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はるかかなた。  作者: さんまぐ
【外伝:一木幸平に風が吹くまで。】

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81/107

第81話 一木幸平が楠木昇を壊した後。

深夜の非常識な時間帯に楠木昇の両親が自宅に突撃してきた。

今すぐにでも殴りかかろうとする、否、殺そうとしてくる殺気や明確な殺意が見てとれた。


一木幸平は相手を推し量る事ができずに、ムービーを撮りながら玄関先で、楠木昇の両親の相手をした。


心配そうに、そして迷惑そうに出てきた一木幸平の両親も含めて話す。

5人の会話の中で、中学から今まで延々と続いていた、イジメ以外のなにものでもない執拗なイジリと嫌がらせ、そして遂に捏造した画像まで用いて楠木昇を貶めて追い詰めた事、それを受けて置き手紙を残し、スマートフォンを持たずに失踪した楠木昇の事を一木幸平は追及される。


「どういうつもりだ!」

「息子に何かあってみろ!許さない!」


そんな怒号すら一木幸平には心地よいものだった。


深夜番組さながらの展開だ。

深夜番組でも、スタジオの外からセットに乱入してくる人間や芸人が出れば番組は盛り上がった。


一木幸平は怒号に怯えることもなく「イヒヒヒヒ」、「フフフフフ」と声を上げて笑う。

その異常性に楠木昇の親達は身じろぎしてしまい、その隙に一木幸平の両親が間に入り、非常識な時間だから出直せと言い追い返した。


シンとなる一木家の玄関。

一木幸平の両親は、息子の問題行動が小学校で終わらず、高校でもあったが、それ以上の事をずっとやっていたのかと、恐る恐る聞く。


「幸平…今の話、本当なのか?」

「中学の頃からずっと?」

「そうだよ。面白いよね。楽しいでしょ?他の奴らにも満遍なくやったけどさ、楠木昇を笑い者にすると、皆が喜ぶんだよ!俺が1番アイツを面白く、おいしく調理してやれてるんだよ!」


顔を輝かせて嬉々として、自慢げに、武勲のように誇り、語る一木幸平。


それは初めて上方漫才を家族3人で観に行った帰り道、一木幸平がお笑いを理解できた事、両親と対等の立ち位置で話せた時に見せた、目を輝かせて喜ぶ顔に近かった。


「…やっぱり、父さん達には反対されたけど、お笑いを目指したいんだ。俺、センスあると思うんだよねぇ。ほら、前に父さんは実績って言っていたでしょ?だからキチンと実績を積んだし、こうして結果も出せたんだ」


これは一木幸平の不幸であった。


親は息子がそこまで本気だとは思っていなかった。

そもそも、それとなく言われただけで、世間話の雑談だと思っていた。

キチンと言われていれば親も一人息子の為に真摯に対応した。

それに、親は大学のお笑いサークルを提案したのに一木幸平はお笑いサークルには所属しなかった。


一木幸平は親の言葉を、一木幸平なりに真面目に受け取り、実績さえ積めば親が受け入れると思い込んでいた。

だから生来の性格の悪さで、イジリとはとても呼べないイジメを楽しむだけではなく、根回しも情報収集も怠らなかった。


そして一木幸平の一番の不幸は、お笑い養成所に行けなかった事。

お笑い養成所に行って一からお笑いを学び、間違いを認めて芸風を変えるかは別として、尊敬する芸人たちから自分の評価を正当にされて、自分の目指すお笑いが、万人受けするお笑いではないと気付けていればこうはならなかった。


だが、一木幸平はお笑いの養成学校に行く事はなかった。

それは一木幸平の不幸でもあり、周りの不幸、楠木昇や桜かなた、上田夫妻、その他にも沢山の人間の不幸でしかなかった。


親はお笑い養成所の事に関しても、今まで楠木昇にしてきた事も、一度キチンと話すべきだと思って話しかけたが、一木幸平は親の制止も無視して、イヒヒヒ、フフフフと笑いながら自室に戻っていった。


今、一木幸平がやる事は、親との話し合いなんかではなく、楠木昇の話と楠木昇の両親の動画の拡散だけだった。


腕の見せ所だ、クライマックスだ。

そんな事を思ってPCに齧りついた。


[イヒヒヒヒ。皆さん、今緊急で回しています。聞いてください。なんと、あの楠木昇が失踪しましたよ。自分が桜かなたを裏切ったのにです。笑えますよね。フフフ]


そんな導入で動画を撮り始めると、今しがた撮ったばかりの楠木昇の両親が涙ながらに怒る姿を再生して、「怒ってる」、「バカみたい」、「イヒヒヒヒ」、「フフフフフ」と適宜、停止をして相槌のように説明をするコメントをした動画を拡散した。


拡散といっても、あくまで一木幸平が把握している、楠木昇を知る人間、知らせた人間にしか拡散をしない。下手に話が回りすぎて、想像したオチと違っても困るし、皆に「話が聞きたい」と言われても、一木幸平の身体は一つしかない。だからこそ、徹底的に身近な人間にしか拡散しなかった。



だが一木幸平が拡散した動画は無編集で、中学生の頃から散々昇をイジメと変わらぬ勢いでイジリ倒していた事、今回の画像が捏造である事も含まれている。


それは深夜番組のネタバラシに近く、バラされた時にスタジオは沸きに沸く。

散々やられた演者も「アンタ何やってんだよ!」と怒りを見せるが、どこか楽しそうに見えていた。それも腕の見せ所。

どこまで明るく楽しく振る舞えるかだと一木幸平は思っていた。



これで明日はタイムラインが追いきれないくらい燃え上がり、スマートフォンが壊れてしまうくらい通知が入ってきて、「話が聞きたい」と人々から飲み会に誘われると思いながら気持ちよく眠った一木幸平。

この実績があれば両親は話し合いなんて関係なく養成所への入所を認めると思ったし、今も耳に残り目に焼き付いている楠木昇の両親の悲痛な姿が思い出されて、身をよじるくらいベッドの中で笑っていた。



だが、一木幸平は間違えていた。

生来の性格の悪さに、お笑いを足すことで、性格の悪さや結果がマイルドになる訳もなく、性格の悪さは変わらない。



一木幸平の朝一番の楽しみに、駅のトイレを占拠するというものがある。

わざわざそれの為に早く家を出るし、足がつかないように降りる駅も毎回変える。

急な腹痛で個室トイレを求める人間達をあざ笑うようにトイレを占拠して苦しそうな声をだして誤魔化す事で、誰も何も言ってこれない。

だが確実に間に合わない人間が出てくる。苦しそうな声をあげて、足早にトイレを後にして、別のトイレを探しに行く人間の声を聞き心躍らせ、最悪の時には流さないでくれと言われているのに、別の紙を流してトイレを詰まらせてしまう。


コンビニでも同じようにトイレを占拠して、使用不能にして、次の人間を漏らさせて笑い者にする。


そんな人間が、なんでもお笑いにすれば、十全の人間が、皆が喜ぶと本気で勘違いしていた。




翌朝、一木幸平は朝一番に「え?」と間抜けな声を上げた。


想像と違いすぎた。

数あるトークルームの中では大半の人間がコメントも残さずトークルームから退室していた。


そもそも、周りも全てを信じていたわけではないが、楠木昇も否定しなかった事もあり、捏造までしていたとは思っていなかった事。

一木幸平が自白した中学の頃から執拗に狙って笑い者にしていた事。

昨晩の動画の中で、楠木昇の家に隠しカメラも仕掛けておけばよかったと漏らした事。


そこに失踪した事まで出てしまえば、大半の人間はいよいよ離れていく。

巻き込まれたくない。無関係だと言いたい。言われたい。


元々、トークルーム内の人間は楠木昇に対して別に悪意はなかった。

単純に一木幸平に付け狙われたくなくて、楠木昇を狙っているのなら、それを推奨する仕草で、楠木昇を狙って欲しかっただけで、それが徐々に「ここまでならいいだろう」というラインが甘く緩んでしまっていただけだった。

更に生活環境の変化や、新生活のストレスのはけ口に使ってしまっただけだったし、イジメに見えていても、やられ役の楠木昇が拒絶せず、イジメだと外に言わなければ、イジリでしかないと自分たちに言い聞かせていて、過激なテレビの中でしかなさそうな事が目の前にあったから見ていただけだった。


一木幸平に合わせていただけなのに。

楠木昇の事なんてどうでもいいのに。


その気持ちから仲間だと思われない為に、一目散に一木幸平から離れて行った。

楠木昇のような目に遭うかもしれないだの、地元だの、生活が脅かされるかもだの、言っていられなかった。

トークルーム内の人間は、一木幸平が暴走して、自分たちが一緒になって楠木昇を笑い者にしていた動画がどうにか拡散されない事と、標的が自分に変わらない事を祈る事しかできなかった。



期待通りにならない事に一木幸平は怒りを滲ませ、母親から「一度キチンと話がしたい」と言われた言葉を遮るように、「黙ってろよババァ!」と怒鳴り散らしてしまう。


一木幸平の母親もまさかの事に目と耳を疑った。

一木幸平は家ではとても良い子だった。

ただ、外での対人関係には問題があり、それは夫婦で「環境が合わないからだろう。友達に恵まれなかったのかも知れない。違う環境ならきっとあの子なら平気だ」と話し合い、老後資金を切り崩してまで地方の大学に送って一人暮らしをさせていた。


だが、息子は陰で飽きず懲りずに人を貶めて笑い者にしていた。

信じたくないが諸悪は息子だったのかも知れないという不安。

そして今朝の発言。


それは一木幸平の両親の心に深い傷を負わせる事となる。




事態は最悪の形を迎えた。

自殺の名所で発見された遺体が楠木昇だと判明した。


だが、一木幸平はニュース番組、ネットニュースを見て、慄くどころか飛んで喜んだ。


遂に楠木昇を壊し切った。

これで拍手喝采を浴びて人気者になる。


トークルームを抜けて行った馬鹿共は今頃後悔しているかも知れない。

今更戻ってきて、エピソードトークを聞きたいと言っても、謝罪の言葉の一つでも引き出して、泣くまで責め立ててバカにして、笑い者にしないと赦さない気持ちになっていた。


それら全てを集めて、最高のエピソードトークにしたら、それを引っ提げて、お笑い養成所に入り、一気にスターダムを駆け上がる所までイメージをした。


それなのにメッセージアプリを開いたら、反省の弁がないどころか、トークルームには残された人々により一木パッシングが始まっていた。



一木幸平はやり過ぎていた。

誰もこんなものでは笑えない。

笑うのは、人の痛みや心の痛みも知らない人間で、いても千人に1人くらい。

だが本人にはその部分が何ひとつ理解できなかった。


根本的な部分、お笑い番組で笑い者にされた人間も、それで生活が成り立っている。収入がある。

バカにされても、笑われても、サラリーマンの平均月収を数日で稼ぐような世界だから、家に隠しカメラを仕掛けられても耐えられて、恋愛を弄ばれて、家族が笑い者にされても、ある程度までなら我慢できたが、無報酬で笑い者にされて喜ぶ人間はいないし、そんな悲惨な目に遭った無報酬の一般人を見て笑う人間もいない。


カメラが回っていない時は普通の生活を過ごしている。

その事が理解できずに居た。



とにかく一木幸平はやり過ぎていた。

楠木昇の逃げ場を塞ぐ為に、人の輪を広げ過ぎていた。

情報を拡散し過ぎていた。


すぐに一木幸平のやった事が周知の事実になっていた。


婚約者の桜かなたが、楠木昇の訃報で憔悴して心を閉ざして入院した事。

そして小学生の頃からの初恋の相手だった楠木昇との仲、楠木昇が一木幸平のせいで元彼女から酷い振られ方をして、その心を癒したのも桜かなただという事。

そもそも、一木幸平が中学生の頃、桜かなたの恋路を邪魔して、楠木昇をこれでもかと痛めつけていた事まで皆が知る事となってしまい、一木パッシングが過熱した。


だが一木幸平はこれくらいではへこたれなかった。

エピソードトークが更に増えて、また笑いに転化できる。

これを笑いにできてこそのお笑いの実力で、ここが真の腕の見せ所だと思っていた。




一木幸平が知らない事。

それを知った頃には手遅れだった。


楠木昇の告別式にも来られなかった桜かなた。


病室で楠木昇と作った幸せな日々が綴られたアルバムを眺めて、楠木昇を求め続けている。

現実が受け入れられず、理解できずにいる桜かなた。


今更だが告別式には相当な数の人間が押し寄せ、全員が決壊したダムのように、一木幸平にされた事、一木幸平がしてきた事、見知った一木幸平の人間性を楠木昇の両親と桜かなたの両親に洗いざらい報告をした。

中にはメッセージアプリの中で、一緒になって笑い者にしていた、楠木昇と同じ学校やアルバイト先にもいなかった連中も、罪から逃れるために必死に反転して仲間のような顔で迫ってきていた。



そいつらが、元々が敵か、今が味方かなんて事はどうでもよかった。

楠木昇の両親も桜かなたの両親も、もう止まらなくなっていた。

どうにかして一木幸平に復讐することしか考えていなかった。


桜かなたの父は、告別式の直後から、告別式に寄せられた真偽不明の情報の裏どりをした。


キチンと証言を得て、その証言者や被害者のところに顔を出す。

上田優雅の両親や上田春香の両親のところにも行き、全てを話していた。


そして集まった情報を整理すると、一木幸平が色々と手を回していた事がハッキリと明らかになる。


上田春香は楠木昇の死に怯えていた。

一木幸平のムービーを見て、昇の失踪を知り、いつ自分が非難されるかを恐れ、いつ死の遠因は自分にあると思われたらどうしようと思っていた。

桜かなたの父は、上田春香の両親を通じ、上田春香に会った際、ハッキリと一木幸平にやり取りのスクリーンショットを渡した事が、最悪の引き金で、そもそも、楠木昇を裏切っておいて、一木幸平と上田優雅に唆されたとはいえ、結婚式に呼んだ事すら罪深いと言う。


ハッキリと言われた上田春香は必死になって、自身の正当性を訴える。

全て一木幸平と上田優雅だけが悪いと言ったが、それは葬儀の参列者がそんな事ないと言っていた事を突きつけて黙らせた。


平謝りの山野夫妻は楠木昇の事もあり、娘にも勿論あるが、何より上田優雅と一木幸平に怒りが向かった。

だが、同じく話を聞いた上田優雅の両親は、釣り上げられた結婚式の代金や、高校生の頃からあった、一木幸平が誘導した女達に支払った慰謝料や妊娠騒ぎなんかを見て、上田優雅も被害者だとして、楠木昇には謝ることなく一木幸平に怒りを向けた。



一木幸平はそんな中でも手を緩めなかった。

この状況をエピソードトークとして、どうやって笑いに転化して、故人を笑い者にして、実力を周囲に見せるかしか考えていなかった。


離れていってアンチに反転した連中には、陰で上田春香や上田優雅、楠木昇に桜かなたを笑い者にしていた飲み会なんかの映像を流出させ、パッシングをしてきた連中の過去や失態、秘密なんかもコレでもかと暴露して笑い者にする。


彼女を上田優雅に寝取られた男たちには怒り震える顔の写真や映像を流出され、上田優雅に寝取られた女達は断り切れずにラブホテルに連れ込まれたり、ラブホテルから泣きながら出てくる姿を流出させる。

それ以外の相手も、出所不明のラブレターを流出させたり、意中の人間が嫌っていて、悪く言っている映像なんかも次々に流出されていく。

殴りかかってきたら100倍返しで笑い者にする。

それが一木幸平のやり方だった。


10年近く前の映像でも関係なかった。

なんでそんなものまで持っているのか、そう言いたくなるモノまで拡散された。

だが、一応足はつきにくい匿名サイトと仮想回線で、一木幸平にたどり着くのは至難の業だったし、訴えるのも根気とお金がいる作業で、弁護士も乗り気にならない。


その間に、痛い腹を探られたり、楠木昇を笑い者にした連中は社会的制裁を受け、家族に絶縁を言い渡されたり、失職もしていった。



これにより更に状況は悪化する。

社会的制裁を受けた連中も一木幸平のパッシングを始める事となる。

ごく稀に、罪を認めて大人しくなる輩もいたが、大半は他責思考で一木幸平が悪いと言い出す、「一木幸平さえいなければこんな事はしていなかった」、「一木幸平に目を付けられるのが怖かった」そんな事を言っていた。


パッシングをしてきた連中も、これまでは生活があり、悪い噂が広まっても、天涯孤独ではない故に、家族にも迷惑がかかり、地元を離れられず、一木幸平に意見をする為には全ての交友関係を終わらせなければならなかった。

その為に、一木幸平のする事を我慢してきたり、上田春香や上田優雅、楠木昇がやられてくれている間は、自分たちは無事だから、一木幸平が興味を失わないように付き合おうと思っている人々が多数いたが、一木幸平の悪行が世に出て、全員で開き直ると怖いものは無くなっていた。



徹底抗戦の構えになってしまった被害者たちと一木幸平。


一木家には無言電話ではなく、堂々と名前を名乗り「自分もこんな思いをさせられた」、「自分も彼女との仲を台無しにされた」、「一木幸平が上田優雅をけしかけてきたせいで、彼女が性処理の道具のように扱われ、妊娠させられたら認知せずに捨てられた」、「彼女が寝取られた」、「彼女が泣かされて、許せない気持ちで一木幸平を殴ったら、進学先や就職先にその時の事をバラされた」という内容の電話が一日中殺到し、一人息子の果てしない悪行の数々を知った母親がノイローゼになる。


そして耐え切れずに電話線を抜けば、今度は郵便ポストに被害者たちの実情がこれでもかと届いた。


中には直接言わないと我慢できないと言い出す勇士まで現れて、家に突撃をして母親に何をされたかを、キチンと卒業アルバムまで持ち出して説明し、母親が居留守を使えば、家の前には復讐と正義の執行に酔いしれた人々が殺到した。



今までの債務の取り立てのように、小学生の頃からの恨みつらみを持ってくる人々。

ついには遠方の大学で4年間被害に遭った連中まで、わざわざ東京にやってきてしまう。


この状況は警察を呼んでなんとか追い払ったが、これにより一木家は更に近所から白い目で見られ、後ろ指さされるようになっていた。

一木家も決して裕福ではない。

家のローンもまだ残っている。

ここで家を手放す事も、遠方に行く事も難しい、今まで一木幸平が周りにしてきた事と同じ状況になっていた。



そんな中にいても、それすらもエピソードトークになると喜ぶ一木幸平。

ノーダメージなのは一木幸平だけで、一木幸平の両親には耐えられるものではなかった。




そんな中、桜かなたの両親が主導で、せめて楠木昇の無実を訴え、無念を晴らそうとして、これまで楠木昇が一木幸平からされた中学生時代の事から、全ての知人に向けて発信された捏造画像の件までを、わかりやすく冊子にして配り、一木幸平の厳罰を願う署名活動、訴訟費用のカンパなどを募集した。


「今も娘は心を閉ざしています!日々、婚約者の楠木昇くんと作ったアルバムを見て涙を流しながら楠木昇くんの帰りを待っています!最愛の婚約者を根も葉もない誹謗中傷で失う事になった娘の無念と、何年間も追い詰められて根も葉もない誹謗中傷の果てに、命を絶った楠木昇くんの無念を晴らす為にも!ご署名をお願いします!」


この言葉はすぐにSNSで拡散をした。

動画が拡散し、冊子も有志がまとめサイトを作り拡散してきた。

楠木昇は仕事の関係者が多く、全国多数の人間が憤り賛同してくれた。


遂にはローカル局だが、日曜日のニュースでも特集として取り扱われた。

楠木昇の両親と、桜かなたの両親が涙ながらにインタビューに答える姿まで放送されてしまう。



これを喜んだのは一木幸平だけだった。

周りのウケが悪かった以上、なんとか全世界に向けて発信して、笑いを取ろうとしていたが、今は言葉で殴りかかってくる連中の100倍返しで忙しく、拡散の協力に感謝してしまう。


これでお笑いの養成所に入って掴みのトークは出来た。


「え?あのニュースの加害者ってお前なの?」

「折角面白くしてやっているのに俺のせいにしたんだよ。これが面白い話でさ…」


こうしてこれまでの事を話せば、きっとお笑いの事がわからない連中とは違う、養成所の同期や講師たちは、自身を一目置いて、1年目のデビューどころか、1年目にして大御所と肩を並べるスターダム間違いなしになる。

夢見た深夜番組の司会者も目の前に迫っている。



一木幸平がそんな事を思っている裏側で、さらに手に負えない状況に追い込まれたのは、上田夫妻になる。

楠木昇を貶めた結婚式の映像も一木幸平以外の勇士の手で、ネット上に拡散され、一応のプライバシー配慮でモザイク処理をされていても、上田夫妻だとわかる人から上田夫妻は悪く言われる。


だが、今上田夫妻はそれすらそれどころではなかった。


上田優雅がこの1年で浮気した中の女が2人ほど妊娠していて、上田春香に離婚と上田優雅に結婚と認知を迫っている。

更に別の女4人は既婚者で、不貞行為を知った夫から、上田優雅は損害賠償と慰謝料を求める民事訴訟を起こされている。


ここで終わらず、上田春香は上田優雅に入れ込んだ、また別の女3人から命を狙われ、ハッキリと殺害予告までされている。



上田優雅は全てを捨てて真っ先に逃げ出した。

この期に及んで別の女の元に逃げ出しヒモになる。


一木幸平のせいで親族や近所、職場からも白い目を向けられて逃げ場のない上田優雅の両親は、自分の身の安全の為に弁護士に泣き付くだけで、上田家の嫁である春香の事は見向きもしない。


春香は春香で、高校生以降の人生で悪化した他責性、小中学校では教師が助けてくれていた。高校以降は陽キャラ集団にいた実績、中の上の容姿と甘え方で、進路活動やアルバイト先探し等で、誰かしらに手を貸してもらっていた為、離婚の為の弁護士探しすら独りではどうする事も出来ず、命の危機があるのに、警察に向かって電話をかけて「怖いんです。殺されます。助けてください!もっと真剣に相手を逮捕してください!」としか言えない。

最終的に自分の両親に助けを求めたが、両親の所も一木幸平の根回しのせいで、親戚や近所、職場の対応に追われていて、それどころではない。


「殺害予告が怖いなら勝手に帰って来い」とは言ったが、元々父母は真面目で誠実、春香の事を心から愛して大切にしてくれていて、自分の人生の先々を考えて、春香を幸せにする事を人生の目標にし、春香のことも考えて、あの悲惨な結婚式にも来てくれた楠木昇を推していた。


それなのに楠木昇のたった3ヶ月の新人研修、それも最初の週に、一木幸平の誘導があったなんて言い訳は関係なく、ムービーで見てしまったが曖昧な態度で毅然と断ることもせず、上田優雅に寝取られて楠木昇を裏切り、曖昧で不誠実な対応で逃げて誤魔化し楠木昇を捨て、反対を押し切って上田優雅と結婚をし、今日まで説教の類の一切から逃げ、楠木昇を貶める為に、身の丈に合わない最悪な結婚式をした癖に、今になって助けてくれと泣きついてくる娘を助けようとはしない。


孤立した春香が友人に助けを求めても、友人達は一木幸平が流した情報と、楠木昇が命を絶った原因なのに、未だに自己保身を優先する春香の姿を見て、誰も手を貸さず、助けようとはしてくれなかった。


今までのように一木幸平に言っても、助けられる素振りすらなく、それすらエピソードトークとして拡散されてしまう。

もう無茶苦茶なものだった。




そんな中でも一木幸平は素知らぬ顔で出勤をしていた。

一木幸平からすれば、近所の白い目も、後ろ指も、エピソードトークのスパイスでしかない。


今もトークバラエティの中で「もうあの時は最悪で、外に出たら近所のおばちゃ…佐藤のババアが睨んできて」と話して、出演者やゲストを笑わせている妄想に浸っている。


会社でも噂になっているのに本人は素知らぬ顔で仕事をしているし、上司の詰問すらエピソードトークにしようとして、嬉々として参加をして、詰問の時間すら笑いに変えようとする。

異常な態度で仮にクビになっても問題のない無敵の人として振る舞っていて、会社ももう少し訴えられる等の事があれば懲戒免職にできたが、今の噂レベルの状況だと会社都合でのクビで、回ってきた噂の通りの異常性だった場合、訴えられて訴訟にでもなると、面倒が残るので何もできなくなっていた。


一木幸平が働くのは翌年のお笑い学校の養成所への入学資金と売れるまでの生活費を貯める為だった。



一木幸平はブレーキが完全に壊れていて、もう止まる事はない。


だが、一木幸平の親は違っていた。

あの、桜かなたの両親が拡散した冊子を、正義の執行に酔いしれたご近所様3人が、家まで持ってきた。


「散々、幸平君の自慢をしていたけど、こんな事になっているのも知らなかったの?」

「これ、中を読んだら、学校や町会、アルバイト先に、関係のない昔の小学校の友達やその家族にまで、根回しして失敗談を集めて、失敗談を広めたってあったわ。読むべきよ」

「インターネットでまとめサイトっていうのが出来ているから、旦那さんと読んだ方がいいと思うわ」


一木幸平の母は、息子と夫が帰ってくる前に、恐る恐る冊子を見て、独りぼっちのリビングで絶望に震えた。

中学1年から干支が一周しても、散々楠木昇をイジメ続けてきた息子の証拠。

震える手でスマートフォンを開き、まとめサイトを見れば、まとめサイトでは楠木昇の被害よりは数段劣るが、被害はコレでもかと訴えられていて、更に息子が放出した証拠までついている。息子が撮った様々な動画が出てくると、モザイク処理等の配慮はされていたが、声は息子のもので聞き間違えようはなかった。

冊子とまとめサイト、その内容を夫と夜中に確認すれば、かつて家族で観たバラエティ番組に似た光景があった。

家族3人が団らんの中で一緒に笑った日が思い返された。

だがこれはテレビの向こうの事で、実際にやっていいことではない。

一木幸平の父母は寝室で手を取り合って涙ながらにこの先について話し合った。



ある朝、起きた一木幸平は流石に腰を抜かす事になる。


リビングに置かれた遺書。

両親は自宅のカースペースに置かれた車の中で、ゴムホースをマフラーから窓ガラスに繋げることで自殺をしていた。


腰は抜かしたが、一木幸平はこれはまたいいエピソードが出来たと思ってしまう。

前に芸人のエピソードトークの中で似たものがあったと思う。

あれのウケは良かったと一木幸平は思っていた。


どんどんエピソードトークが増えていく。

天は味方をしている。

この勢いでお笑いの覇権を掴めと天は言っている。


この期に及んで、まだそんな事を考えていた。


逮捕されるのは真っ平ごめんなので、キチンと救急車を呼び、外で待っている時、後頭部に強い衝撃が走った。

身体は前に転び、周囲からは悲鳴が聞こえる。

激痛の中、なんとか振り向くと、そこにはあの中学で不登校になりかけた男が立っていた。


手には金属バット。

そういえばこの男は野球部で、偽のラブレターで呼び出した相手の子はマネージャーだったはずだ。


またいいエピソードが手に入ったと思っていると、金属バットを振り上げた男は「お前はまだこんな事をしていたのか!楠木と桜に謝れ!死んで償え!」と言いながら一木幸平を殴ってきた。



何をどこで間違えたのか。

もう一度やり直せたらもっと上手くやって、30歳…、遅くても35歳までに深夜番組の司会者になるんだ。

激痛の中、一木幸平が最後に考えたのはコレだった。




目を覚ますと、頭が重く痛い。

病院ではなく自宅の天井で、救急隊が保護をしてくれたのかと思ったら、現れたのは死んだはずの母親で、寝坊しているから早く学校に行けと言い出した。


何を言われたか分からずに立ち上がると、目線が低く、自分が小学生になっている事に気がついた。


一木幸平は「これは今度こそうまくやれという神の思し召しだ」と呟いた。


早く西中学校へと通い、今度こそうまく楠木昇を笑い者にして不動の人気を手に入れよう、お笑いを両親に認めさせよう。一木幸平はそう思っていた。

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