冒険者ドミニク・アンドロシュの救出
状況を整理しよう。
日は既に暮れ、月が高く昇っている。
拠点には大まかに分けて二つのグループが存在している。見張りや哨戒を担当するオークを中心としたAグループとゴブリンだけで構成された掃除や食料を担当するBグループだ。
救出するべき冒険者がいるのは食料を管理するテントの隣。見張りの頻度が多いことを除けば、檻に入れられた冒険者は基本的に放置されている。
目下の脅威である魔神は日暮れ過ぎに洞窟に戻って姿を見せていない。しかも、檻の前にいるのはBグループだけだ。
事を起こすなら今。
「炎は一滴の水によって消え去る――〈アクア・ドロップ〉」
水属性魔術のなかでも初級を使い、檻の近くにあった松明を消す。
「グギャア……?」
明かりに頼っていたゴブリンは視界を闇に覆われ、不安そうに鳴き声を漏らす。
魔神の指揮下にあるとはいえ、基本は人に近い構造をした魔物。夜目になれた私と明かりの下にいたゴブリンでは、どちらが行動を起こせるかは明確だった。
私は音を立てないように剣を抜き、深く息を吸う。素早くゴブリンの脇をすり抜け、喉に剣を突き立てて仕留める。返す手でもう一体のゴブリンの後頭部を掴んで地面に沈める。ゴッと鈍い音が響いたが、遠くにいるオークの嘶きに掻き消された。
他のゴブリンが異変に気づく前に一匹ずつ始末していく。十体ほど積み上げたところで、ようやく檻がフリーとなった。
暴れていた冒険者は静かにこちらを見ている。
「あんた冒険者か。助かった、俺をこの檻から出してくれ。鍵はそこのゴブリンプリーストが――」
柵を掴んで強引に引っ張ると、檻はいとも容易くその役目を放棄した。作りが甘いので壊すのは簡単だった。
冒険者を拘束していた縄を剣で切り、解放する。手足に怪我がないことにひとまず安堵する。
「あんた可愛い顔して意外と豪胆なんだな。姫を救出する英雄みたいで思わず惚れたぜ。仲間はどこかに隠れているのか?」
「いえ、一人です」
「うっそだろ、おい」
解放された冒険者は、軽口を叩きながら擦れて赤くなった手首を摩っていた。
この状況を前にふざけられる精神的タフネスさは私も見習うべきかもしれない。
「早くここを離れますよ。追加の見回りが来るかもしれないので」
「それもそうだな。俺も檻に逆戻りは遠慮したい」
私の言葉に冒険者は頷き、足音を忍ばせて後をついてきた。
暗い森の中、魔物たちは視界確保のために松明を手に巡回している。なので彼らの位置を把握するのは簡単だった。
だいたい百メートルほど離れたところで振り返る。
「ここなら魔物はいません。少し顔を診ますよ、怪我を治療します」
月の光を使って冒険者の顔の傷を軽く診る。
栄養状態は悪いが、最低限の食事を与えられていた様子で衰弱はしていない。顔の腫れは直近で暴行を受けたものらしく、更に腫れて視界を圧迫する可能性がありそうだ。彼を連れて逃走する必要がある以上は視界を確保するべきだと判断し、回復魔術を使うことにした。
「この者に水の癒しを施さん――〈アクア・ヒール〉」
適性の問題上、使える魔術に限りはあるが魔力の多い私ならば問題ない。
淡い水色の光が彼の顔を包むと、腫れがどんどんと引いていった。
貴族に喜ばれる茶髪と緑色の目。その顔を見て、私は思わず目を丸くする。
「ちょっと待って。あなた、もしかしてアンドロシュ伯爵家の人間『ドミニク・アンドロシュ』さん……?」
冒険者になる前、故郷の村で王都に関する情報を集めていたときに名門貴族アンドロシュの写真が新聞に載っていた。なにかの役に立つだろうかと一族の特徴を覚えていたので、すぐに彼がアンドロシュ家から放逐されたと噂の『ドミニク・アンドロシュ』だと気が付いた。
「元、な。今の俺はただのドミニクだ。もう家とは何の関係もない。ところで武器はあるか?」
「あ、はい。短剣と小型の盾ぐらいなら」
鞄から念のためにと持ってきた短剣と盾を取り出す。これは長剣が折れてしまった時や、遭遇した冒険者に渡す為に携帯しているものだ。威力は心もとないが、護身用としてならば使える。
「用意がいいな。村長の依頼か?」
「ええ。冒険者が行方不明になったと聞きまして。これから村に戻り、村長を説得して避難の準備を……」
私の言葉をドミニクは片手を挙げて静止した。
その瞬間、森の奥からけたたましい笑い声が響く。
――けひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!
おぞましい魔神の笑い声は森を震わせ、眠っていた鳥を恐怖でたたき起こし、草木を慄かせた。
禍々しい魔力が森を徐々に覆い始めている。外界と隔離する結界魔法の一つだ。王宮にいる魔術師でもない限り、あの魔法を無効化することはできない。
最悪なことに、森の奥から魔物たちの咆哮が響き始めた。追っ手を放ったらしい。行動が恐ろしく早い。
「どうやら時間はないみたいだな。ここは俺が時間を稼ぐ。あんたは村に戻れ」
ドミニクは囮になるつもりだ、と直感的に悟った。私を助けるために二百を超える魔物の追跡を引き受けるつもりだとも。
出会ったばかりの相手に対して、その決断は一人の人間として偉大かもしれない。
でも、私は人間である前に冒険者だ。
「ドミニクさん、それはできません。村に戻るのはあなたです。ランクの低い私の言葉では決して動きません」
明日にでも襲撃を仕掛けるという発言を踏まえると、事態はかなり切迫している。村長が依頼した経緯を含めて考えると、明確な証拠と説得がない限りは救援を手配しないだろう。ましてや、低ランクの私の目撃証言だけでは動かない。だが、一週間前に行方不明になった冒険者の一言があれば一気に信ぴょう性は増すはずだ。
魔神の性格を踏まえると、目の前に気になるおもちゃをぶら下げたら食いつく可能性が高い。私の存在を知れば、襲撃を後回しにして捜索に手を回すはずだ。
「くそ、あのボケナスじじい。この期に及んでまだ財布を締めているのか。いいか、俺はあんたよりランクが上の先輩だ。俺が行けと言ったんだ。あんたは黙って命令に従え」
「村長を説得できるのはあなただけです。そして、私は魔物の見張りのパターンは大まかに覚えているので、攪乱と時間稼ぎにおいて怪我を負っていたあなたより優れています」
ブーツを脱いで鞄から予備の革のブーツを取り出して素早く装着した。魔道具のブーツをドミニクに渡す。
「これは脚力を強化する魔道具です。魔力は既に補充しておいたので、村までは持ちます。さあ、結界に行く手をふさがれる前に行ってください」
「だが、助けてもらった恩を仇で返すわけには!」
なおも食い下がろうとするドミニクに、私は記憶を頼りに思い出した言葉を告げる。
「一時の情だけで決断を下すな。力を持つ者として常に冷静に状況を見てから考えろ」
ドミニクは盛大に顔をしかめた。
私が発した一句は、アンドロシュ家に伝わる教訓だ。新聞のインタビューで、貴族の当主としての心構えを聞かれた時の回答だ。妙に印象に残ったので記憶に残っていた。
「ドミニクさん、どうか冒険者としての決断を」
ドミニクの鋭い視線を真正面から見返す。彼の逡巡は一瞬だった。
「くそ、親父と全く同じセリフを……ああ、わかったよ。その代わり、あんたも死ぬんじゃない。この窮地を切り抜けたら、人生の先輩としてみっちりお説教してやる」
「それは怖いですね。この依頼を達成したら逃げることも考えておきましょう」
ドミニクの背中を押す。彼は苦い顔をしながら走り出した。
結界に空が覆われていくなか、私は彼の足跡に土をかけて消す。彼の足音が聞こえなくなってから、私はようやく鼻で空気を吸い込んだ。一週間ほど風呂に入っていない彼の体臭はすさまじかった。あれではすぐにオークやゴブリンに匂いを嗅ぎつけられて襲われてしまうだろう。
「ブーツ込みで村にたどり着くのは一時間ほど。村長の説得に三十分と仮定して、王都に早馬を出して三時間。だいたい一時間ほどで討伐隊が編成されると見積もって……はは、だいたい半日ほどか」
剣を鞘から抜いて茂みに隠れる。
結界に遮断されると同時に、周辺に魔物の気配が満ちていく。退路は断たれた。
相手は魔神の率いる魔物の軍勢、ぶつかり合えば負けるのは数が少ない方と相場が決まっている。だから、ぶつかり合わない。必要なのは勝利じゃなくて時間だ。
「いっちょ名誉を捨てる覚悟を決めますか」
松明の明かりが見えると同時に地面を蹴った。