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1話


 朝日が昇る時間まではまだ随分ある。


 眠りから覚めた意識が徐々に覚醒していく。

 物音をたてないように静かにベッドから降りると、すぐ横の机にあるランプに明かりを灯す。ぼんやりとした明かりが辺りを照らす。ランプを持って水場まで行くと水を張った桶で顔を洗う。顔を拭きながら鏡を見る。短髪で癖のない金髪、青みがかった緑の瞳の自分が無表情でこちらを見ていた。 

 ふと襟首まで伸びてしまった髪に気がつく。手早くハサミで切りそろえる工程はもうすっかり手慣れたものになった。


 長い髪をバッサリ切って短髪にしてから格段に手入れが楽になった。

 寝着を脱いで胸に固く布を巻きつけ膨らみを隠す。白いシャツに袖を通して茶色いズボンを履く。最後に皮のベルトを着けてバックルを閉めれば支度は完了した。


 身支度を済ませると、いつものように眠っている母の様子を見に行く。穏やかな寝顔を見て安心した。

 昨晩の残りのスープとパンで朝食を手早く済ませる。

 食器の片付けをしてから、見つからないように隠しておいた一冊の文庫本を戸棚の奥から取り出す。 ボロボロになった浅葱色のその本を睨みつけるとたちまち、どす黒い感情がこみ上げてくる。手に持っているそれを叩きつけてしまいたい情動に駆られながらフックからジャケットを取って羽織ると、ポケットに乱暴にしまう。今日こそ、こんな本は燃やしてしまおう。


「じゃぁ行ってくるよ」


 眠ったままの母にそう静かに告げるといつものように仕事に向かった。


 辺りはまだ暗い。ランプの明かりを頼りにいつもと同じ時間にいつもと同じ道を通って仕事場に向かう。


 やがて一軒の家に着くと明かりの灯っている裏口から中に入っていく。


「おはようございます」


「おはよう。今日もよろしくな!」


 店の主人の元気な声が聞こえる。


「おはよう!レイ!」


 店の奥から女の子が姿を現した。

 自分より4つ年下のその子はとても可愛らしい。妹がいたらきっとこんな感じなのだろうなと思う。


「おはよう。アン」


「なんだ。アン。まだかなり早い時間だぞ。まだ寝ていなさい」


 主人がアンを叱咤する。


「うん。レイに早く会いたくって。それに今日はお願いがあったの」


「どうしたの?」


「学校から帰ったらまたお勉強見てくれる?今日は学校が早く終わるの。お昼前には帰ってくるの」


 上目遣いで私を見ながら少しモジモジしている。


「うん、もちろんいいよ」


 笑顔でそう答えるとアンはたちまちパッとした明るい表情になった。


「やった!やっぱりレイは優しいな」


 そういって私と約束を取り付けたアンは、再び奥の部屋戻っていった。


「まぁこの子ったら。それよりお母さんの容態はどうだい?相変わらずなのかい?」


 奥さんが心配そうにそう聞いてくる。


「今朝は顔色が良かったので少し安心しました」


「そうか、それは良かったわ。このまま良くなるといいわね」


「ありがとうございます。このまま体調が安定してくれれば僕も安心です」


「そうだな、きっと大丈夫さ。さあ、今日も張り切って仕込みを始めるぞ」


「はい!」


 白い作業着に着替えると早速作業を始めた。


 僕は…。いや…。私はこの優しい夫婦が営むパン屋で働いている。

 母と二人でこの町に流れついたあの日、彼らは困窮していた私達に手を差し伸べてくれた。使っていない小屋を貸してくれ、その上私に仕事まで与えてくれた。母と二人、今暮らしていけるのは彼らのおかげだ。感謝しかない。しかし私は、そんな彼らに言えない事実がひとつだけある。それは私が女性だという事だった。私は今、男として偽りの性で生きているのだ。


 それに至るには、私がそれまで生きてきた16年間の人生に原因があった。


 私は元々裕福な商家に生まれた。母は私と同じ金髪だが彼女の髪は黄金のように美しい。上品な雰囲気の美女で穏やかで優しくて時々そそっかしい性格だ。


 その時にはまだ父もいた。しかし私は父との思い出が無い。覚えている事といえばいつも父は卑屈な表情をしていた。父は毎日、母と私をいないもののように扱っていた。それゆえ私は父と話した事も無ければ笑った顔もただの一度も見た事が無かった。母は毎日、そんな父を悲しげに見つめていたことを思い出す。

 私と目を合わせる事も無かった。父はただひたすら、私達に無関心を貫いていたのだ。だから私は父親という存在がよく分からなかった。

 しかし母は、いつも優しく笑顔で育ててくれたおかげで、私は寂しい思いはしなかったように思う。


 そんな生活は私が10歳の時、唐突に終わった。

 父が突然いなくなったのだ。

 原因はよく分からなかった。

 しかし祖父は何か知っているようだったが私達にはその一切を知らせてはくれなかった。

 そうして父がいなくなってすぐ、祖父が母に話していた事を今でもはっきり覚えている。


「すまない。君を君の家に戻すことにした。跡取りにならないから娘も連れて行っていい。あの子が男だったら何か変わっていたのかもしれない」


 そう祖父が母に話しているのを偶然聞いてしまったのだ。ショックのあまりその後の行動は今でも思い出せない。

 その晩、それまで気丈に振舞っていた母が夜中に一人で泣いている姿を見てしまった。

 この時から私が女として生まれてしまった事に罪悪感を持つようになった。私が男だったら母が悲しむ事はなかったのだろうか。そんな問いをいつも持つようになった。


 そうして私は私が女である事に徐々に嫌悪していった。その時から長い髪もスカートも女の子らしいものは一切好まなくなっていく。


 父の失踪からわずか数週間後に私達は家を出された。そうして母の生家に戻ると母の父は丁度不在だった。在宅していた継母が母の対応をしたのだがそこでまた驚く事を言われた。


 母は幼い頃に本当の母親を病気で亡くしていた。その後しばらくして母の父、私にとっての祖父は再婚した。その相手があの継母だった。


「あなたが戻ってきても貴方の居場所はもうこの家にはないのよ。家督を継ぐあなたの弟がもうすぐ結婚する。だからここには置いておけない。出戻ってきた姉がいるとなるとあの子の結婚に支障がでるといけないのよ。だからごめんなさいね」


 そうはっきり言われた。初めて会う祖母はとても冷たい人間に見えた。結局祖父に会う事は出来なかった。祖父の不在を理由に私達は祖母に帰されてしまったのだ。

 大人達の非情な対応に幻滅していた私は余程ひどい顔をしていたのだろう。


「大丈夫よ!どうにかなるわ!そうだ、この際旅をしてみない?そうして各地を回って気に入った土地と出会えたらそこに住みましょう。ね?ほら。楽しくなってきたわ」


 そういって私を元気づける母はこんな状況になっているのに、笑っていた。なんて強い人なんだろうと思った瞬間、今までずっと後ろ向きだった自分が急に恥ずかしく思えた。目が覚める思いだった。自分もしっかりしなければ、母を支えて行こうと決意した瞬間だった。この日を境に母が泣いている姿を見る事はなかった。


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