第75話 かなたが望んだ始まり。
共に朝を迎えた日から微妙な変化があった。
昇はかなたの服を洗濯して、「下着とか、いやだったら持って帰って、この寝間着とかはウチに置いていく?」とかなたに聞いた。
「また泊まってもいいの?」
「…いいけど、聞いておいてだけど、かなたこそいいの?」
「うん。今度はさ、このお家で美味しいものを食べて、2人で飲んで、泊まらせて?そうしたら帰る事を考えないで飲めるよ」
「うん。じゃあ冬になったらお鍋をしよう。夏の間はなぁ…。かなた、海鮮焼きそばと餃子とビールとかやる?」
かなたは喜んで受け入れる。
その日から少しだけ2人の付き合い方が変わる。
かなたはキチンと両親に筋を通すし、昇もかなたの両親に筋を通す。
夏のお盆休みも出かける場所が遠いので、かなたは前乗りの形で泊まりに来て、帰りもゆっくりしたいからと二泊した。
夏の旅行は日帰りだが、新幹線で名古屋まで行き、ひつまぶしを食べたり、おすすめの生産者さんの食材を使った料理が食べられる店に行く。
写真も沢山撮った。
帰ると何枚かプリントしてアルバムに入れていく。
毎週の泊まりは昇の出張もあって無理だったが、極力かなたは昇のところに泊まって一緒に眠る。
眠っている昇は春香を求めるが、起きている時の昇はかなたを求め抱きしめていた。
秋にはかなたが予備で使っているカメラを借りて水族館に撮影に行った。
かなたは昇との時間を過ごすべきなのに、カメラスイッチが入ると「昇くん!もう少しいさせて!」と言って巨大水槽の前から動かなくなる。
昇はそんなかなたの写真を撮ったりしていた。
11月にはかなたの誕生日がある。
かなたは、昇からストレートに「誕生日、かなたの誕生日はどこで何をしようか?」と聞かれた事に驚き喜んでいた。
「昇くんおすすめのご飯屋さんでご飯を食べて、出来たら昇くんのお家でケーキを食べて、泊まりたいかな?」
昇はかなたの希望を叶えると日付の問題になった。
かなたの今年の誕生日は月曜日で、翌日に勤労感謝の日があるので仕事終わりに集まる事も出来たが、その前の土曜日にやってしまって泊まるのも手だったりする。
昇はかなたに「土曜日と月曜日にやらない?土曜日は外ご飯と泊まり、月曜日にケーキと泊まり、ダメかな?」と聞く。
その顔は今までと違う。
かなたは「いいよ!それがいい!お母さんにはちゃんと言うよ!」と言った。
かなたの母は少し呆れながらも「かなたがいいなら応援する」と言い、「でも、楠木くんはかなたの話通りなら大変よ?地元で後ろ指をさされてる。しかも本人は何も悪くないのになのよ」と心配を口にした。
親なら仕方ない。
大変な思いをする相手に嫁がせたい訳がない。
だが、かなたが「それでも、それでも昇くんといたいの」と言うと、母親は「わかってる。応援してる」と言ってくれた。
土曜日の誕生日。
昇はおすすめのイタリアンのお店にかなたを連れて行った。
昇の名前で予約したので、店はある種の厳戒態勢で昇を待ち構えている。
昇は「そんな、やめてくださいよぉ〜」なんて物腰は柔らかいが、食べたものが残念だと豹変する。
今回は冬場に牡蠣コースを出すイタリアンなのだが、昇は牡蠣のフリットに使ったレモンにキレていた。
レモンくらいならと利益を優先し、昇と決めた生産者のものではなく、安い外国産のものを仕入れたせいで、味が変わっていて、それを昇に看破されて大目玉を喰らう羽目になる。
だが、それ以外は牡蠣グラタンも焼き牡蠣もとても美味しくて、昇は何度もお誕生日おめでとうと言い、自分から店員さんにスマートフォンを渡して記念写真を撮って貰っていた。
「牡蠣のパスタ、すごく美味しかったね!」
かなたの言葉に返事を返さずに「…あの野朗」と怒る昇。
聞いてみると、あの牡蠣のパスタは刻んだレモンと食べるのだが、牡蠣のフリット同様に手抜きで、安物で済ませたレモンだと酸味が強いだけで、甘味がなくて口が寂しく感じるらしく、かなたがそのイマイチのパスタを喜んだから、申し訳なさで怒りが滲み出たらしい。
「じゃあ、今度また行こうね」
「いいの?行ってくれる?」
「勿論だよ」
「2人ぼっちだから?」
「そうだよー」
かなたは聞き漏らさなかった。
昇は「嬉しいな」と小さく言っていた。
夜、寝る時に昇は神妙な顔でかなたに話しかけた。
かなたは色々な事を想定して息を呑む。
「ごめんかなた。一個聞いてもいい?」
「…え…うん。どうしたの?」
「俺といるのって嫌じゃない?」
「全然、楽しいよ?」
「昔、散々俺とかなたはつり合わないって言われてきたから気にしてたんだ」
これは告白か?と期待したが違っていた。
昇はこの日々が楽しくて仕方なく、かなたが来ると嬉しくて、そして神妙な顔でかなたを呼んだのは謝りたくてだった。
「ごめんかなた」
「何に謝ってるの?」
「夜中に、かなたの事を抱きしめてるんだ。寝ぼけたのか無意識なのか、かなたは抱きついてくれていて、それが嬉しくて、目が覚めた時に抱きしめてるんだ。ごめん。かなたの許しをもらう前にそう言う事をしてたから…」
「だから気にしてくれてたの?」
「うん」
かなたは愛おしい気持ちで笑うと「私も夜中に目が覚めると昇くんを抱きしめてたんだよね。だから抱きついていたんだよ。一緒だね」と言った。
そして「寝てなくてもいいよね?」と言って昇の膝の上に座って向かい合わせで昇を抱きしめる。
昇は「かなた?」と困惑しながらかなたを抱きしめると、「かなた」と何遍も口にしていた。
かなたは泣かないように気をつけながら、昇の首筋に顔を持っていって昇の匂いを感じていた。
その日は向かい合わせで顔を突きつけて名前を呼び合い、昇は何度も「少し早いけど、お誕生日おめでとう」と言い、かなたは「ありがとう」と返した。
昇の目が今までのそれと違い、かなたには予感があった。
でもまだ飛びつけない。飛びついても喜んでもよくない。慎重になる必要があった。
それでも嬉しくて夜中に何度も目が覚める。
それは昇も同じで、昇はかなたを抱きしめて何度もかなたの名前を呼んでいた。
その声に反応して目が覚めていた。
「昇くん?眠れない?」
「あ…ごめんかなた。起こしちゃった…」
「ううん。平気。昇くんの声が聞こえて、優しく抱きしめて貰ってるのが心地よくて目が覚めただけ。ずっとしてくれてたの?」
昇は照れた様子で「う…うん。俺もかなたを抱きしめて名前を呼ぶと、胸の奥…心の中が暖かいんだ。だから寝るのが勿体なくてさ」と返してくる。
「うふふ。ありがとう昇くん。じゃあこうしていて」
「いいの?」
「うん。このまま朝までお話ししようか?」
かなたと昇は沢山話した。
昇の好きに話させると、当たり障りのない事ばかりなので、かなたはゆっくりと聞くように相槌を打つ。
そうすると昇の口から出るのは暗い過去ばかりで、そんな中でもかなたのことを話す時は明るいもののように語る。
昇はかなたの事を話した後は、必ず「俺なんかといてかなたが悪く言われないか心配なんだ」と言う。
そこから何度も中学生の頃から散々一木幸平から言われていた、「昇って桜狙い?無理だって、鏡観ろよ。顔も頭も釣り合わないんだから、恥をかくだけだって」の言葉を口にしていく。
かなたはしつこいとは決して思わず、本当に一木が100回言って昇を苦しめていたなら、100回違うと言おうと思って「そんな事ないよ。昇くんと私は2人ぼっちだよ」、「ずっと一緒だよ」、「ご飯屋さん達も誰も、私たちを笑わなかったよ?釣り合ってるよ」と言い続けた。
昇の100回はただの繰り返しじゃない。
本当に100個の言葉が胸に刺さっている。
そう思って、その全てを取り除き、癒すために言葉を送った。
「本当?かなた?」
そう言った昇は泣いていた。
「俺、このままかなたといていいのかな?」
「そうだよ。2人ぼっちだよ」
「かなたの恋愛とか邪魔になったら離れなきゃダメだよね?」
「離れなくていいよ。私はモテないよ。今までもずっと独り身だよ」
「でも…かなたは綺麗だし、料理もうまいし、優しいし…。きっとモテるよ」
「モテないよ。なんでそんな心配するのかな?」
昇は「怖いんだ」と呟くように言った。
「昇くん?」
「好きな人がいなくなるのが怖いんだ。かなたに彼氏ができて、その人の元に行かれるのが怖いんだ」
それは春香と優雅の事だった。
どんな理由があっても、春香のした事は昇を待てず、信じられず、よりにもよって優雅とヨリを戻す。
しかも昇との関係をキチンと清算せずに戻り、昇が帰ってきて真意を問うまで誤魔化していた。
かなたは焦らずに「好きな人?」と聞く。
「俺、勘違いだってずっと思うようにしてた。でも、かなたは何回も2人ぼっちって言ってくれて、俺とかなたは恋人同士みたいで、もう何回も一緒の布団で眠っていて、沢山一緒にいて、もしこれが俺の勘違いじゃなかったらって思ったら、かなたの事が好きになってたんだ。だからそれもあって抱きしめてたけど、かなたが嫌だったらって思ったから謝っていたんだ」
かなたは聞き間違えたかと、願望が耳をおかしくしたかと疑う。
「だからこれからも一緒にいたいんだ。でも怖いんだ」
昇は言うと俯いて泣いていた。
震える昇を胸に抱いて、かなたは「大好きだよ昇くん」と言った。
「かなた…」
「友達としてじゃないよ。ずっと昔からだよ。それなのに中学で一木君の邪魔が入って、仲良くなれなかった。アルバイトで再開しても、一木君がいたからうまくいかなかった。春香と付き合った時だって、悲しかったけど、私じゃ昇くんを喜ばせられないって思って我慢してたんだよ」
昇は驚いた声で「かなた?」ともう一度呼んだ。
「もう、だからずっと一緒だよ。今私はずっと好きな人に、美味しいご飯でお誕生日をお祝いして貰えて、その人のお布団で一緒にいられて幸せだよ」
かなたは、そのまま春香の結婚式には行きたくなかったが、連絡先を絶ってしまった昇に会えるから行っただけだと説明する。
嬉しさから飛び出して来ようとしてまた少し後ずさる昇の心を見て、かなたは商店街で夫婦に間違われる事も嬉しかったし、ずっとこの家で昇といたいんだと言った。
昇は何遍もありがとうを口にして、かなたの名前を呼んで抱きしめていた。
かなたは告白とか付き合いの始まりがどうなるのか気になっていたが、昇の胸の中でいつの間にか眠ってしまっていた。
朝起きた時、もう朝は過ぎていて11時だった。
布団には昇がいなかった。
部屋のどこにもいなくて、昨夜の出来事は夢かと思ってしまった時、眩しい笑顔の昇が帰ってきて「あ、起こしちゃった?ごめんねかなた」と言う。
照れることもない、ごく自然な昇の態度。
昨夜の出来事は本当に夢だったのか?
かなたが疑う中、昇は「寝間着のままも俺たちらしくていいんだけど、良かったら服だけ着替えてよ」と言う。
かなたは何がなんだかわからない中、服を着替えると、昇は「朝ごはん…とか、昼ご飯ではないんだけど」と言ってテーブルに小振りのホールケーキを置いた。
「ケーキ?」
「うん。起きて買ってきたんだ」
昇はコーヒーを淹れると、かなたに渡して2人でケーキの前で向かい合う。
ソワソワする昇は「くそ」とか言っていたと思うと、姿勢を突然正した。
「かなた、ずっとありがとう。好きです。付き合ってください!」
そう言って頭を下げた。
「昇くん?」
「昨日の夜、夢みたいで、夢なら嫌だったんだけど、我慢できずに告白したかったんだ。ちゃんと告白して付き合いたかった。だからケーキを買ってきたんだ」
昇は春香となし崩しではないが、会話の流れから付き合っただけで、キチンとした告白がなかった事が引っかかっていた。
もしかなたが同じ気持ちならと思うと、いてもいられずに布団の中で眠りながらなんてよくないと思い、朝一番にケーキを買いに行っていた。
それはかなたが望んでいた始まり方だった。
かなたは感涙して、「うん。私も好きです。これからもよろしくね昇くん」と言う。
2人でケーキを持って自撮りした顔を見た時、かなたは想いが結実して、全てが報われたと思った。
昇の顔が、あの捨てたアルバムの中にあった誕生日を祝う写真と同じか、それ以上の笑顔に見えたからだった。
かなたはケーキを置くと、昇を抱きしめて「ありがとう。幸せになろうね?誰よりも幸せになろう。春香達より幸せでお似合いって言われる2人になろうね」と言っていた。




