13話
目の前には自分がいた。
横たわる母に覆いかぶさって動かない血だらけの自分の姿を、何気ない風景の一部のように平然と見ていた。
体から痛みを感じる事はなく血も出ていない。服は綺麗なままだった。
どうして自分の姿が見えているのだろう。そんな疑問だけが漠然と頭に浮かんでいた。
気がつくと私と母の体が横たわっている場所には沢山の人が集まっていた。母の捜索に名乗りを上げてくれた人達だった。彼らが持っている松明の明かりでその場所だけが浮き出したように明るく見えている。
鍛冶屋の主人は私達の体を揺り動かし、動かない私達に向かって何かを必死に叫んでいる。やがてその様子を黙って見ていた一人の男性が鍛冶屋の主人を諫めると私達の体を揺り動かす事を止めた。そうして座り込んで放心したまま涙を流している。皆その様子をやるせない表情で見守っている。
すぐ近くにいる私に、誰も気がつく事はなかった。
不思議と声は聞こえないし、一切の音も聞こえない。無音の世界に私はいた。
そうして私達の体はそれぞれ抱えられ、その場から運ばれていくと、やがてそこには誰もいなくなった。
私はその光景をただ黙って見ている事しか出来なかった。
どれくらいそうしていたのか分からない。その場にずっと立ち尽くした。私はその場所から動く事ができなかった。何度も朝がきて夜がきた。そのうち時間という概念はすっかりなくなって、時の経過を感じる事はなくなった。
悔しい。悲しい。苦しい。憎い。そんな感情だけはいつも私の中心にあって、どんどん、どんどん膨れ上がっていく。
ある時、体は黒く染まりだした。怒りと憎しみ以外の感情を感じられなくなると私の手は真っ黒な靄になり果てていき、ゆっくりとその形は人としての造形を無くしていった。
そうして次は人としての思考も曖昧になっていくと憎しみだけが心の中を支配した。運命が憎い。父が憎い。そんな感情が心の中にどんどん湧き上がっていく。
ふと、目の前に人が立っている事に気が付く。その人物がいつからそこにいたのか分からない。
真っ白な肌で整った容姿の青年だった。肌と同じ真っ白な髪は癖がなく、短髪でサラリとしている。
私と同じくらいの年頃だろうか。真っ白なローブで全身を覆っていた。真っ黒で酷い形状になっている私を悲しげに見ている。
「遅くなってごめんね…。迎えに来たよ」
「これから僕がいう事をよく聞いて。君と君のお母さんは死んだんだ。このままここに居てはいけない。僕と一緒に行こう」
ひどく物悲しい顔をしながら、私を見てそういった。
無音だった私の世界に彼の声だけが聞こえている。その声を聞いた途端、人としての感情が戻っていくのが分かった。
死んだ…? 母さんも私も…? 恨みの感情に支配されていた私はその事実をやっと思い出した。
消えかけていた体はその形を取り戻していた。どす黒い肌の色はそのままだった。
目の前の青年は私の様子の変化にハッとした顔をしている。
「母さんは…どこ…?」
まだはっきりとしない思考のなか、絞り出した声でそう訊ねた。
「君のお母さんは自ら死を選んで死んだ。だからすぐに連れて行かれたよ」
「どこに?…どこに連れて行かれたの?私もそこに行きたい」
「落ち着いて。残念だけど、君はそこへはいけない。自ら死を選んだ人間はその罰を受けてもらう決まりなんだよ」
首を横に振りながら青年は静かにそう答えた。
「母さんはどうなるの!」
「天寿をまっとうした人間とはまったく違う扱いを受けるんだ。簡単にいうとその罪を長い時間をかけて悔いてもらう。その方法は酷く苦痛を伴う」
そういうと手の平を上に向けてからぼんやりした光を映し出す。そこに母の姿が写った。
鎖で体を縛られた母に気力はなく正座をしたままぐったりと頭を垂れ下げている。
「そんな…。自ら命をたった原因は母さんのせいじゃない。そんな事、あまりにも理不尽だ…」
「でも仕方のない事なんだ…。君も君のゆく道を行こう。さあ」
青年は自分の真っ白な手を私に差し出す。
私は青年の手を取る事なく下を向いてその場に立ち尽くしていた。
「このままここにとどまり続けていたら君は、そのうち闇に飲まれてしまうんだ。そのうちどんどん力が増幅して誰も手におえない存在になってしまう。この世界の人間を何人も巻き込んでその命を奪っていく。そうなる前に迎えにきた。
もう楽になろう。君は十分頑張った。君を見た瞬間、君がどうやって生きてきたのか僕にはしっかり見えたから」
「…私が身代わりになるから…。だから母さんを助けてください」
自然とそんな言葉が出ていた。
「身代わりになるだって!?そんな事は無理だよ」
「母さんを取り戻したい。生き返らせる事はできないの!?なんでもする!お願いだから!」
「君…それ、本気で言っているの?」
「本気だよ。守るってあの時誓ったのに…できなかった。後悔してもしきれない。お願いだよ…。助けて…」
青年は私をじっと見つめたまま何かを考えているようだ。
そうして暫く無言の状態が続いた。それから静かに口を開いた。
「…出来るよ…」
「本当!」
「本当はこんな事ゆるされないんだけど…時を戻って運命を変える事は出来る。でも…君にとってそれはリスクしかない」
「それでもいい。方法があるなら全力でやり遂げる」
「いい?よく聞いて。おそらく君のお母さんの運命が変わるポイントは、君のお父さんとの婚約が決まる少し前だ。もし…運命を変えられなかったら、その時点で君という存在は魂ごと完全に消えてしまう。その世界で本来の君が生まれるから。そうして君の代わりに生まれた君は今この時まで同じ運命をたどる。その後、今度は完全に闇に落ちて僕の仲間に消されるだろう。君のお母さんを救われずにあっちの世界で辛い罰を受け続ける」
青年は続けた。
「運命をかえられた場合、君は生まれてこなくなるからその時点でやっぱり君の存在は消えてしまう。
君の魂がその時どうなるのか今の僕には予想が出来ない。でも君のお母さんは救われて違う運命を辿って生き続ける。運命を変える事は簡単な事ではないよ。相当の覚悟が必要だ。これだけの事を受け入れられるのかい?このまま僕と行けば今度は平穏で幸せな人生に生まれ変われる。時を戻れば君という存在は危うくなる。さあ、どうする?」
「時を戻りたい」
私は何の躊躇もなく彼にそう答えた。
「ここまで説明しても答えは変わらないのか…。分かった。僕の力を少し分けてあげる」
そういって私の真ん前に立つとこちらをじっと見つめてきた。
私より幾分高い位置にある彼の顔は驚くほど整っていた。翡翠色の瞳は宝石のように綺麗だった。
おもむろに自分の手のひらを私の額にかざすと、暖かいものが注がれていく感覚がして本来の肌の色が戻っていく。
その瞬間、私の体はキラキラとした光に包まれていた。前方には光の渦が見える。
「あの光の渦に入ると、運命が分かれる少し前のポイントまで戻れる。運命を変えてみせてよ。見つからないうちに早く行って!」
「ちょっと待って。あなたの名前を聞いていない」
「僕の名前は…」
その言葉を聞き終えた瞬間、目の前が真っ白になって青年は消えた。
眩しい光に耐えられなくて目をつぶると、ふわりと体が宙に浮いているような不思議な感覚がした。
暖かい風が吹いて髪を舞い上げていく。どこか遠くで鐘の音が聞こえる。
私はゆっくりと目を開いた。