III 生きの臭きは主知らず
新倉翔子は私の親友だった。二年生のクラス替えで最初に席が近かったこともあり、すぐに仲良くなった私達は、授業中にはどんなに席が遠くても他のクラスメイトを巻き込んで手紙のやり取りをし、暇さえあれば他愛ない笑い話に花を咲かせていた。休日もほぼ彼女とともに町中を歩き回り、プリクラで撮った写真は数知れない。
しかしそれは「もうあんたとは遊ばない」と言う言葉で呆気なく切れてしまう関係だった。
彼女はクラスの中心、と言うと綺麗な言い方になってしまうけれど、いわゆるリーダー格の位置に属している。
気が強く、思ったことははっきり言い、両手に花と言わずとも必ず両側には友達がくっついている。人気者だ。私と翔子が一時期仲良くしていた理由は、実を言うとよく分からない。発端は彼女の方から私に話しかけてきたことで、第一印象としては、可愛くて元気な女の子だなとか、そんな感じだった。
初見だったからだいぶ大雑把になっているけれど、本当にその当時はいい人だと思っていたのだ。実際、彼女はいい人だった。しかしそれは、私の味方であるうちは、だけれど。
前言通り、彼女は気が強く、思ったことははっきり言う子だ。その性格上、本人の前ではさすがに有り得ないものの、嫌いな人の悪口はとことん吐き出すタイプだった。翔子と親しくなってからは、私も彼女の愚痴を聞く係を担当していた。
その時にはすでに翔子が“そう言う人なんだ”と認識していたから、私もある程度は許容できた。
こう言うところだけでも私がどれだけ最低な女なのかが伺える。他人の悪口は許せるくせに、自分のだけはどうしたって許せないんだから。おまけに中途半端にも良い人でいたいからって、翔子の話に適当な相槌ばっかり打っちゃって。
今から思えば、いつでも翔子から離れられるようにと、体勢をとっていたのかもしれない。
私が翔子と破局した原因は、色恋沙汰によるものだった。もっとも、ドラマめいた三角関係とか、恋愛競争とか、そんなものじゃない。他人から見れば本当にくだらないことだった。
単に、私が翔子に私の好きな人を教えて、彼女がその本人に教えたことで、揉め合いになったのだ。
「なんで言ったの!?」
私がそれを知ったのは、翔子の口からではなく、翔子を渡って知った和生くんから相談を受けた友達からだった。教えてそこまで日もたっていない頃だったので、私は心底がっかりした気分になった。もちろん翔子に。
しかし彼女は何の悪気もなさそうに茶化すような口調で、
「だってさぁ、本当に意外だったから、びっくりしたんだよー」
「だからって本人に言わなくても良いじゃん!」
両耳が火照り、私は訴えるように自分の怒りを主張する。
すると翔子はやっとそれに気付いたのか、「いやいやごめんって。でも、言い訳はさせて!」と両手を私の眼前で合わせて釈明を求めた。
「最初は、あんたのこと好きな子がいるってよ~って言っただけで、そしたら典人の方から誰々?って詰め寄ってきたんだよ~。いや、本っ当にごめん!」
それ以降の事は、まあ想像できなくもない。お互いの自己主張のぶつかり合いが激化し、気が付けば私と翔子の関係は修復不可能までに至っていた。
しかしこれは、私のせいではない。元はと言えば翔子があっさりと約束を破ってしまったことがいけないのであって、あの時私が怒ったことは決して間違いなんかじゃない。適切な対応だった。
そう分かっているはずなのに、例えば私が懐の深い判断を持ってあの場で彼女を許していれば、こじれなかった関係なんだと思うと、若葉のような後悔が芽生えてきた。
以来は、すれ違っても目は合わせず、たまたまお互いの視線が交わった時に返ってきたのはあの頃の笑顔ではなく、虚無を感じさせるひきつった表情であった。
体育の二人組の柔軟体操では出席番号が近いこともあって、間に入る友達が見学や欠席をした時には地獄の時間を強いられた。ペアが決まると翔子が溜め息をついて「最悪」と呟いたのを機に、二人の間には沈黙が長居をし、もちろん会話は一つもなく、また真面目に柔軟体操をすることもなく、ただただ時間が過ぎていくのを延々と待ち続けていた。
「最悪」、と言う言葉の理不尽さに悲観したのは言うまでもなかった。
しかし私が敵に回したのは、翔子だけではなかった。主に、彼女を支持する人達だった。先ほども言った通り、翔子はその相手を引き込む楽天的で親近感のある会話術と常にみんなの前線に立つ自信の強さで、彼女を信頼し彼女に付きまとう人達は多い。私とは正反対の性格だ。
私と翔子が不仲になったニュースは彼らの一週間ほどの退屈をしのぐには十分な話題だったようで、噂(と言うか事実だけれど)が広まる頃には、私は沢山のマスコミの取材記者に囲まれるように、普段はまともな会話もしない人達からの聞き込みが始まった。
聞く人によっては様々な誤解を持って私に尋ねてくる人もいて、中には「翔子に謝った方が良いんじゃない?」と謝罪を薦めてくる子もいた。もちろん私が実行に移すことはなかったが、それが火に油を注ぐ結果になってしまったらしい。
おそらく、彼らからすれば私は自分の悪いところを認めようとせず、謝罪すらしない最低なやつだと捉えられたのだろう。
私は一部の人から敵対視されるようになった。しかし明確な感情を向けられたわけではなく、言い替えるなら彼らは“翔子の味方”になったのだ。
彼らが真相を知っているのかは皆無だが、私には意味が分からなかった。そりゃ、翔子の方が皆から信頼されているし、私と彼女の言葉のどっちを信用するかって聞かれたら、大半は後者にいくだろう。けれど、それはあまりに仕打ちが酷いじゃないか。
あれ以来、私と和生くんはほとんど会話を交わすはなかったし、好きなCDの貸し借りも止まってしまった。勝手な判断だけれど、着実に彼とは仲良くなっていたんだ。それを私が他の人達と同じく信頼に置いていた人物に、一瞬で壊されたのにも関わらず、なんで私が責められなければいけないんだ。何故、こんな思いをしなければいけないんだ。
行き場のない怒りと悲しみは、懐で抑え込むには大きいものだった。
当時、物語に出てくる主人公を影で救済する都合の良い人物の存在を、何度願ったか分からない。しかし現実は違う。
誰も自分の思いは他の誰かに代弁してもらえないのだ。自分の思いは自分の口からでしか語ることは出来ない。私のような意思表示が下手な人間にとっては厳しい世界だった。
体育館で学年主任が共通連絡を生徒全員に伝えた後、それぞれの目的地へと足を引きずっていく彼らの中に溶け込み、私は自分の中で消化しきれなかった憂鬱を抱えて、多目的室へと向かった。
取り仕切っていたのは清水さんとは言え、前に出ていた学級委員の一人ならば気付こうと思えば気付けたはずなのだ。黒板をしっかり見るのを怠った数時間前の自分を私は心底恨んだ。しかし反省するならまだしも過ぎたことを嘆くことはとても無駄な時間だ。
幸い、目立ちたがり屋の翔子のことだからきっと彼女は表舞台の役者を選ぶはず。だったら私は裏方を担当すれば良いだけの話だし、それに今までの教訓から考えれば、何か特別な事情でもない限り、彼女の方から率先して私に話しかけてくることはない。私に対しての愚痴はあからさまに漏らすけれど。
図書室に入ると真向かいにある緑の蛍光色の大きなレースカーテンが目につく。古びた無数の木製本棚に囲まれた部屋の中でこれはよく目立つ。奥にあるのが多目的室で、カーテン以外に図書室と多目的室を識別するための壁も廊下もないため、カーテンさえ取り除けばこの二つの部屋は一つの部屋となる。
私より先に入ってきた生徒の何人かは、入り口から入って右手のカウンターに座っている司書の先生に「せんせーこんちわー」と声をかけてカーテン越しの空間へと吸い込まれていった。それに無意識に促された私も先生に会釈だけ残してカーテンをめくった。
中に入るとすでに翔子がいて、三角座りで同じく隣に座っていた友達と小声で笑い合っていた。ハイペースな言葉の投げ合いをする彼女らを見て、少し懐かしさを感じたのも束の間、翔子と目が合い、表情をうかがう暇も無く彼女は元の位置へと視線を戻したことで、私は現実に引き戻された。
途端に隣に欠落を感じた私は、仲の良い人が座ってないか辺りを見回す。しかし残念ながらそんな相手はおらず、その後も助け船が自分のもとに流れてくることはなかった。
全員が床に座ったのを視認した担当の先生は一度咳払いをして空気を整えると、およそ十分間に渡って劇の仕事を丁寧に説明した後、発表する劇のストーリーを綴った台本を配り始めた。様々な本に手を出していたため、ちょっとした設定上の矛盾や必要性にやけに敏感になってしまった私からすれば、その内容はさして面白いものではなかった。
しかし物語の全体的なテーマはしっかりしていて、観客にも伝わりやすいつくりになっていたので、多少の物足りなさはあれども、「よしやるぞ」と言う気分にはなった。
役者以外の仕事を慎重に品定めするように考えた結果、私が選んだのは大道具を作成する係だった。大道具係は去年の劇の際にもやっていたので、気苦労はないだろうと思ったからだ。きっとまた「絵が上手いから」とか言われてひたすらに道具のペイントをやらされる羽目になるだろうなと私は覚悟していたが、しかし係の人で創作物に詳しいのが私しかいないと言うことで(言うほど私も専門的ではないが)、大道具のリーダーは私が担当することになった。
この好機を逃すまいとして、私は去年の憂さ晴らしもかねて快く引き受けることにした。着飾るつもりはないけれど、しかし本命としては、私は誰かに見てもらいたかったのかもしれない。いつもクラスの渦中で影を薄めている私ではなく、堂々として前に立ち力を発揮している私を。
あれから私は泣き虫ではなくなったけれど、弱虫であることには変わりなかった。しかしそれこそ本当の好機と言うもので、これを機に私は変わりたいと思った。
そして、自分を否定的に見ていた人達に認めてもらいたかった。それは翔子も例外ではない。もっとも、性格の悪い私のことなので、見返してやりたい、と言う意味でだ。
和気あいあいと劇メンバーの生徒の士気が上がる中、私は一人歩きする妄想を胸に抱きながら、確かな決心を誓った。
それが甚だしい思い上がりだと知らずに。そしてまた、気付いた頃には、もう手遅れだったことも。