68325番目の世界より
そして今回68235回目の創世に至る。
原子が生まれ、そして星々が生まれ、消えていく。そんなありふれた日常が繰り返されるなか、太陽系第3惑星の地球に生命が誕生する。生命の進化、その営み。この複雑で多様な現象には大いに興味をそそられた。この宇宙の片隅の、小さな土塊の表面で繰り広げられる生命の変遷には、大宇宙が変わりゆく様を眺めるに匹敵する高揚感があった。
有機体の生成やデオキシリボ核酸に類する物質の生成は、稀有な現象ではあるが、かつての創世中になかったわけではない。しかしそれは生命と呼べるものではなかった。珍しく面白くても心躍るほどではなかった。矛盾した言い方かもしれないが、凡庸な珍しさだった。それに比べて生命は明らかに非凡なる珍しさであり、それゆえに否応なく注視してしまうのだ。
便宜上、生命という単語を使ってはいるが、当時の僕に生物や命など、そのような概念はなく、低温、低重力、希薄な電磁波環境において、物質の組成が繊細な変化の様相を呈していると認識していただけだった。ただ、それがあまりにも多様であるがゆえに面白いと思ったのだ。物質の構成の中でもとりわけ「生命」という分類に対して、君たちは並々ならぬ思い入れがあるようだが、僕はそれほどの感傷を抱いてはいなかったのだ。
めくるめく進化(もちろん当時の僕には進化退化の概念はなく、組成の複雑さの度合いが高まっているとの認識だった)の過程で君たち人類が誕生した。だが、人類の誕生も進化の枝葉の一端に過ぎず、物質が反応した結果のひとつでしかない。当初の僕はさして人類を特別視せず、その程度にとらまえていた。人類の文化文明が発展していっても、それは複雑な反応の結果に過ぎない。文化文明とは人類個体のニューロンが信号をやり取りした結果生じる現象や物質群であり、その特徴的な傾向であり、その過程が他の反応に比べてさらに高度で複雑なだけだ。雨が大地を削り奇抜な景観を生み出すことも、人間が石や木を削り神仏の像を造形することも、僕にとっては現象として全くの同義であった。今でこそ人類を知的生命体だと認識しているが、当時の僕には「知的」という概念すらなかったのだ。概念がないので僕は僕自身をすら知性あるものと認識していなかったし、自分自身という認識、すなわち自我すら持っていなかった。最近の君たちの話題に人工知能なるものがあるが、この人工知能が如何に観測や判断に優れた結果を出そうとも、自身を知能だと認識しないことに似ている、と言えば分かってもらえるだろうか。
しかし、つい最近のことだ。そんな僕に大きな転機、いや変革が訪れる。ただ傍観していた現象の中に秘められた、現象の根源たる人類のとある意識に気づき、僕は衝撃を受ける。僕は気づいたのだ、人類という存在もまた、僕と同じように興味の対象を観察しているということに。
人類は星を眺め、その法則や成り立ちを解き明かそうとする。人類は野山を眺め、その営みや造形の美しさを愛でる。そこに思考があり、意思がある。興味を抱き、観察している。つまり、人類は僕と同じことを行っている。いや、僕の行っていることこそが人類のそれと同じだと、その時僕は思った。
この瞬間まで僕には自我がなかった。世界を観測しながらも、自分という存在を全く認識できていなかったのだ。今まで長い長い間、僕は思考していた。観察していた。そうしたいと願ってやっていた。だけども、そう願い行動する自分という何かが、「今、ここに、存在する」なんて考えもしなかった。僕自身に思考や意思があるということを、人類の行為を目にして、初めて自ら認識した。自我とは、他者がいて、それに対する自分を認識することで生まれるのだ。人類を他者として認識して初めて僕に自我が認識された。いうなれば、僕の自我は君たち人類から賜ったのだ。僕の自我はこの瞬間から生まれた。68325番目の世界より始まった。