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隠れ里  作者: 葦原観月
1/1

島神の謂れ

 (六)


「えっ。ほんとか、兄ちゃん」

「うん……。少しは効くと思うよ。おいの部屋の押入れの中、下の段の右端の包み。そん中に、入っとる」

柏の葉に包んである。そのまま痛むところに貼って、布で縛ればいい。最初は少し熱くなるが、じきに楽になる。医者が来るまでの我慢は、できるはずだと、笑った平佐田に、 智次が嬉しそうに立ち上がる。

食いかけの飯を放り出し、後を追った時頼に、平佐田の頬が緩む。二人とも母ちゃんが、心配なのだ。


「すまんね。せんせには、えらい迷惑ばかりで。爺と息子が戻ったら、埋め合わせをさせてもらう。ほんに……せんせに来てもろて、助かった」

 お代わりの飯を手渡しながら、おばばさんが、にこり、と笑う。平佐田は、ちょっと満足だ。


(おいも、役に立つこともある)


 智次と時頼の話によれば、夜中に目を覚ました智次は、父親と母親の姿が部屋にないことに不安を感じ、廊下に出て、真っ白な闇に怖くなった。そこで、

「兄ちゃんのとこに行ったんじゃ。爺ちゃんと婆ちゃんの寝てる部屋は、離れじゃ。真っ白な庭を、わし一人で行くのは、ちょっと……間違うて鶏を踏んでもいかんしの」

(鶏は鶏舎の中、夜中に庭を散歩する鶏はいないよ……)

胸の内で突っ込んだ平佐田だが、笑いは堪えた。男、智次の建前を崩してはいかん。


「わしはの、一人で出て行った智次が気になって……一人で厠に行って、落ちはせんかと」

夜中に弟が厠に落ちれば大騒ぎ。爺、父のおらぬ中、家の中は、長男の自分が守らねばならんと、時頼は、父親を真似て、腕を組んで頷いた。

 ところが智次は、さっさと平佐田の部屋に向かい、「これはまた、なんぞ企んでおるな」と、こっそりと部屋に忍び込んだ。

 そこで、時頼は、衝立の後ろにあった掻巻きに潜り込み、様子を窺うつもりが、知らぬ間に寝てしまった。母ちゃんの声に目が覚めて、急に尿意を催した、と。

どうせなら、布団に入ってくればよかったのにと、笑う平佐田に、薄っぺらの小さな布団では、三人は窮屈じゃろと、時頼はぶすり、と言って、慌てて口を押えた。


 母親に引きずられて部屋に戻った智次はとにかく、「兄ちゃんは何も知らん」と、言い続け、「全部、わしが勝手にしたことじゃ」と、母親に訴えた。

「怪我をさせてしもうたかもしれん」と、言った智次に、不安になった母親が、大きな体を慌てて捻り、ぐきっ、と嫌な音を立てて、倒れこんだ。

 ちょうど厠から戻った時頼と二人で、うんうん唸る母親に付き添い、冷やしたり、温めたり、さすったり……ともかく大騒ぎだったらしい。

 そのうち母親が、うとうとし始め、二人で顔を見合わせて、大きく息を吐いた後のことは、何も覚えていないと言う。


「すっかり兄ちゃんのこと、忘れとった」と、智次が申し訳なさそうに手を合わせ、平佐田は、込み上げる笑いを堪える。母親に勝てるはずはない。

起きてきたおばばさんに事情を話し、後を任せた二人はとりあえず、平佐田の様子を見に来て、勘違いとなったわけだ。

(随分と忙しかったんだなぁ)子供たち二人の奮闘ぶりに感心する。

 白い闇が怖くなって、平佐田の元へ来たと、智次は言うが、島が大好きな智次にとって、白い闇は幼馴染のように、慣れ親しんだものだ。智次はおそらく、両親がいないのを好機と、夕刻の無礼を詫びようと、平佐田のもとへ向ったに違いない。智次はとても優しい子供だ。

 そして時頼はそんな弟を心配して、こっそりと後を付けたに違いない。

 弟の行動に口は出さない。だが、影から見守ってやる行動は、男らしい思いやりに溢れている。

(島の〝小さなおいどん〟は、侮れんの。おいも、しっかりせにゃあならん)


ともかく、おかみの誤解も解けたようだし、子供たちも元通りに戻ったようだ。

 平佐田は胸を撫でおろし、常になく三杯目のお代わりをおばばさんに頼んで、はた、と思い当たったのが、平佐田が常備している軟膏だ。

 薬園師見習い平佐田玄海――かの薩摩男秘伝の、薬丸自顕流にて見事に〝船酔い〟に打ち負かされた未熟者ではあるが、唯一つ身に着けた〝無心〟の技は誰にも引けを取らぬと、自負している。が、「平佐田流無心術」には少々の難があり、必需品がある。

 なにせ、ひ弱者であるがために、体が弱い。〝草取り〟は、かなり腰に響く。平佐田が〝無の境地〟に至ったときには、既に立ち上がる元気すら、失われている。


(無心となるためには――代償が必要なのだ)

 などと呑気に言っている場合でもない平佐田は、己の腰痛を何とか処置するために、学んだ薬草学を試行錯誤し、平佐田は見事に、腰痛に良く効く軟膏の調合に成功した。

 じわじわと患部の痛みを鎮める効果は、寝違いで固まった首にも使用できる。お内儀の足は、平佐田の首よりずっと丈夫そうだ。効かなくても難はあるまい、と。

医者が来るまでの間、少しでも痛みが引けばいい。お内儀が足を捻った原因は平佐田にある。

(おいも、できることをせにゃあいかん。腰が弱くて、良かった)

 良くわからないことに感謝して、平佐田は三杯目の飯を掻き込み、「御馳走様」を言って、部屋に戻った。

 白は相変わらず濃いままで、(今日の散策は無理かな)と、持ってきた薬草の図鑑を広げて、ぼんやりと眺めた。


        (七)


「せんせっ! ほんに、すまんこつした。この通い、許してくいやんせ」


 いきなり飛び込んできた大声に平佐田は、びくっ、と身を震わせた。

 目に映った大きな姿に、「今度は、熊かっ!」と、咄嗟に逃げようとして、足元に転がった図鑑に蹴躓いた。大きく体が傾ぐ。

ばたばたと手を動かし、身を立て直そうとする平佐田の首根っこを、大きな手が、ぐぃ、と掴んだ。


「せんせ、なにしちょる?」の声に、我を取り戻す。お内儀だ。熊じゃない。

「いや……あの、おいはまた、叱られるんじゃ、思って……」

 他愛ないことを言う。せっかくお内儀が来てくれたというのに、これでは、お内儀の気持ちが台無しだ。

 まぁ、それでも、「いや、熊かと思って」と口走らなかっただけ、ましかとも思う。我ながら、失礼な話だ。


「せんせ。わし、謝りに来たんじゃ。ほんに、すまんこつをした。許してくいやんせ」

 平佐田の反省をよそに、お内儀は熊のような大きな体を、がば、と伏した。

「とんでもない! お内儀っ、おやめくださいっ、そ、そのような……お、お、おいは、お内儀に、そのようなこつ、望んじゃあおらんっ。ど、どうか、ここは一つ、収めていただきたい……」

 知らぬ者が聞けば、妖しげにも聞こえそうな台詞を、平佐田は口走る。

 男と見紛うような逞しい女子と、女子よりもへなちょこな男……笑い話にもなりそうもない。

 ともあれ。お内儀とは、すぐにでも和解すべきだ。〝密命〟の先は長い。まだまだ、ここで世話にならねばならぬ。

「まずは、女子とは上手くやれ」とは、沢蟹が平佐田に「うっぷ」と、げっぷのついでに吐き出した言葉だ。


「わかってくれたか。ならばよか」

 さっさと身を起こし、でかい顔が、にかっ、と笑う。女子の気持ちは、ちいともわからん。それでも笑顔は、智次に似て屈託がない。

「昨夜は、何かと忙しうて。子供たちを寝かしてから、お勝手で片付けをしておったら、隣の定坊が、やってきたんじゃ」

 太い眉をくっつけるように寄せて、お内儀は顔を顰めた。定坊は隣の三男で、時頼と同い年だ。

「定坊が『うちの母ちゃんの代わりに、寄合の手伝いに行ってもらえんか。母ちゃん、腹を下しよるんじゃ。今、兄貴が竹爺を呼びにいっとる』と、青い顔で白い闇を背に立っている姿を見て、可哀想に思ったんじゃ」

 隣家の女手は、お内儀だけだ。婆は昨年、亡くなり、定坊の下の妹はまだ、五つだ。とても寄合の手伝いなどできはしない。

「困っとる時は、お互い様じゃ。範ちゃんは、わしの従姉妹じゃしの」

お内儀は急に出かける羽目となった。隣家のお内儀、範ちゃんとは、よく表で話し込んでいる。従姉妹だったとは初耳だ。


「子供らは寝たし、婆ちゃんもおるからな。ちいとの間じゃ、思うて」

 急いで出かけて、一刻ほどで戻ってみれば、息子二人がいない。何かあったのではと離れを覗けば、婆は静かな寝息を立てていて、起こして事情を聴くのも躊躇われた。

 そこでおかみは、急いで平佐田のところへ来て、智次を見つけたそうだ。

「せんせを疑うたわけじゃなか。子供らは、せんせを慕っておる。じゃから、何かあったのであれば、せんせのとこに逃げ込んでおると……そう思うた。じゃが、来てみれば、せんせも智次も……なんともまぁ呑気に寝ておるじゃなかか。それでつい、かっとなって……」

 お内儀は、しゅんと下を向いた。

(呑気に? いやいや、違うよ。おいは、額の痛さに蹲っていただけじゃ)

 言い返したい気もする。だが、ごっつくでかい顔が、いかにもすまなそうに縮こまっている姿には、平佐田も言葉を飲み込んだ。

(なんか……なぁ。女童みたいじゃ。結構、可愛いとこもあるのかもしれん。んんでも、おいは絶対に惚れはせんが)

 平佐田は、ここでもまた、失礼なことを思う。 


「いゃあ。和解できて良かった」かかかか……

豪快な笑い声と共に、ばしっ、と背を叩かれ、思わずつんのめった平佐田は、(やはり、女子は、よくわからん)と思い直した。

 すっと立ち上がったお内儀に、「あぁ、そうだ」と思い出し、

「足は? もうよかですか?」と、平佐田は訊ねる。

「あぁ。もういいよ。せんせのおかげじゃ。竹爺を呼ぶまでんん」

 平佐田は、はっとする。


「もう、いい?」

「はぁ。もういい」

「もういいかい?」

「はぁ。もういい……よ? せんせ? 耳ぃ遠いか?」


(そうか。智次坊は、おいのふざけた声に腹を立てたのか)

 あの時は知らなかったが、重定が神隠しに遭って、智次は真剣に心配していた。だから、呑気にふざけた平佐田に、腹が立ったのか。それとも智次は、隠れん坊が嫌いなのだろう か。何か、嫌な思い出でも……

「お内儀、智次坊は……」隠れん坊が嫌いですか? と、訊ねようとしたお内儀の姿は既にない。

 和解が済んで、早々に行ってしまったらしい。きっと忙しいのだろう。神隠しはまだ、決着がついていないのだ。


 所在なく再び机に向かうと、

神のいる島――

平佐田自身の書いた文字が、妙に真実味を持って迫ってくる。

(神様がいるから、神隠しがあるんだ)

 ぼんやりと頭に浮かぶ考えを、平佐田は笑う気にはならない。

 かつては、神隠しはあるのかもしれないが、確かだとは言えない。行方不明のほとんどが、人為的なものや、康太のように事故なのだと、あの、搖坊ですら思っていた。それが――

 何となく、この島では、本当に神隠しがあるような気になるのは、やはり、船から見た島の姿の仕業だろうか。

 自身の姿を隠す、白い靄。平佐田にはそれが、神隠しと重なって見えてしまう。自身の姿を隠すように、一人の子供を白に包み込んで隠してしまう。

 神様ならば、できそうな所業だ。


(隠された子は、どこへ行く? 決まってるさ。神様の住む郷だ)

 重定坊は、ずっとずっと、神様と遊んで暮らしましたとさ。めでたしめでたし、だ。

(不謹慎だぞ)自身を叱りつけながら、それでも平佐田は、そんな考えがどうしても拭いきれない。

 ふわり、と硫黄の臭いがして目を転じれば、廊下に面した障子が開いたままだ。おかみが閉め忘れたらしい隙間から、今なお白い世界が見える。柿の木はまだ、見えそうにない。


「あの……硫黄がこんなに濃くて、平気なんでしょうか?」

 心配性の平佐田は、先ほど、おばばさんに、こっそりと訊ねてみた。

 平佐田とて、硫黄も度が過ぎれば、害となる事実は知っている。だが、さすがに子供である時頼には、そんな質問はできなかった。

 仮にも先生の平佐田が、島人が長年ずっと経験している風土に、びびっているようでは、子供たちに示しがつかない。

「はぁ、余所ん人には、驚きじゃろうね。けど、これは、硫黄だけじゃなか。火山灰が混じとっとる。これだけの白が全部、硫黄だけじゃったら、わしら、ここな住めん。灰は灰でまた、難儀なんじゃが……まぁ、わしら、昔から島におります、大丈夫じゃと……言う他、言うごとがん」

 確かに、その通りだ。


 時頼の話によれば、島では時折あるという今の状況が、人に大きな害を与えるのであらば、誰もこの辺りに住んだりはしないだろう。

「まぁ、そいが……島神様のお恵みじゃと、わしら、思うとります。わしらは神様とおります。よかもわういかも……人が思うこつじゃ。人がわういか思うこつも、ほんに、わういかいけんか、わからん」

 それもまた、その通り。神様の視点と、人の視点では、比べること自体に無理がある。それでも。

 大事な子供を神様の都合で連れ去られては、残された者としては、黙ってはいられない。それが、人情というものだろう。

(神様に、人情はないよな)


 だったら何故に神様は「神隠し」をするのだろう。女子の気持すらわからない平佐田に、神様の気持は、もっとわからない。

 目に映る白い世界に誘われるように、平佐田はふらふらと、開いた障子に近づき、

「もういいか?」「まぁだだよ」

 白の向こうから聞こえる、甲高い子供の声に足を止めた。


(こんな視界の悪い中、子供が外で「隠れん坊」を?)


 おそるおそる障子から顔を出した平佐田は、ぱたぱたと目の前を手で煽って、じっと目を凝らす。

 不意に小さな手が伸びてきて、「見ぃ~つけた」

 そのまま白い闇に引きずり込まれそうな、そんな子供じみた恐怖が、平佐田の背筋を震わせた。


「よか加減にせんか。はようでんか、わし、もぅ……漏れてしまうわ」

「へへへ、お待たせ。お先にね、兄ちゃん」


 聞こえる声は、馴染みの声だ。平佐田は体中の空気が抜けるほどに、息を吐いた。

 平佐田の間借りしている部屋からは、鶏舎の手前にある、厠の戸が見える。

ばたん! 勢いよく厠の戸が閉まり、ちょこちょこと縁側に向かっている智次の姿が、白の間から、ちらちらと見え隠れする。隠れては消え、消えては現れる。

 平佐田は不意に抑えきれない気持ちになって、大声で叫んだ。


「智次坊!」


 ぱっと振り向いた智次の姿が、白を背景に、くっきりと浮かび上がる。

 にこっ、と屈託なく笑った智次は、すぐにまた、白の中に溶け込んだ。

(まさか……智次坊は、神隠しに遭ったんじゃろか。屋敷の中で? そんな、まさか!)

 がたん。押しのけるように障子を開けた平佐田が、厠に出る縁に走り出そうと足を踏み出すと、パタパタと軽い足音が近づいて来た。

「何? 兄ちゃん、わしに、なんぞ用か?」 

 いきなり白から飛び出した智次に、目を見張る。平佐田は無意識に智次の肩を掴む。勢いに智次は、ふらり、とよろけた。

「にい……ちゃん?」

 不安げな智次の声に、平佐田は智次を抱き寄せた。

「おいは……智次坊が、神隠しに遭うたんかと思うて……」

 びくり、と腕に抱いた智次の体が震えた。

「兄ちゃん、誰に聞いたんじゃ?」

 智次の後ろの、白い中から現れた色の黒い足が、小さく震えながら、怯えたように訊ねた。


       (八)


 かのような事態におよび、某は島の不思議を書き記す意向で、まずは遭遇いたした「神隠し」について、実際に某が見聞きした事柄をここに述べ――


 平佐田は、字が上手い。


〝仲良し〟だった源爺が昔、城下で子供たちに手習いを教えていたと聞き、「おいにも教えてくれ」と、申し出たのが始まりだった。

 別に、深い意味はない。ただ、同い年の友人が少なかった搖坊が、いい加減、爺の昔話を聞き飽き、何かすることはないかと、思い立っただけだ。


 搖坊の仲良しの「源爺」は、野良仕事をする以外は、ほとんどをぶらぶらと寝て過ごす暮らしを送っていて、とにかく暇を持て余していた。よって搖坊は、源爺の物心つくころから、若い日の思い出、甘くほろ苦い恋の話や、いかに若いころは有能な男であったか、などなど、様々な話を聞かされた。

 が、悲しいかな、搖坊は成長した今、ほとんど「源爺の武勇伝」を覚えていない。ただ、手習いには才があったようで、源爺が八十八で亡くなってからも一人、暇があれば字を書いていた。だが、残念なことに……

 文字を書くには才はあったが、文章を考えるのは、さっぱりだ。


「つまりは手に、おつむがついていかん、いうこっちゃな」


 悔しいが、沢坊の意見は当を得ていると思う。

 今も、己の文才のなさに頭を抱え、べたり、と机に突っ伏した。墨の臭いが頭の中を黒く塗り潰す。

「何しとる? 兄ちゃん。寝るなら、布団で寝ろ。そげんとこいで寝たら、風邪ひくぞ」

 背後から智次が声を掛ける。「うんうん」と、ついでのように時頼が相槌を打つ。

「おいおい。そうそう寝てばかりはおらんよ。おいも、これで結構、忙しいんじゃ」

 言いながら振り返れば、狭い部屋中に網が広がっている。


(どこに布団を敷くんじゃ。おいは魚かっ)と、突っ込みたくなる。

 二人の子供は本日、この白のおかげで、外には出られない。視界が悪いために、畑もできないし、漁師たちも海には出られない。

 しんと静まり返った辺りは、人の気配も感じられず、島中の人たちが、冬眠でもしているのではなかろうか、と思われるほどに静かだ。

 それでもただ、ぼんやりと遊んでいられるほど島人の生活は優雅ではない。家の中でできる仕事――子供たちは母ちゃんから、次から次に仕事を仰せつかっている。母ちゃんとおばばさんはお勝手で、保存食の製作に忙しい。


「こらっ! おまんら、なにを怠けとる! 仕事じゃ! さっさと来んか」


 白の中から現れた黒い足を、再び白の中に引きずった声は母ちゃんで、二人はそのまま「おかみ隠し」に遭った。

 平佐田としては、ちょっとがっかりだった。せっかく「神隠し」の話が聞けると思ったからだ。

 それでも、仕事ならば、邪魔はできない。所在なく一人で部屋に戻り、あれこれと考えを巡らせていると、二人は、ずるずると何かを引きずって、部屋に入ってきた。

 磯の臭いが、硫黄の臭いを掻き消した。


「兄ちゃん。わしら、ここで仕事してもよか?」

 どさりと重そうな網を部屋の真ん中に置き、既に、どかりと座り込んで、網目を手繰っている、時頼を見れば、嫌も応もない。

「いいよ」智次に期待通りの返事をしてやれば、黙々と網の繕いを始めた。

 漁師の網は、命の綱だ。二人は、それを良く知っている。真剣な顔で、網の破れ目を補修していく。

「これが済んだら、道具の修繕じゃ。桶も壊れてしもうたし、柄杓の底が緩んどる。その次は、藁漉きをせにゃあならん。蓑と草鞋も、編まないかんし……」忙しそうだ。

「手伝おうか」平佐田は言いかけて、やめた。大切な漁師の網を、余所もんが余計なことをしていいものかどうか、迷ったからだ。

 至って手先の不器用な平佐田が、もたもたと二人を手伝ったところで、仕事が捗るかは怪しいものだ。とりあえずは、これが終わって、次の桶の修繕から手伝うことにしようと、平佐田は引き下がった。

 手慣れた日用品の修繕くらいは、平佐田でもできる。搖坊だって、小さい頃から、家の仕事を手伝っているのだ。

 それでも暇そうに二人の作業を眺めているには気が引けて、平佐田もまた、仕事をしようと思い立った。それが〝報告書の作成〟だ。

 特に書くことはない。だが、道場が始まる前、何もせず、のんびりと過ごしていたと思われるのは、不本意だ。


 平佐田だってそれなりに、島の情報を集めようと、努力はしている。ただ、それが上手く集まらないだけの話だ。

 薬草の観察と銘打って、あちこちを歩き回って得た情報は、ある。ただ、それが「島に関する」ものではなく、「島人に関する」ものばかりなだけだ。

 島人は結構な噂好きだ。おかげで平佐田は、会ってもいない島人の事情まで良く知っている。

 飲みたくもない酒を飲まされる「歓迎会」でも、平佐田は積極的に、島の話を聞き出した……気がする。

 ただ、本来は飲めない酒のおかげで、翌日には綺麗さっぱり忘れてしまっているだけだ。


(いいんだ。物事は、始めから上手くいくとは限らない。まずは、そう……起こったことから。よ~し)


 拙い文章力を駆使し、とりあえず島に着いた後の事柄を、綴ってみた。

 綴っている本人は、段々と気分が乗ってきて、(おう。おいも、なかなか)などと、大きな勘違いをしている。

 おそらくは、薩摩の大殿に届くまでもなく、本土に到着した時点で、破り捨てられる程度の内容だ。まるで、平佐田の下らない日記のようなもの。

 それでも、つらつらと綴っているうち、今のところ平佐田にとって、一番の大きな出来事――「神隠し」の段となった。

 さて、そうなってみると、急に筆が止まった。何せ、未だに何の情報も得ていないし、進展も経過もわかってはいない。果たしてこの先、どうなってしまうのかも。

 ただ、妙に気にかかる白い靄と、島全体の雰囲気というか、なんというか……そこだけは綴ってみようと奮闘するのだが、何度となく書いても、さっぱり上手く書けない。つまりは、やはり……文才が皆無というわけだ。


 日常に起こった事柄を綴るだけなら、誰でもできる。平佐田が、すらすらと気分よく書いていたのはそんな部分で、おそらくは誰も、そんなものは見たくない。

 ようやくそこに気が付いた平佐田は、「やめた」と、筆を放り投げ、くるり、と後ろを振り返った。

 振り向いた先に、子供たちの姿はなかった。

「ん?」

腰も上げずに、四つん這いになって、平佐田は廊下へと進む。「無心」でなくとも、腰痛はやってくる。机に向かって頭を使っているうちに、平佐田の腰は、「無心状態」となっていたようだ。


(むむむむ。恐るべし、無心……)


 くだらないことを思いながら、知らぬ間に、随分と時が経ったのだと、気がついた。

 お天道様が不在で、しかも、外に出られぬ状況では、今が何時なのか、一向にわからない。廊下に出て、見る景色は、相変わらずに白い。ただ、少しばかり暗くなった感じはある、そろそろ日暮れ時か。


「う~ん」伸びをして、ぐきっ、腰が悲鳴を上げ、そろそろと平佐田は部屋に戻って、押入れに頭を突っ込んだ。もそもそと荷を漁る。

(無心になっておらんのに、これのお世話になるとは、情けない。温泉にでも入ればきっと、軟膏になど頼らずとも、ぐっと楽になるだろうになぁ)

 神様の意地悪に口を尖らせ、何とか腰に軟膏を貼り、べたり、と畳に伏したのは、こうすると腰が伸びて気持ちがいいからだ。


(うぅぅぅ……)


伸びた腰にじんわりと軟膏が染み入る感じがする。まるで老爺のようだと思いながらも、これだけは腰痛になった者にしかわからない。温泉に入ると、老若男女問わず、「はぁー」と息を漏らすのと同じだ。

「なんじゃ。兄ちゃん、また、腹ぁ減らしとんのか」

 平佐田が開け放したままの障子の陰から、智次の声が覗く。平佐田が伏したまま、ひらひらと手を振って見せると、「起きられんほどか。そら、大変じゃ」と、ぱたぱたと走り寄ってきた。

「飯じゃ。母ちゃんが、呼んで来い、言うたんじゃが。立てるか? なんなら母ちゃん、呼んでこようか?」

智次の言葉に平佐田は、ぱっ、と飛び起きた。が、そこで「うぅぅぅ」と、再び顔を顰める。

 ほんのちょっとふざけただけで、あのでっかい石畳のような背に負ぶわれるのはごめんと、「腹じゃないよ、こっちこっち」

 痛む腰を指差せば、「あぁ、なんじゃ」と智次は笑う。

「腰いたか。うん、ゆうとあうこっだ。父ちゃんも爺ちゃんも、しょっちゅうじゃ、温泉に入ればすぐようなる。今は行けんが、島神様のお怒りが鎮まれば……」

 お怒り? 今、島神様は怒ってるの? 智次の次の言葉を待てば、

「いや、その……硫黄が収まれば、外に出られる」

 智次は、もぞもぞと口ごもって誤魔化した。


 島神様が怒っていて、神隠しが起こった? それとも神隠しがあって、島神様が怒っている? なんだか、どっちも変だ。

「ねぇ、智次坊、島神様は」どうして怒ってるの……平佐田の言葉に「ぐうっ」が重なり、智次は、けたけたと笑う。

「やっぱり腹ぁ減っておるんじゃ。さ、行こう。わしが手を貸しちゃる」

 結局、話は打ち切りのまま、平佐田は情けなく、智次に手を引かれ、食膳につく羽目となった。


「せんせ、わし、せんせの大事な軟膏を……」


 飯を盛りながら、お内儀は「申し訳ない」を繰り返す。平佐田はへっぴり腰で座しながら、腰に響かない程度に、手を振った。

「いやいや。調合は、わかっておいもす。島にある薬草で十分、間に合いますから、外に出られさえすれば。お内儀、この硫黄は、いつになったら晴れうんでしょう。まだまだ、長引くんですかね」

 平佐田の質問に、おかみは少し顔を曇らせる。さぁ……

「なにせ、神様のすうこっちゃで、わしにな、とんとわからん」と、お内儀は、お勝手に立ってしまった。代わりに子供たちが手に丼を持って、どかり、と腰を下ろす。

 この家では特に、食事の順はない。平佐田の郷では、半農のくせに変な武家の風習が残っていて、男(一家の主や、成人した息子)が一番に飯を食い、女子供は男と共に食事はとらない。

 だがここでは、手が空けば、おかみやおばばさんも、男たちの膳の隅っこで飯を掻き込むし、子供に至っては、客人扱いの平佐田と共に、食うこともある。羨ましそうに平佐田の膳を覗き込む二人に、おかみの目を盗んでこっそりと、おかずを分けてやるのは、しばしばだ。

(あれ? そういえば……)

 男衆の姿がない。特に食事の順は決まっていなくとも、やはり、男衆は大体が早く飯を食う。というよりも、飯の前にさっさと酒盛りをしているのだ。よほど忙しくない限り、平佐田が呼ばれる前には既に、からからと陽気に笑いながら、どんぶりを手に座り込んでいる。


「あの……智頼さんとお爺さんは? まだ仕事、終わらないの?」

 本日は二人とも、一度も見かけていない。漁には出られそうもないから、二人もまた、家の中で雑用をしているか、あるいは多少の無理を押して、海や畑の様子を見に行っているか、どちらかだろう。

 平佐田の家でも、大風の日には、多少の危険など顧みず、父は良く畑や外の様子を見に行った。やはりそれは、男の仕事なのだ。百姓であろうが、漁師であろうが、武士であろうが……家族の安全を守るのは男だ。

 平佐田の質問に、二人の子供は、はたと動きを止め、飯を掻き込んでいる丼の端から、目だけを覗かせた。実によく気の合った動きに、平佐田が笑いを堪えていると、

「はい。寄合に出て行ったまま。この白じゃ、さすがの男衆も、神様の前には、大人しうしとるんじゃろう。ゆうとあうこっです。なに、何も心配は要らん。さて、お代わりはどうじゃ?」

 部屋に入ってきたおばばさんが、子供たちの代わりに答えた。

「はぁ。お願いします」

 上体を伸ばせば腰が痛む平佐田は、子供たちと同じように、椀の端から上目使いになった。

「男衆は今頃、いい口実ができたと、酒盛りでもしちょりましょう。気にすうこっでんんです」

『婆ちゃん、わしもお代わり』

 二人同時に丼を出した様に、くくく……平佐田は笑って、ひや、ときた腰に思わず手を置いた。


(九)


 結局――。

平佐田は〝ひや〟と来た腰のおかげで、二人の子供の手を借りて、情けなくも部屋に戻る羽目となった。

「大丈夫か、兄ちゃん」智次の言葉に、平佐田はただ、首を縦に振るしかなかった。

(何から何まで……ほんに情けなか)


帰る場所もないくせに、平佐田は「帰りたい」と思う。

密命のとっかかりすら、掴めない上に、顔見知りの子供の神隠し騒ぎ、余所者ゆえ、蚊帳の外に置かれる立場には、孤独感は否めない。

すっかりと、馴染んだつもりの家人にすら、口を閉ざされては、より所を失ったように感じられる。薄暗い部屋で、ぽつねんと横たわれば尚更だ。


(せめて、心を癒してくれる女子でもおればいいのに)と、思ってみても、思い浮かぶ女子はいずれ、皺の寄った老婆ばかりだ。

 確かに、心は癒してくれそうだが、何か、違う気がする。年寄りはいずれ、平佐田を残して死んでいく。もう少し、平佐田に近い年頃の女子……。

 ふと、四角く大きいお内儀の顔が浮かんで、平佐田は、ぶるっ、と身震いする。宿主には失礼ではあるが、お内儀では、平佐田の心は癒やされそうにない。


 所在なく薄暗い天井を眺め、「いやっ」と、いきなり頬を叩かれた記憶が不意に蘇った。

(滋子さんって言ったよな。綺麗な人だったなぁ……)

 白地に赤い椿の小袖は、色白の肌に良く似合っていた。柔らかな物言いの割に、口調はきつく、「気の強い女子です」と役人が言っていた。そういえば……

(あの人の言葉は……ここらの言葉と、ちごうとった)

 余所者だとは聞いてない。島の人は余所者に敏感だ。宴会でも、必ず郷を訊ねられ、郷の名は、名前の上に当然のようにつけられる。

「あぁ、○○村の○○さん」という感じだ。平佐田の場合、苗字を郷から勝手に名乗っているので、「平佐村の平佐田せんせ」となるところだが、面倒なのか、「平佐田せんせ」で済んでいる。時々、「平佐せんせ」となる場合もあるが、平佐田としては全然かまわない。 

 もしも親父が聞いたら、赤くなって抗議するではあろうが。


(あれは……〝京訛り〟ちゅうもんじゃなかろうか)

 ずっと同じ姿勢でいると、またまた腰が悲鳴を上げそうなので、ごろり、と転がって俯せになる。

 ほんの少し腰を曲げれば、張っていた腰が、ちょっと楽になる。「平佐田流腰痛封じ」は、これもまた、なかなかのものだと、自負している。

(倉貫せんせの訛りと、よう似とった。柔らかい響きの言葉じゃ。せんせは生粋の京都っ子じゃいうから、間違いなかろ)

 倉貫とは、山川薬園に出入りする医者だ。大殿の開いた医学院に通い、今では京の町で医者をしている。医学院にいた時分の知人の伝を頼り、時々、山川薬園に薬草を求めに来る。

 気取りのない好人物で、見習いの平佐田にも、気さくに声を掛けてくれる。行ったことのない京の町の話を聞くのは、平佐田にとって、楽しみの一つでもあった。

 遠い昔、都であった町……色とりどりの着物を纏った姫君が扇で顔を隠し、あの手この手で、姫君の気を引こうと、男たちが雅を競う。蹴鞠、歌会、夜を徹しての宴……やはり平佐田には京の町とは、そんな風に印象づいている。

「そないなこと、あらしまへん。ここらとそう、変わりまへんよ。まぁ、町並みは違いますが。京雀は噂好き。町のあちこちで女たちは、それはもう……賑わしく、ピーチクパーチク、囀っとります」

 倉貫のように柔らかな物言いで、若い女子たちが町中で囀る姿を想像すれば、なんだかやはり、華やいだ感じがする。

 薩摩の女子は逞しく、男を張り手で飛ばすほどの勢いを持っている。しっかり者の気丈者。それが薩摩女の代名詞のようなものだ。


 好いた男の通ってくる日をしとやかに待ち続け、足遠くなった男に恨みの歌を送り付けるいじらしさなど、微塵もない。好いた男を組み敷く勢いすら持っているのが、薩摩女だ。

 へなちょこの平佐田としては、どうしても物柔らかな感じがする、京女に心惹かれてしまう。

(けど……余所もんでなくて京訛りは、おかしゅうなかか。あん人はいったい、何者なんじゃろう)

 ぼんやりとそんな疑問に首を捻っていると、何だか眠くなってくる。

 近頃、少し怠けすぎだぞ。こんなんでは〝密命〟にいつまで経っても近づけん……そうは思うが、くちた腹と、外に出られない鬱憤が溜まって、やはり……眠くなる。

「はあぁ~」情けなく布団に伏した平佐田に、突然の闇が訪れた。


(あれ?)

 闇の中で顔を上げれば、自然、目は灯明に向く。火皿に油を注いだだけの灯りは、ほんのわずかにも、灯火を残していない。

(油が切れたんだ。そういえば……)

 火皿の油が少なくなっていた。女将に頼んでみようとも思っていたが、ごたごたしていて、忘れていた。

 おそらくは椿油であろう灯油は、平佐田の郷でも貴重品だ。気軽に「油が切れてます」とは言えないのも事実だ。

 椿は薩摩では当たり前の花ではあるが、その種を潰して絞る油は、贅沢品。

家人ですら、暗くなれば早々に寝てしまう中で、居候の平佐田が、〝報告書〟すらもまともに書けない平佐田が、遠慮なしに使って良いはずはない。


(まぁ、いいか)

 どうせ起きていても腰が痛いばかりだし、考えたところで〝報告書〟は纏まらない。数日の暇を持て余した間、散々に眺め回した図鑑にも飽きた。となればやはり――寝るしかない。

「おまんは、それだから、いつまでも〝おい〟のままなんじゃ。なんぞ他に、すうこた、あんのか」

 奇しくも人生の師となってしまっている〝沢蟹〟がどこかで喚く。だが、知ったこっちゃない。勝手に〝密命〟を背負わされ、〝見習い〟のまま、せんせとなり、飲めぬ酒を浴びるほど飲まされ、おまけに「神隠し」にまで頭を悩まされたおいの気持ちを……


 いったい誰がわかるというものかっ――


 つい、毒づいてしまう己は、苛々が溜まってる。やはり、寝たほうがいいと、平佐田は冷たい布団に顔を伏せた。ついでに腰が(ううっ)と唸る。平佐田は目を閉じた。


 かた……。小さな音が平佐田の腰を刺激し、ほんの少し目を開ける。まさか本当に「おかしな生き物」が、闇に乗じてやってきたとは思わぬが、へなちょこ歴が長い分、ついつい敏感になっている。

「おい、気をつけろよ」と腰から命令が下り、平佐田の神経がひょこり、と辺りに気を配る。

(静かだ)適当に気を配って、再び目を閉じた平佐田に、

「ふふふ……」柔らかな含み笑いが、耳を擽った。

「お待たせしたんや……」高く柔らかな響き。

「うちを待ってはりましたやろ?」鼻に掛かった声は、甘い。

「あぁ、そのまま、そのまま。うちが按配ようしてあげまっしゃろから、じっとしてておくれやす」


 そっと乗せられた手は小振り、ふっくらと掌が温かい。背に乗せられた掌が軽い重みを乗せたままに、だんだんと下に降りていく。

 絶妙な力加減と、微妙な動き……平佐田の腰が、躾けられた犬のように〝伏せ〟をする。

(あぁ。これが、かの有名な……)

〝夜這い〟というものか。うっとりとしながら平佐田は思う。女子に体を触れられた経験は……郷にいた頃に、姉が着替えを手伝ってくれた時以来だ。


 勿論、平佐田とて、男と女の営みは当然、知っている。あの心外な〝人生の師〟は、心外にも妙に、女子との経験が豊富であったからだ。薩摩の女子は、蟹が好きらしい。

ゆえに経験のないくせに、平佐田は女子の体の隅々まで、思い浮かべようとすれば、思い浮かべることができる。

(腰は大事だからな。〝夜這い〟は、腰が命だ。大事の折に腰痛で腰が立たねば、せっかく〝立ったもの〟も、宝の持ち腐れとなってしまう)

 勝手な解釈をして、平佐田は満足する。せっかく痛いところを癒してくれているのだ。先を思えば、今は大事。慌てることはない。夜は、まだ長い。眠気と心地よさと次なる行為への期待が、平佐田の胸を膨らませる。

おいもやっと〝男〟になれる――


「おいどんになるにはまず、女子を知らにゃあいかん」

 沢蟹に無理やり引っ張られ、放り込まれた安茶屋で、暗闇に座した妖怪のような女の毒気に圧され、立つものも立たなくなって情けない思いをしたあの日以来、無理に男になる必要はないと、思い続けていた。だが、いよいよ……来るべき時が来たのだ。


「どないな感じでっしゃろ、気持ちええどすか?」

「は、はい……それはそれは、もう。まるで極楽におるようで……」

 どぎまぎしながら平佐田は答え、そこで、はた、と考える。

(ちぃと、話が上手すぎはせんか。大体じゃ、なんで、〝滋子さん〟がおいのところに〝夜這い〟に来るんじゃ。誤解とは言え、おいは滋子さんに嫌われておるんじゃぞ。気ぃの強い女子じゃという滋子さんが、引っ叩いた男のところに〝夜這い〟なんぞ、するもんじゃろうか)

 京訛りというだけですっかり、相手は滋子だと思い込んでしまった平佐田だが、果たして本当に滋子当人だろうか。

 島に来て見かけた若い娘たちとは、会釈くらいしか、した覚えがない平佐田は、他にも京訛りの女子がいるかどうか、わからない。


(ひょっとしたら、狐か狸の類かもしれんぞ)

何せ神様がいるのだから、化け狐くらいいても、おかしくはない。

(狐の嫁さんの話は、ようある。この際、狐でも構わんか)

滋子のような別嬪、どうせ、平佐田には高嶺の花。一夜の夢と思って、化かされるのも悪くない。たとえ偽物でも、あの滋子と、うっとりするような夜を過ごせるのであれば、騙され甲斐もあるというものだ。   

(それに狐と縁を結んでおけば、〝宝探し〟を手伝ってくれるかもしれん……)と、ずるいことも考える。平佐田はこれで結構〝密命〟には律儀なのだ。

「せんせ、うちのこと、好き? うちは、せんせが好きや……」

 平佐田の耳元で柔らかな言葉が可愛らしく響く。あぁ、もう……

 狐でも狸でもいい。神様でもなんでも。滋子さんであれば、なんだって……舞い上がった平佐田は理性を失っている。もぞもぞと股間が騒いだ。


「滋子さん……」思わず呟いた言葉に、

「くくくく……」〝滋子さん〟が堪えた笑い声を漏らす。

「ちっと、ずういぞ」すっ、と橙色が闇を渡って近づき、

「ひっ」平佐田は思わず起き上がった。

「うわっ」〝滋子さん〟が後ろで声を上げる。

「と、と、智次坊?」

 ようやく狐の正体に気が付いた平佐田に、

「〝夜這いごっこ〟は、終わりじゃ。兄ちゃん、ほんに滋子さんが、好きなんか?」

 火皿を手にした時頼が、眉を顰めて訊ねた。


         (十) 

「だってな、智次が間違おらん、ちゅうんじゃ。わしは絶対に、そげんこたあんと……」


 言いながら、時頼がずるずると引きずっているのは布団だ。

 智次は新しい火皿を机の上に置き、消えた火皿を細い紙縒で丁寧に拭いている。ほんの少しでも残った油を無駄にしないためだ。

「兄ちゃんは滋子さんが好き。間違いなか。文を書けばよか。わしが滋子さんに渡しちゃる」

 智次が振り向いて、にかっ、と笑う。

 怒るに怒れない平佐田は、ちょっと口を尖らせ、知らん顔を決め込むつもりが、自分でも驚いたことに、かっかと顔が熱くなるのを感じていた。

(なんで、年端のいかん子供と、〝夜這いごっこ〟なんぞ、せにゃならん)

 情けない思いに打ちひしがれつつ、それよりも、智次の言葉に驚かされていた。

(おいは、滋子さんが好きだったんじゃ……)

 たった一度、会ったきり。しかも、衝撃的な出会いだった。あの後、確かに平佐田は滋子さんの姿を探して、島を歩き回ったりもした。もしも会えたら、あれは誤解だと、説明するつもりだった。

悪気があったわけじゃない。何せ、ひどい船酔いであったから、言い訳も何もなかったし、かといって、誰かに言伝を頼むのも気が引けた。

 何だか、余計に言い訳じみている。気の強い女子と言うからには、言伝などしたら、余計に腹を立てそうだ。

「女子とは上手くやれ」との、田崎の言葉を守っただけのつもりだ。

 島の女に嫌われては、〝密命〟も果たせないような気がしていた。秘密裏に動く者に、悪評は宜しくない。至って平凡で人当たり良く、目立つことはせず、淡々と日々を過ごす――そんな地味な人柄こそが、大事な大役を果たす隠れ蓑となる。平佐田はそんな地味な人柄が、自分の素であることには思い至らない。


 ところがやはり、平佐田に運はなかった。滋子さんには出会うことなく、本日に至っている。

 時折ふと、ぱしっ、と叩いた女子の顔を思い出し、何だか胸が痛くなるわけは、てっきり誤解されたままである状態に、気持ちが引っ掛かっているからだと思っていた。それが……


(好きだったのか……これが、女子を好くいうこつか。初めて知った……)

 よりにもよって、子供相手に胸をときめかせ、興奮した事実を棚に上げて、平佐田は妙な感動を覚えている。

 黙り込んでいる平佐田に、さすがに年長である時頼は、

「母ちゃんがな、先に寝う言うんじゃ。それでは、わしら、堪らん。母ちゃんの鼾は、大風よりもすごい。いつもは、わしらが寝てしもうてからのことじゃから、平気じゃが……先に寝られては、わしらは徹夜じゃ。わしら子供だって寝不足は辛い。昼間、寝とるわけにはいかんからの。それで、兄ちゃんとこで寝る言うたんじゃ。母ちゃんは「いい」言うたが、「もしも、せんせが、いかん言うたら、戻ってこい」言うんじゃ。で、わしは兄ちゃんにも、約束があるんかのと思うて……」


 気まずく感じているのだろう。珍しく饒舌だ。が、「約束」と言ってから、もごもごと口を濁らせた。

「女子じゃ。兄ちゃんも隅におけんのと。わしは、ぴん、と来た。滋子さんじゃ、言うたら、兄ちゃんが……」

「滋子さんは、きつい女子じゃ。わしらにも容赦ない。いつか重定が、滋子さんちの柿を取って、追いかけられたことがある。そりゃあもう、えらい剣幕で、箒で散々に尻を叩かれた言うて、あの重定ですらも、あ、」

 時頼の言葉が止まった。平佐田は反射的に時頼を見て、しゅんと目を伏せた時頼に戸惑う。

「滋子さんは、よか女子じゃ。気がきついんじゃなく、いかんことはいかん、とはっきりしとるだけじゃ。悪さをせにゃあ、箒で叩いたりはせん。いかんことをするから、罰が当たるんじゃ、重定兄は、間違うとる。滋子さんも、兄ちゃんも、悪くはない」

 智次が後を継ぐ。が、時頼が顔を上げ、智次を睨んだ。


 なんだか険悪な雰囲気となってきた。結局、子供にからかわれたのは平佐田だが、滋子さんの話が、重定坊の話に移っていくのは、何だか、まずい気がした。ここで兄弟喧嘩が始まっても困る。

「はは。つまり、おいはからかわれた、いうこっか。酷いなぁ。だが、大人をからかうなんて、いかんぞ。大体、滋子さんに失礼じゃ」

 できるだけ、さらり、と言って、割って入る。時頼は重定を心配していて、智次はそんな時頼を心配している。喧嘩をするのは間違いだ。ところが――

「わしは、兄ちゃんをからかってなんぞ、おらん! 兄ちゃんは滋子さんが好き。滋子さんも絶対に兄ちゃんを好きになう。守女は」

「智次!」


 段々に声が高くなる智次を、時頼が黙らせる。確かに、こんな夜更けに子供が大声を上げれば、寝ているという女将はともかく、おばばさんが心配するだろうだが……

 平佐田としては、また、新たな智次の言葉が気に懸かる。〝もりめ〟とは、なんだろう。この島は、謎ばかりだ。

(でも、きっと、時頼坊は智次坊にこれ以上は喋らせたくなかったんだ。だったら、ここで無理に色々と聞くのは、やめたほうがいい)

 すっかりと子供に担がれ、だが、そのおかげで、初恋に気が付いた。

 何とも情けなく、へなちょこな見習いの平佐田ではあるが、一応は大人だ。しかも仮にも「先生」であるのだ。子供の扱いくらいは、きちんとできなくては、今度は「先生見習い」となってしまう。


「いいよ。別に、怒ってなんかいない。ちょっと驚いただけ。子供は結構いろんなことを知っているんだな、って。そういえば、そうじゃな。おいも、坊らくらいの頃、大人のすうこつに、興味を持っとった。祭りの日なんかに……」


 平佐田は自身の経験を語ってみる。わくわくした祭り、多くの人が浮足立って、普段は難しい顔ばかりの父親が珍しく赤い顔で、上機嫌に息子の頭を撫でたこと。遠い昔を懐かしむように、円となって互いを慈しむように見つめ合っていた年寄りたち。妙に爛々と目を輝かせ、食い入るように娘たちに見入っていた青年たち。そわそわと、落ち着きのない娘たち……

 神様を持て成す祭りは、無礼講。酔いが醒めれば、誰もが「ちぃとやりすぎた」と反省する乱痴気騒ぎは、おそらくは冷めた目で見ればとんでもない行いがあちこちで起こっているのであろう。

 だが、誰もそれを止めはしない。異様な熱気に包まれ、皆が一つになるのが祭りだ。すべては神様のため。不思議と、誰もそれに不安も、疑問も感じない。


「全部、神様が仕組んだことじゃ。男と女が通い合って、子が生まれる。そこに日常が生まれて、人は生きて神様に感謝する。その元が、子供じゃ。神様は子供が好きなんじゃな」

 一人で頷いて二人の顔を見れば、智次は、ぽかん、とした顔をして、時頼は何とも言えない顔をしていた。それでも、平佐田の視線に気づいて俯いた。うん、それでいい。

 大人になって気づいたことだが、子供とはとても柔軟で、事実をそのままに受け入れる。変な先入観がないために、真理をそのままに受け入れているのだ。綺麗な物も、汚いものも、同じ(、、)も(、)の(、)として受け入れる。大人のように、綺麗な物だけを受け入れ、汚いものは目にするのも拒むようなことはないのだ。

 やはり……神に近いのだと思う。神様はやはり、そんな子供が何よりも愛しいのだろう。

 が、かといって成長した子供は、神様の懐だけには留まらない。己の足で歩いた分だけ、欲も情も身につけている。だからこそ、人はそれぞれで世の中は面白い。

 全員が同じように、すべてを受け入れ、欲も情もなければ、人の世はただ、平坦な野っぱらのようであろう。神様がそこで子供を愛しむとは思えない。

「だから神様は、子を隠すんじゃろ。智頼さんたちは、今夜も〝かやせ、戻せ〟をするんか?」

 二人の子供が同時に顔を上げる。まったく同じであるのが面白い。おそらくは、搖坊も不意のことには、姉とおんなじ顔をしたのであろう。神様は実に、面白いことをする。


「兄ちゃん……かやせ戻せを、知っとるんか」

 目を一杯に広げて食いついて来たのは、時頼だ。

「知っとるよ。おいの郷でも、あった。大人の男たちが、大きい音が出るもんを持って、山に入って騒ぐんじゃ。いなくなった子供を返してくれ、と。神隠しに対抗する人の知恵じゃ、皆が心配しとるけん、子供をかやしてほしい、とな」

 あぁ、それで〝神隠し〟と……時頼は呟き、「重定坊は神隠しに遭ったんだね?」との平佐田の問いに、「うん……いや」曖昧に返事をして黙り込んだ。

 智次は、〝時頼は、重定を止められなかったことで自分を責めている〟と言った。

 何を止められなかったのかは不明だが、あの悪戯な重定が、どこか危険な場所に出向くか、あるいは危険な企みを実行しようとしたのを、止められなかったのではないか。

 時頼坊は心優しい子供だ。口数が少なく、無愛想な時頼だが、常に弟の智次に気を配っている。

何をするにも、智次は時頼の後を追っていく。時頼もまた、あまり弟を気にしていない風に見えて、智次の姿が見えないと、そわそわと落ち着かなく歩き回る。

「兄ちゃん!」の声に、「どこ行っとったんじゃ! はよう来んかっ」との遣り取りは、平佐田がここで厄介になるようになって、欠かさず耳にする日常だ。だから――

 時頼はきっと、弟を思いやるように、仲のいい友人を大切にしているに違いない。また、智次も……

 平佐田が智次に目を転じれば、自分の言葉が兄を傷付けてしまったと、泣きそうな顔でじっと兄を見つめている。

 智次は智次なりに兄の背負った荷物を軽くしてやろうと思っただけだ。面と向かって言えなかった言葉を、平佐田という第三者がいる前で口に出したわけは、そのほうが言いやすかったからだろう。平佐田は、そんな兄弟を羨ましくも思う。


島人の信仰心がいかほどのものであるかわからぬ以上、滅多なことは口にせぬほうが良い。

 とはいえ、大人の余所者である平佐田には、今の二人に言ってやれる内容は一つだ。

 慰めとはわかっていても、仲のいい二人がいつまでもぎくしゃくしている様子は、見ている平佐田としては、辛い。少しは希望を持ってくれるといい、と平佐田は口を開いた。


「おいの郷では……これは爺さんからの受け売りじゃが……「かやせ、戻せ」は神様に「かやしてくれ」いうだけじゃなく、別の意味もあるんじゃ。こっそりと子供を攫った悪い奴や、ただ、遊びに夢中になって道に迷った子供に、「皆が心配しとるぞ。こうして皆で探しに来た。はよう出てこい」と知らせるためでもある。男衆がやいやいと騒ぎ立てたのに驚いて、悪い奴は子供を返し、道に迷った子供は騒ぎの元を辿って皆の元に戻る――ってな。重定坊だって、もしかしたら道に迷っているだけかもしれない。ほら、この白だから……」

「違うんじゃ! 兄ちゃん。〝誘い〟を懸けたんは重定兄のほう。これは神隠しじゃ。間違いないんじゃ」

 智次が涙声で、意外なことを言う。

「逆なんじゃ、兄ちゃん。居王様は怒っておられう。荒神様の居王様は〝お友達〟なんか欲しがらん。〝お友達〟が欲しいのは、御子様じゃ。重定兄は見つからんほうがええんじゃ。そしたら〝隠れ里〟の一員となれる、それに……」


「やめいっ、智次!」


 投げつけるような言葉は、ほんの少し掠れている、ぐっと手を握り締めている時頼は、涙を堪えているようだ。

「兄ちゃん、兄ちゃんは悪ぅない、兄ちゃん、兄ちゃん、もう……」

 うわあぁぁん。とうとう智次は泣き出した。平佐田としては、どう対応していいかわからず、ただおろおろするばかりだ。それでも飛びついてきた智次の背を撫でてやり、平佐田は時頼に言う。


「んん……おいは島の事情は、ようわからん。だが、智次坊の気持は、わかるよ。それに、時頼坊の気持もだ。二人とも立派なおいどんじゃ。優しうて勇気があう。「止められなかった」とは、説得はしたんだよね?」

 はっとした顔で平佐田を見た時頼の目は潤んでいたが、ぐっと唇を噛んだ時頼は、こくり、と頷いた。

「だったら。大事な友人の話を聞いても、自分を通したんは重定坊じゃ。どんな結果になっても、それは重定坊のしたこと。時頼坊が責任を感じる必要は、全然ない」

 じっと時頼に目を置いたままに平佐田が言えば、時頼は何か言おうと口を開きかけ、やはり閉じた。平佐田を見返す目に、ほんの少しほっとした色が宿り、「うん」と頷いて、目をごしごしとこすった。それに……

「智次坊は、大好きな兄ちゃんのことを心配して、色々と言ったんだ。本当は時頼坊だって、わかっているんだろう? だったら、許してあげて」

 言えば智次が、しゃくり上げながら、顔を上げる。時頼は手を伸ばして智次の頭を、ぽん、と叩いた。二人には、それで通じるらしい。智次が嬉しそうににこり、と笑った。


       (十)

「で、兄ちゃんは、ほんに滋子さんが好きなんか?」


 仲直りした二人は、部屋の隅に引きずってきたままに放り出していた布団を、 ずるずると引っ張ってきて、平佐田の布団を挟んだ。

 そのまま、ごろり、と横になり、他愛ない話を繰り返していた。が、ふと、意を決したように、時頼が訊ねた。

「え?」

 ただ二人が仲直りしたことが嬉しく、間に入って兄弟の会話に耳を傾けていた平佐田は、事、自分の話題に至って、言葉に詰まる。

 男兄弟のいない平佐田にとって、突然の「二人の弟」は、なんだか浮き浮きする。硫黄のおかげで、閉ざされた世界に共にいる二人が、何となく身近に感じる。

 こうして共に枕を並べれば、実の兄弟のような気がして、心があったまるのだ。

勝手な言い分ではあるが、郷を出た平佐田は、いつも一人だ。薬園近くに間借りしている料理屋には、大勢の人が出入りしているが、全員が他人だ。心安く話をする人もいないし、共に食事を摂る人もいない。島に来て、滞在先であるこの家の人と、寝食を共にする生活が、平佐田にはとても嬉しかった。皆、とても親切で、温かい。特に、いつも傍にいる時頼と智次は、平佐田にとって、家族に近い存在となりつつあった。二人は大好きだ。


「好きに決まっとう。滋子さんは別嬪じゃ。せんせたちが騒いどるん、兄ちゃんも知っとろう?」

 けどな、あん人は、きつうていかん。兄ちゃんには、もっとこう……優しい女子が……。何ぃ言うとる。兄ちゃんには、しっかりもんがよか。優しい同士じゃ、つまらんじゃろ。喧嘩するんも仲いいしるしじゃと、母ちゃんは、いつもいうとる……

 弟たちは勝手な話で盛り上がる。わかっている……

(余所もんのおいを、心配しておるんじゃ。他のせんせと違って、一人で島に来たおいが、知り合いもなく一人でおることが気になるんじゃろう。滋子さんは、おいが島に着いて、初めて関わった島人じゃ)

若く綺麗な滋子さんと仲ようなればいい、と智次は思い、友人の重定の尻を箒で叩くような女子では心配だと、時頼は思っている。


 二人は決して悪戯半分に、平佐田をからかったわけではない。心配だからこそ、真意を知りたかったんだろう。平佐田も真剣に答えなくてはいけない。


「んんん……。実のところ、ようわからん。おいは恥ずかしながら、女子を好きになった経験がないんじゃ」


「えぇぇぇっ」「ほんとか、兄ちゃん」


 正直に言えば、子供はまた正直な感想を述べる。なんともやりにくい。が、ここは一つ、大人を利用して……


「家がな、厳しかったんじゃ。まぁ、一応「郷士」という立場を、親父は重んじとった。だから、女子とはあまり……関わりがなかったんだ。親の決めた女子との縁組も嫌だったし、早々に家を出た。で、先生になるこつにしたんじゃ」


 ちょっと嘘つきだとは思うが、大人に嘘はつきものだ。「先生」として島にいる限りは、それなりに立場がある。「郷士」は嘘ではないし、縁組も事実。郷士として家を固めるために「嫁候補」として上がったのが、あの「沢蟹」の妹で、これがまた嘘みたいに「沢蟹」にそっくりだった。気質がまた、女だてらに〝おいどん〟を名乗る婆様によく似ていて、縁談がまとまる前に平佐田は早々に郷を逃げ出した次第だ。

「うん。まぁな、おまんの気持ち、おいどんも、わかる気はする。妹ではあるがあれはな……いい奴じゃが、嫁にはしたくなかろう」

 珍しく、「沢蟹」と意見が一致したものだ。


「そうか……兄ちゃんは郷士だったんじゃな」

 二つの目がきらきらと輝くと、平佐田としては何とも居たたまれない。おそらくは二人の中の「郷士」とは、「鹿児島衆中」、つまりは「城下士」を指しているのだ。

 辿り辿れば今現在、「城下士」として名を馳せている家に何とか辿り着くらしい平佐田の家は、今では上級郷士の小作人をしている「無高郷士」に過ぎない。母と姉は縫い物と染物をしながら、小さな庭の小さな畑で一家が食べるものを育て、父は神社や寺の庭木の手入れをしながら、ちょっとした大工仕事をしたりして、忙しく日々を送っている。「郷士」とは名ばかりの家だ。

 そういった「郷士」の事情は、武士階級であればともかく、一般的にはあまり知られてはいない。特に、本土から離れた島では、「郷士」といえば城を守る勇士としての認識が強いらしい。それもまた、婆様からの受け売りである。

「山川薬園」から赴任してきた先生が、元が百姓であるか、郷士であるかは、結構、大事なところだ。何の取り柄もない、へなちょこの見習いせんせにしてみれば、せめて知らぬ土地での地位だけは確保したい。


(おいもずるかね)


 少し胸は痛むが、まるきりの嘘でもないのだから、と自分に言い訳をする。それでもやはり、尻の座りが悪いから、さっさと話題を逸らせることにする。

「ま、それはいいんじゃ。おいは元々郷士には向かん。だから、郷を捨てて、せんせになった。薬草の研究が好きなんじゃ。朝から晩まで、薬草とつきあっとった。じゃから、女子と出会う暇もなかった。薬草は生き物じゃ。きちんと面倒を見てやらんと、あっという間に枯れてしまう。女子に夢中になっとっては、研究なんぞ、できはせん、いうこつじゃな」


「ほー」


 二人が同時に感心したように声を漏らす。今さっき担がれたばかりである平佐田としては、名誉挽回だ。別に威張りたいわけではないが、弟たちに尊敬されることは、大事だと思う。


「凄かぁ」「兄ちゃんは偉い人じゃったんじゃな」

 実に素直に二人が感心し、平佐田の頬が少し赤くなる。

「別に……凄くはなか。勝手をして家を出た、親不孝もんじゃ。こんなんでは、女子にも好かれまい。滋子さんも、相手にはしまいよ」

 自分で言いながら、ちょっとがっかりする。まぁ、それでも……

(おいには〝密命〟があるんじゃ、女子にうつつを抜かすわけにはいかん)

 ちょっと男らしく自分を戒め、(おい、かっこよか)平佐田は自画自賛する。


「そしたら、わしら、ここで寝てもよか? 〝夜這い〟の約束は、ないんじゃな」

 今更のように時頼が聞き、「うん」苦笑いをしながら、平佐田は答える。

 ふわぁ、と欠伸をした智次が、ぱさり、と布団に倒れ込んだ。それを見て時頼も布団に転がる。

(子供と一緒に寝とるような男に、〝夜這い〟を懸ける女子なんぞ、おらんじゃろうな)

 どんどんと女子から遠ざかっていく自分に、空しさを感じながら、平佐田は火皿の火を吹き消した。


         (十一)


「うぅぅぅっ」


 何度目かの子供の足に押し殺したうめき声をあげ、いささか疲れ切って平佐田は智次の布団を掛け直した。

 今しがた時頼を布団に戻したばかりだ。二人の間に寝た平佐田は、両側からの「攻撃」に息をつく暇もない。

(この寝相の悪さと、大風よりも凄いという鼾……智頼さんは、いつも寝不足なんじゃろうか)

 色黒のでかい顔を、思い浮かべる。がはがはと元気よく笑う姿は、とても、毎日が寝不足の顔じゃない。むしろ、生気が漲って有り余っているかに見える。

(おぉ、そうか。酒を飲むんじゃったな)

 船の中で見た智頼は、大きな船揺れにもお構いなしで、大鼾を掻いていた。あぁでなくては、一家の主は務まらぬのであろう。

(やはり己には所帯は、まだまだ持てん)と、再び飛んできた時頼の手をよけながら平佐田は思う。

 うとうととし始めてからすぐ、二人の攻撃が始まったため、すっかりと寝そびれてしまった平佐田は、攻撃に備えながら、島の謎に思いを馳せる。

 できれば今すぐに机に向かい、〝報告書〟の下書きとして謎を書き並べてみたい。何故だか頭の中がもやもやとして、繋がりそうで繋がらない謎は、一晩寝れば色褪せてしまうように思えるからだ。

 だが、子供がすやすやと寝ている傍で、灯りを点けるのも気が引けるし、油は貴重だと知っている平佐田に、無駄遣いはできない。謎が解けているわけではないのだ。

 貧乏が板についた平佐田としては、〝居候〟を抱え込んだ家に、さらなる負担は掛けたくない。


(それにな……)

 せっかく智次坊が揉んでくれたおかげで、すっかりと息を潜めた〝腰痛〟が、再び目を覚ますことを恐れたからでもある。実はこれが一番の理由であると、平佐田自身もわかっている。

 だが、ちょっとかっこいい自分を褒めたばかりだから、事実は心の奥底に仕舞っておくことにする。


「兄ちゃん、これは酷かろう」「気にするな、お前にやる……」


 実に気の合った寝言を最後に、二人は、ぴたり、と静かになった。同時に……


 きんきん、かんかん……


 夜の底から何かがやってくるような音が、平佐田のわずかに残った眠気を押しのける。

「神隠し、か……」

 重定坊が神隠しに遭ったようだとは確認できた。大人たちはそのために「かやせ、戻せ」をしているのだ。

 普通はここで、友人である時頼は無事に重定が戻ることを願うであろうし、兄の友人の無事は当然、弟の智次も願うはずだ。


 ところが、時頼は友人の無事よりも、〝止められなかったことを悔いている〟という。高々十二の子供が、それほどまでに友人の悪巧みの阻止を願うだろうか。

 搖坊は一度だって、沢坊の悪巧みを阻止しようとした記憶はない。むしろ、無関係であるのに知らず内に主謀者にされて、叱られた記憶ばかりが残っている。


 止められなかったことに深く傷つく時頼、又さらに、「戻らんほうがいい」と言う智次……智次の性格を考えれば、信じられない言葉だ。

「居王様が怒っている」とは、この白い硫黄を指しているのであろうとは、想像はつく。自然神を奉る民は、天変地異に神の意志を見出すものだ。

 人の考えの及ばぬところ、そこに神の意志がある。神様が怒っておられるから、民人は自粛し、お怒りが収まるまで静かに過ごす。それは別段、さほど驚くような行動ではないが……


「居王様は〝お友達〟なんか欲しがらん。〝お友達〟が欲しいのは、御子様じゃ」の智次の言葉が気に掛かる。

 確かに、神様は〝お友達〟なぞ、欲しがらんだろう。神隠しの子供が、神様と遊んで暮らしているというのは、人の想像にすぎない。

 特に相手が荒神様であれば、とても子供を愛しんで遊んでいる姿は思い浮かばない。むしろ隠した子供をいたぶり、殺してしまう姿が思い浮かぶ。

 人の命など、何ほどにも思わぬのが、神という存在だ。人の倫理は、神には通じない。だからこそ、人の倫理に染まる前、良いも悪いも同じものと受け入れる「子供」を、神は好むのだ。


(ちぃとも、わからんじゃないか)


幾分か闇に慣れた目に映る天井の梁に目を置いて、

(あぁ、月が出ているんだな)と、ぼんやりと思う。そろそろ「満月」か。ならば、全部の説明がつく気もする。

島神様が本当にいるかどうかは、島人ではない平佐田には、わからない。だが、満月の異変は、どこにいても耳にする。この国の三柱の神のお一人、「月」は、大いに人の気を狂わせる存在なのだ。

(そうだ、それ。満月だよ。月が欠ければ、また、何事もなかったかのような平穏が訪れる。重定坊はただ、悪戯でどこかに隠れていただけで、納屋かどこかからひょっこり出てきたところを母親に見つかって、大いに叱られる。「かやせ、戻せ」は打ち切られ、だぁれも神隠しの話なんか、しなくなる)

 いささか勢い込んで平佐田は自分自身に言い聞かせ、未だに残っている疑問をねじ伏せる。もりめ、みこさま……いずれも「月の御使い」だ。

 平佐田の苦しい言い訳自体、既に「神様への畏怖」だと、平佐田自身も心の底では重々わかっている。人はやはり、神様の支配からは逃れられないのだ。

 ふーと息を吐き、平佐田は目を閉じる。


 遠く聞こえる、きんきん、かんかん以外、耳に届くのは子供たちの小さな寝息だけだ。寝返りを打とうと身を返した平佐田の袖が、くいっ、と引っ張られた。

(またか)

 おそらくまた、智次が布団を蹴り、足が平佐田の袖を踏んでいるのだと、そっと袖を引っ張る。が、袖は軽くなるどころか、反対に引っ張れた。

(ん?)

 引き寄せられた袖に伸ばした手を、ひやり、と冷たい手が掴む。


「いいっ!」やはり、へなちょこの平佐田は、思わず声を上げる。


「しいいっ」むくり、と起き上がった智次が、言った。


「なんじゃ、智次坊……起きたんか? しょんべんか?」

「んんんん……」反対側で時頼が唸り、ころり、と寝返りを打った。


「静かに。兄ちゃんを起こさんように」

 智次は、よちよちと赤子のように這って、うっすらと明るい廊下へと向かっていく。

 ぼんやりとそれを見ている平佐田に、くるり、と振り返って「おいでおいで」をした。平佐田はただ、後を追うしかない。


 かたり、と開けた障子の向こうは、異世界だった。平佐田は大きく目を見張る。

 よちよちと這っていく智次が、そのまま異世界へ行ってしまうような気がして、慌てて足を掴んだ。均衡を崩した智次が、べたり、と廊下に伏す。


 真っ白を月明かりが照らした庭は、ふわふわと幻想的で、ゆっくりと白が渦巻いている様が、いずれ形をとり、平佐田に向かって「にたり」と笑うのではないかと思わせるほどだった。

 恐ろしくて目を逸らせたい。が、それでいて、目が離せない。何とも不思議な光景だ。


「兄ちゃん、兄ちゃん、離して」もぞもぞと手の中で動く足に我に返り、平佐田は掴んでいた足を離した。智次はそのまま立ち上がって、そっと障子を閉める。

「凄かろう?」智次の言葉に、平佐田は、ただ頷いた。


 昼間も確かに凄かったが、やはり夜は何となく違う。妙に冴え冴えとした月明かりがそうさせるのか、白が昼にも増して白く見え、ゆったりと渦を巻く様が、不思議な生き物のように見える。神様があの世から、亡くなった人たちを解き放ったかのようだ。

 平佐田の見ている先で、巻いた渦が人の顔を形どり、「ひっ」小さく息を呑んだ。

 これを見せるために、わざわざ、智次は起きて来たのだろうか。意図を計りかねて智次を見れば、智次はじっと白を見たまま、口を開いた。


「これがね、居王様のお怒りの験。島のもんは居王様のもんじゃ。昔から島人は居王様を敬ってきた。わしらが生きていけるんは、居王様のおかげじゃ、居王様は島人を遠い昔から守ってきた。わしらが今あるのは、居王様のおかげじゃ。ほんで居王様が神様となったのも、わしらの想いがここにあるからじゃ」

 真摯な顔で智次は語る。平佐田と違って、智次は目の前の白に怯える風もなく、どことなくうっとりとした顔で、白を見つめている。


「どうして居王様は、怒ってるの?」平佐田が聞けば、

「御子様が勝手なこつをすうからじゃ。元々、神隠しは島神様の恩恵じゃ。硫黄と火山灰は島神様の験。なのに御子様は、勝手に神隠しをする。お友達が欲しいからじゃ。御子様は、お友達を探しておられう」

 やはり、よくわからん。島神様が居王様なのはわかる。だが、みこ様とは……

(やっぱり、あれか?)

 智次の言う〝みこ様〟たるものが名前でない限り、平佐田が知るみこ様とは、ただ一人。

 だが平佐田の知る〝皇子様〟が、神隠しをするようなお方だとは、信じがたい。海底に沈んだ憐れな幼子、大人の勝手に振り回されて、抗いも許されずに自ら海に沈んだという……


(あのお方の後日譚は、この辺りにはあちこちに残っている。おいの郷の近くにも、〝落ち武者〟が住んでいたという荒屋がいくつか残っていると、婆様も言うとった)


 それが事実だとは、誰も信じちゃない。ただの言い伝えだ。実際に住んでいたのは、名も知れぬ流れ者であったり、賊の類が手傷を負って身を寄せただけの一時の隠れ家に過ぎないのかもしれない。だが――

「悲劇の皇子様。島には、皇子様にまつわる伝説があるそうじゃ。琉球王は、大いに興味がおありらしい。ともすれば大きなお宝……皇子様と一緒に沈んだという「宝剣」かあるいは……」

 薩摩を揺るがすような大きな「お宝」が、絡んでおるのかもしれんな……

 別れ際に、ぼそりと呟いた田崎の言葉が、耳に残っている。


 いい加減、酔った後の囁きではあるが、数少ない〝密命〟の手がかりの一つでもある。

(捨て置くわけにはいかんな)平佐田は思っている。せっかくの好機であるから、平佐田は訊ねてみる、

「智次坊、みこ様って……」

「わかっちょる。御子様が悪いとは思わん。ただ〝お友達〟を探しておられるだけじゃ。ただな、わしが思うんは……」

 気がつけば、白が少しずつ薄くなり始めている。平佐田の目に、正面に見えるはずの柿木の大きな幹が、白の中からちらちらと顔を出し始めていた。

「島神様は居王様じゃ。そもそも、島の始まりは……」

 平佐田の疑問などまるで意に介せぬように、智次は何かに憑かれたように薄れゆく白を見つめたまま、恍惚と語り出した。

「いつの頃かはわからんのじゃ。海が広く波打っていた頃。今よりずっと昔の話じゃとしか、言いようがない……」


        *


 ゆらゆらと揺れる海面からひょっこりと顔を出した岩は、亀のように小さかった。心地よく波に揺られていた〝亀〟が、耐えきれなくなった熱いものを吐き出した。それが波に優しく宥められ、〝亀〟は一回りも、二回りも大きくなった。

 いずこかから鳥が舞い降り、〝亀〟の身をつつく。そのうち、草が生え、木が茂る。海から這い出でた生き物がそれを食い、排泄したものから、また新しい草が生え、打ち寄せる波が〝亀〟の形を変え……長い時を掛けて、大きな島となった。緑豊かな命に満ち溢れた島だ。生き物が島に養分を与え、島は命に溢れていく。

争いを逃れた人々が島に辿り着き、人々は恵み豊かな島を愛し、子孫を増やして細々と暮らし始めた。

 そこへ渡ってきたのが大陸の侵略者たちだ。恵み豊かな島を奪おうと、島人を脅かす。大人しい島人は戦を嫌い、山深くに身を隠した。侵略者たちがそれを追う。ところが――

 あと一歩というところで、島が白煙に覆われた。右も左も分からない白い煙は、島自体を覆い隠す「火山灰」だ。


侵略者たちは右往左往し、大騒ぎとなった。誤って谷底に落ちる者、更に深い山に入り込んで帰れなくなる者、獣に食われる者もいたようだ。

 這う這うの体で戻った侵略者たちは、火山灰が収まるのを待った。ようやく青い空が戻ってきたのを機に、再び島人の潜んだ山奥に行ってみると、生活の後を残したまま、島人は忽然と消えていた。あまりにも不気味な事の成り行きに、侵略者たちは恐れをなして島を離れた。「(おに)の住む島」と言われるようになったのは、それからのことだ――


 智次は諳んじるように語る。うっとりと前を見据えた目が、平佐田から言葉を奪う。


(智次坊?)


 白が智次の周りを包むように覆い、平佐田は咄嗟に手を伸ばす。

「これが最初の神隠しじゃ」と、つり、と智次は言い、平佐田は弾かれたように手を引っ込めた。


 噂が広まり、誰も島には近づかないようになった。ところが隣島に嫁ぎ、両親を心配した娘が、夫と共に島を訪れた。驚いたことに、誰もいないはずの島には、以前と全く変わらず島人が暮らしていたという。

 娘の両親いわく、居王様が「隠れ里」に招待してくださった。と、嬉々として語った……


 平佐田の見る前で、智次の体が傾ぐ。薄れつつある白が、智次の体に吸い込まれていく。

「智次坊!」


 再び手を伸ばした、平佐田の体が大きく傾いだ。強い硫黄の臭いがする。腐った卵のように強くむせ返る臭い……

 ふわり。めまいを感じた平佐田は、廊下に手を突いた。ぐにゃり、と歪んだ廊下が、平佐田の手を掴む。


           *


「兄ちゃん、おしっこじゃ」廊下が言った。


(へっ?)平佐田は眉を顰める。

「漏れちまう。はようしてくれ」

 それは困る、と平佐田は、さっさと立ち上がる。ともかくにも手を引いて廊下に出れば、冴えた月が庭を照らしていた。柿の木が平佐田の目に飛び込む。

(むむむ……)思いながらも、とりあえずは〝おしっこ〟が一番だと、改めて繋いだ手を辿れば、廊下でなく、時頼が寝ぼけ眼をこすっていた。

 ぱたん。厠の戸の音を聞きながら、平佐田は満月を見上げ、頭の中を整理しようと額に手を当てて「もういいか?」の声に振り返った。

「わしも、おしっこ。兄ちゃん、もういいか?」智次が股間を押さえて、そわそわと体を揺すっている。

「おう」ぼそぼそと言って厠から出た時頼に代わり、智次がよたよたと平佐田の前を通り過ぎ、〝強い硫黄の臭い〟が平佐田の息を詰まらせた。


         (十二)


「せんせ、子供らが世話を掛けました」

 果てしない深淵から呼び戻された死人のように、平佐田は〝天女〟の声に、しがみつく。頭が重い。再び深淵に引き戻され、落ちていく感覚に一種の恍惚を覚えた。


「そろそろ起きたほうが、ゆうとんですか。あまい寝てしまうと、夜また寝られんようになう」

 かた……。現実の音に刺激され、平佐田の目が開いた。

(あぁ。朝か。おいは、いつの間にか寝てしもうたんじゃな)

 声のほうに目を向ければ、眩しい光を背に、大きな仏像が立っている。

(おぉ。仏様が起こしてくださるとは、有り難いことじゃ。みよ、見事な後光が射しておられう……)

 まだ半分は寝ぼけている平佐田は、ぼんやりとした頭で考える。

「せんせ、そろそろ昼じゃ。亭主が魚、捌いとります。とれたてじゃ。昼餉にせんか?」

(昼餉? ええええっ!)



 そこで初めて現実に戻った平佐田は、慌てて布団に起き上がり、

「す、す……すまんこつです。お、おい……寝過ごしてしもうた」

 おたおたと、でかい仏像に手を合わせる。

「よかですよ」仏様は慈悲深い。

「子供らが一緒じゃあ、なかなか寝られんかったじゃろ。うちの子らは恐ろしかほど、寝相が悪い。せんせのおかげで、わし、昨夜はぐっすり寝ました。足もすっかりええし、せんせには感謝しちょります。煮つけもたくさぁ作いましたから、食うたってください」

「はい」平佐田が答える前に、腹が先に「ぐぅ」と返事をした。

「すぐに行きます」平佐田の答に、女将は笑って頷き、どしどしと廊下を去って行った。


(そうか。おいは、あれから寝てしもうたんじゃな)

 布団を畳みながら考える。二人の子を厠から連れ帰った後、何故か平佐田はどっと疲れが出て、うとうとと微睡み始めた。が――

 二人の〝攻撃〟が再び始まって、またもや平佐田は起こされてしまった。

(もう寝るのは諦めよう)げんなりとしながら、元気のいい子供たちを眺めているうち、しらじらと外が明るくなって、(夜が明けたんだなぁ)とぼんやりと思ったところまでは覚えている。

 どうやらその後に眠りに就いたらしい。子供たちは朝の仕事のために、早々に起き出していったのだろう、家の仕事を言い付かっていない平佐田をわざわざ起こす必要もない。

 おそらくはその後で、朝餉だと起こしには来たのであろうが、熟睡している平佐田を見て、子供たちの寝相を知っている女将は、昨夜の実態を推察したのだろう。気の毒に思って寝かせておいてくれたに違いない。


(あれは……夢だったんじゃろうか)

 乱れた着物の帯を締め直し、廊下に出て平佐田は思う。柿の木は真正面に、陽を浴びながら立っている。昨夜も見た通り、白はすっかり消えていた。何事もなかったかのように、すっきりとしている。

 智次が語った「居王様のお話」は、妙にはっきりと平佐田の頭に残っている。夢にしては随分と鮮明だと感じるほど、智次の恍惚とした表情が生々しく思い浮かぶ。


智次を取り巻いた白い渦、智次の中に吸い込まれるようにして消えていった白……。それが終わりを示唆したかのように、時頼の手を引いて出た外には、白の欠片も残ってはいなかった。何とも不思議な感じだ。


「おう、せんせ。色々と面倒を掛けた。今朝がた獲ったばかりの魚じゃ。美味いぞ」


 食事を摂る板間へと向かう平佐田に、久しぶりに聞くおおらかな声が庭先から掛かる。平佐田の目に赤い刃物が映って、ぎょっとした。生臭さが漂ってくる。

 智頼さんが、大きな刃物で魚を捌いていた。横で父親が解体した魚を、智次が仕分けしている。

 でかい魚だ。こんもりと盛られた身は生で食い、頭や内臓は、煮物や汁物に使うのだろう。普段は女将やお婆さんがする仕事を、一家の主が直々に行っている。平佐田は申し分けなく思う。


「すまんことです。おいは何もせんと。しかも、すっかり寝坊して、こんな御馳走を……」

 平佐田の恐縮を感じ取り、智頼は大きな顔を、くしゃり、と崩した。

「いやいや。せんせには、ほんにすまんこつをした。子供らの寝相は、よう知っとる。あれと一緒では寝不足は当然。わしは慣れておいもんで平気じぁんどん、せんせには、きつかろう。わしが目を覚ますといつも、時頼か、智次が腹にのっとう。せんせの体格じゃあ、朝まで持たんじゃろうよ」

 かっかっかっ。豪快に笑う。

「せんせの分は嬶に渡した。もう支度はできとろう。先に食うててくれ。わしらもあと少しで行く」

智次が平佐田をちら、と見て淋しそうに笑い、魚が入っている桶に手を入れている時頼が、顔を下に向けたまま、目だけを上げて平佐田を見、諦めたようにまた下を向いた。平佐田はそこで、ぴん、と来る。

「智頼さん、「かやせ、戻せ」は打ち切りですか?」

 今度はでっかい智次と時頼の顔が、平佐田に驚きの表情を見せる。あまりにもよく似ているので、平佐田は笑いを漏らした。


「なんじゃ、せんせ、知っとうか」智頼は、ちら、と智次と時頼に目を向ける。智次が口を開く前に、

「おいの郷でも「かやせ、戻せ」はあります。音を聞いて懐かしう、思うとりました。あの……子供は……」



 平佐田が声を潜める。空気の色が変わった。

 平佐田が知りたかったのは、重定が〝見つかったか〟どうかだ。無事に見つかればよし、無事ではなく見つかれば……。

 悲しいことだが、重定の家に、お悔やみに向かわねばならない。まだ道場が開講されていないから、余所もんがお悔やみに向かうのは不自然だが、「先生たち」はいかにするべきか戸惑うだろう。面識のある平佐田が、役人を通して出向けば、「先生たち」の面目も保てる。平佐田自身も、線香の一本でも手向けたい気持ちがあるから、早々に手配をしておくべきだ。

「いいや」一言言って、智頼さんは口を閉じた。一瞬の沈黙がある。

「いろいろと仕来りがあう。せんせの郷でもあろう? 島の仕来りに則って、子供は見つからんでも、「かやせ、戻せ」は打ち切りじゃ。そしてまた、仕来りに則って、貢物をすう。これもその一部じゃ、すまんが、せんせに手伝うてもらいたい。爺さんが昨夜、転んでの。腰を打ったらしい。荷物を運びたいんじゃ。手伝うてもらえんか?」

 ここで智頼さんは、にやっ、と笑い、


「だからせんせにも、おすそわけじゃ。食うたら嫌とは言わせんよ。腹ぺこじゃろう?」と付け加えた。平佐田に返す言葉はない。

 さすがは、大人だ。誤魔化しが上手い。子供のようにはいかんと、平佐田は頭を掻いた。


「いやぁ、おかしいとは思うたんです。主自らの御馳走を振る舞ってもらえるなど。おいは、なんもしとらんし、ただの居候です。気が楽になりました。お手伝いは当然いたしますよ。お(じじ)さんみたいに力はありませんけど。腰って……打ち身ですか? おいの軟膏、持ってきます。よう効きますから」

「おぅ、そうじゃった。嬶も世話になりました。せんせの薬はよう効くと感心しちょりました。分けてもろうて、よかね? 爺さんも歳じゃから、ちぃと心配で。だが、頑固者で医者嫌い。今朝からずっと、婆さんと揉めとります。今、離れで不貞寝しちょります。せんせのいうこつなら聞きましょう」

 再び部屋に戻って軟膏を取り出し、さっさと離れに上がってお爺さんに軟膏を貼り、平佐田はまたここで株を上げた。

「せんせがおれば、島の藪医者なんぞ要らんわ」と満足げに笑ったお爺さんに、(いや……おいは医者じゃなか)と苦笑する。

「安心したら腹が減った」というお爺さんに、食事を持ってくると約束をした平佐田は、いい匂いが漂う部屋へと吸い込まれるように入った。


「わぁ……」


 膳に載った料理に、感嘆の声が漏れる。郷の正月でも見たこともない、手の込んだ料理が並んでいた。

「せんせ、爺さん、食ういうとりましたか?」

 膳を手にしたお(ばば)さんが、平佐田を見て、小さく笑う。

「はい。腹が減ったと。おい、持っていきます、約束しましたから」

 涎の垂れそうな勢いで膳から目が離せない平佐田に、

「よかです。わしが持っていきます。爺さんを甘やかしちゃなりません。嫁がせんせから軟膏をもろたときいて、羨ましがっちょりました。そこへ、わしが「医者を呼ぶ」言うたもんじゃから、すっかり拗ねてしもて。朝餉も要らん。言うて、不貞寝しちょりました。ほなら、勝手にせい、と、こっちも売り言葉に買い言葉ですわ。人は年寄るとわがままになります。神様のすうこつに腹を立てても詮無きことですんに。男はそげなこつが、ちぃともわからん……」

 お婆さんは悲しげに目を伏せた。

(誰もが皆、理不尽に気が昂っているんだ……)

 智頼さんと時頼、智次……余所者の言葉に変わった空気は、何とも言えない物だった。

 平佐田には理解できないもの、苛立ちと怒りと怖れと安堵。渦巻くものを纏めて押し殺した空気は、遠い昔から島に住む者だけが共有する何(、)か(、)。手が届きそうで届かない平佐田は、疎外感と憧れに眩暈を感じる。


「せんせ。冷めてしまう。こげな御馳走は、そうそう作らんよ。正月でもここまではなか。特別じゃ、せんせは運がいい」

 あけっぴろげに明るい声は女将だ。わしも食うてしまおかな……大きな手で芋を摘み、ぽぃっ、と口に放り込んで、にかっ、と笑う。

 屈託ない表情が智次にそっくりで、平佐田はちょっと心が温まる。

「爺さんに言うときます。ちぃと大人になるように、と。せんせ、後で顔出しちゃってください、わしが相手では、拗ねるばかりで。わしも年寄ったけん、つきおうんもてそかですわ。わしも……」

 お婆さんは手にした膳に目を落とし、

「島の子ぉが、島神様の恩恵から外れるんは寂しい。島神様も、お怒りになるはずじゃ。島のもんは皆、島神様の……」

 お婆さんの手にした膳が揺れる。泣いているのか。平佐田が支えようとして手を伸ばし、

「お義母さん」大きな手が先を越した。


「爺ちゃんが腹ぁ空かせとる。食わせんとまた、うるさい。せんせには〝かるかん〟を持って行ってもろうから」

 こくり。と頷いてお婆さんは離れへと向かった。平佐田に出る幕はない。だが。

 やはり、女子はいい。お婆さんは、ちゃんとお爺さんの気持を分かっているし、女将はそんな二人にも気を配っている。余所者にも気遣いを忘れぬ優しさは、薩摩女の心意気だと、平佐田は思う。

(石畳みのような熊のような仏像のようなでかい女子でも……細やかな優しさがあるんだなぁ……)

 つくづくとでかい顔を見つめ、点々と口の周りについた、ご飯粒やら、干からびた野菜やらが目について、平佐田はちょっと、がっかりする。

「せんせっ。いいから。たんと食うたらよか」

 がはははは……でかい口から覗く歯に、べたり、と貼りついた海苔が(わぁ)と平佐田に驚きと妙な感動を与えて、

「母ちゃん、飯っ」元気な声に、ほっとした。島は不思議がいっぱいだ。

 こんな御馳走を前に、珍しく酒を飲まない智頼さんは、平佐田に合わせて御馳走に舌鼓を打っているように見えるが、いつもよりも小食だ。子供たちも口数が少なく、「おかわり」の声もなかった。驚くような御馳走を前に、平佐田も思うより食が進まない。


「さぁ。後ひと仕事じゃ」

 父親の声に二人の子供は、ぱっ、と立ち上がった。平佐田もまた腰を上げると、

「せんせ。爺さんに〝かるかん〟を持っていってくだせ。せんせも食うたらよか。美味いんじゃ、これ。婆さんは、これが得意でな」

 言った女将の口が、白く乾いていて、平佐田は薩摩女の逞しさをしみじみと感じた。




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