第三話 完全無欠のメイド長と美貌の公爵様
気が重い……。
アネッタは無意識に胃のあたりを押さえながら内心で零した。
どうして新米メイドでしかないアネッタが公爵の元へ通わねばならないのか。
本来であれば初日のような偶発的な状況でも起きない限り姿を見る事も叶わないような、隔絶した存在であるはずなのに。
アネッタは、彼女をリオル公爵の執務室に案内するため先を歩いているエマを見た。
男性の執事服に近い、シャツとベストにパンツ姿の彼女。
エマの一挙手一投足は無機質にも思えるほど決まった動きをお手本通りになぞっており、その歩みは滑るようでとても静かだ。
人が人らしく居るための無駄を全てそぎ落としたようなエマは、メイドたちの間でも浮いた人物だった。
公爵の傍に侍る事を許される数少ない使用人の中でも、唯一女性として側付きを許され、使用人筆頭として屋敷の采配を任されている、それがエマという人物だ。
見目麗しい公爵へと嫁ぎたい行儀見習いの令嬢や、女性に従う事に抵抗のあるプライド高い令息たちからは明らかに敬遠され嫌われているのはこの二ヶ月新米メイドとして下級使用人の持ち場をあちこち奔走していたアネッタは知っている。
人生の半分近くをこの公爵家へ捧げているという表情の変わらないこの女傑に、けれどアネッタは懐いた。
それはもう懐きまくっていた。
アネッタとて腐っても貴族令嬢、生まれてこの方労働などした事もなかった彼女がこの二ヶ月間公爵家で汗かきべそかきメイドを続けて来られたのは、間違いなくこの厳しい使用人筆頭のメイド長のおかげだろう。
初日に屋敷の玄関扉をノックもせずに開けて公爵と対面したアネッタを、主人を送り出したエマは長々とお説教した。
あの時は出かける公爵のために内から扉を開いたタイミングと奇跡的に一致してしまったらしいのだが、もし高貴な身分の者の屋敷に無断で入ろうとすればどうなるか、その場で取り押さえられていてもおかしくなかったのだと当たり前の事をしっかりと説教されたのをアネッタはまさにおっしゃる通りで御座いますと平身低頭、甘んじて受け止めた。
あの時のアネッタは失恋だ家出だ職場紹介だ豪邸だと浮足立ちまくっていたのだ。
メイドたちの控室、埃一つ無い絨毯の上で正座させられ説教されたアネッタは、親にもこんなに怒られたことないのにと小さな子どものように意気消沈し鼻水をすすっていた。
初見では、アネッタはエマを美貌の公爵の秘書だと思った。
こちらに来なさいと使用人の控室へ引っ立てられ叱られる最中は頭が真っ白で、もうすぐ成人なのにと自身のやらかしがひたすら恥ずかしくて。
そうしてしばらく、長い説教の間にやっと冷静さの戻ってきた頭に疑問が湧いた。
偉い使用人らしいこの女性はどうして私なんかと一緒に正座しているんだろう。
絨毯の上に正座するアネッタの目の前、表情を変えないまま淡々と正論でアネッタを諭すメイド長は、アネッタと同じく床に正座しさして変わらない目線の高さでこちらを真っ直ぐ見て話しているのだ。
お手本通りの伸びた背と美しい姿勢の分だけ高い所にあるその目を、顔を上げたアネッタはやっと見返した。
良い人だ。
たぶんめちゃくちゃ良い人だ。
反省しながらも、アネッタは心底そう思った。
それからは慣れない仕事に忙殺されたアネッタだが、どこで何をしていてもすぐさまフォローに現れるメイド長エマの仕事の出来ぶりにこれならなるほど公爵にも信頼されるだろうと納得を深くするばかりだ。
メイド長エマは使用人筆頭でもある。
各部門の統括や指示、それに公爵が主に使用する執務室や私室の管理は彼女がそのほとんどを任されているようだった。
公爵が若く独身である以上、女主人が不在の公爵家の屋敷は実質エマが回していた。
そこにあって彼女は新人メイドのフォローも喧嘩の仲裁もするのだからその有能さには舌を巻くばかりだった。
公爵の執務室までの長く広く豪華な廊下を進みながら、アネッタはメイド長エマを尊敬のまなざしで見つめる。
母も姉も背が低く丸々としたフォルムの可愛らしいタイプであったので、アネッタは周囲にいなかった長身でクールな雰囲気のエマに憧れすら抱いていた。
雑多な使用人たちには堅物メイドと言われるエマだが、アネッタから見た彼女は美人というわけではないけれどなんだか都会的で格好いいのだ。
後ろからの視線に何かを感じ取ったのか顔だけで振り返ったメイド長は、懐いた子犬のごときキラッキラのまなざしと数秒見つめ合った後やはり無表情のまま何事も無かったように前方へと向き直した。歩みは止めない。
「エマさん、今日も私なんのお役にも立たないと思いますが良いのでしょうか」
「旦那様のお考えですから」
「はい」
疑問というよりエマに話しかけたくて投げかけた話題はすげなく返される。
公爵に侍る事の出来る数少ない上級使用人たちはみな公爵であるリオルの信奉者だ。
リオル絶対主義。
絶対リオル肯定するマンだ。
知らんけど。
アネッタはたった二ヶ月だけのメイド生活で得たこの感覚はそう間違っていないだろうと思いつつ、この屋敷でリオルだけは敵に回すまいと心に固く誓った。
「着きました。髪を直しなさい」
「はい」
そんなリオルの執務室に着き、前室で身だしなみの最終チェックをする。
直しなさいと言いながらも、エマはアネッタをいつも通り前から後から見てあちこち整えてくれた。
三十手前のエマにとって十五になったばかりのアネッタは下手をすれば娘のようなものだろうか。
憧れの大人の女性に世話を焼かれてドキッとしそうになるアネッタだが、エマはどれだけ近寄ろうと無臭だ。
いい香りがしていたらアネッタの未発達な情操が急成長していた可能性もあるので事なきを得ているのだが。
いよいよとなり、エマの後ろに隠れるようにして公爵であるリオルの執務室へと入る。
もう何度も訪ねているはずだが緊張するのは変わらない。
ろくに室内の確認をする間もおかず頭を下げて挨拶をすると、動きのなかった室内でギッと重く木が軋む音がした。
「ああ」
一言の、重いこと。
続いた「かけなさい」の言葉にアネッタは胃がきゅっとなるのを感じながら視線は下げたまま定位置になってしまったソファの隅っこになるべく浅く座った。
初めの頃は着座を遠慮してエマやリオルと座る座らないで応酬したが、結局は余計な手間をかけさせるだけだと学んだのだ。
隅っこに浅く腰掛けただけだというのにふかっふかのソファはアネッタの体を取り込むかのように沈み、まるで体幹を鍛えているようだと思いながらアネッタは背筋を伸ばした。
その様子にエマは無表情ながらも呆れたような視線を向けたが、すぐリオル向かいに「私はこれで失礼いたします」と告げた。
「君の分も用意させればいい」
「時間外ですので」
「そうか」
味も素っ気もないやり取りだ。
アネッタはエマへと捨て犬のようにクゥンとつぶらな瞳を向け置いていかないでアピールをしたが、完全無欠のメイド長様はアネッタへ一瞥もくれない。
宣言どおりあっさりと退出していき、アネッタは公爵と二人きりになった。
沈黙が重い。
残った職務を続けているのか、執務机に向かうリオルが書類をまくる音だけが響く空間で、話しかけられることも話しかけることも出来ずにいるとコン コン コンと、アネッタの知るノックの音が響いた。
いつも同じ高さ、いつも同じ調子、早くも遅くもない間隔で鳴らされるそれに、アネッタはぴゃっと立ち上がりドアに駆け寄ると勢いのまま扉を引き開ける。
開いた先、前室であるそこにはお茶と菓子の乗ったカートだけがあるのだった。
求めていたエマの姿は影も形もない。