主体の欲望に沿って世界を捻じ曲げる事
少し前に『「村上ワールド」と「川上ワールド」』という文章を書いたのだが、他の文章と内容が似ていると思ったのでボツにした。ところが、今読んでみると、興味深いと感じる点があったので、もう少し一般化してみたい。
説明すると「村上ワールド」とは作家・村上春樹の小説世界の事で、「川上ワールド」とは作家・川上弘美の小説世界の事だ。それぞれに「ワールド」という名が漠然とついている。しかし、自分はこの「ワールド」というのは必ずしも良いものではないと思う。そうしてそれは今の色々なコンテンツ、いやフィクションだけではなく、現実全般、僕らの物の見方全体に及んでいる。
村上春樹という作家を取り上げると、確かに村上春樹の作品は心地良く、文章のリズムに乗って最後までスラスラと読んでいける。また、タイトルにしたように、村上作品は、主体(後で説明する)の欲求に沿うように世界が構築されているので、整備された世界の中でスムーズに進んでいける。これは確かに心地良い体験だろう。
村上春樹のエッセイなんかに顕著だが、村上春樹は、自分には適切なタイミングで「特別な事」が起こるとか、自分には「特別」(小説家として)なものがあると結構本気で信じている部分がある。
自分の友人なんかが「俺は運が良いんだよね」とか、「俺には良いタイミングで何かがやってくるんだよね」という風な事を言っていて、それを聞いて僕はその友人の凡庸さというのを確認した(凡庸さというのは決して悪いものではない)。凡庸な人間は、自分を特別な人間とみなすものである。この人間は、自分の特別さを強調する事によって、特別ではないごく普通の人になっていく。動物は、人間よりも遥かに自己中心的に世界を見ているだろう。
村上春樹を例に取るが(毎度ですまん)、村上春樹の「ワールド」は、「作者・主人公・読者」という中心的な観念、つまり「主体」の要請するような心地の良い世界となっている。村上はさすがに小説巧者なので、ただ心地よい道を作るだけでは退屈になるのを知っている。小説家としての彼は技術的に、道の途上に躓きの石を置いておくのも忘れていない。だが、それらは、主体が気持ちよく最後を迎える為の途中段階にすぎない。このあたりを村上春樹はよく心得ている。
…今、「村上春樹はよく心得ている」と言ったが、それは村上春樹自身が意識しているように、あくまでも形式的な小説技法としての話である。本来的に文学というのは、主体が心地良くなる為のものではないだろうし、そういう次元ではない古典というのが我々の目の前にあるから、そういうものと村上春樹を比べるのは許されるだろう。
これまで書いた部分は村上春樹とか川上弘美とかいう小説家に限った話であるが、「村上ワールド」「川上ワールド」という言葉からもっと違うエリアに飛び出ていっても構わないのではないかと思う。何が言いたいかと言うと、異「世界」小説とか、「セカイ系」あるいは、その他にも、『私』や『我々』にとって都合のいいように世界を捻じ曲げ、そうした世界や『私』を良しとする、そういうコンテンツ、イデオロギー、こういうものはひとまとめにして、現在のトレンドと言えると思う。あるいはこういう状況は歴史的にずっとそうだったのかもしれない。
言うまでもなく「異世界小説」は、一部の読者の為に気持ちの良い空間が開けている。これは、主体の引力に左右されて、空間そのものが捻じ曲がっていくようなものだ。ここでは、空間や時間が客体的なものとしてあるような、古典科学の世界ではない。主体の在り方や願望によって世界も捻じ曲がる、新しい法則の世界だ。
当然、これはインターネットが促進するという事になる。僕は村上春樹という作家に何が足りないかと言うと、端的に言えば「リアリズム」だと思う。彼にはリアリズムが足りない。もっと言えば、現実と対決する姿勢が足りない。足りない部分は、メタファーとして浮き上がってしまう。信頼するある友人もその点を批判していたが、村上作品にある不思議な要素、幻想的な意味ありげなもの、そういうものが現実と何の対応もなく放り出されるが、そこには意味はない。これはポストモダン的な、趣味的な、唯名論的な、実在を欠いた物の見方と大体一致する。
カフカと比べると、カフカの「変身」で、主人公が虫なのは、ファッション的な面白設定ではない。そう読めるというだけの話だ。カフカに実際に会った人が、「カフカという人はとても優しい人だったけれどいつも人との間にガラス一枚挟まっているような人だった」というような発言をしていたのをどこかで聞いた事がある。カフカの虫設定はカフカ自身の疎外感の象徴であって、それはカフカの宿命にまっすぐ続いていく。僕達はカフカを読む時、単に面白い物語・小説を読むのではない。カフカの宿命を読んでいる。そうして彼の魂に、僕らは作品を通じて入っていく。
偉大な作家の作品というのは、個別的、実存的であるからこそ普遍的であるという、普通の観点からすれば不可思議な形式を持っている。石川啄木の短歌に現れる詩情はただの暇人のそれではない。彼の理想が現実から疎外されても、それでもそれを捨てきれない男の宿命を語っている。
村上春樹作品は現実との戦いを避けるが、カフカは現実に押しつぶされる自己を象徴的に描く。ここに違いがあるが、これは村上春樹一人の問題ではない。最初に「ワールド」の話をしたが、ゲームの宣伝などでも、「壮大なストーリー・広大な世界」なんて謳い文句が頻発する。
我々はいかに簡単に「世界」を作るだろう。いかに、壮大な「物語」を乱発するだろう。それらは、作るのは実はそれほど難しくない。「想像力」や「クリエイター」の名前に頼り、主体の欲求に合わせて世界を捻じ曲げるのはそれほど困難ではない。重要なのは世界を捻じ曲げる事ではない。世界を正しく認識しようとする事だ。そうしてその認識はおおよそ、認識に対する認識、つまりは我々が世界をどのように見ているかという事を見ていく視点へ昇華していくと思う。
先日、店の看板が落ちてきて、たまたまそこを通りかかった中年男性が、直撃して死んでしまったというニュースを見た。この男性のなにかが悪かったわけではない。看板が落ちたというのは、単なる物理現象にすぎない。人は「建物の管理がなっていない」とか色々言うであろう。確かにそうかもしれないが、この問題は無限に拡散していくだろう。
若年期に癌になって死を宣告された人は、「何故自分なのか?」と何万回も問うだろう。その問いに答えは出ない。にもかかわらず、人はそこに答えを、因果関係を、物語を求めようとする。「〇〇していたから△△になった」とか「〇〇していたから大丈夫だった」とか様々な物語を導入する。しかし生の理不尽さは必ずどこかでやってくる。
そもそも我々は「意識」というものを持っている。考えてみれば、二十歳の自分と四十の自分が同じ自分というのは変な話である。一体どこに同一性がある? この同一性は、ある種の統合が人間の中で行われているという事だが、この統合によって人は二十の自分も四十の自分も同一のものとして認識する。そこには同一の、普遍のものがあると感じている。すっかり顔は変わり、考え方も変わったのに、それでも同一なものがあると我々は至極当然のように信じている。
この同一性からすれば、死は理不尽なものに見える。死はこの同一性を断ち切るからだ。しかし、死がどうせ自己という同一性を断ち切るなら、どうして自然は人間に「自己」などという同一性を与えたのだ? ここに人間の悲しい嘆きが現れる。
こういう場所からカントもドストエフスキーも巣立っていったように僕には思われるが、それは置いておく。
村上春樹に翻ってみると、村上春樹にしろ何にせよ、自分を特別である、自分が宇宙の中心であるとか、そこまで行かなくても自分には「特別な何か」があるとか、自分は「運命の出会い」を経験したとか、そういう全ては自己というものの同一性が、世界に晒された時の理不尽性を未だ体験していない者がなんとなく自分に溺れていられる状態にすぎない。人はこの状態に溺れようとする。もちろん、僕もその気持ちはある。きっと人一倍強いだろう。だが、そのような状態が不可能だとふと気づく時がくる。
看板は僕を避けて通っているのではない。僕は理由あって、生きる価値があるから癌になっていないのではない。ただ看板に当たらず、ただ癌にならなかっただけなのだ。ただそれだけなのだ。
現実は理不尽なものとしてある。だが、人は因果律や物語といったものを導入せずには世界も自分も認識できない。ある日、急に病になる。死に近づく。何故なのか。答えは出ない。答えはーー人間は『答えを探し求める生き物だから』だ。看板が落ちたのがただの偶然だとしても、自分の脳髄が割れる音を聞いたとしても、その全てが偶然だとしても、我々は血眼で『意味』を見つけようとする。それでも意味の向こう側に現実はあって、我々は日夜この現実と闘争している。
(この「意味」を求める行為が、最初偶然と思われていたものの因果関係を見つけたり、科学を成立させ、再現性を可能にし、社会を規律あるものにし……と考えると、この行為は実に大したものだ。自分はそれにもかかわらず、これには先天的な限界が課せられていると思う。我々は不老不死になったとしても、そこに何らかの限界を、つまりは生の嘆きを感じるだろうし、もしそれを感じないとしたら、若死にするよりも遥かにひどい人生を送る羽目になるかもしれない……)
ところが、この闘争を忘れ、主体の認識にとって都合のいいように客体を歪めると、そこに多くの人に心地の良い空間が現れる。思うに、芸術というものが世界に対する闘争としてあるというのが、本物の芸術家にとってあまりに必然であるという事、それを一般の人が鼻で笑い、絶えず権威や金や数でしか測れないという事、それらは矛盾しているものではない。
人はそもそも芸術が現実と闘う事の意味がわからない。彼らにとって芸術は現実からの「逃避」であるからだ。彼らは、ふと生活とは違う場所で心地良くなりたいと願う。そこでそのとおりの世界がやってくる。読者は喜び、作者を褒め称える。作者は何を見たのだろうか。彼が見たのは読者の望むものである。この世界でもなければ人間でもない。
しかし、人がこう言うならそれも正しい。つまり、「自分を特別だと思いこむのが間違いであったとしても、人としてそれを止める事はできない」という意見だ。これは確かにそうだろう。ただ、自分をただ特別だと漠然と考え、酔いとまどろみの中に生きる事と、自分は酔いやまどろみの中でしか生きられぬと悟るのは全く違う話だ。村上春樹のような人であれば前者、つまり彼は本当に酔ってしまっていると感じる。
この酩酊に同調すると確かに心地よい。しかしこれを抜けると全ては青ざめて見える。逆に、理不尽とも、残酷とも、意味不明とも見えていた過去の古典が生き生きした人間的なものだと感じられてくる。彼らは偽りの温かさに安住しなかった。だから、彼らは温かく感じられもする。それは厳しさから逃げ出さない温かさだろう。
(川上弘美の「センセイの鞄」は温かくてほっこりする作品に見えるかもしれないが、僕から見れば冷酷な作品である。冷酷さを消去し、自分達を絶対にする事に何らの意識も感じていないという点で極めて冷酷だ)
話が長くなったが、自分は現在のコンテンツは、その傾向からして、主体の欲望に沿って世界を歪めて形成するものであると思う。そうしてこの状態は、多数者が自分にとって心地よいと感じ肯定するが為に、これは客観的な価値があるとされる。多数者は客観性と一致するとされる。
主体は世界を歪めて見る。それはやむを得ない人間の限界だろう。ただ今の状態はそのようなレベルの話ではなくもっと手前にあって、仮に「異世界小説」がつまらないものだと深層で我々が感じていても、それらが心地よいと感じられ、それが称賛されるのであれば、それは市場や企業や顧客という形で現前化され、意味のあるものとなる。我々の欲求は物質化する。物質化したものを我々は再び受け取る。ここに循環がある。
「カラマーゾフの兄弟」でイワンが一体、どんな目にあったのかを思い出してみよう。これに関してミハイル・バフチンの批評は僕の目を開いてくれた。イワンはろくでもない父親に死んで欲しいと願っている。ところが、彼は自分の良心に対して公正でありたい。やましい部分を残したくない。そこでイワンは、「自分は父親を死んで欲しいと願っていないと確証された状況下において、父親に死んで欲しい」という願望を持つ。もちろん、この願望は彼の無意識に圧縮されている。
この複雑な無意識の声を悪漢であるスメルジャコフは読み取って父親を殺す。イワンは最初、スメルジャコフは殺していないと思っていたが、次第に真実が明らかになっていく。彼は気づく。「俺は父親に死んで欲しいと願っていた。俺が父を(間接的に)殺したのだ」 …ところが、ここにアリョーシャの言葉が響くのである。「兄さんがやったんじゃありません!」
思えば、「オイディプス王」というのも、主人公のオイディプスが自分の罪を認識していくという過程において、偉大な悲劇だった。イワンの悲劇もそれに似ている。それは自覚の物語である。認識の物語だ。酩酊の、心地よい物語ではない。これらの悲劇では、甘い幻想を苦い真実が打ち破っていく。それでも、彼が敢然と真実を受け取るその姿勢に英雄性が存在する。これらは酩酊の物語、快感を与えてくれるものではない。だが、我々の底の一番深い部分では、我々はこの物語の在り方に納得するはずだ。
主体の在り方によって世界を歪めてみても、その底に真実はある。主体の数を増やし、それを「私」から「我々」に変えて、売上によって、数によって客観性をいくら担保してみても、それを越えるものが本当の意味での認識としての、真実を知る物語という事になると自分は思う。世界は、特にネットによってそのまま主体化され、その内部においては客観性であるかのような見かけを保っている。断絶が起きているのは我々の意識の浅い部分と深い部分であって、村上春樹は「地下」に行く事によって普遍性を獲得しようとしているが普遍性は、我々には普遍とは思われないような場所に眠っている。
イワンほどの自意識家でも自分の深層に最初気づく事はできなかった。「地下」に赴くのは苦しいものだが、村上春樹はじめとして多くのコンテンツは我々の深層にまで行かずに、表層にうまく合致する。だが、偉大な悲劇はその先へ行くだろう。そんな悲劇は未だ書かれていないかもしれないが。まず我々は自分の客観性は共同化された主観性であると気づくべきではないかと思う。そうして、その外側に、イワンのように、オイディプスのように、見えない真実が隠れているだろう。世界は我々が思っているよりも遥かに広い。しかし、その事を我々自身が認識しなければならない日がいつかやってくる。おそらく、我々がまだ何も知ってはいないという事を気づくのも、(別の意味での)「我々」なのだ。