第60話 サイテーな時間。
かなたはトイレに行くとスマホを取り出す。
用を足すとその流れで電話をかける。
もう学校は授業どころではない。
昇は興奮のし過ぎで気絶して、小岩茂が保健室に連れていっていて、春香は担任から詰問を受けている。
かなたも戻れば大久保への説明がある。
その前に情に則って…、そして既定路線に乗せる必要がある。
かなたはやり直す中で、この時間が一番と言っていいくらい嫌いだった。
それもあって、一木幸平と上田優雅の来訪時には、普段以上に春香に苛立ってしまっていた。
電話をすると相手はすぐに出る。
相手の口調で憔悴具合が激しい事は嫌でもわかり、聞いているだけで胸の奥は痛む。
だがここで気を抜けば碌なことにならないのは経験済みで、また10年からの浪費はごめんだった。
かなたが「桜です」と名乗ると、相手は意外そうに、そして喜びを隠せずに「かなたちゃん!?」と聞いてきた。
「はい。春香の事でお話ししておきたいことがあります。落ち着いて聞いてメモの用意をお願いします」
相手は春香の母。
傷心の母にこれ以上の責苦は嫌なのだが、心を鬼にする必要はある。
泣きながら昇を殴り、抱きしめてくれた小岩茂の覚悟を思い出し、かなたも心を鬼にする。
何度繰り返してもこの瞬間は嫌だった。
メモを用意したと聞こえてくると、かなたは深呼吸をする。
それは同じく娘の母になったからこそ口にしたくなかった。
「春香は8月7日、8月15日、8月20日の三日間、断りきれずに上田優雅と関係を持ちました。7日は一晩中で、15日と20日はバイトの前や後に2時間です」
コレだけで伝わってくる、悲痛な声にもならない、ひきつった叫びと啜り泣き。
「昇は春香を大事にしていたから避妊していました。でも上田優雅は避妊をしていません。春香は月末には生理ですよね?今は遅れてますよね?これ以上は口にしたくないんです。本人には伝えましたが、現実を認めなさそうだったので電話をしました。堕胎するなら早い方が春香の身体のためにもなります」
うるさいくらいの過呼吸で、今にも倒れてしまいそうな春香の母は、声を引き攣らせて嗚咽を漏らしながら、必死に「娘を、春香を案じてくれてありがとう」と言おうとしている。
それを妨害するようにかなたは言葉を放つ。
「あとは再三のお願いです。小岩君から聞いている通り、上田優雅と一木幸平は昇を痛めつける為に、今もわざわざ学校に来て春香との仲をアピールしたりしてきました。もう昇を春香に近付かせません。よろしくお願いします」
今の春香の母にはこれだけでも辛い言葉で、小さく「ぅ」と呻くような苦しむような声が聞こえてくる。
だが、かなたは止めることなく言葉をつづける。
「家でも春香に釘を刺してください。春香は保身に走るタイプなので、平気で嘘や言い訳を言います。でも確実なのは傷ついて壊れた昇は今も固形物が食べられません。体重も激減してしまいました。今この会話も毒なんです」
かなたは言うだけ言うと春香の母の嗚咽交じりの「ごめんなさい」を無視する形で電話を切った。
トイレの静寂がなんとも憎らしい。
喧噪の中でなら、気が紛れるかもしれない。
実際、そんなことがないのはかなたが一番わかっている。
どこで話しても意味なんてない。
「…本当………サイテーな気分」
かなたは深いため息の後で、下腹部に手を当てて、「ママ、頑張ってるからね。薫、香」と言ってから立ち上がった。
大久保との話はもうなんの変化もなかった。
「何故かはわからないが」と添えてから、一木幸平が間接的に昇を苦しめたくて拡散しているも、メッセージやメッセージが乗っているスクリーンショットを大久保に見せるかなた。
[昇が別れないとしつこいらしいので、優雅と京成学院に行ってこようと思います。フフフ]
[現実を知れば昇も立ち直れませんね。イヒヒ]
このようなモノを回り回って昇に届くように送信し、他にも春香から引き出した優雅を嫌がっているメッセージや、断りきれずに8月15日と8月20日に身体を許してしまった事のメッセージ、アルバイト先で悪く言われているメッセージが乗っているスクリーンショットをかなたは大久保に見せていく。
「彼はコレが楠木昇の目に入って憔悴した所に、自殺未遂までしたという噂を学校に流して、楠木昇の居場所を完全に壊してしまい、楠木昇本人を壊そうとしました。彼の壊すが何を指しているのか、正直わかりませんが、ここまでされて壊れた場合は、口にするのも恐ろしい事だと思っています。山野春香の不貞相手の上田優雅は女性にだらしないだけで、単純に一木幸平に乗せられて、山野春香が自身の彼女の1人にならないのは、楠木昇が山野春香に未練を残していて、別れないと言っていると思い込んで来ていました」
説明に大久保は頭を抑えて「何もかもが悪趣味で愚劣です」と言うと、「それで?桜さんはなんと言いましたか?」と聞く。
「楠木昇はスマートフォンも即日解約していて、山野春香とは8月7日の不貞以来一切の連絡を断っている事、だから別れ話が拗れている事もありえない話で、私と楠木昇が婚約をした旨を伝えました」
「成程、ただそれで害意や悪意が桜さんに向く可能性は考えなかったのですか?」
「先生、私は夫になる人を支えます。彼の夢の手伝いがしたいんです。それなのにこんな些事から逃げていたら山野春香と変わりません」
かなたの話し方は大久保好みで、大久保はつい表情を柔らかくしてしまう。
かなたはもう慣れたモノで初めてを意識しながら簡潔に説明する。
「それにしては話が多少長かったようだが?」
「はい。それは聞いたりした話を統合して、私の推察を話しました。その結果、思い当たる節のある山野春香は崩れ落ちてしまいました」
急に顔を曇らせるかなたを見て、大久保は「それは話せるかな?」と確認をする。
「…少し困ってしまいます」
今までハキハキと答えて居たかなたが言い淀む事に、大久保は首を傾げてしまう。
「彼女の…山野春香の為にも、今は先生の胸の内に留めてもらえますか?」
「勿論です」
「後、山野春香は自己保身の塊のような所があるので、誤魔化したり詐称をしたりする可能性もあります」
「それくらいなのですね?言ってください」
かなたは深々とお辞儀をしてから真っ直ぐに大久保を見て、「楠木昇は誰よりも山野春香を大切にしていました」と言うと、大久保は先程の昇の慟哭を思い返して、「それは今しがたの出来事を見てもわかりますね」と返す。
「はい。それは人としても男女としてもです。山野春香の体調が少しでも悪ければ献身的に尽くし、誰よりも何よりも心配をする。性交渉でも同じです。そんな彼は完璧に避妊をしていました」
話が避妊のことになり、大久保は眉を顰めてかなたの話を慎重に聞く。
「ですが、上田優雅は避妊なんて無視をして、女性を道具のように乱暴に扱います。現に一木幸平経由で上田優雅が三股四股をしている話や、中には既に今現在妊娠をしていて、上田優雅に告げずに産もうとする女性がいる話まで回ってきました。それも楠木昇に不貞相手の人間性を見せつけて困らせるためです」
「桜さん?話が少し遠回りです。言いにくくてもキチンと言ってください」
大久保のこの言葉をかなたは待っていた。
「はい。山野春香とは中学生からの仲です。彼女とは生理用品の貸し借りもした仲です。彼女の生理は大体月末です。その時には微量の香水を使いますが、それはまだない。おそらく彼女は妊娠をしています」
男性教諭相手でもキチンと伝えるかなた。
苦々しい表情で「〜〜っ」と声を漏らす大久保に、「父親は間違いなく上田優雅です」と告げると、「その事も楠木昇には毒なので、知らせる事なく解決してほしいです」と言う。
「勿論だ。またその上田優雅と一木幸平が何かをしてきたら、漏らさず伝えてください」
大久保は机の上に置かれた走り書きのメモに目を落としながら、もう一度小さく唸る。
上田優雅
一木幸平
榎取高校
山野春香
それらに何重にも丸印が付いていて、矢印で相関図が出来ている。
最後に書き足されたのは「妊娠」の二文字だった。
それを見たかなたは「勿論です。私たちこそすみません。プライベートでは私と小岩茂達で楠木昇のフォローしますが、学校の事は先生に助けて貰うしかなくて…」と謝ると、大久保は「何を言うんだい?君達は生徒、私達は教師だ。君や楠木昇のようにキチンとした夢のある生徒を助けてこそだよ。夢に向かえるように応援すると言った言葉に二言はない。安心してください」と言ってくれていた。
かなたと共に大久保は部屋を後にすると、春香が詰問を受けている生徒指導室を目指していく。その手にはあのメモがあった。




