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童、その日鬼と行き合いて

ガジンが死んだ。


見たわけでは無いが、確かな事らしい。


集めた古釘でも買い取ってもらうか、と思って店に行けば、役人がたむろしていた。死体の振りで事情を探った所、どうやら洛中で暴れて、駆けつけた武士に射殺されたようだ。


何やってんだあの馬鹿。見た目こそいかついが、度胸も無いし腕っ節も無い癖に。


なんて、馬鹿な事を。


路に横たわったまま、役人共の話に耳をそばだてる。


「や、や、凄かったぞ、あの弓の腕。お前、見たかよ」

「おう。見た、見た。ああいうのを、矢継ぎ早ってんだろうな」

「おおよ。こう、矢をつがえてな、立て続けに、びょう、びょうと。いや、すげえもんを見た」

「おお。ばす、ばすと心の臓を射抜いてな。大した業だよなぁ」

「おおよ。ならず者なんぞにゃ、勿体ねえな」

「ちげえねえ」


げらげらと。


てめえらに、てめえらなんぞが、何を知ってると言うんだ。


「しかしよ」

「おう」


役人共が声を落とした。


「……お前、見たかよ」

「……おう」

「心の臓、射抜いてたよな」

「おう。胸の、ど真ん中だった」

「なあ、人ってのはよ」

「おお」

「あんな、心の臓をよ。ばすばすと射抜かれて、動けるもんだったかよ」

「動けるかよ」

「動いてたの、見たろう」

「……おお。おっそろしい形相でな。俺ぁよ、喰われるかと思ったぞ」

「俺もだ。何だったんだ、ありゃあ。眉間射抜かれて、首刎ねられて、ようやくだぞ」

「何って、そりゃあ」

「鬼か」

「鬼よ」


ガジンが、鬼? あの、口と人相の悪い、それだけが悪い、お人好しの馬鹿が?


こいつら、何を言ってんだ。


「見たろう、あの、荒縄みたいに盛り上がった腕」

「おおよ。あんな剛腕で殴られたら、そりゃあ、なあ」

「おお。馬に蹴られたって、ああはなるまいよ」


ふざけた様子は、無い。ガジンはいかつい体つきではあったが、そんな人間離れした膂力など無かったし、見た目だって剛腕という程のものでは無かった。


「それによ」

「おう」

「額のあれ、見たかよ」

「見た」

「いぼ、じゃあ無えよなぁ」

「あんな尖ったいぼがあるか」

「じゃあ、なんだ」

「お前、そりゃあ」




「鬼の角、だろうよ」


◆◆◆


頭がどうにかなりそうだ。


ガジンは死んだ。それは間違いない。


洛中で暴れて、何人か殴り殺して、武士に殺された。それも間違いない。


殴られた奴は馬に蹴られたよりも酷い有様で、ガジンは人間離れした暴れ方をして、おまけに額に角が生えていた。


なんだ、それは。


足元が覚束ない。歩きながら手をついていた板塀に、がんと額を打ちつける。痛みがある。夢、では無い。


額の血をぬぐって、歩く。


夢では無い。役人共も正気に見えた。噂で聞いたとかでは無く、見たと言っていた。二人そろって白昼夢を見たか、仕事の最中に芝居を始めるような阿呆だと言うので無ければ。


本当にそうだった、という事になる。


鬼。鬼と言ったか。鬼の角と言っていたか。


鬼の、角。


トグラが、ガジンに売った、あれがまさか、本当に。


ガジンは腹の調子が悪いと言っていた。鹿の角は腹に効くか、とも言っていた。粉にして、服したのかも知れない。


それで? それで、鬼になったとでも、言うのか。馬鹿な。そんな馬鹿な事が、あるわけが。


無い、と。言えるのか。




日の高い内にねぐらに帰る事など無いから、スミレを驚かせてしまった。


あまり心労をかけたくは無いが、ガジンにはスミレも世話になった。話さない訳にもいかない。あんなお人好しの故買商など他に知らないから、生活が苦しくなるという理由もある。


トサカは、と問えば、今日はうさぎ捕りじゃなく盗みの方に出たらしい。間の悪い奴だ。


ガジンが死んだ、と告げれば、スミレは悲しげに頷いた。詳しくは聞かれなかったし、話さなかった。人死になんて、ありふれた事だ。珍しくもない事だ。洛中を歩いて、死体を見ない日など無い。


荒屋の壁に寄りかかって、目を閉じる。


人死になんて、珍しくは無い。


だが、役人共の話が嘘や戯言でなければ、ガジンの死は尋常な物では無い。そして、トグラが持ち込んだ鬼の角。あれがガジンの死に関わっているのであれば。


ぺたり、と冷たい物が頬にふれた。


「顔色、ひどいよ」


川で濡らしてきたのだろう、水を絞った布だった。冷たさが心地よく、スミレが顔を拭うにまかせた。


「額も、血が出てるし」


そりゃ、自分で打ったんだ。


「あんまり、無理しちゃダメだよ」


一通り拭って満足したらしいスミレが立ち上がって、荒屋を出て行った。布を洗いに行くのだろう。トグラは、目を細めてその後ろ姿を見た。


「……そうだな」


スミレには聞こえないとわかっていたが言の葉に乗せた。自分に聞こえれば、それで十分だ。


大事な物が何かは、わかっている。


それ以外は、捨て置く。ずっとそうしてきた。


今度も、そうするだけの事だ。


◆◆◆


捨て置くと決めたのに、帰ってきた馬鹿の手には鬼の角もどきがあった。ガジンの店に残っていたものをちょろまかして来たらしい。


べらべらとよく回る口が今日の土産話を語る。


「いやいや、いつも通りに働いてたらさ、ガジンの旦那が暴れて射殺されたって小耳に挟んでよ。ちょいと店の品を失敬しようと思って店に行ってみたわけよ。あれ? 二人とも驚かねえな。もう知ってんの?」

「うん。トグラから聞いた」

「なんだ。まあいいや。それでな、食いもんでもあればと思ったんだがよ、やっぱり近所の連中の方が早かったみたいで、ろくなもんが無くてよ。ああ、無駄足踏んじまった、と。こう、額を叩いたんだが」


ぺち、と自分の額を叩く馬鹿。


「その拍子に、小屋の隅っこ、ほれ、ガラクタみたいなのを寄せ集めてたあそこだよ。みたいって言うか、ガラクタなんだけどよ。近所の連中も承知だから、気にも留めなかったんだろうな。そこに、白いもんが転がっててよ、何だこら、と取り上げてみりゃあ、どうやら角らしい。最初は捨てちまおうかとも思ったが、何ぞの角は薬にもなるって聞くじゃねえか」

「鹿の角だよ。それ、トグラから聞いた話でしょ。ずっと前だけど」

「そうだったか? まあ、それでな、俺はガジンの旦那ぐらいしか知らんが、トグラだったら上手いこと食いもんに替えて来れるかもしれんと、そう思ってよ。どうよ、中々の機転だったろう」

「もう、トグラ頼みじゃない」

「うっせ。どうよ、トグラ。食いもんになるか?」


馬鹿が口を止めて、こちらを見た。


鬼の角もどきを掌で転がして、眺める。白く尖ったそれは、いくらか削れていた。ガジンが削ったのだろう。


何も自分の体で試さなくとも良いものを。


「トグラ?」

「ん。ああ、まあ、やってみる。ガジンの他に信用できる故買商なんぞ、俺も知らんが、何とかするさ」

「おう、頼んだぜ。やれ、難儀したぜ。暑いし、腹の調子は悪いしよ」

「また落ちてる物食べたんでしょ。ダメだよ」

「疫に罹るってか。まあ、熱は無いし、大丈夫だろ」

「もう」

「大丈夫だって。なあ、トグラ」

「あん?」

「鹿の角って、腹に効くか?」


この、馬鹿が。


「効かねえ。かえって腹を下すぞ」

「なんだ、そうかよ」

「おう。まさか口にしちゃいねえだろうな」

「おっ。なんだ、心配してくれてるのか?」

「ばーか」


馬鹿は放っておいて、筵にくるまって寝る。


口に入れてなきゃ、それでいい。


◆◆◆


夢見は相変わらず悪かった。


翌朝、日の出ないうちに荒屋を抜け出す。


トサカは高鼾、スミレは気づいたようだが、軽く手を振ると目を閉じた。いつもよりは早いが、トグラが早い時間から働きに出るのは別に珍しい事でも無い。そう思ってくれたのだろう。


川沿いに南へ下り、道すがら笹の葉を取って、歩きながら舟を編む。


ねぐらにしている荒屋より下流にある、橋がかかっている所。この辺りならいいだろう。


河原に下りて、手頃な石を探した。丁度よく、平らなのと、尖ったのがあった。


平らな石の上に鬼の角もどきを置いて、尖った石を打ちつける。金床と槌があれば良かったが、角なんて骨とさほど変わらない。鬼か鹿か知らないが、そこは変わらないようで、割り砕くぐらいなら石でも十分だった。


辺りに人がいない事を確認して、服を脱ぐ。まだ暑いと言っても、濡れた服を着て過ごせば風邪をひくだろうし、仕方ない。禊ぎの為に衣を用意するほど余裕は無い。


裸のままざぶざぶと川に入って身を清める。夏の盛りは過ぎたし、黎明前だ。川の水は冷たい。


手足を清め、背、腹、胸を清め、頭と顔を洗って、口を濯いだ。


ざぶざぶと川を出て、笹の葉で編んだ舟に、割り砕いた角を乗せて、ざぶざぶと戻る。


腿が浸かるほどまで入って、舟から角を口に移した。


口に含んだ角を口噛み、唾液をまぶして舟に戻した。


トグラは神も仏も信じない。霊や鬼の類も信じない。吉だの凶だのは以ての外だ。


それでも。


角を乗せた舟を口に咥え、払暁の空に向かって、山々から顔を出そうとする日輪に向かって、拍手を打ち、礼を拝し、再び拍手を打った。


天に祈るぐらいは、してもいいだろう。


川底に膝をついて、ゆっくりと舟を川に浮かべて、手を離した。


割り砕いた角を乗せた舟が、川の流れに乗って、南へ、南へ、下っていく。


岸に寄る事もなく、南へ。此方よりはるか遠い、彼方へ。


立ち上がって、トグラはそれを見送った。


◆◆◆


岸に上がって体を濡らす露を払って、服を着た。肌寒いが、直に日が出る。すぐに暑くなるだろう。


路に戻る。


橋のたもとにヌヱノがいた。薄暗がりでも見間違えようのない奴だ。


「おう、(わっぱ)


なんでいるんだ、こいつ。


ヌヱノは狩衣の上に女物の単を羽織る、相変わらずのけったいな格好だった。


「……見てたのか」

「ああ? 何をじゃ」


裸を見られた訳ではなさそうだ。


「見てねえならいい」

「相変わらず腹の立つ童じゃな。今日は小綺麗じゃが」


服はともかく、という一言は余計だ。


「水浴びしたばっかりでな」

「なんもこんな朝早くにせんでもよかろうに」

「俺の勝手だ」

「まあ、そうじゃが」


そうごちながら、顎をさする。そう言えば、今日は槍を持っていない。トグラとしては安心できる話だ。


「今日は、槍持ってねえんだな」

「おう、それよ。お主(おんし)、鬼の角は見んかったか。いつまでも見つけられんから、槍働きよりもそっちを先にせいと言われてな。頭領に取り上げられてしもうた」

「そりゃ、残念だったな」

「うむ。おかげで七夕は働き損ねたわい。洛中での鬼退治なんぞ、名を上げるに打ってつけの機会だったのじゃが」


同輩の自慢話が心底腹立たしい、とこぼす所を見るに、暴れたガジンを討ち取ったのはヌヱノの一派だったらしい。


ガジンは鬼なんぞじゃねえよ。言わないが。


「いや、槍の話じゃねえ。鬼の角の方だ」

「む?」

「見つけたんだがな」

「おお!」

「さっき、川に流した」

「川ァ!?」


素っ頓狂な声を上げたヌヱノが橋の欄干に駆け寄って、下流を見やった。もちろん、それで見える訳もない。流したと言ったろうに。


「笹舟に乗せて流したから、見えねえよ」

「童」


くるりと振り返ったヌヱノの表情は真剣だった。


「どのように流したか、詳しく話せ。次第によってはお主を捕えねばならん」


声音は本気の色を帯びていた。


適当な事を言えば、本当にやるだろう。


「詳しくってもな。割り砕いて、身を清めて、口噛みして、笹舟で流した。そんだけだ」

「……なんじゃ童、お主、どこぞの神職所縁の(もん)か?」


うるせえよ。


「聞きかじりの見よう見まねだ。問題あるか」

「……むう。祓えの祝詞はどうした」

「知らんから、お天道さんを拝んで代えた」

「……ぬぬぬ」


がしがしと頭を掻くヌヱノは、随分と人間臭く見えた。


「があ! 分からん! もう良いわ! 童、お主のねぐらを言えい。なんぞ問題になったら話を聞かせてもらいに行く!」


それで素直に言う奴があるか。


「いいけどよ。もっと下流の橋で路を東に折れて、すぐの廃屋だ。ぼろぼろだが、床も屋根もある。戸口に朝顔が植わってるからすぐわかるだろうよ」

「おい。嘘をつくな」

「ああ?」

「儂にはわかる。嘘をつくな」


うさんくさい。


が、噛んで含めるように言う、ヌヱノは真剣だった。


「……川沿いをすこし北に上った所に荒屋がある。壁がところどころ破れた掘っ立て小屋だ。そこが、俺のねぐらだ」

「よし。存外素直じゃな」


用は済んだとばかりにヌヱノが背を向けて歩きだした。自分で口にして何だが、今の適当な説明でいいのか、こいつは。トグラにとっては世話がなくてありがたい話だが。


ねぐらは引き払って、別の所に移すとしよう。


「おう、そうじゃ童。一つ聞かせよ」


まだ用事があるのか。


「なんだ」

「お主、名を何と言う」


今頃、それを聞くあたり、この得体の知れない輩はつくづくとずれている。


「トグラだ」

「よし、覚えた。トグラじゃな」

「俺からも一ついいか」

「なんじゃ」

「嘘がわかるなんて、ハッタリだろう」


じっと目を合わせながら、言う。交渉の経験はそれなりにある。嘘を見抜く事ぐらい、多少ならトグラにもできる。


星がちらつく薄明の下、ヌヱノは口角を吊り上げて、くひっと品の無い笑いを上げただけだった。


立ち去るヌヱノの背を眺める。


相変わらず、判別のつかない奴だった。


ぬゑなんて名乗るだけあって、トグラの眼力程度では、嘘とも真ともつかなかった。


◆◆◆


一度ねぐらに帰って、スミレにねぐらを引き払う準備を頼んだ。


ヌヱノにねぐらを知られたから、と説明したら会ってみたいと言うのには閉口させられた。


「俺はもう会いたくねえ。顔も見たくねえ」

「もう。人気の無い時間に孤児がうろついてるのを見つけて、不審に思っても叩き殺しにこないなんて、すごくいい人じゃない」


いい人、では無いだろう。口にするのも気分が悪いので、ヌヱノの話は打ち切る事にする。


「トサカは?」

「もう出たよ。今日は兎だって。昨日のご飯じゃ足りなかったみたい」

「あいつ、ほんっとに最近よく食うな。自分で捕まえてくるんなら、いいけどよ」

「ふふ。私も、最近ちょっとお腹が減りやすいから嬉しいかな。そろそろ、私も働きに出た方がいいかも」

「……大丈夫なのか」

「もう。いつまでも子供じゃないんだから、大丈夫だよ。背も伸びたし、力だって今ならトグラよりあるよ、きっと」

「俺みたいなちびより力があったって、仕方ねえだろうに」

「無いよりはずっといいよ。兎捕りも、草摘みも。トグラみたいな働き方は出来ないけど」

「ああ、胸がつっかえちまうしな」

「もう!」


手を振り上げたスミレから逃げて、働きに出た。




稗やら粟やらを掠めては故買商を回る。


故買商なんてろくでもない輩ばかりだ。ガジンのようなお人好しは、そういない。分の悪い取引が出来れば御の字で、追い払われるのがマシな方、タチの悪いのはこちらの品だけせしめて知らぬ顔。


つくづくと、ろくでもない輩ばかりだ。


稗を古布に替えて、また稗に替えて、と繰り返していく。獲物は目減りしていく一方だが、まともに取引ができる相手かどうか、という情報は銀にも勝る。銀は食えないしな、とトサカは言いそうだ。


そうじゃねえ、と頭の中でトサカを張り倒した頃、ぽつりと頬が濡れた。空を見上げれば分厚い雲がかかっている。


一雨来そうだ。


幸い、手元にあるのは稗だ。今日は切り上げて、ねぐらに帰るとしよう。何軒か、取引が出来る相手も見つけた。冬を越すのも、何とかなるだろう。


駆け出した背に、ごろごろと鳴る音が響いた。


◆◆◆


途中、雨の激しさに辟易して雨宿りをしたせいで、帰る頃には日が暮れかかっていた。雨は止んだし、分厚い雲は去ったようだが、まだ薄雲が残っている。辺りは薄暗い。


軒下に血抜きした兎が吊るされている事に眉をひそめる。


雨は激しかったから、せっかくの獲物が濡れている。水に濡らしては痛むのが早くなる。あれだけ口を酸っぱくして言ったのに覚えていないのか、あの馬鹿は。


もしかしたら、何羽も捕れて一羽ぐらいなら、と考えたのかもしれない。そうだとしたら心得違いもはなはだしい。


どちらにせよ、今日のうちに食ってしまうほかには無いので、懐から愛用の刀子(とうす)を取り出して、兎を吊るしている麻紐を切る。実家から持ち出した刀子は丈夫な良い品だが、そろそろ切れ味が鈍くなってきた。トサカに預けてあるもう一つも、そろそろ研がねばならない頃合いだろう。


そういえば、砥石はいつもガジンに借りていたんだった。明日あたり、店に残っていないか見に行くとしよう。ガラクタにまぎれているかもしれない。


皮の鞘に収めた刀子を懐にしまう。


それにしても、いやに静かだ。


トサカが先に帰っているなら、ぎゃあぎゃあと騒いで、スミレに叱られて、となっていそうなものだ。


腹の調子が悪いとか言っていたし、寝込んでいるのかもしれない。


戸の無い戸口から、荒屋に入る。


仕切りも何も無い掘っ立て小屋の中で。


スミレは口元を押さえられて、下半身を丸出しにした男にのしかかられていた。


尻をこちらに向けたその男は、トサカだった。


かっと頭に血が昇って。何も考えず、加減もなく、丸出しの急所につま先をぶちこんだ。


馬鹿が醜い悲鳴をあげて転がる。捨て置いてスミレを助け起こした。


「大丈夫か」


結局、トサカも男だった。


「私は大丈夫。トグラこそひどい顔色だよ」


ちょっと、昔見たものを思い出しただけだ。口には出さない。


「……一応聞くが、無理強いだな?」

「そう、なんだけど」


よし、殺して埋める。ぎいぎいと煩い、あのケダモノを。


「待って、トグラ」


背を向けたトグラの肘をスミレが掴んだ。


「なんだ。許せ、は聞かねえぞ」

「違うの。トサカ、変なの」


身内同然のスミレを犯そうとするようなケダモノが、まともなわけあるか。


そう口に出そうとして、それが目に入った。


トサカの腕は、あんなに太かったか。


荒縄のように盛り上がった、あんな剛腕だったか。


「昼過ぎに帰ってきて、熱っぽいからってしばらく寝込んでたんだけど」


急所を蹴られた苦痛が収まったのか、トサカが地に手を着いて、ゆっくりと体を起こした。歯を剥いて、涎をだらだらと垂れ流して、ごろごろと喉を鳴らして。


トグラの肘を掴むスミレの指に力がこもった。怯えているのだろう。


「腹には効かなくても、熱には効くかもしれんとか言って、薬みたいな包みを取り出して、それを飲んでから、急に苦しみ出して」


唸りながらこちらを睨むトサカの眼は白く濁って、正気のものとは思えなかった。


何より。


額に盛り上がる、イボではあり得ない、先の尖ったあれは。


「あんな、風に」


あんな。


鬼の、ように。


「スミレ」


ぎゅ、と肘を掴む力が強くなった。


「逃げるぞ」

「うん!」




スミレを背にかばいながら、じり、と後退る。戸口は後ろだ。トサカ、いや、トサカだった鬼は地に手を着いたまま動かない。急所を蹴られたのは相応に堪えたらしく、敵意のある視線をこちらに向け、喉を鳴らしながらこちらを警戒している。


野犬みたいだな。


ちらりと、手にした兎を見る。鬼に視線を戻して、ゆっくりと手を左右に動かす。


鬼の視線が兎を追った。


肩越しにスミレに視線を送ると、頷いて、肘を掴んでいた手を離した。これで、走れる。


ゆっくりと右に、左に兎を振って、鬼の注意を引いてから軽く放り投げる。攻撃と思われないよう、ゆっくりと、ぶつからないように。


宙を流れた兎が地に落ちる寸前、鬼がそれを掴み取った。


スミレが走り出す音がして、トグラもそれを追った。背中からは、ばきばきと骨を噛み砕く音がした。


あんなちっぽけな兎では、足りなさそうだ。


日の沈んだ西の空に、宵の明星が出ていた。


◆◆◆


北か、南か。


内裏のある北の方が役人も武士も多い。普段なら避けるが、今は北だ。


川沿いは見晴らしが良すぎるので、路を東に折れて、川から一つ二つ離れた通りをひたすら北に向かう。


時折、野犬の吠える声が聞こえて、すぐに静かになる。鬼に食われたのだろう。それは、少しずつ近づいているようだった。野犬の吠える声から方向を判断し、時折路を変えた。


走れる距離などたかが知れているので、いくらか離れた後は早足で歩き、息を整えてから走る。繰り返しながら、途中で死体を見つけたら路の真ん中に寄せた。屍肉に食いつくかはわからないが、気休めにはなる。


「トグラ、これから、どうしよう」


手を繋いで早足で歩きながら、スミレが問うてきた。息が少し荒い。


「とりあえず北だ。運良く夜警の役人がいたら、そいつに押し付ける」

「そっか」

「いなかったら、そうだな」


繋いだ手を切って、懐から愛用の刀子を取り出して、スミレに渡す。


「懐にしまっとけ」

「え、うん」


手を繋ぎ直して、続ける。


「何があっても、スミレは俺が守る」

「うん」

「でも、もしスミレ一人になったら」

「うん」

「それ持って、賀茂の社に駆け込め。場所は分かるな」

「うん。でも、そんなの、やだよ」

「もしの話だ。さっきも言ったが、スミレは俺が守る」

「うん」


それに、と言葉を続けた。


「トサカだって、惚れた女に狼藉を働くなんて、本意じゃねえだろうよ」


もう、トサカは鬼になってしまったけれど。戻してやる方法なんてあるかも分からないけれど。


馬鹿だし、煩いし、水浴びを覗くような助平野郎だったけど。


弟分の気持ちぐらいは、汲んでやりたい。


「ふふ」

「なんだよ」


可笑しげに、悲しげに、スミレは笑った。


「トグラ、やっぱり気づいてなかったんだ」

「なんだよ」

「トサカはね、ずうっと、トグラの事が好きだったんだよ」

「ああ?」


こんな、小汚いし、肉付きも悪い、ちびで痩せっぽっちの女童(めのわらわ)を。優しくて、柔らかくて、器量よしのスミレではなく。


「そいつは、また」


趣味の悪い。そんな軽口は言葉にできなかった。


「ずうっと見てたから。分かるんだ」

「……そうか」

「そうだよ」


繋いでいた手を、スミレが切った。


「うん、もう大丈夫。走ろ?」

「……おう」


黙々と、北へ走った。


南から、野犬の吠える声が聞こえた。


◆◆◆


夜警らしい、六尺棒を携えた役人共がいた。


それは良かったが。


「おい、小汚い孤児がこんな所で何をしとる」

「胡乱な奴め。大方盗みでも働きに来たか」


面倒な手合いだった。この忙しい時に。


「……む。おい」

「……おお」


スミレの顔立ちと肉付きに気付いたのだろう。クソ共め。


スミレと視線を合わせる。頷いたのを見て、スミレを置いて走る。


「おい、逃げたぞ」

「お前、行けよ。俺はこっちの娘が逃げんように見張っておく」

「待て、待て。抜け駆けは無しだ」

「ふん。ま、孤児一人逃げた所で何ほどでもあるまいよ」

「おお、違いない。どれ、娘。ちと、話を聞かせてもらうとしよう」

「話というよりは、声だがな」

「おお、違いない」


馴れ馴れしくスミレの肩を抱いて来た路を戻りながら、げらげらと笑うクソ共の背後に忍び寄って、男の急所を蹴り上げて、苦悶する男から六尺棒を取り上げて、もう一人の急所も殴り上げた。


非力なトグラでもクソ共を十分に痛めつけられるから、長物は良い。


「トグラ、それ持って走るの?」

「いや、邪魔だから置いてく」

「ん。急ごう」

「おう」


もう一発叩きこんで、身悶えもしなくなったクソ共の首から呼子笛を取り上げて、首にかける。スミレにも渡す。


「はぐれたら吹けばいい、ってこと?」

「それもあるが」


口にくわえ、思いっきり吹きならす。ピュィ、と高い音が鳴り、あちらこちらから同じ音が返ってきた。


これで役人共が寄ってくるだろう。


「捕まると面倒だから、急いで離れるぞ」

「うん」

「貴様らぁっ! 何をしている!」


たまたま近場にいた奴がいたらしい。


すでにだいぶ時間をとられた。どうするか、逡巡した隙にスミレが役人に駆け寄った。


「ああっ、お役人様、お助けくださいっ」

「ぬっ、むっ、おおお、ぐぉっ」


駆け寄って、抱きついて、胸を押し当てた。


役人が眉をひそめて、顔をしかめて、鼻の下を伸ばして、膝で玉を蹴り上げられて倒れた。乳を押し当てられたぐらいでだらしのない。


「行こう、トグラ」

「おう」


スミレも、たくましくなったもんだ。


◆◆◆


一度橋を渡って、時折笛を鳴らしながら、北へと向かう。


犬の吠え声に代わり、人の断末魔が聞こえるようになってきた。


鬼だ、という叫び声も聞こえるようになった。じきに二条の大路だが、だいぶ近づかれている。公家の屋敷もちらほらとあるような区画だと言うのに、未だ鬼退治をやってのける武士は現れないらしい。


大路に、出た。


西に進めば内裏。東に戻って川沿いを北に上れば賀茂の社。


内裏に向かえば確実に武士はいるだろうが、小汚い孤児がこんな大路をうろついていれば殺されてもおかしくはない。鬼から逃げて武士に殺されるなんて、笑い話にもならない。


実家である賀茂の社に駆け込むのは業腹だが、鬼に食われるよりはマシだ。胡乱な生業だと思っていたが、鬼がいるなら神だっているだろう。人ならざるモノの相手なんぞ、吉凶だの陰陽だのとぬかす連中に押しつけてしまいたいものだ。


トグラごときが見よう見まねで神事の真似事をやった所でご覧の有様だが、本職ならば何とかできるかもしれない。


東か。


「こっちだ」

「うん」


スミレの手を引いて、東に駆け出す。その前をふさぐ影があった。


「待て、童」


現れたのは、狩衣に女物の単を羽織った、大層立派な槍を担いだ人影。


上弦の月の他に明かりは無いが見まごうはずもない。ヌヱノだった。


「……あんたか。今、急いでんだ。相手をしてる暇は——」


びょう、と振られた槍が言葉を切った。


「童。言ったはずじゃぞ。なんぞ問題になったら話を聞かせてもらう、と」


槍の穂先が月明かりに鈍く光り、こちらを指した。


「お主、この騒ぎとどのように関わっておる。疾く答えい」


槍の穂先よりも鋭い眼光がこちらを射抜いた。


ヌヱノの声音には一切の色が乗っていなかった。向けられた眼差しには何の感情も宿っていなかった。槍の穂先がトグラの心の臓を貫く様がありありと思い浮かぶようだった。


殺される。


無造作に、何の躊躇もなく、こいつは、トグラを殺すことが出来る。そんな眼をしている。トグラはそんな眼を見たことがある。あれは母が殺された時だ。そう、あの男はこちらの事を虫でも見るように、いや、こちらに五分の魂も認めないようなそんな冷たい眼光で——。


「トグラっ! トグラっ! しっかりして!」


耳朶を打つスミレの声で我に返った。


気づかぬうちに膝から地に崩れ落ちて吐いていたらしい。少しばかり昔の事を思い出しただけだというのに、ひどい有様だった。肩をさすってくれているスミレの手を軽く叩いて大丈夫だと伝える。


ヌヱノはあの男では無いし、トグラもあの時ほど無力では無い。何より今はそんな場合では、無い。


見やればヌヱノも戸惑ったように穂先を下げ、訝しげな様子だった。


「なんじゃ童、病か。それとも、脅かしすぎたか」


存外に人が良い奴だ。そんな場合では無いというのに笑いがこぼれた。震える手を動かして口元をぬぐい、スミレの助けを借りて立ち上がる。


「なんでもねえよ」

「そんな風には見えんが」

「なんでもねえって。それより、この騒ぎだが」

「おう、それよ。やはり鬼か」

「鬼だ」


認めるのは業腹だが。


「ああ、鬼だった。あんたの探してた角らしいのは、言った通り砕いて川に流したんだがな」

「残っておったか」

「ああ。ガジン、例の夏越の市で暴れた男な、薬って触れ込みであれを削って売ってたんだがな。それが残ってた」

「なんと、薬とは、また」


呆れた様子でヌヱノがぼりぼりと頭を掻いた。


「腹を下すどころでは無いぞ。今暴れておるのは、そいつを呑んだ阿呆か」

「ああ、ああ。そうだな。そうだったよ。その通りだ」


あの、馬鹿が。


「——知人か。すまぬが殺す他ないぞ」


知人どころか。


繋いだスミレの手にぎゅっと力がこもった。


「——ああ、そうだろうよ」


繋いだスミレの手を握り返して、言葉を吐く。


「それによ、ヌヱノさん」

「なんじゃ」

「あんなもん、殺す他にどうしようってんだ」


くい、と顎でヌヱノの背後を示す。ヌヱノが弾かれたように振り返った。


十間ほど先の路からぬう、とそれが姿を現した。


それはもう、トサカの姿をしていなかった。面影はあるのかもしれないが、トグラの知るトサカの姿ではなかった。


身の丈は六尺を優に超えている。トサカはそんな大男では無かった。


体の厚みは倍ほどにもなっていて、二の腕はトグラの胴ほどもありそうだ。


ずる、ずると引きずっているのは運悪く出くわした夜警の役人か。滅茶苦茶に折れた足を持たれて力なく引きずられる様子から、息絶えている事は明らかだった。ぐっちゃぐっちゃと汚い音を立てて咀嚼しているのは、腹からこぼれた腸の先だろうか。


矢があちこちに刺さっているし、ふらふらと酔ったような足取りだが弱っている訳ではないらしい。黄色く濁った瞳がこちらを見つけて、にたりと乱杭歯を剥き出しにして笑った。それはそれは嬉しそうな笑みだった。


額を突き破るように生えた角が、白く光っていた。


まごう事なき、鬼だった。


◆◆◆


少しの間に、随分と手に負えなさそうな様子になった。人を食ってああなったのであれば、人を呼び集めたのは悪手だったかもしれない。


「こいつは、また。たらふく食いおったな」


絶句していたヌヱノが、気を入れ直すように槍を構えた。正面から戦う気らしい。槍一本でどうにかなるようにも見えないが、まあ時間を稼いでくれるのであればその間に逃げさせてもらうとしよう。お喋りしてる間に頭は冷えた。ヌヱノを間に挟む位置取りを保ちながら距離を取ればうまいこと逃げられるかもしれない。問題は、いつまで逃げればいいのか、という事か。


とりあえず、下がろう。


そう思って、スミレの手を引いて、下がろうとして。


「ねえ、トグラ」


下がろうとしがた、スミレは動かなかった。


「さっきの話。トグラ、角って言ったよね」


聞いた事の無い、スミレの声だった。


「それってさ、あの、ヌヱノさんが角を探してたって話さ、前にトグラが話してくれた、ヌヱノさんと会った時の話だよね」


スミレは動かない。じっと前を向いたままだ。視線の先には暴れまわる鬼と、槍を振るうヌヱノの姿がある。


「それをガジンさんが売ってたって、言ったよね。さっきの話は、それをトサカが飲んであんな風になっちゃったって、事だよね」


口を開いて、しかし、言葉は出てこなかった。今、そんな事を気にしてる場合か。それより、逃げよう。後で、説明するから。


「どうして、トグラはそれを知ってるの」


スミレが振り向いた。目が合った。そこには、何の色も宿っていなかった。


「ガジンさんは、どこから角を仕入れたの」


じっとこちらを見ながら問うスミレの声には、何の感情も乗っていなかった。


「トグラは、全部知ってるの?」


そうだ。とは言えなかった。


「そう」


繋いでいた手を、スミレが切った。


「トサカがあんな風になっちゃったのは、トグラのせいなんだ」

「それは——」


違う。とは言えなかった。言葉に窮したトグラを見てスミレが背を向けた。


背を向けて、前を向いて、歩き出した。血と臓物を撒き散らす鬼へ向かって。


どこへ、とも、何を、ともトグラは言葉に出来なかった。スミレの背がトグラの言葉を拒んでいた。


「トサカ」


スミレが鬼に呼びかけた。鬼は聞こえた風もなく、手に掴んだ死体を振り回した。


「トサカ」

「——娘!何を考えて——」


スミレが歩みを止める事なく再度鬼に呼びかけた。近づくスミレに気づいたヌヱノがぎょっとしたように動きを止め、鬼に薙ぎ払われて吹き飛ばされた。大路の端から端まで吹き飛ばされる程の一撃だったが、幸いにも槍で受ける事は出来たようだった。


「トサカ」


三度の呼びかけに気づいたのか、鬼が動きを止めた。


ぐるぐると唸りを上げる鬼が手を伸ばせば届きそうなほどに近づいて、スミレも足を止めた。


「帰ろう、トサカ。私と一緒に。二人で、暮らそう」


スミレがそう呼びかけるのを、トグラは見ているだけだった。


鬼が掴んでいた死体を手放して、ゆっくりと両腕をスミレに伸ばした。応じるように、スミレが一歩鬼に近づいた。


「さっきはびっくりしちゃったけど、もう大丈夫だから。私、トサカの事、好きだから。ね、一緒に帰ろう?」


スミレが優しく鬼の胸板を撫でるのを、トグラは見ているだけだった。


鬼がスミレを抱きしめるように両腕を回すのを、トグラは見ているだけだった。


鬼が。スミレを。


スミレの胴を掴んで。


二つに引き裂いて。


噴き出した血を浴びるように飲んで、腸を食いちぎって、無造作にスミレの、スミレの死体を投げ捨てるのを、見ているだけだった。


鬼がげらげらと笑いながらスミレの頭蓋を踏み潰して、踏みにじった。ぐりぐりと。すり潰すように。愉しげに。


断末魔は聞こえなかった。


耳が破れたように静かだった。


視界から色が消えたようだった。


月明かりで灰色に染まった視界の中で、スミレの血だけが一際黒く見えた。


音も色も消えた中を、無我夢中で鬼に向かって駆けた。


ああ、頭に血が昇るというのはこういう事か、とどこか他人事のように考えている自分もいたが、体は勝手に動いた。


駆けて、飛びかかって。


こんな化け物相手にそれでどうなる。知ったことか。


喉元めがけて掴みかかった右腕を、にたにたと笑う鬼がで掴みとった。べきべきとへし折れる腕から走る激痛は叫びそうなほどだったが、駆け出した時には喉が裂けそうなほど叫んでいるのだから大差無い。


地面に叩きつけられて死ぬまでにこの馬鹿の顔面を蹴り飛ばすぐらいはできる。


振り上げられる勢いのままに爪先を鬼の顎めがけて繰り出す。体を反らして躱した鬼の土手っ腹に、背後から忍び寄っていたヌヱノが槍を突き込んだ。すぐさま引き抜いてもう一撃入れようとしていたが、鬼がトグラを手放して繰り出した裏拳を避ける為に距離を取らざるを得なかったようだ。


トグラは高く放り投げられ、落ちて、頭を潰されたスミレの上半身に重なるようにして落ちた。


びちゃりと体を濡らすスミレの血にはまだ温もりが残っていたが、間近に見る無残に引きちぎられた胴と潰された頭蓋はあまりにも寒々しかった。


どうして。こんな。ああ、でも、このまま死ねば、離れずに済む。


そんな気が触れた事を考えるトグラの指先に硬いものが触れた。スミレの懐。渡したもの。実家から持ち出して、いずれ仇を討つ時にと思って、用を為す前に仇が疫病なんぞというどうしようもない理由で死んで、宙ぶらりんになってしまった愛用の刀子。


仇か。


スミレはそんな事、望んじゃいないだろうが。


無事な方の腕で刀子を取り出して、鬼の方を見やる。霞む視界に背を向けた鬼が映った。ヌヱノは随分と腕が立つようで、先程隙を突かれた以外には手傷らしい手傷も負わず鬼に血を流させている。振るわれる豪腕をかいくぐって槍を突き込む姿は軽業のようだった。


トグラが鬼の注意を引いて隙を作れば、上手いこと仕留めてくれるだろう。


あちらこちらを強かに打ちつけて力の入らない体に鞭打って立ち上がる。背後から飛びかかってやろうかと思ったが、さっきみたいな動きはできそうにもなかった。考えた末、鬼に声をかける事にした。


「おい、馬鹿」


注意は引けたが、隙をつくるほどでは無いらしい。ヌヱノは一瞬だけ咎めるような視線を送ってきた。余計なことはするなって事だろう。


生憎と、こいつの始末を任せる気持ちは、もう無い。


かといって兎を捌くのがやっとの刀子でこんな化け物を殺せる気もしない。


トグラに出来るのは、まあ囮ぐらいのものだろう。


身に着けた衣服を刀子で切る。片腕が折れている状態では脱ぐのもままならない。袖を切って、合わせを切って、片腕で脱ぐ。貧相な体とはいえ、一応はトグラも女だ。肌を晒すのは抵抗があるがそんな事を機にする状況でもない。


「おい、馬鹿。こっち向け」


声をかけながら用の済んだ刀子を投げつける。当たり前に弾かれたが鬼の視線はこちらを向いた。乳房のあたりに視線が向いているのがわかる。


そんなんなっても、根は助平野郎のままかよ。


可笑しく思いながら、脱いだ服を、足元を濡らすスミレの血を含ませた服を、鬼の顔面に向かって振った。


血飛沫が飛んで、鬼の目に入った。


うまい具合に目潰しが決まって仰け反った馬鹿の胸を、ヌヱノの槍が貫いた。


心の臓を、貫いた。


聞き苦しい悲鳴を上げて、もがいて、もがいて、そのうち、鬼は動かなくなった。


血溜まりに座り込んで、トグラはそれを見届けた。


「ああ、ああ。お前にゃ似合いの最期だよ、馬鹿野郎」


◆◆◆


翌日の事。


トグラはざくざくと土を掘っていた。道具はその辺でちょろまかしてきた木板だ。埋めるのは指だけなのだから、そんな道具でも十分だった。


首を埋めてやりたい所だが、そうもいかなかった。スミレの最期はあんなだったし、トサカの首はきっちり祓って塚を建てるとかでヌヱノの預かりとなった。


トグラにしてやれる事といったら、指を一緒に埋めてやるぐらいのものだ。


場所は悩んだ末に実家の森の一画を選んだ。二人にとっては縁も所縁もない場所だが、トグラにとっては思い出のある場所だ。子供の頃はよく遊んだものだった。鎮守の森の一画だし、大きな楠の根元だから荒らされる事もそうは無いだろう。死んだら野に打ち捨てられるのが当たり前の孤児を弔うには上等すぎるぐらいだろう。実家を継いだ従兄殿の許しも得た。


掘った穴に、水で清めた二人の指を納める。


まとめて埋めてやった方がスミレは喜ぶだろう。トサカの馬鹿がどう思うかは知った事では無い。


土をかぶせようとして、少し考えて愛用の刀子も一緒に埋める事にした。


これぐらいのわがままは、許してもらえるだろうか。


「ま、勘弁してくれ」


二人の骨と愛用の刀子を納めた穴に、土を戻して、踏み固めた。本当に埋めただけだ。草が繁ってないから今はわかるが、じきに見分けがつかなくなるだろう。


「随分と寂しい墓じゃの」


背中から声がかけられた。見ずともわかる、ヌヱノだった。


「……今日は随分とまともな格好だな」


振り返って見たヌヱノは、いつもの怪しげな風体ではなかった。狩衣姿はいつも通りだが、髪に櫛を入れて整え、女物の単を羽織っていないだけで随分とまともに見える。槍も持っていない。


トグラよりよほど髪が長くて美しいのが少しばかり腹立たしい。


「相変わらず口の悪い童じゃの」

「その爺むさい話し方、やめたらどうだ」

「やかましいわ。お主、これからどうする」

「ああ、トサカの首塚の場所が決まったんなら教えてくれ。今度手向けにでも行くから」

「それは構わんが、そうではなくてな。家に戻るのか。まさか賀茂の所縁の者とは思わなんだが」


そっちか。


「決めてねえよ。叔父は外道だったが、従兄殿はまともでな。世話になる事も出来るだろうけどよ」


トグラが意地を張る理由なんぞとっくに無くなっている。もっと早くに頼っていればこんな事にはならなかったろうと思うと、尚更孤児暮らしに戻る気にはなれなかった。


「ほうか」

「なんだ。働き口でも世話してくれるのか」


ヌヱノがそんなまめな事をする所など想像もつかないが。


「むう。何というかじゃな」


そう言って何やら口ごもるヌヱノは、まともな格好をしている事もあいまって随分と若く見えた。


案外、そう年は離れていないのかもしれない。


「責任を取れと言うのであれば、吝かでは無いというかの」

「はあ?」


何を言ってるんだ、こいつは。


「ほれ、その、お主の肌を見てしまったろう」


まじまじと、ヌヱノを見る。居心地悪そうにするヌヱノとは、随分と珍しい物なのではないだろうか。


つまりこいつは、女の肌を見てしまったから責任を取って嫁に迎えると、そう言っているのだろうか。


「おい、なんぞ言え」

「ん? おお、ああ、そうだなぁ」


なんとなく天を仰ぐ。楠に繁った葉が青々と日に透けていた。


視線をヌヱノに戻せば、何やら神妙な顔をしている。


何と答えたものやら、いつものふざけた態度はどうしたのか、本気で言ってるのか、本気にしてももっと違う言い方があるだろうとか。


あれこれと思う所はあるが。


それより何より、神妙な顔のヌヱノ、という奴が可笑しくて。


くひ、と品の無い笑いが漏れた。

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