8 友達ができた
翌朝。アンリが登校すると、昨日の三人組と目が合った。
彼らはひそひそ何事か話した後、アンリを見た。アンリが少し彼らを睨むと、ぱっと気まずそうに視線を外す。
(まぁ、いっか)
深くは気にしないことにする。レオナードが何か言ったのだろうことは、想像に難くなかった。アンリが席で本を開いていると、ふと窓の外が騒がしい。
中庭の方を見れば、レオナードが何人かの同級生と騒ぎながら登校していた。その年ごろらしい笑みに、ふとアンリは見惚れる。
(殿下の周りには、たくさん人がいる。僕なんて、その他大勢のひとりだ)
読んでいた本で顔を隠すように、ページへと顔を近づけた。
(……その前に、僕は、彼を殺すためにここにいるんだから)
ずきん、と心が痛む。表紙を持つ指に力が入った。身の程をわきまえなければいけない。アンリはレオナードを殺すために送り込まれた、裏切り者の暗殺者だ。
勘違いするな。正体が知られれば、確実にこの命はない。胸の奥がやっと落ち着いて、腹の底に冷え冷えとした現実が戻ってきた。気持ちが沈んで、本を閉じる。
(浮かれすぎ。頭、冷やしてこよう)
アンリは立ち上がり、廊下の外へと出た。まだ始業まで、時間はある。
初夏にさしかかろうという庭先には、瑞々しい緑が生い茂っていた。侯爵家の屋敷にも庭園はあったが、アンリはこちらの庭の方が好きだ。あの屋敷は、アンリにとって華美すぎる。
庭の植物を観察しながら歩いていると、「アンリくん」と背後から声がかかった。振り向くと、いつも教室の隅で集まっている、目立たない男女二人がいる。アンリを見つめる面持ちは無防備で、敵意を感じない。
「なに?」
アンリが彼らに向かって歩いていくと、二人ともおずおずと近づいてくる。彼らはもじもじと顔を見合わせ、意を決したように、男子生徒が口火を切った。
「昨日、裏庭に呼び出されてた、よね」
こくんと頷くアンリに、女子生徒が胸に拳を引き寄せた。
「私たち、見てたんだ。すごく、かっこよかった!」
その言葉に、アンリはぽかんと彼らを見た。二人は慌てて「助けられなくてごめんね」と口々に謝る。アンリは少し、言葉を失った。しばらく二人を交互に見て、ゆるやかに首を横に振る。
「気にしてないよ。褒められて、びっくりしただけ」
二人はほっと胸をなでおろし、おっかなびっくりアンリに手を差し出す。あれ、とアンリが彼らを見ると、二人とも照れくさそうにはにかんでいた。
「実は僕たち、ずっとアンリくんと仲良くなりたかったんだ」
「授業、いつも頑張ってるの、見てたよ。もっと早く声をかけられなくて、ごめんね」
アンリはおずおずと手を伸ばし、彼らの手を握る。そっと力を入れると、彼らはしっかり握り返してくれた。唇がほんのり、笑みの形に歪む。
「……嬉しい、な」
よろしくね。そう小さく呟くと、二人とも嬉しそうに微笑んだ。
三人揃ってはにかみながら、お互いの自己紹介をする。三人はたちまち話に花が咲き、なんでもない話を延々とし続けた。気がつけば始業直前の鐘が鳴り響き、三人揃って慌てて教室に駆け込む羽目になった。
「今日、帰りに図書室に行こうね」
下駄箱で交わした約束に、じんわりと胸が熱くなる。
(嬉しいなぁ)
喜びで胸いっぱいのアンリは、自分の席に戻っても笑みをこらえきれなかった。
一方その頃レオナードは、今日はアンリに何を教えるか、熱心に考えていた。
アンリはその日一日中、ずっとご機嫌だった。初めて昼食を友人と食べて、放課後も初めて新しい図書室へ行って自習した。勉強後も、夕食を彼らと一緒に食べた。就寝準備のために名残惜しくも彼らと別れ、一人で自室へ戻る。
「楽しかったなぁ」
そうして一日を終えようとしたアンリの前に、レオナードが現れた。アンリの部屋の扉に、もたれかかって立っていた。レオナードは「来たか」と呟き、アンリを睨む。アンリは、自分が抱えた荷物をきゅっと抱きしめた。
「で、殿下……こんばんは……」
思わず、じりじりと後退する。彼は随分と不機嫌なようだった。そしてその心当たりも、レオナードが自分を訪ねてくる心当たりも、アンリには一切ない。
レオナードはゆっくりアンリに歩み寄り、顔を覗き込んだ。その顔は不貞腐れていて、ますますアンリは混乱する。
「……どうして、俺のところに来なかった」
アンリの世界は、時を止めた。固まるアンリに、レオナードは拗ねたように続ける。
「旧図書室に、どうして来なかった。待っていたんだぞ」
想定外の質問に、アンリの頭はショートする。なんとか弁明をしたくて、必死に言葉を探した。
「で、でも……殿下には、他にもたくさんご学友が、いらっしゃるじゃないですか……? その人たちとは……」
まるで、自分が学友の一人のような話し方をしてしまった。慌てて口をつぐむアンリに、レオナードは不機嫌そうに目を眇める。
「まだ歴史学を教え終わっていない」
「もう授業の予習以外、やることないじゃないですか」
思わず口答えすると、彼は「とにかく、なんで俺のところに来なかったんだ」とアンリの手を掴んだ。あれよあれよと彼の自室に連れ込まれ、アンリは目を白黒させる。彼はベッドにアンリを座らせ、自分は勉強机の方に立った。
「申し訳ありません。友人と、新しい方の図書室で、勉強していました」
「先約は俺だ」
そう言い放つ彼を前に、とてもではないが「約束なんてしていない」とは言い出せない。アンリは無言で頷き、しばらく返事のために考え込んだ。レオナードは、アンリの言葉を待ってくれる。
しかし考えても考えても、答えが出ない。アンリが途方に暮れてレオナードを見上げると、彼は椅子に座って足を組んだ。
「……先約を反故にされて、俺がどう思ったか、分かるか」
憮然とした彼に、アンリは素直に頭を下げた。
「申し訳ございません」
うん、とレオナードは頷く。少し刺々しい雰囲気の和らいだレオナードに、アンリはほっと胸を撫で下ろした。へにゃりと笑うと、彼は少し怪訝な顔をする。
「殿下って、案外、僕と同類なんですね」
レオナードの顔から一瞬、表情が抜け落ちる。アンリはそれに構わず、ベッドから立ち上がった。
「ほっとしました。あなたも僕と同じ、やきもちを焼く人間なんだなって思って」
アンリはいそいそと荷物をまとめ、部屋を出る支度を整えた。その間、レオナードはずっと沈黙を保っている。
(僕なんかの前で感情的になって、恥ずかしかったのかな)
暗殺者教育の中でも、感情を表に出すなと口酸っぱく言われていた。そうすることは、はしたなくて幼稚だとも。
(そう考えると、さっきのって、ものすごい失言だったかも)
もしかしなくても、そうだ。ひやり、と背筋に冷たいものが走る。恐る恐る振り返ると、彼はずっと俯いて考え込んでいた。
アンリは何か言おうと口をぱくぱくさせたが、何もかもが彼を侮辱する言葉のように思えて、やめた。諦めて部屋から出ようとするアンリの背中に、レオナードが声をかける。
「明日は、こちらに来るだろ」
ぱっと振り返ると、彼は足を組み替えてそっぽを向いていた。アンリはうずうずする心を抑え、俯く。
「考えさせてください」
「は?」
顔を顰めるレオナードに、慌てて首を横に振った。
「明日も一緒に過ごすつもりで、友人たちと話していたので」
それに、アンリはレオナードに差し向けられた暗殺者だ。彼と仲良くする資格なんて、ない。レオナードは、不服そうに目を眇めた。
「具体的な約束はしたのか?」
「し、てません」
「なら、俺の方が優先のはずだ」
そう言って、彼は立ち上がった。アンリの身体越しに扉を開ける。出ていけ、ということだろうか。
途方に暮れるアンリに、レオナードは「いいな」と念を押した。
「明日は、こちらに来るんだ」
「はい……」
うなだれて返事をする。アンリの主張なんかより、レオナードの言い分が正しいような気がしてきた。
アンリがすごすごと部屋を出ようとすると、「アンリ」とレオナードが呼ぶ。
「はい……」
しょぼくれたまま振り返ると、彼は気まずそうに視線をそらしている。さっきまでとの落差に、アンリは思わず吹き出してしまった。
「笑うな」
そう言うレオナードは、怒っているようにはとても見えなかった。
アンリはこれまで、他人と親しく接した経験がほとんどない。それでも彼が、アンリに敵意を持っていないことくらいは、よく分かった。
「おやすみなさいませ、レオナード殿下。また明日」
するりと彼の横を抜け、頭を下げる。そのまま自室へと帰るアンリの胸は、痛いほど脈打っていた。
(嬉しい。申し訳ない)
走り回って叫びたいような、ひとりでベッドに蹲りたいような。悶々とひとり考え込むアンリは、レオナードがその背中を見送っていたことに、気づかない。




