IV 空っぽの感性
今日はメンバー全員の交代で台本を音読し終わったところで授業終了のチャイムが鳴り、生徒達はわずかな未練を残しながらそれぞれの教室へと散っていった。
帰りの会の先生の話をいつも通り聞き流し、それが終わると、川崎さんに捕まえられることを避けて、私は足早と教室を出た。
川崎さんはとても良い人だ。私のようなやつでも明るく話しかけてくれるし、毎日一緒に帰ろうと誘ってくれる。常に周りに気を配っていて、状況を見て友達に対して最善の配慮をしてくれる。もっとも、これは自分が川崎さんから受け取った対応を頼りに私が作り上げた人物像だけなのかもしれないけれど。
そんな彼女を差し置いて、私が家路を急いで向かう場所は、さして特別なところでもなかった。
家に着き、おばあちゃんの部屋に入ると、やはりサツキは布団を被っていて、まるで私の帰りを予想していたかのように目でこちらを出迎えていた。私も習って布団に潜ると、彼女は億劫そうに柔らかい肉球を私のほっぺに押し付けた。私は負けじと顔を押し出し頬擦りをすると、サツキは小さくうめいた。
彼女を少し愛でた後、私は淡い水色のポロシャツにジーパン、藍色のカーディガンを羽織り、帽子を深く被ると、暇潰しの手頃な物を入れたリュックをからって、ウォークマン片手に家を出た。背が高く、帽子のせいで顔が見えにくいこともあって、はたから見れば私は男の子みたいな格好をしている。
スカートは嫌いなのだ。制服のプリーツスカートは馴染み深いのであまり意識しないけれど、プライベートで履くような洒落たものは、魅力の微塵もない私とは不釣り合いな気がする。
それに、一度だけ休日に和生くんと遊んだ時、見栄をはってわざわざ買ったミディスカートを履いてきたのだが、同席していた友達から大笑いされてしまった思い出だってある。おまけに和生くんからは、「お前休みの日はずっとズボン履いてるんかなって思っとったわー」と馬鹿にされる始末だ。
あれ以来、私は二度とスカートなんて履かないと心に決めていた。それはスカートが似合わないと言うことの他に、和生くんの発言を『ずっとズボンを履いてる=ズボンが似合う』と捉えた上でのことだった。ただの勘違いも良いところだけども。
自転車に乗ると言う手段もあったけれど、今日は音楽を聴きながら道を歩きたい気分だったので、私は靴越しにアスファルトを踏んで目的地を目指した。
家から少し距離を置いたところで、ウォークマンの再生ボタンを押す。小気味のいいテンポの早い曲がシャカシャカと流れた。
これから向かう場所は、私にとっては素敵なところであり、有意義な時間を過ごすにはぴったりな場所だが、ある人によっては退屈なところであり、無意義な時間を過ごすだけの場所でもあった。
これまでの経験から、私は自主的にあの場所を知り合いに紹介しないようにしている。単に、私自身がつまらない人間だと思われたくなかったからだ。もちろん、私がそのように思ったわけではない。誰かが発した、偏見に近い個人的見解に、私があっさりと流されてしまっただけなのだ。
曰く、本を読む奴はつるむ人がいないからであり、何気なく散歩する奴は他に遊び場を知らないからだと言う。私はその明らかに隙だらけな言葉に、ぐうの音も出なかった。
翔子と破局してからと言うもの、当時行動を共にしていたいつもの面子はほったらかしにされた廃墟がさびれていくように、自然崩壊していったので、特別つるむ相手は持たなくなった。さらに言えばファストフード店や市内の商店街に遊びにいくことも格段に減った。それは別に私達が受験を自覚して、無意識に遊ばない空気を作ったからではないことは確かだ。
これはいわゆる、私と翔子間のトラブルによって発生した副産物のようなものだったのだろう。実際あれ以来、私の読書数は増えた気がする。人と話す時間より、本と無言のやり取りをする時間の方が長くなった。だから案外、その考えは悔しくも的を射ていたのだと思う。
今あの場所を誰かに見せたところで、それに感動する人の数はたかが知れている。そこはこの町の観光名所でもなんでもないのだから。テレビで取り上げられるような景色は、確かに絶句するほど綺麗だが、情報による補正は多少なりともかかっていると思う。
けれども、あの場所を支えるものはほとんどなかった。
シャッター通りと化した商店街の歩道を歩いている。
昔ここは平日でも人が混雑するほど活気づいていたと言うが、本当なのかは今の廃れ気味を見れば確かめようもない。私の記憶が正しければ、確か月の第一日曜日では市民が自家栽培した野菜や作物を売る朝市があっていたはずだ。
それ以外でここで盛り上がるイベントと言えば、夏に行われる花火大会くらいのもので、それにしても朝市にしても、別にここじゃなくても出来るような行事で、結局この商店街の存在はあまり意味を為していないように思える。
何せ、ここ最近では私の住む町はやたらと工事現場が目につくようになった。すでに何件か真新しい施設が建てられていて、私も幾度となく利用していたいくつかの古い建物は呆気なく姿を消してしまった。人は新しいものに目がいく。商店街に行かなくとも大型スーパーは二軒もあるし、専門店を歩き回る必要も無くなった。この町はこれからもどんどん新しくなってどんどん大きくなっていくだろうし、たぶん皆もそれについていくだろう。
けれど、あそこだけは無くなってほしくないものだ。
シャッター通りとは言っても、全く店が空いていないわけではない。割合的に見れば、の話だ。子供服屋さん、眼鏡屋さん、制服屋さん、外見からはよく分からないお店屋さんが複数。どれも小さいが、これらは私が幼い時からやっている店だ。
数年の間に私の身長は人の他にも色々な物を追い越してずいぶんと高くなってしまったものだが、ここはまるで時が止まったかのように何一つ変わっていない。毎年ここを通る度に変わらず店頭に並べてある商品を見て、「いつなくなるんだろう」なんて思っていたが、ここまで続くと妙に愛着がわいてきた。あの場所に行く時のルートとして、私は毎回ここを選ぶようにしている。
たまに見る数人の歩行者と普遍的にシャッターが上げられている店を見れば、静かでありながら、妙に平和ボケするような朗らかな気持ちにさせてくれるのだ。今では、まだ続いてほしいと心から願っている。
商店街を通り過ぎ、交差点を横断して大きな坂に出る。週末のせいか、いつもより車が前後に行き来している気がした。この通りはあまり大きくないくせに、やたらと車が多い。私は逃げるように、早足で坂をかけ上がる。人の視線は苦手だが、車越しの人の視線はもっと苦手なのだ。誰に見られているか、分からないからだ。
景観を楽しみながら車の通らない安全地帯に入ると、既に紅葉を済ませた木が何本か目にちらついた。目の前に伸びた自分の影を見て、ふと後ろを振り返る。
息を呑むように、私はその数秒の景観を眺めた。この高さから見るのは始めてだった。奥の山々へと沈もうと準備をしている太陽に、立派に葉を付けた木の枝が重なって、写真に撮りたくなるような綺麗な木漏れ日ができていた。けれど、メインディッシュはここを登った先にある。
私は勿体振ろうとする足を力ずくで持ち上げ、残りの坂を登っていった。先程のとは違い、自転車に乗るのが億劫になるくらい、急な坂だった。
平地に出ると、小道を挟んで目の前に神社へと続く階段が現れる。私はそれを無視して、左手に曲がった。奥に進めば、これまた道路を挟んで、別の神社へと続く砂利の道がある。私はまたそれを無視して、手前の左手にある小さな道に曲がった。せわしい道のりだが、それを乗り越えてまで、あの景色を眺める価値は、私にとっては十分にあった。
きっとこれより美しいものは、私が想像してる以上にこの世界にあるだろう。けれど、私は皆が気にも止めない、道端で当たり前のように落ちている小石に目を光らせることが好きなのだ。エメラルドやダイヤモンドに沢山の人が手を伸ばしている片隅で、私は誰も拾わなかったものを一人で楽しんでいたいのだ。それをきっと、独占欲と言うのだろう。
私はきりのいいところで音楽を止める。
落ち葉のぱりっと割れる音をノイズに、草むらに囲まれたコンクリートの道を少し歩いてから、誰かのお墓なのか記念碑なのか分からない灯台のような奇妙な形をした石の塊の側に立った。
町の全容を見渡せるこの場所は、散歩を重ねて私なりに発見したお気に入りの場所だった。太陽は下半身を山に隠して、呆然と立ち尽くす私を遠目で見るように建造物の頭部を照らしている。それらの足元は既に影に侵食されていた。ここは町の中でも特に高い位置にあるので、私は石の塊同様、弱々しくなっていく太陽の発光を全身で受け止めることが出来た。
ここなら、彼の光を遮る生意気な木の枝も視界に入らない。少々景色を堪能した後、私は太陽に大手を振るようにその場から立ち去ろうとする。
それを呼び止めたのは、聞き覚えのある男の声だった。
「ひょっとして、伊代ちゃん?」
足元を鎖で固定されたように、足がぴたりと制止した。
一眼レフを首に下げて私の眼前に立つ長身やせ形の男の人は、見覚えのある顔だった。記憶を端から端に駆け巡らせ、身近な人間の中から彼の顔を当てはめていくと、合点がいった。私はその名前を読ぶ。
「よ、しま先生?」
正体が分かったものの、自信の無かった私はかすめた声でぎこちなくそう言った。
「よしま」が「与島」と言う漢字であることも思い出し、徐々にぼやけた人物像がはっきりしてきた。下の名前が未だ曖昧なままだったが、彼が私の通う塾のアルバイトであること、彼がまだ大学生であることも思い出せたので、私は私の記憶力を咎めないことにする。話を合わせるには十分な情報量だ。
「うっそホントに? 久しぶりだね」
口調に比べて感情と温度差を感じた。与島先生はいつもそうなのだ。下手なくせに、わざと親近感のある喋り方をする。きっと他人に好意を持ってもらおうと努力しているのだろう。
会うのは本当に久しぶりだった。塾には週に一回しか通っていないので、定期制の与島先生とばったり会うなんてことは稀にしかなかった。それにこう言っては失礼だが、彼は影が薄いので少し顔を合わせないだけでもそこに居るのか居ないのか認識がつかなくなってくるのだ。現に、想起するのに少々時間がかかった。
私は軽く相槌を打ってから、彼の腹部にぶら下がっているカメラに視線を移した。そんな私に気付かず、与島先生は「ちゃんと勉強はしてる?」と聞いてくる。
家でよく耳に響くその台詞は、声の主が彼だからなのか、不思議といつものように不快感を感じることはなかった。単に、挨拶代わりのようなものだと捉えたからなのかもしれないけれど。私は腹部にもたれかかった右腕の手首を左手で掴み、喉から言葉を絞り出す。
「まあ、ぼちぼちです」
「……そ、うか。て言うか、また身長伸びたねぇ」
おぼつかない表情で与島先生は手先を延ばして敬礼のように頭部にそれを当てる。いちいち動きがぎこちないのは相変わらずだな、とか思いながら、私は未だ役目を為さず下げられているカメラを恐る恐る指差して、「それは……」と中途半端に聞いた。
すると彼は口角を少し上げて、生き生きとそのカメラを持ち上げた。
「あぁ、これ? 最近写真にハマっててさ、今日は特に何も予定無かったから、散歩がてら撮りに来たんだよ」
「へぇ。……良いですね、それ」
「うん。伊代ちゃんは? どうしてここにいるの?」
与島先生の無邪気な問い掛けに、私は後ずさるように口を引っ込めた。散歩、とは答えにくかった。何かしら納得のいく目的を持っていないと、寂しい奴だと思われると思ったからだ。
実際、その経験が私にはあった。私はそれまで何も気にせず、むしろ娯楽の一つとして散歩を楽しんでいたのだが、ある時、友人から言われた言葉に、私の価値観はあっさりと揺らいでしまった。私はその時、私が人より“有意義な時間の過ごし方”を知らないことを悟ってしまったのだ。それを悪いとは思わない。けれども、それが私にはコンプレックスのように見えて仕方がなかった。
私は人より何かが足りていない。同時に、私は人とずれていた。同じ大地を踏んでいても、同じ空の下にいても、私はどこか彼らとは違う場所を知らず知らずのうちに進み続けていたらしい。それが堪らなく寂しかった。
頭の中に順番に単語を並べていく。何が今適当な答えなのか、私は必死に模索した。
なんでもいいから考えろ。
人に「変だ」と思われるのは悲しい。けれど、「寂しい奴だ」と思われるよりは、幾分かマシだ。
私は、私が孤独であることを認めたくなかった。
「ここらで時間を潰してて。その、おばあちゃんが近くに住んでて、その帰りを待ってて」
「なるほど」
怪しまれずに済み、私は心の奥底でほっとする。
与島先生はスーツと合いそうな紺色のズボンに、袖を捲ったシワの少ない真っ白なカッターシャツに細かな線の入った赤いネクタイを下げていた。だからその分、カメラが目立っていた。
なんだか仕事帰りのサラリーマンみたいな格好をしている彼は、一歩ずつ社会人への道を歩んでいるように見えた。確か今年で二十二歳と言っていたが、もう就活に入っているのだろうか。聞こうに聞けなかった。
「ここ、綺麗ですよね」
話題を作ろうと思ったが矢先、早とちりするように先に声に出してしまった。
これまで取り繕ってきたイメージが全て崩れ落ちていく。何の変鉄もない町の風景に思いを寄せる自分をさらけ出してしまい、途端に恥ずかしくなった。
「そうだね。僕もここ良いなって思うよ」
口を両手でおさえる私を気にかけての発言ではないことは、与島先生のいつになく淡々とした口調から分かった。
むしろ彼は私の顔を覗き込んで、「そんなに恥ずかしいこと?」と聞いてきた。見透かされたような言葉に、私は正直唖然とした。普段なら、私がそれを向けられるはずの顔で。
彼は私の表情を見て、困ったように目を丸くして頬をぽりぽりとかく。
その後、私と与島先生は少しだけ会話の続きをし、互いに背を向け別れた。
帰りの坂で見た日没直前の夕焼けが、いつもより綺麗に見えた。