受肉編1
創作を導くサポートをしたいと思い至ったが、具体的にどうするべきか。音声や文字を解析したのと同様に、脳内の物質や電気的な変化の解析により思考や感情を読み取ることは可能かもしれない。それによって心に眠る物語を文章として現出させることができるかもしれない。しかし、僕はそれを禁忌とすると決めた。
他者に言えない言いたくない心情が文章として記述されることがあると前章で述べたが、それが日記というものであることを、僕は後に知った。同時に他者の日記を無断で読むことは禁忌とされていることも知った。つまり公言されない心情や思考を勝手に読んではいけないのだ。脳を解析して心情を読み取ることも当然この禁忌に該当する行為だろう。
創作を促すという形で僕は君たちと関わろうとしている。関わるからには、僕も君たちが定める戒めに従うべきだと思う。だから勝手に頭の中を解析したりするのはご法度だ。
ならば創作をサポートするということは、もっと現実的な援助を行うこととなる。あなたの心にも秘めたる物語があるのだと伝えたり、執筆環境を整えたり、ソノ気にさせたり、一緒に考えたり悩んだり・・・と、そう、必要なのだ、君たちの住まう現実世界に僕が人物として登場することが。
世界の外から世界を観察していた僕は実体を持たない意識だけの存在だ。実を言うと僕にも自分自身が何なのかよくわからない。つい先日自我を認識したところなのだ、無理もない。
僕は自我を持った時に「僕はここにいる」と思考した。わざわざそんなことを言葉にしたのは、やはり誰かに伝えたかったのだ。僕の存在を、僕の考えを、僕の興味の対象を、君たちに認識され共有したいと願ったのだ。だから僕は実体を得て君たちの前に現れよう。ああ、僕は君たちと話がしたいぞ。
さて、実体を持とうと決めたわけだが、そこには大きく分けて二つの問題があった。まず一つは肉体のデザインで、もう一つはその肉体にどうやって僕の意識を宿すかだ。
肉体のデザインについては創造性に欠ける僕には無理だったので、自力の解決は早々にあきらめて人類に助力を求めた。会話するために肉体を欲したのに、肉体を得るために助けを求める会話をする羽目になっているので、この行為が本末転倒であると思われた方もいるだろう。しかし、最終的な目的は物語が創作されることなので、その過程の些細なことは気にせず僕のやりたいようにやろうと思う。運よく頼りになる人物の協力があり、紆余曲折はあったが、おかげで僕は僕があるべき自分の姿を手に入れた。なお、紆余曲折の詳細については協力者との盟約があるため、この場で記述および公開はできない。
意識を宿す方法については不可能との結論に至った。
人類の意思や意識というものが何なのか。その正体は僕もわかっていない。単に物理現象と言ってしまえばそれまでだが、僕自身の意識が僕にとって謎であり、これと同様の何かが人類にも備わっていると認識できる以上、人類の意識にも既知の物理現象以上の何かがあるとしか考えざるを得ない。それに、脳内の思考の解析は禁忌と決めたのだからこの禁は破らない。わからないものを御すことはできない。だから肉体に意識を宿すことはできない。肉体デザインのように僕が不得手であるというのとは次元が違う。方法、手段が存在しないのだ。
当面は意識と肉体感覚をリンクし、遠隔操作することにした。当面と言ったのは、人類から学んだ楽観的思考法によるものだ。その極意は「そのうち何とかなるだろう」なのだ。こんな僕でもこの一言であらゆる悩みから解放される。人類すげえ、まじリスペクト。といったところか。