口にした。
「自由に生きるのがお好きなんですね…。僕は定年までは忙しく生きていたので、二ノ宮さんも忙しく生きてらっしゃったのですね…。束縛は確かに、生きていて束縛されるとおっしゃるのもよく分かります…」
二ノ宮は緑茶をすすりながら言った。
「時計って奴は、正確な生き方ばかり押し付けてくるから、俺は元々正確に時間決められるのが嫌いだよ…。好きにさせて欲しいとさえ思うよ」
青山が緑茶を飲みながら、
「いろんな人が色んな生き方がありますね…。二ノ宮さんなら自由業でもなさったら、少しは気分的に幾分いいかな…とも…思いました。ただ、時間だけは束縛ありますねぇ…」
二ノ宮はドラ焼きを食べ終え、緑茶も飲み干した。「申し訳ない…、緑茶だけでもおかわり出来ないか?腹が減りすぎて…」
実は二ノ宮は毎日食事を切り詰めて生活しており、整形外科に行くお金さえなかった。
青山は笑いながら言った。
「いいですよ。お饅頭もついでに出しましょう…。これも特売品なんですよ」
二ノ宮は青山の冷蔵庫を見せてもらうことにした。
「俺よりいいものありますね…。俺の冷蔵庫は今卵2個しか無くて、米は1合分しか無くて…」
青山は笑みを浮かべて言った。
「全部特売品ですよ。ただ半額品で失敗することもありますけど…」
冷蔵庫の中には卵や牛乳など素朴な食材と、二ノ宮の好物である和菓子が5つあった。
「みたらし団子も特売品で買ったので、お出ししましょう…」
居間に戻ると、テーブルにはみたらし団子と饅頭と緑茶が置かれていた。
二ノ宮は我慢できず、饅頭とみたらし団子を食べては緑茶を飲んだ。
「自由業も憧れていた時期もあるけど…、俺には時計の生活さえなければやりたかったよ。時計は俺の生活指図するから嫌いだがな…」
青山が緑茶を二ノ宮に注ぎながら言った。
「成程…。僕は昔からプラモデルが好きで、プラモデルを趣味でやってる時は自由だと思える時ですよ…」
二ノ宮は青山の顔を見ながら喜んで言った。
「俺は船が好きで船のパンフレット集めが趣味でね…。船の旅もしたこと若い時あるけど、船にいる時は嫌な事忘れるから時計の事も忘れられる事出来るよ、時計は、最低限使い封印してるぜ。船旅の日と、自由な時は、最低限使ってるぜ。それ以外は、封印して、使わないでいる。」
二人は緑茶を飲みながら昔の話に花を咲かせた。
青山は江戸城のプラモデルと船のプラモデルを居間に持ってきて、二ノ宮に見せた。
どちらも青山が若い頃に作った作品だった。
船は遊覧船のプラモデルで、青い線が船の縁にあるのが特徴だった。
二ノ宮は江戸城のプラモデルを見て笑い、遊覧船はじっくりと2時間も熱心に見入り、感激した。
「遊覧船見てると今でも船見たくなるな」
二ノ宮がそう言うと、青山は何かを思い出したように言った。
「実は…、僕はお話を聞いて…」
青山は仕事場の書斎を指さした。二ノ宮が指さした方向を見ると、居間を抜けた先にある書斎のドアが見えた。
「時計嫌いかもしれませんが…、これならどうですか?」
二ノ宮は唖然とした。「何がだ…?」
「僕は時計製作所の仕事を依頼受けた時に、船長さんから依頼された水圧時計を作った事あるんですよ…」
「俺に見せる訳か?」二ノ宮は目を丸くしながら答えた。
「是非とも…。満足いくと思うので…」
青山は二ノ宮を書斎に案内した。中には1970年頃に作られたサンプル品の展示品が100ほど並んでいた。どれも青山が作った腕時計だった。
青山は裏口から木箱を取り出し、大切にしまわれていた船長の腕時計を二ノ宮の前で開けて見せた。
木箱には「船と共に…、明日は朝日…」というメッセージが刻印され、1971年という文字もあった。時計は船の写真プリントされたデザインで、水圧時計と日付付きのものだった。
二ノ宮は船の写真に真剣な眼差しを注いだ。
「青山さん、仕事凄いね。朝日がモチーフの遊覧船なんだな。メッセージも気になるが…」
「それはめでたい船長の仕事で成功したから、メッセージ入れて欲しいと頼まれまして…」
青山は当時の仕事の書類を解説した。
「恐らく…毎日朝日が見れたら毎日生きていると実感されるから、そうメッセージに託して我が社に依頼されたと思いますよ…」
二ノ宮は時計を見つめて言った。
「確かに、海と船と客乗せてなら毎日生きているありがたみあるから、船長のメッセージは素晴らしいものだと実感する」
「時計は嫌いかもしれませんが…、船長の腕時計なら二ノ宮さんも納得すると思います…」
青山はそう言って微笑んだ。
二ノ宮は白髪まじりの頭をかきながら笑みを浮かべた。
「いやー、まいった…。船になると……時計でも気になるものだな…。船長とまでなると…船好きの俺も気になって仕方ない…」
目を輝かせて陽気に語った。
二ノ宮は展示品を見せてくれた御礼に、昔集めていた船のパンフレットを持ってきてくれた。
木製と真鍮で作られた「海のぞみ2号」と印刷されたパンフレットだった。
青山はパンフレットを褒め、昭和61年の作品だと見て知り、二ノ宮も褒めた。
「なかなかいい…船ですね。この時代のこの船も素晴らしいものです」
「気に入ってくれて嬉しく思うぜ…。博物館で当時手に入れたパンフレットだよ」
二ノ宮は嬉しそうに鼻に手をかける癖が出た。余程嬉しかったのだろう。いつもの、癖が出た。
二人が書斎を出て居間に戻ると、二ノ宮は喋りすぎて喉が渇いたことに気づいた。
「喋りすぎて久しぶりに話したから、喉が渇いたな…」
青山は陽気な顔をしながら冷蔵庫から抹茶と醤油煎餅を出した。足りないかもしれないと思い、かりんとうも出した。
「すまない…。頂くよ…」
テーブルに置かれた醤油煎餅と抹茶と、かりんとうを、二ノ宮はどれも三口ずつ食べた。
「どうぞ…」
青山は抹茶を4口飲んで、二ノ宮の顔を見た。
二ノ宮は思い出し、玄関に飾ってあったトロフィーの話をしてみた。
青山は懐かしそうな目で言った。
「時計製作所の創業祝いと売り上げで、我が社は時計製作所とタカハシ時計会社と両方行き来してましてね…。父の縁もあり、時計製作所の仕事も舞い込んだのと、元々の就職先がタカハシ時計会社の時計技師で…入社したので」
二ノ宮はかりんとうを半分食べながら聞いた。
「自分の出世のトロフィーじゃないのか?」
青山は笑いながら答えた。
「お世話になった恩師の方から、個人的には評価してもらい、トロフィー2つ頂いたんですよ…」
醤油煎餅を1枚食べながら抹茶も飲み干した。そして、二ノ宮は醤油煎餅を3枚食べながら言った。
「恩師がいて本当によかったな…。青山さんの努力あってこそだ…」
そう話すと抹茶を一気に飲んだ。
実は、二ノ宮には友人が一人いたが、その友人は自分より良い生活をしており、貧乏なのを知られては困ると思い、いつも隠していた。食事に誘われた時もお金が無いことが言えず、ひたすら隠し通していたのだった。
しかし青山との出会いは、そんな二ノ宮に少しばかりの安心感を与えていた。時計嫌いという共通点(といっても理由は正反対だったが)から始まったこの奇妙な友情は、互いの孤独を癒しつつあった。
次の週…、二ノ宮の家には、久しぶりに笑い声が響いていた。
市営住宅の一階にあるその部屋は、長らく誰かを迎え入れることなど考えていなかった。壁紙は日に焼けて色褪せ、床の畳も擦り切れている。窓際には、チェーン錆びた古い自転車がぽつんと置かれていた。彼は一晩かけて部屋を掃除し、埃を払い、わずかな食器を磨いた。今日は特別な日だ。初めて、自分をありのままに見せられる相手が訪ねてくる。
青山がドアをノックした時、二ノ宮の胸には、張り裂けそうなほどの感情が渦巻いていた。嬉しさと、恥ずかしさと、そしてどこかほっとする安堵。貧乏であることを隠し続ける日常から、たった数時間だけ解放されるのだ。
「よく来てくれたな…」
言葉の端に滲むのは、長い孤独の跡。青山は何も言わず、スーパーの袋を差し出した。中にはドラ焼きとアンパン、ドーナツが入っていた。質素ながらも心のこもった贈り物。二ノ宮は牛乳パックを手にし、インスタントコーヒーと砂糖を混ぜてかき混ぜる。泡立ったミルクコーヒーの匂いが、狭い部屋をほんのり甘く包んだ。
「気を使わなくて結構だよ」と青山は言うが、二ノ宮は笑いながら首を振った。
「頂いたものは一緒に食べたいと思ってさ」
ドラ焼きを半分に割り、テーブルに並べるその仕草に、青山は静かに目を細めた。彼にはわかっていた。二ノ宮がどれだけこの瞬間を待ちわびていたかを。
プラモデル「氷川丸」がテーブルに置かれた時、二ノ宮の目が初めて輝いた。白と赤の船体、精巧に再現された細部。彼の指がそっとマストを撫でる。
「見事な作りだね。実に細かく細部まで」
言葉の裏には、言葉にできない羨望が潜んでいた。自由に海を渡る船のように、自分もどこかへ行きたい──そんな願いが、模型の中に凝縮されているように感じた。
二ノ宮が取り出したのは、1975年発行のパンフレット。紙面は黄ばみ、端が擦り切れている。キャネット号の写真の下には、「豪華客船」の文字。
「乗れるだけのお金はなかった…博物館で試作号を見ただけさ」
彼の声には、諦めと、それでも消えない憧憬が混じっていた。黒い船体、ネオンの光、船長ルームの展示品。ビデオルームで見た航海の映像。すべてが、彼の閉ざされた世界の外にあるものだった。
「船は、自由な時を過ごせるから、いいな」
そう呟く二ノ宮の横顔に、青山はそっとうなずいた。時計嫌いの彼を気遣い、テーブルの下で木製の腕時計を確認する。すでに4時間が経過していた。気づかれぬよう、そっとケースを閉じる。
二ノ宮が冷蔵庫から麦茶を取り出す間、青山はパノラマ写真を広げた。タカハシ時計会社が手がけた船内時計。白い円形の文字盤に温度計が組み込まれ、窓の外には広がる青空が写っている。
「船長室ですよ」
青山の声に、二ノ宮は身を乗り出した。
「温度計みたいのも付いた白い時計だね…窓越しの空も綺麗だな」
「船長からの注文で、恩師と一緒に最後の工程を仕上げました」
麦茶を飲みながら、青山は当時を思い出す。金属の匂い、工具の音、完成の瞬間の緊張。そのすべてが、今この瞬間に、二ノ宮との間に浮かび上がってくる。
二人は言葉少なに、しかし確かに、時間を分かち合っていた。パンフレットの束とプラモデル、温かい麦茶と甘いお菓子。そこには貧乏も孤独も、すべてを包み込む優しさがあった。
外は次第に暮れていき、部屋の中はオレンジ色の光に染まっていく。二ノ宮はまたしても、友人には決して見せられない自分の全てを、青山という人間に預けることができた。そして青山は、誰にも言えなかった時計作りの思い出を、ただ黙って聞いてくれる男がいることに、心の底から感謝していた。
「また来るよ」
青山がそう言って立ち上がる時、二ノ宮は深くうなずいた。
「待ってる」
ドアが閉まる音。部屋には再び静寂が戻り、テーブルには空になったコーヒーカップと、二ノ宮が、食べ終えたお皿が置かれていた。
暖かくも涼しくもある秋、食欲の秋というのに、二ノ宮の腹は空いていた。
冷蔵庫を開ければ、卵と納豆しかない。
お腹が鳴る音が、居間まで響いた。
隣にいた青山は、それに気づいた。
彼は今日、お土産を買いがてら、三日分の夕飯を買い込んでいた。秋刀魚、海苔の佃煮、インスタント味噌汁、炊き込みご飯の素――合わせて十点ほど、袋に詰まっている。
「お腹が空いているなら、僕が夕飯にしようと思っていたもので、秋刀魚にインスタント味噌汁、佃煮と炊き込みご飯の素があります。二ノ宮さん、最近あまり食べてないみたいですし…どうぞ」
「すまないな、青山さん。子供たちも苦労してるし、余計な迷惑はかけられない。少ない年金でやりくりしてるから、食べない日だってある。でも青山さんには話せる。友人には、この貧乏暮らしが恥ずかしくて言えなかったんだ」
二ノ宮は差し出された夕飯の材料を受け取った。
青山は心配そうに言う。
「腰も悪いのに、栄養が足りてないんじゃないかと心配です。僕には、杉原家に、嫁いだ娘、あゆみがいて、時々食材を分けてもらえるけど、二ノ宮さんは一人でしょう? どうか今夜はしっかり食べて、休んでください」
二ノ宮は、あまりの空腹に青山からもらっていた饅頭を全て食べながら、
「恩に着るよ、助かった。秋刀魚は好きなんだ、夕飯が楽しみだ」
すぐに米櫃を開けてみると、半分ほど残っていた。
ご飯が食べたくて仕方ない。
青山が時計を見ると、もう夜の七時近く。長居してしまったことに気づく。
時計は、二ノ宮が台所にいる間にそっと見た――彼が時計を嫌うのを気遣ってのことだ。
「そろそろ帰りますね。長く居すぎて悪かったですね。」
青山がそう言うと、台所から二ノ宮の声が返ってきた。
「またいつでも遊びに来てくれ。何もないけど、船の話や、青山さんのプラモデルや時計の仕事の話、聞きたいからさ」
二ノ宮は台所から居間に戻り、にっこりと青山を見た。
青山も笑いながら答えた。
「次に来るときは、プラモデルと、駅長の腕時計の製作の話をしますね」
そして、温かい目を向けながら続けた。
「二ノ宮さんへの差し入れも持ってきます。またドラ焼きと饅頭、特売で買ってきますから」
玄関を出る青山の背中に、二ノ宮は小さく手を振った。
それからというもの、二ノ宮から電話がかかってくるようになり、二人の交流は深まっていく。行き来するようになり、やがて互いの家を行き交うまでになった。
青山はいつも思っていた。船の時計だけは特別だった——機械を扱う時計職人の青山にとって、時計への束縛を嫌う二ノ宮の気持ちが少しでも和らぐなら、と。
それでも、船の時計の製作に関わり、
仕事にしていて良かったと、青山は思う。
振り返れば、あの日のことが鮮やかに浮かぶ。
二ノ宮と知り合って、三年目の秋のことだった。
出会って三年目の秋、二ノ宮は初めて言った。「船の時計だけは……束縛が薄れた気がする。青山さんの時計だけはね」
今思い返せば、懐かしい話だ。
時計嫌いの二ノ宮も、船の時計だけは
「束縛が薄れた」
と言っていた。
それでも時計は好きではないけれど、
「青山さんの時計の話だけは、まだ聞ける」
と、出会って三年目の秋に彼が言ったとき、青山は胸が温かくなった。
機械を扱う時計会社の青山は、機械の時計に縛られることを嫌う二ノ宮を見て、
いつか彼がその束縛から自由になれたらいいな、と思っていた。
「二ノ宮さんと会った初めから、そう思ってました」
青山が呟くと、二ノ宮は苦笑いして言った。
「そう簡単に、時計嫌いが治るもんじゃないさ」
青山は、それでもいいと思った。
二ノ宮の言葉に、青山はゆっくりとうなずいた。急がなくていい。束縛のない時間は、もう二人の間に流れ始めているのだから。
秋の夕暮れが深まる頃、台所から秋刀魚の香りが漂ってきた。二ノ宮は包丁を握り、三年ぶりに時計を気にせず夕飯の支度をしていた。
玄関のチャイムが鳴るのは、もう少し先のこと——持ってきたドラ焼きと、饅頭持つ、束縛のない時間を分かち合う友の訪れを、心待ちにしながら。




