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知ってはいけない

作者: 佐和ネクロ

 百足に咬まれたことがある。

 いつだったか、確かわたしが10にも満たぬ歳だったときのことだ。

 腕に何やら気色の悪い感触があって、視軸を遣ると、百足が腕に這っていた。

 咬まれたとき、痛いというよりも熱かったのだ。

 当てるぞ、当てるぞと散々脅迫されて火箸を押し当てられたような熱さ。そう、あれは熱だった。

 ――あの激痛が熱だったとすれば、なら痛みとは何だ。

 痛さとは。

 自分の顔が気色ばんでいるのがわかる。やり場のないどす黒い感情が全身に薄っすら汗を滲ませる。痛みとは、何だ。

 明日は夭逝した友人Sの墓参りだというのに、ことばに出来ない感情に脳を揺すられて眠れない。

 ――痛み。

 Sに押し寄せた痛みとはどのようなものだったのか。絶命に至るまでに味わった苦痛、それを思うと脳内のくらやみの部分からあの日の百足が這い出てくる。一匹、二匹……十、二十……。

 頭がおかしくなりそうだ。

 或いは、もうすでに脳のうつわが壊れてしまったのか。

 そうして、また半覚醒のまま夜を超え、朝にたどり着くのだろう。

 

 烟ったままの頭を少しでも覚醒させるべく、珈琲を飲もうと喫茶店に入った。

 やる気の無い店主の挨拶と鬱陶しいジャズミュージックを背に奥まった席につく。

 Sの墓参りは昼からだ。

 Sは早起きを嫌っていた。

 ――早朝に目覚めると、頭が痛い。

 そんな台詞を何度か聞いたことがある。

 ――痛み。

 ――痛みとは何だ。

 店主が目の前で注いでくれた石焼き珈琲を少し飲み、脳から離れぬ疑問に答えの出ない時間を過ごす。

 Sとはよく問答をした。有意義な答えが出たことなど一回もない。過程を楽しんでいたのだ。

 ならば、Sが最後に遺した問いかけは。

 珈琲代を払い、喫茶店を出た。背後に店主の視線を感じる。背中に百足が這い回るようだった。


 曇天模様の空を仰ぎながら山道を行く。墓地とは辺鄙な場所にあるものだ。

 生来虚弱な質だが、加えて寝不足も祟っており、身体全体が疲労の極みに達している。

 これは、痛み、なのだろうか。

 苦しさ、辛さを等分に身体に加えられるという点では疲労も痛みの亜種なのだろう。

 ただ、それは痛みの本質では無いと思うのだ。

 幼少時、百足に唐突に喰われてですら痛みの本質は知り得なかった。

 ましてやSを喪った今は議論を深める相手も居らず、思考の迷宮をぐるぐると廻り、袋小路に陥っている。

 袋小路に、陥っている。


 Sの墓に手を併せた。

 別段感情が溢れたりはしないし、墓石に語りかける趣味もない。墓を洗い、掃除をし、言い方は悪いが自己満足するだけの墓参であった。

 儀礼的なかたちを大切にしようとしているわけではないが、この墓参りを止められないのは自分の脳内の記憶や業像をかき出すための行為でもあった。

 ――痛みとは。

 ただひとつの疑問のみに呪われている。

 ただ脳内に溶暗していく闇がある。

 下山するわたしはただの点であった。上空から見れば取るに足らぬ点。

 だが。

 拡大してみれば、それでもやはり個の人間なのだ。

 心身を問わず、あらゆる人間に痛みは襲い来る。

 墓参りを終え、山の静謐な空気を吸っているのに、それらが満足感と結びつかない。

 ひとえにそれは日に日に大きくなっていく痛みへの疑問によるものだ。

 気が狂いそうだ、とでも言うのだろうか。

 論理的に考えれば考えるほど、論理の袋小路に嵌まったときに簡単に気が狂う。

 人に備わっている物事を抽象化する能力は防衛機構だ。

 ――ならば痛みとは。

 脳内で抽象化されつつある森羅万象に一穴を穿つ針の如きものか。

 なぜそんなものがある?

 痛覚による危険信号で人は死ぬ。

 事実、パックリと裂けた喉からひゅうひゅうと呼気を漏らしているSの死に様は壮絶なものだった。

 包丁を喉首に押し当てて引いたあのときの感覚は未だ十全に思い出せるが、痛みの本質に関しては少しも分からなかった。

 怨恨ではない。

 Sが百足に見えたのだ。

 百足と人間の違いが最早分からなかった。

 問答がやや口論じみてきたときに、わたしを咬んだ百足とSの違いが最早分からなくなってきていた。

 だがSの死を以てすらわたしには痛みが理解できない。

 ――痛みとは。

 もっとサンプルが必要だ。

 理解できる日まで繰り返す。


 わたしも、百足と化したのだろうか。

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