梁山好漢綺伝「魯達、都にて義の導きを得る」
母が死んでも、父は泣かないどころか、せいせいしたとでもいうのではないかと魯達は思っていた。
父母と言っても、生来の父母ではない。
実の両親とは遠縁の血筋であるらしいが、それ以上のことを聞いたことはなかった。魯達にとっては、育ての父と母、現在住まう家だけが、すべてであった。
「父ちゃん、いつまでそうしているんだ」
母の愛した秋海棠が咲き乱れる生垣の前で、父は小ぶりな壺を抱え、ここではないどこかを見つめながら座り込んでいた。もう丸二日、飲まず食わずである。
「俺、今日からまた、丁じいさんのところへ手伝いに行くぞ」
伸び放題の髪と髭の奥から、ああ、だか、うう、だか、掠れた声が漏れ聞こえる。
もとよりこの男に稼ぎを期待したことはなかったが、雀の涙ほどの稼ぎでもなんとかやりくりしていた人を喪った今は、魯達自身が百姓仕事の手伝いで稼ぐ小遣いだけが頼りなのだ。
「台所に、かゆがあるから、腹が減ったら食いな」
だが、それだけ言い残し鍬を担いで出かけようとした魯達の背に、この二日間、一言も言葉らしい言葉を発しなかった父が、ようやく掠れた声で呼びかけた。
「小達」
これまで魯達のことを、小達、などと父が呼ぶのは、金を無心するときくらいなものだった。
だが今、その声には怯えるような底暗さはなく、無視するにはあまりにも弱々しい。
「……なんだよ、父ちゃん」
仕方なしに振り返れば、父は相変わらず虚空を見つめていたが、しばらく唇を震わせた後、真っ赤に泣き腫らした目で魯達を見た。
「母ちゃんを、故郷に連れていこう」
車引きをしていた父は、毎日酒に溺れ、博打に有り金を注ぎ込むような種類の男だった。
子どもに恵まれなかった母は、魯達を実の子のようにかわいがってくれたが、もともと貧しい家に食い扶持が増えたことに腹を立てたのだろう、父は魯達にも、魯達を引き取った母にも拳をふるった。
満足な飯にもありつけない毎日だったが、生来の何かが芽吹いたのか、気が付けば魯達は、そこらの子どもたちの倍くらいはある大柄な少年になっていた。
そしていつしか魯達は、母を守るため、自身も拳をふるうことを覚えた。まわりの子どもたちは、喧嘩ばかりする両親と腕っぷしの強い魯達を恐れ、近寄ってこようとしなかった。
母は優しい人だったが、決して強い人ではなかった。彼女は次第に、泣きながら魯達を怒りつけることが多くなった。そういうとき、決まって魯達は逃げるようにふらりと家を出た。高くひきつるような女の泣き声が、ひどく苦手だった。
そんなある日、母はあっけなく死んだ。
百姓仕事の手伝いを終えて家に帰った魯達が見たのは、一張羅なのだと大切にしていた美しい着物を切り裂いた布で首を吊った母の、変わり果てた姿だった。
(俺は、泣かなかったのに)
母の亡骸を下ろし、粗末な寝台に横たえたとき、魯達は何故か、ほっと安堵した――これでもう、母は泣かなくて済むのだと。
だが魯達が泣かぬ代わりに、本当にこれが昨日まで妻子に理不尽な拳をふるい続けてきた男なのかと疑うほど、父は泣いた。
それが後悔なのか、あるいはまた別の情から来るものなのかは魯達にはわからなかった。ただただ、その涙が空しいと、そう思っていた。
「小達、東京だ、東京に行くぞ。俺ぁきっと、うまくやってみせる。金を稼いで、母ちゃんの墓を作るでぇな」
母の故郷である、開封府の近くの小さな村に墓を作り、母を弔いたい――父はそう言って、わずかな荷物を車に乗せると、魯達を連れて渭州を発った。
「だけど父ちゃん、金を稼ぐあてはあるのかい?」
「ええ? 小達、東京は皇帝陛下のお膝元だぞ! どんな仕事だって、探せば見つかるに決まってらぁ」
まともに働いたこともないくせに、宿に泊まれるほどの小粒さえ持っていないくせに、父はそう笑った。
いっそ一人で生きたほうが面倒もないのではと言う想いさえ頭をよぎったが、いくら体が大きく腕っぷしが強いとはいえ、魯達はまだ十をようやく越したばかりである。
それに、母の墓を作る、というその一点のみにおいては、魯達は父と同じ想いを抱いていたのだ。
かくして魯親子は、道中野宿を続け、たまに気の弱そうな旅人とすれ違えば脅して小粒や食料を奪うことを繰り返し、いまだ見たこともないほど絢爛豪華な大宋国の都、東京開封府へと、わずかな希望を伴ってやってきたのである。
――だがこの美しい都は、なんの財も持たぬまま西からやってきたみすぼらしい親子に、情をかけてはくれなかった。
「小達よぉ、子どものお前ぇが哀れを誘うように頼んでみりゃあ、きっと働き口のひとつやふたつ、すぐに見つかるだろう? まずは金を稼ぐにも、腰を落ち着けなきゃあいけねぇからな、どこかの宿に住み込んで、そこを手伝うってなぁどうだ?」
やっとの思いで開封府の門をくぐったと思えば、いつも偉そうに威張っている父は、この都のあまりの威容に怖気づいたように身を縮こまらせ、魯達の背中を何度も小突く。
「そういうものかぇ?」
父の情けない姿を見ても、もはや魯達の心には、憐れみさえ浮かばない。
幼い魯達の中に、今や情というものは、義と怒の二種類しかなかった。母への、そして母と同じように理不尽に虐げられる弱き者への義。父への、そして世にまかりとおる理不尽への怒。
母を失い、もはや己の子に頼るしか生きる術のない男に対して怒りの情は沸き立たず、ここまでの旅路を魯達はただ石のように押し黙って過ごしていた。
「ほら、行けよぉ、あの宿なんか、立派すぎず、襤褸過ぎず、番台の男もどうやら人が好さそうに見えらぁなぁ」
城門から大通をしばらく歩き、水路にかかる見事な橋を渡った路地の手前で父が指さす方を見れば、なるほど、こじんまりとした宿が、軒先に旗を掲げている。
「俺ぁここで様子を見ているから、ほれ、行ってみなぁ」
父に促され、その宿に近づいた魯達はしかし、唐突に、自分の身なりが恥ずかしくなった。果たしてこんな薄汚れた乞食のような子どもの姿を見れば、店主は箒を振り回して追い返しはしないだろうか?
しらみだらけの着物に身を包み、襤褸草履をはいて車を引く親子のことを、都の着飾った男女たちは気に留める風もない。
よく見れば、橋のたもとには自分たちよりもさらにみすぼらしい、襤褸雑巾のようになった浮浪者たちが、何かぶつぶつと呟きながら蠅にたかられている。
(あんな風にゃ、なりたくねえ)
このまま都の塵となり、誰に気にされることもなくひっそり果てていくのでは、母に生かされた命が無駄になってしまう。
ひとつ身震いをすると、魯達は意を決して宿の中へと足を踏み入れた。
「あの……」
「いらっしゃい……うわ、どこの乞食だ、貴様!」
店主の浮かべた顔は、魯達の想像していたとおり、いやそれ以上の嫌悪に満ちていた。
「貴様らにやるような金はない! ほかのお客様のご迷惑だ、さっさと出ていけ!」
「ま、待ってくれ、旦那!」
首根っこを掴まれた魯達だったが、大人より小さいなりをしていようと、すでに力では負けないほどにたくましくなっている。つまみ出そうとする店主に逆らい両足をむんずと踏ん張る魯達の強情さに、ついに店主は根負けした。
「なんだこの生意気な餓鬼は! いったい何のつもりなんだ」
「旦那、話だけでも聞いてくれ。俺は父ちゃんと一緒に渭州からでかけて、ようやくここまでたどりついたんだ。母ちゃんが死んで、この近くのふるさとに葬りたいのに、弔う金もなくて、道中ずっと野宿をしてきたんだよ。旦那、俺も父ちゃんも、誰よりも一生懸命働くから、どうかここに住まわせて、店の仕事を手伝わせてくれねぇかい」
どれだけ力があり、見てくれが逞しくとも、けなげに訴える子どもの声に、店主が押し黙る。
「……だが、お前、どこからどうみても乞食じゃないか。うちはそんなに立派な宿ではないが、これでもこの開封じゃ老舗の部類。恥ずかしいやつをお客様の前に出すわけにはいかんよ」
「お願えします、旦那。俺も父ちゃんもなんだってやるよ。これでも俺は、渭州では畑仕事をしていたんだよ。実は俺も父ちゃんも、文字が読めないんだ。だから、大きな仕事は無理だろうね。でも、畑仕事でも、雑用でも、掃除に洗濯、体を動かす仕事だったら、なんでもやらぁな」
「そうは言ってもなあ」
「じゃあ、こういうのはどうだい旦那。俺たちは今日の宿にもありつけない。今日一日だけあんたの世話になり、そのかわりに俺たち親子、なんでも必要なことを手伝うよ。その働きぶりを見てから、決めてもらいてぇ。俺たち、本当に、どうしても母ちゃんをきちんと弔ってやりたいんだ。そのための金さえ集められりゃあ、すぐにここから引き払って故郷に帰るつもりだよ」
魯達の熱意に、とうとう店主は頷いた。
「わかった、じゃあまずは父親を連れてきて、風呂の湯を沸かすんだ。お前たち、まずは身なりをきれいにしてもらわないと」
その日は、少なくとも父にとっては、試練の日となっただろう。
いったい母と出会うまではどうやって生きてきたのか不思議になるほど、父は何をやらせても不器用だった。
火を起こせばあやうく火事になり、掃除をさせればいかにも高価に見える調度にばかり気をひかれ、あやうく壊しそうになる始末。
それでも金のためならばと、魯達は忍耐強く父を見張り、なんとか店主にどやされない程度には、一日の下働きをやり終えた。
「お前たち、今日はご苦労さん。まあ、とりたてていい働きはしていないが、坊主、お前のおかげで及第点だ。しばらくはここで抱えてやるから、頑張るんだぞ」
夜も更けたころ、店主はそう言って二人をねぎらうと、客の姿の消えた食堂に親子を案内し、夕餉の支度をしてくれた。
「こんなすごい飯を食うのは、生まれてはじめてだよ旦那」
「ありがてえ、ありがてえ、旦那様は仏のようなお人だぁな」
ほかほかと湯気をあげる肉を目にして、魯達は久しぶりにはしゃいだ声をあげ、さっそくむしゃりとかぶりつく。肉なんて食べたのは、いったいいつぶりのことだろう。
「ほら親父さん、あんたにゃこっちもわけてやろう。あんたの息子がいなきゃ、これにもありつけなかったわけだ、感謝して飲むんだな」
だが、店主が酒の入った壺を持ってきた途端、魯達は急に不安になった。
「だ、旦那、だめだぃ。うちの父ちゃんは、酒を飲むとすぐに暴れまわるんだ。みんなに迷惑をかけちまう」
「おいおい小達、父ちゃんだって、わきまえてるさ。なに、ちぃと飲んだら、すぐ寝ちまうよ。今日はずいぶん、疲れたからなあ」
それでも、いつになく朗らかに笑い、魯達の頭をぐりぐりと撫でる父の様子がほんの少し嬉しくて、ほんとうに少しだぞ、と念押しすると、魯達はまた肉をむさぼることに集中し始めた。
そうして山盛りの飯もあっという間になくなり、珍しいことに父もほんの少しの酒でうつらうつらとし始めたその時、突然、大きな足音をあげて、軍人らしき男たちがどやどやと宿になだれ込んできた。
「おい店主、まだ酒の支度はできるだろうなあ?」
中でもひと際大柄な男が、いかにも尊大な態度で髭を撫でつけながらそう言うと、先ほどまで和やかだった店主の顔が、打って変わって青ざめた。
「ち、張将軍、これはこれは……こんな時間に、お務めですか」
「ふん、そんなこと、お前には関係ないだろう。ほら、さっさと酒と肉を用意しろ!」
「そ、それが……」
言葉に詰まった店主がこちらを振り返ったとき、魯達は察した。残り物を自分たちに出したので、もう準備できるものがないのだ。
「お、なんだ? 見たことのない蛆虫がいるじゃあねえか」
店主の視線の先に魯親子がいることに気が付いた張の子分の男が、肩を揺らして近づいてくる。
「ええ? 蛆虫の分際で、ずいぶんいいものを食ったようだなあ……それに、酒まで飲んでいるとは」
「あ?」
この騒ぎの中でも呑気に舟をこいでいた父が、抱えた酒壺を奪い取られる気配に目を覚ます。
「貴様、何しやがる、それは俺の酒だぞ!」
「なっ……この蛆虫が! 誰に向かって口を聞いてっ……がァっ!」
それは一瞬の出来事だった。酒を奪われ激高した父の拳が、子分の男の顔面を真正面から捉えたのだ。
「このっ、死にぞこないが……!」
「と、父ちゃん!」
「おやめください!」
色めきだった張一行が次々に刀を抜いたところで、ついに店主が血相を変えた。
「どうか店の中で乱暴はよしてください! ほら、お前ら、さっさと外に出ろ! そして二度と戻ってくるな!」
「旦那! さっきは雇ってくれるって言ったじゃないか……!」
「うるさい、この乞食どもが! お前たちなど、どこで野垂れ死のうが、俺には関係のないことだ。せっかく情けをかけて残飯をくれてやったというのに、騒ぎを起こしやがって!」
店主と張の手下たちに首根っこを掴まれてしまえば、さすがの魯達とて身動きがとれぬ。店の外に放り出され、道端に転がった二人の背を、男たちが執拗に蹴りつけるので、たまらず父が大声で叫んだ。
「や、やめろぉ! 張だかなんだか知らねぇが、軍人のくせに、こうやって弱い者をいじめて楽しむのか、畜生め!」
「蛆虫め! 張将軍は、太后様のお気に入り。その張殿にたてつくとは、どうやら命が惜しくないらしいな!」
自分たちはただ、母を弔う金を稼ぐために働き始め、約束した飯を出されただけなのに、何故ここまでの仕打ちを受けなければいけないのだ――相手の身分も忘れ、魯達の全身にかっと血が巡り始める。
「……うるさい!」
「ぎゃあ!」
魯達は勢いをつけて身を起こし、自分たちを蹴り続けていた男たちの足を両手でがばりとひっつかむと、思いきり肩をまわして男たちをぶん投げた。
まさか子どもがこんな馬鹿力を持っているとは思わなかったのだろう、油断していた男たちはあっというまに吹っ飛んで、近くの川に高い水しぶきをあげて突っ込んだ。
「俺たちぁ、宿のために働いて、そのかわりに飯と酒を食わせてもらってただけじゃねぇか! それなのに、自分の酒がないからって、よってたかって俺たちをいじめやがって!」
「このっ……餓鬼と思って手加減してりゃあ……!」
「ぐうっ」
にたにたと薄ら笑いを浮かべながら様子を見ていた張将軍が、魯達の暴れっぷりにしびれを切らし、自ら進み出て魯達の頭を押さえつける。
「もういい、父親もろともあの世に送ってやれ!」
「ひっ……!」
手下の一人が、提灯の灯りにきらめく刀を父の背に振り下ろしたその時――
「なんと……見事な腕前!」
きん、と甲高い音が、父の背に吸い込まれるはずだった刃を弾き飛ばした音だと気が付いた時には、誰かの手が魯達を助け起こしていた。
「こんな佳い夜に馬鹿騒ぎとは、風流を解さない連中だ」
どこかおかしみを含んだその声は凛と澄み渡り、まるで今宵のような月の夜を思わせた。
「まったく、しかも一人はまだ子どもではないか。いったいどうして、こんなひどいことができるというのだ。兵は常に、民の味方たれ……陛下が常におっしゃっていることをお忘れか、張将軍」
魯達は、声の主を、じいと見上げた。
狭く知性を感じさせる額と、深く輝くつぶらな瞳は、その長身と精悍な風貌も相まって、雄々しくしなやかな獣を思わせる。燕のような顎にはえた髭を優美になでつけるその様は、誇りと慎み、威厳と寛容を合わせもった堂々とした男ぶりで、まるで故郷の子どもたちが寝物語に聞かせられる正義の好漢のごとき様子であった。
「は……これは誰かと思えば、林提轄ではないか」
林、と呼ばれた男は、着物の裾を優雅にさばいて身をひるがえし、無力に震える魯達の父をも助け起こす。
「張将軍、あなたほどの方が、いったいこの哀れな親子に何の因縁がおありなのです?」
「き、貴様には関係なかろう! 少し口論になっただけだ。ほら、お前たち、立て。こんな平民にかまってばかりもいられん、帰るぞ」
気が付けば、物音を聞きつけた宿の泊まり客や周りの住人たちが、すずなりに自分たちのことを見物している。どうやら張将軍は、その視線を気にしているようで、いやにあっさりと手下たちを追い立てた。
「張将軍!」
だが、その背中を呼び止め、林提轄は、己の背に負っていた荷物の中から何かを取り出し、張将軍に向かって投げつけた。
「酒が足りぬなら、どうぞそれをお飲みください。私の親戚が作ったものですが、なかなかの上酒ですぞ」
からからと笑った林提轄は、魯親子の背を軽く叩き、二人を連れてその場をあとにした。
残された張将軍が、酒壺を片手にどんな顔をしていたのか、魯達はついぞ見ることはなかった。
魯親子の危機を救ってくれた男は、名を林瀞と言った。魯達には提轄という身分がどういうものかわからなかったが、どうやら将軍のようには偉くないらしい。
わけもわからないまま林提轄に連れられた魯達たちは、広い屋敷と優しい下男たちに迎えられ、いつの間にかあたたかな夜食を出され、こざっぱりとした着物に着替えさせられていた。
「あのぅ、林提轄……こりゃあいったい、どういうことで……」
「なに、遠慮めされるな、お父上。困っている者がいれば助けるのは当たり前。どうぞ遠慮なくくつろがれよ」
自分たち親子を蔑むことなく、温かな眼差しを投げかけてくれる大人がいようとは、魯達は夢にも思わなかった。
「でも、俺たちぁ、お礼をしようにも金はひとつも持ってなくて……」
「金? はは、金などけっこう」
父の盃に酒を、魯達の盃には茶を注ぎながら、林提轄は軽やかに笑った。
「それにしても災難でしたな。差し支えなければ、何故あのようなことになったか、聞かせていただいても?」
この人ならば、話を聞いて自分たちを馬鹿にすることはない――そう確信した魯達は、ぽつりぽつりとこれまでのことを話して聞かせた。
だが、母の死と、その弔いと、ここで金を稼ぎたいということだけを話すつもりが、魯達はいつの間にか、これまで誰にも聞かせたことのなかった想いを、今日初めて出会った大人に洗いざらいぶちまけていた。
両親の喧嘩。父の情けなさ。故郷の同じくらいの子どもたちは、自分たち一家を腫れもののように扱って、友人すらいなかったこと。
「……そうか」
息子に己の恥部を晒された父に殴られるかとも思ったが、意外にも父は、恥じ入るように顔を伏せ、酒にすら手をつけていない。
「魯達、君は……寂しかったのだな」
大きな手が、魯達の頭を、そして頬を撫でた。
寂しい、という言葉の意味はよくわからなかった。なぜ己の頬から離れていった林提轄の手が、濡れているのかも。
「事情はわかった。これもなにかの縁だ、二人とも、こうしてはどうだろう。私は提轄の任務の合間に、子どもたちに武芸を教えていてな。魯達、先ほど君があの男たちと勇敢に戦っている姿を見て、君の武芸は磨けば光ると、私はそう思った。だから、どうだろう、うちの雑事を手伝ってもらう代わりに、私が君に武芸を教えるというのは。そしてお父上、あなたには、私の友の曹という男を紹介しましょう。陽気で世話好きな男で、手広く商売をやって楽しく暮らしているので、彼に付いて商売の仕方を学びながら、銭を稼ぐことができます。それに、故郷に帰って新しい生活も始められるでしょう」
「り、林提轄、でも俺たちぁ本当に、乞食も同然なんです。ご迷惑をかけるわけにぁ」
それまで押し黙って話を聞いていた父が、蚊の鳴くような声で囁いた。この立派な好漢を目の前にして、今までの己の人生すべてを反省しているような顔だった。
「お父上、先ほども申し上げたように、困っているものを助けるのは当然のことです。あなたたちは宿や飯の心配をせずにお母上を弔うための金が稼げる。私も妻も、屋敷の雑事を頼める者が増えて助かる。誰にとっても損はない。さ、そうと決まれば、今日のところは早くお休みなさい。下男たちと同じ部屋になってしまいますが、みな気のいい人間ばかりです。あなたたちの友となってくれるでしょう」
無駄のない身のこなしで立ち上がった林提轄は、最後にもう一度、魯達の頭をくしゃりと撫でた。
「おやすみ魯達、明日からはしっかり働いてもらうぞ」
魯達の幼い胸は、生まれて初めて信頼できる大人に出会えた喜びに震えていた。
次の日から魯達は、朝は日が昇る前に起きだして屋敷のまわりの庭を掃除し、優しい下男たちに教わって、林家の竈の手伝いもするようになった。
ほかにも買い物や書簡の整理など、こまごまとした雑事はたくさんあったが、中でも魯達が好きだったのは、十八般の武器の手入れであった。
「よいか魯達。武器を整えることは、心を整えることだ」
「はい、お師匠さま」
午後になり、提轄の勤めを終えて帰宅した林提轄のもとには、毎日数名の子どもたちが顔を出した。
彼らは初日こそ、子どもにしては大柄で目つきも悪い魯達におっかなびっくりしていたようだったが、林提轄に言われて拳法の稽古を始めると、みな魯達の力強い体さばきに目を輝かせ始めた。
「小達、君はどこかで拳法を習っていたの?」
「達哥、俺、どうしたら哥哥みたいに大きくなれるかな?」
「はは、俺は何も特別なことぁしてねえよ。畑を手伝っていたくらいなもんでぇ」
林提轄の小さな弟子たちの中に、魯達が林家に養われていることや訛りがきついことを、馬鹿にするような子どもはいなかった。後で知ったことだが、彼らの中にも親がない子どもや貧しい子どもがいて、林提轄が影に日向に助けていたらしい。
彼らとともにまずは武器を磨き、それから林提轄の講義を聞き、そして手取り足取り教えてもらいながら体を動かす日々は、魯達にとってまったく新鮮で、これまで何のために生きているのかわからずぼんやりとしていた心の中の、薄黒い霧がすっと晴れていくようだった。
また父も父で、林提轄の友人とは馬が合ったらしい。もはや以前のすさんだ面影はなく、毎日生き生きと笑うようになっていた。夜になれば酒を飲むが、それも今や、一、二杯をたしなむ程度である。
「小達、武術のほうは、上達したんか」
「まだまださ、父ちゃん。でも、毎日林提轄がよく教えてくれるから、楽しいね」
「そうか、そうか」
決して父のほうから多く話しかけてくることはなかったが、酒や金の絡まぬ話を父としていることがなんだかおかしく、魯達はにやにやと笑いながら、飯をかっ込むのだった。
そんなある日、いつもどおり稽古に臨む魯達を皆の前に呼び寄せ、林提轄は厳しい師匠の顔でおもむろに告げた。
「魯達、この十日ほどで、お前はあっという間に拳法の基礎を身に付けた。どうだ、身に付けた型を、同門たちに披露して見なさい」
「はい、お師匠さま」
林提轄の弟子たちは、みな武芸の才を秘めた優秀な子どもたちだったので、その中で手本を見せるようにと言われた魯達は、得意になって仲間たちの前に躍り出た。
「ふっ……!」
林提轄に教わった通り、気合一閃、すべての動きから無駄をなくし、ただ己の心を見つめて拳をふるう――だが、今日ばかりは、手本の演武を任せられたという慢心があったに違いない。
「う、わ!」
最後に魯達の最も好む型を決めようと両腕を大きく撓らせたとき、均衡を欠いた体は大きくたたらを踏んで、魯達は無様に地面に転がった。
「小達、大丈夫?」
子どもたちはころころと笑ったが、林提轄だけは厳しく眉をひそめていた。
「魯達、何故無様に転がったか、理由がわかるか」
魯達は恥ずかしさに顔を赤くしながら、それでも逃げずに林提轄の前に片膝をついた。
「はい、師匠。俺は今日、みんなに手本を見せられると意気込んで、ほんの少し、自慢してぇ気持ちがあったのです。それで、油断をしたんでぇ」
「……わかっていればよいのだ。さあ、立って」
魯達を起こした林提轄は、くすくすと笑っていた子どもたちにもまた厳しい目を向けた。
「よいか、今、魯達は良い手本を見せてくれた。どれだけ日々の鍛錬を積み重ねようと、たった一欠片の慢心が、失敗を招くことがある。武芸とはもちろん、戦うために身に付けるもの。だが、己と向き合い、己の芯となるものを見出さねば、どんな武芸もただの飾りにしかならぬ」
林提轄の言葉はいつも、魯達にとっては少しばかり難しかった。だが、今この刹那、魯達は身をもって知ったのだ。どれほどの力を手に入れても、芯がなければ、この身はいともたやすく崩れてしまう。
「己の力を過信することなく、奢ることなく、己を見つめよ。それが、お前たちが生き抜く強さとなろう」
魯達は夢見心地で頷いた。何か、武芸の神髄のひとつを、今まさに体得したような心地であった。
「それにしても魯達、お前の拳法はずいぶん上達したな。明日からは、槍棒や剣の稽古をつけてやるから、心して取り組むように」
「え……し、師匠、武器を使わせてくれるんですか」
「もちろん、戦場で使うものとはいかぬがな。だが、当たれば痛いぞ。明日からは怪我の手当ての仕方も教えよう」
その言葉通り、翌日からは、武器を使った稽古が始まった。
拳法は大得意だった魯達も、さすがに武器の扱いには苦労した。ほかの子どもたちのように持つのも一苦労ということはなかったが、なにせ槍も棒も剣も、拳と違い、自分の意志の通りに動いてはくれぬ。
「はは、槍に振り回されているぞ、魯達よ。よいか、槍を使おうと思うな。己が槍の一部になったと思うのだ」
「師匠、そんなの、難しすぎらぁ」
「あきらめるな魯達、お前は筋が良い。すぐにうまく扱えるようになる」
林提轄は、決して子どもたちを見放すということをしなかった。
魯達がいくらうまくいかずに槍や棒を放り投げ、木の下で高いびきをかきはじめようと、その尻を叩き、諦めるなと叱咤する。
それが決して魯達をいじめようという魂胆ではないことくらいわかっているので、面倒だ、つらい、苦しいと思おうと、魯達は師に褒められるため、強くなるため、なんとか体を動かし続けた。
そうやって、雑用をこなしながら武芸の稽古に励む日々がひと月ほど続いたころ、魯達はすでに、槍棒や剣を己の意のままに操ることができるようになっていた。体も二回りほどたくましくなり、まるで大人のようだと、林提轄も目を細めたのだった。
「魯達、今日は帰りが遅くなるので、稽古は休みにしよう」
ある日、林提轄は勤めに出る支度をしながら魯達に笑いかけた。
「お前もここのところ、ずいぶんと熱心に、雑事に稽古にと励んでくれた。今日は一日、家のことはしなくてよろしい。好きなことをして過ごしなさい。そうだ、たまにはお父上の仕事ぶりを見に行ってやってはどうかな」
「ありがとうございます師匠、そうします」
そうはいっても、このひと月で身に沁みついた習慣は抜けず、午前中は皿洗いと掃除に精を出し、午後から暇をもらった魯達は、さっそく父が奉公に出ている小料理屋へと向かった。
「曹のおじさん、父ちゃんはいるかい」
「おや、あんたは魯の親父の倅かい。親父、魯の親父、倅が遊びに来たぞ」
林提轄の友人に呼ばれて、店の奥から前掛けをした父が姿を現す。
「なんでぇ小達、ここは餓鬼の来るところじゃねえぞ」
「そんな言い方があるかい。俺ぁ、父ちゃんがどうして働いているのか、見に来たんだから」
「まったく、親を見世物みてえに……」
ぶつぶつと文句は言うものの、追い返そうとする風でもない父にいざなわれ、魯達は店の前の長椅子に腰かけた。
「魯の親父、どうだい、あんたのつくる焼餅を、倅に食わせてやれよ」
「え、父ちゃん、焼餅なんて作れるようになったんか」
父は、うるせえ、だかなんだかもぞもぞ叫んで厨房に引っ込んだが、しばらくすると、焼餅の焼けるいい匂いが漂って来る。
酒に飲まれて有り金すべてをどぶに捨ててはわめき散らしていたあの父が、人様から金をとれるようなものを作れるようになったことに、魯達は子どもながら感心し、そしてうれしくもなった。このままうまくいけば、思ったよりも早く、母を弔う金が工面できそうだ――
「ど、どうかお返しください、将軍さま……!」
その時、店が面する通りの奥から、悲痛な女の叫び声が聞こえてきた。見れば、あろうことか、年老いた女を軍人らしき男が踏みつけている。
「うるさい婆だ。貴様のような蛆虫が、焼餅を買うほどの金を持っているものか! これは、盗んだものだろう。陛下のお膝元たる開封府に、貴様らのような蛆虫はいらぬ、さっさと野垂れ死ぬがいい」
「お願いします……それは五日ぶりに手に入れた、孫のための焼餅なのです……もう孫は、五日間、泥のような水しかすすっていないのですよ……」
軍人の手には、まだ湯気をあげている焼餅が握られている。どうやらあの老婆から取り上げたらしい。
「小達、ほら、たんと食え」
「……父ちゃん、あの焼餅、もしかして」
そしてその焼餅は、たった今、父が魯達のもとに運んできたものと、そっくりである。
「あ、あの野郎……!」
魯達の指さす先を見て、父が血相を変えて息巻いた。
「俺があのばあさんに恵んだ焼餅を、いってぇどういうつもりだ……!」
父が誰かに施しをするなどという、天地がひっくりかえっても起こるはずがなかった出来事に魯達は驚愕し、そして次に、抑えきれない怒りが沸き上がった。
林提轄の気高さと優しさに触れ、父が生まれて初めて困っている人間に施した食べ物を、あの軍人はなんの理由もなく取り上げたのだ。
「くそったれ……!」
気が付けば、魯達は風のように通りを突っ切り、老婆を痛めつける軍人の両足にむんずと掴みかかっていた。
「この野郎、弱い者をいじめるしか能のないくそったれめ!」
さしもの軍人であっても、まさか死角から子どもが、それも強靭な力を持った子どもが飛びかかってくるとは思いもよらなかったのだろう。
「う、わあ!」
あっけなくひっくりかえった軍人の顔を見た魯達のはらわたは、さらに煮えくり返った。
「お前、あの時の……!」
目の前で間抜け面を浮かべていたのは、誰あろう、魯達と父を宿から追い出した張将軍だったのだ。
そして張の方も、魯達のぼうぼうとした眉毛とぎょろりとした丸い瞳を見て、この子どもが、かつて自分が虐げた親子であることに気が付いたらしい。
「貴様っ……また俺の邪魔をするのか、糞餓鬼め!」
張は体を起こそうともがいた。だが、魯達はもはや、あのときの、力を持て余した無力な乞食ではない。
「どけ、どかんか! あの時は林瀞の顔をたてて引いてやったというのに、今またこうして俺の邪魔だてをすれば、林瀞にも害が及ぶというのがわからんか!」
「知ったこっちゃねぇ!」
「があっ!」
振り上げた魯達の拳は、見事に張の顎を捕らえた。折れた奥歯が、血の筋を伴ってきらりと吹っ飛んでいく。
「林提轄は真の好漢、俺たち弱いもんの味方だ。お前のようなくそったれに脅されようが、屈するものか!」
そう吐き捨てると、今度は痛みに目を白黒させる張の胸倉を掴み、ぐるりと一回転、その巨体をずしんと地面に叩きつける。
さらに魯達はまわりを見回し、近くの店に暖簾がさがっているのを見ると、そのつっかえ棒を両手でわしっとつかみ、一切無駄のない動きでもって、張の尻に叩き込んだ。
「ほら、謝れ、ばあさんに謝るんだ。そうじゃなけりゃあ、お前、こうしてみんなの前で、いつまでも尻を叩き続けてやるからなっ!」
「ひ、やめろ、この餓鬼、ただじゃすまさんぞ……!」
「うるさい、それはこっちが言うことだ!」
ばんばんと景気の良い音を響かせ、大の軍人が子どもに尻を叩かれ続ける光景に、野次馬たちが歓声をあげる。ふと見れば、その中には父のにやけた笑顔もあった。
(父ちゃん、これが、俺の正義だ……!)
騒ぎを聞きつけた林提轄がやってくるまで、魯達は張の尻をしこたま叩き続けた。
その夜、魯達は父と話し合った。
「父ちゃん、俺は、正義のためにあの軍人をこらしめたが、このままではきっと終わるめぇ。俺たちがここにずっといては、林提轄に迷惑がかかっちまうだろうなぁ」
「そうさな……俺のほうも、曹さんが太っ腹なもんで、母ちゃんを弔えるだけの金は貯められた。いつまでもここにご厄介になるわけにぁ、いかんだろう」
そう話すと、親子はさっそくわずかばかりの荷物をまとめ、次の日の朝はやく、林提轄の部屋を訪れた。
「お父上、魯達……行くのだな」
「はい、林提轄。倅がとんだことをしでかしまして、もうここにぁいられません。短ぇ間でしたが、お世話になりました。こんなふうに出ていくたぁ思っとらんかったので、何も礼をできんこと、許してくだせえ」
「師匠、俺は師匠から人の道を教わりました。今あのくそったれを打ちのめし、師匠にご迷惑をかけてしまいましたが、俺ぁ後悔してません。俺の芯は、曲げられなかったんです」
二人そろって跪き、頭を下げる魯親子を、林提轄はあわてて助け起こした。
「どうか二人とも頭をあげて。私はそんなたいそうなことはしていないし、今日のことを迷惑とも思っていないのだ。それに魯達のことが、私は誇らしい。弱い者を守るために戦った、お前はもう立派な好漢だ。だが、このまま東京にいては、あなたたちのほうが、面倒に巻き込まれてしまう」
この別れ際に及んでまで魯達たちを気に掛ける、その懐の深さに、魯達は思わず涙を浮かべた。
「師匠、これから俺たちは、母ちゃんの墓を作ったあと、故郷に帰ります。師匠に教わったことは、ずぅっと、忘れません。どうか、拝礼を受けてくだせぇ」
父と二人、再び跪いて三拝した魯達は、母の遺骨が入った壺を背負って立ち上がった。
「待て魯達、お前に餞別を送らせてくれ。今日まで厳しい稽古に耐え、家のこともよくやってくれた、その礼だ」
「う、受け取れません師匠、こんなに迷惑をかけたのに」
「はは、そう気負うな。道中、腹が減るだろうから、お前の好きな焼餅だ。今は開けるなよ、必ず道中で開けるのだ。今開ければ、きっと食いたくなってしまう」
どこか子どものように笑った林提轄は、それ以上二人を引き留めようとはしなかった。
「林提轄、どうか達者で」
世話になった林提轄と下男たちに見送られ、魯達と父は、母の故郷を目指して歩きだした。
「父ちゃん、林提轄にもらったこの餞別、焼餅にしては重すぎる。ああ言われたけど、開けてみよう」
しばらくして林家が見えなくなったところで、魯達は父とともに、林提轄がくれた荷を開けた。
「こ、これぁ……!」
重たいのも道理である。中には焼餅のほかに、魯親子がみたこともないほどの銀子がぎっしり入っていたのだ。
「父ちゃん、俺、いつか……あの人みてぇな提轄になるよ」
そっと荷物を縛りなおし、魯達はもう見えない林家のほうをじっと振り返った。
「そして、弱い者いじめをするやつをかたっぱしからぶっとばす、そういう好漢になるんだ。それが、俺の中の、折れない芯だ」
「おめぇは……立派な倅だよ」
そう言って笑う父の顔は、これまで見たことのない、優しさに溢れていた。
――この日から二十年の月日が流れたある暑い日、魯達は再び、好漢と出会うこととなる。
「なんと……見事な腕前!」
聞き慣れぬのに何故か懐かしいその声が、あの日と同じ言葉を紡いだ。
終




