第3話:偽りの平穏
銀座の夜、冷たい風が静かに弘志の頬を撫でていった。いつもは心地よく感じる夜の静けさが、今夜は重く、彼の歩みをためらわせた。昨日のジョンとの密会以来、弘志の中には「平和」という言葉に対する根本的な疑問が刻み込まれていた。目の前に広がる街の光景さえも、ただの幻想であるように見え始めていた。
自分がこれから進むべき道、それがどれほど危険に満ちているかを理解しながらも、彼はその道を選ぶ覚悟を決めていた。だが、この戦いを一人で乗り越えるのは不可能だ。彼には信頼できる仲間が必要だった。
翌朝:
夜が明け、弘志は早朝から動き出した。テーブルには昨夜広げたままの文書が置かれていた。彼は一枚一枚に目を通し、新国際連盟がどれほど強力な支配力を持っているかを再確認した。メディアや経済、政治の領域での影響力——そのすべてが、彼らの思惑に沿って動かされている。
その日の午後、弘志は古びた喫茶店に向かった。そこで待っていたのは、古くからの友人であり、同じジャーナリストである田中健一。彼は真実を追求する信念を持ち、幾度となく危険な取材を共にしてきた仲間だった。
喫茶店の扉を開けると、懐かしい珈琲の香りが弘志を迎えた。視線の先には、新聞を広げた健一が座っていた。彼は弘志の顔を見るなり、何かを察したのか、少し眉をひそめた。
「弘志、顔色が悪いぞ。一体どうしたんだ?」
弘志はためらいながらも席に腰を下ろし、深い息をついた。そして、静かに切り出した。「健一、聞いてほしいことがある。これはただの推測や噂じゃない。俺が手にした真実だ。」
彼は低い声で、新国際連盟が背後で行っている支配の構造、そしてその影響が人々の生活にどれほど深く入り込んでいるかを話し始めた。ジョンから受け取った文書の内容を、慎重に、だが緊張の中で詳細に説明した。
健一の顔が次第に険しくなる。「まさか、本当にそんなことが起きているとは……」
「俺も信じたくない。しかし、これが現実だ。平和を装いながら、裏では人々の自由が奪われている。知らぬ間に、すべてが彼らの計画通りに操られているんだ。」弘志は真剣な眼差しで言葉を続けた。
健一はしばらく沈黙してから、重い口調で言った。「弘志、お前がこの真実を追おうとするなら、命の危険が伴うだろう。連盟に逆らうということは、それほど危険なことなんだ。」
弘志は頷き、視線を真っ直ぐに保った。「それでも、俺は見過ごすわけにはいかない。この平和が偽りのものである以上、真実を公表することが俺の役目だ。」
健一は、しばらく考え込むようにしてから、やがて静かに頷いた。「分かった。お前の覚悟が本物なら、俺も協力しよう。ただし、慎重に進もう。敵がどこに潜んでいるか分からないからな。」
二人はカップを持ち上げ、静かに乾杯を交わした。その短い間に、言葉以上の信頼が交わされた。
その夜、弘志は健一と別れ、新国際連盟の影響下にあると噂される編集者と接触するために指定されたバーに向かった。バーの中は薄暗く、低い音楽が響き、客たちは静かにグラスを傾けていた。
弘志は慎重にカウンターの隅に目を向け、目当ての男がそこにいるのを確認した。彼は表向きは大手新聞社の編集者でありながら、裏では連盟の意向に従い情報操作に関わっていると言われていた人物だ。
弘志は意識的に表情を和らげ、男の隣に腰を下ろした。
「もしよろしければ、少しお話を伺えませんか?」と弘志は穏やかに声をかけた。
男は一瞬、疑うような視線を向けたが、やがて笑顔を浮かべ、軽く頷いた。「どうぞ。お話し相手くらいにはなれると思いますよ。」
弘志はまずは当たり障りのない会話を続け、酒を進めながら徐々に核心へと近づいていった。やがて、男が少し酔い始め、緊張感がほぐれた瞬間を見計らって、弘志は静かに切り出した。
「……『連盟』について、何かご存知でしたら教えていただけませんか?」
その一言で、男の表情が一瞬で凍りついた。酔いが冷めたかのように、彼の目が鋭く光り、弘志をじっと見つめた。
「君は……誰だ?」男の声は低く、冷たいものが滲んでいた。
「ただのジャーナリストです。真実を知りたいだけなんです。」弘志は微笑みを浮かべ、冷静に答えた。
男は視線を落とし、しばらく黙り込んでいた。やがて、ため息をつくように呟いた。「君がどこまで知っているかは分からないが……連盟に関わるのは、命を捨てる覚悟が必要だ。誰もが沈黙を守っているのは、その方が平穏だからだ。」
「平穏……それで本当に幸せなのか?」弘志は、その言葉に苛立ちを感じた。「平和の影に隠れた真実を知らずに、無知のままでいることが、本当に人々のためになるのか?」
男は目を伏せ、少しだけ肩をすくめた。「それは……分からない。だが、連盟は強大だ。彼らは平和を維持するために、情報を制御し、人々を無知のままにしている。それが良いことかどうかは、誰にも判断できない。」
弘志はその言葉を聞きながら、自分が背負うべき責任の重さを改めて感じた。真実を公にすることで、自分が得るものと失うもの、それを天秤にかけるつもりはなかった。自分には真実を伝える使命がある——それを心に強く刻み、男に礼を言い、バーを後にした。
夜の帰路:
静かな夜道を歩きながら、弘志は再び胸の中で湧き上がる覚悟と恐れを噛み締めていた。自分がこの道を選んだことに、もはや後悔はない。だが、暗闇の中に潜む影が、彼の一挙手一投足を見つめているかのような不気味な感覚が拭えなかった。
足音を一つずつ踏みしめるたび、彼の中に生まれる緊張が増していく。視線を感じるたびに振り返るが、そこにはただ静まり返った東京の夜景が広がるばかりだった。しかし、彼の心はすでに知っていた。新国際連盟という影が、じわじわと自分に迫ってきていることを——そして、この先に待つ未知の危険に、自分が向き合わなければならないことを。
その一歩一歩が、弘志を真実に、そして影との対決に近づけていった。