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寮の名は

 バスは揺れる。座席から転げ落ちない程度に抵抗していればそのうち目的地に到着する。十数回、右に踏ん張り左に踏ん張りを繰り返したころ、私が降りる停留所名が、録音のかすれた女性の声で流れた。4月からはこのバスで学校に通うんだなあと考えつつ降車ボタンに指を伸ばしたら、私が押すよりもちょっとだけ早く、「とまります」の表示が乾いたチャイムに合わせて一斉に点灯した。

 窓の外を眺めながらしばらくすると、屋根もなく地面からひょろりと伸びるバス停の看板が目に入ってきた。辺りにはコンビニはおろか自販機もないし、少し先に園芸屋さんが一軒あるだけだ。店先は色とりどりの花に染められていて、何もない風景の中でひと際華やいだ存在感を放っていた。毎日通るならコンビニよりも花を眺める方が気分がいい。今度また新しい部屋に合う鉢植えでも買いに来よう。

 停留所に着くときもやはりバスは急停車した。バスが止まるまで立たないでとアナウンスで釘を刺されるまでもなく、余程の熟練者でなければあらかじめ立ち上がることは無理だと思う。膝の上の荷物を抱えなおして立ち上がった私の横を、年配の女性がスタスタと歩いていく。後を追うように足早に降り口に向かい、用意した小銭を料金箱に入れる。小さなベルトコンベアを流れる硬貨を真剣な眼差しで見つめた運転手さんが、視線を私に移してニッコリとした笑みでどうぞと降車を促してくれた。この小さな笑顔ひとつでも私がこの土地に歓迎されているような気がして、少し晴れやかな気持ちになった。段差の大きいステップを慣れない足取りで降りていき、新しい生活の第一歩をバス停の歩道に踏みしめた。まだ冷たさの残る空気を、この地での最初の一呼吸を、胸いっぱいに吸い込みながら大きく伸びをした。土の香りが混じる風に、スカートが小さくゆれた。

 ここから私の伯父さん夫婦が営む学生用の女子寮を歩いて目指す。先に降りた女性は地元の人かな、迷いのない歩みで別の方向へ遠ざかっていく。初めて通る道は少しくらい迷いながら歩く方が楽しい。と、私は思っているので、お父さんにあえて手書きしてもらった地図で大まかな位置だけ確認して、とりあえず坂の上に向かって歩き始めた。


 伯父さんはなお吉さんといって、私のお父さんの従兄(いとこ)にあたる人で、兄弟のいないお父さんが兄さんと言って慕っている人だ。お父さんによると、伯父ではなく従伯父(いとこおじ)というのが続き柄として正しい言い方だそうだけど、だからと言って「いとこおじさん」と呼びかけることは普通ない。お父さんが兄さんと呼ぶのに倣って私もおじさんと呼ぶことにする。

 慕っていると言っても、二人が職に就いてからは休日が合わないからか、私を含めて会う機会はほとんどなかった。それでも私が日本に残ると打ち明けた時、お父さんが真っ先に頼ったのが伯父さんだった。何しろ当の本人である私に意思確認をするより先に、伯父さんに連絡して私を預かってほしいと頼んだのだから。

 部屋は余っているからいいよと、伯父さんは二つ返事で返してくれた。このときは伯父さんの広いお家に住まわせてもらうのだと思っていたけど、最近になって家は学生寮だと聞かされた。詳しい話は聞いていないけど、思い立って建物を学生寮にしたらしい。まさか私がお世話になるから寮にした訳ではないだろうけど、伯父さん行動力あるなあ。


 寮の場所のマップデータは拒否したが、建物の写真は送ってもらった。写真で見る寮は古めかしく決して豪華ではないが、佇まいに風格がある立派な洋館だ。まだ建物は見えないけど、この存在感の建物を見逃すことはなさそうだ。加えてほとんど枝道のない一本道なので、迷子を楽しむことは期待できそうもない。

 バス停からの道中、辺りはほとんどが畑で、数件の家と小さな公民館があるだけ。道路脇の用水路が、じゃぶじゃぶと音を立てて流れていて、坂が決して緩やかではないことを思い知る。坂の多い町に住んでいたこともあったので、坂道はそんなに苦にならないのだけど、少し多めの荷物が恨めしい。カバンの中には明日の着替えと寝巻と歯ブラシとかの一泊旅行の装備に加え、お気に入りのマグカップと、引っ越し便では送りたくない大事なものを詰めてきた。バス停では空気に冷たさを感じたが、3月の陽射しと坂道とカバンの攻勢は、私のおでこを湿らせるのに十分だった。辺りの風景は急に木立に変わり、木陰のある側の道の端を選んで、右側へ左側へ進路を変えつつ歩いていく。

 左に曲がる大きなカーブを抜けると、その洋館は姿を見せた。真っ黒な木材で枠組みして、その中に真っ白な壁をはめ込んだような外観。重みを感じさせないグレーの瓦屋根。整然と並んで、格子で正方形に区切られたガラスの窓の一つが、昼過ぎの太陽を私に向けて反射させている。門柱には粗い木目の看板があり、でっかく「トキワ寮」と筆書き書かれている。最初に寮の名前を聞いた時も思ったのだけれど・・・なんかマンガ家とか住んでそうだなあ。

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