II 文化祭準備
ホームルームがあと一分前と言う頃に私は教室の入り口を抜ける。私に集まった視線のうち、目の合った人達から架空の言葉が浮かびあがり、直接脳内に届いてくるようで、反射的に彼らに平謝りするように一礼して席につく。
はたから見れば、挙動不審に歩きながらそこまで仲の良くないクラスメイトに慣れない挨拶をしている変な女の子だ。
その後失敗したなぁ、なんて思いながらスクールバックに顔を埋めたのも失敗だった。周りの席の人達がその様子に引いていたからだ。
「伊代ちゃん号令~」
私の後ろの席に座っている畑島さんのものであろう無駄に大きめな声で、どこかに飛んでいった私の意識を無理矢理引っ張って戻した。
あ、はい、と間抜けな声を漏らし、私は「起立」と言ってそれぞれのタイミングで席を立つ生徒達を見送ってから、「礼」と促した。これまた規律のバラバラな礼で、この朝一番にやるこの儀式のようなものは果たして意味を為しているのか疑問に思ってしまう。「ケジメをつけるためだ」とか先生が腕組みに胸を張って言っていたが、これのどこにケジメがあるのだろうか。悩んでいても仕方ない些細な疑問を自分の中で無理矢理打ち消し、私は「着席」と言って席についた。
樋口先生の話を『提出物 今日の日程』のように要点だけを頭に入れて、それ以降の定番の慈愛溢れるスピーチは聞き流し、朝の会が終了した後、私は空っぽになったバックをロッカーに放り込んだ。
席に戻ろうとすると、通りがかった席がわずかにずれ、川崎さんがこちらを振り向く。彼女のポニーテールが快活に揺れ、印象の強い上目遣いとえくぼに私の心は洗練されていく気がした。
「名取さん、おはよー」
「おはよう」
目が合っても自分に挨拶をするかどうかあやしいこのクラスの中で、川崎さんは唯一自分のはっきりとした意思で私に声をかけてくれる。彼女が転入してきたから気付いたが、心のこもった挨拶はそれだけでも十分にありがたみを感じる。
「おはよう」、「こんにちは」、「こんばんわ」、「さようなら」。自分がそこに居ることを証明してくれるには十分な言葉だ。登下校中に会って挨拶を交わしてくれるおばあちゃんが、やけに笑顔なわけだ。
同じクラスの女の子と挨拶をしたくらいで感動する私は変だろうか。でも、口に出さないだけで私みたいに感じ取っている人もいるんじゃないか。その人となら、私は仲良くやれるんじゃないか。ふいにそう思って、静かに蓋を閉じる。
川崎さんとはそれきりで終わり、席に座ると、高い人影が私を見下ろしていた。
「名取さん。今日の担当は名取さんだよ」
差し出された学級日誌を辿って見上げると、予想通り、佐倉くんだった。
「あぁ、はい、わかりました」
何故か敬語で答える私を訝しげに見ることなく、むしろ彼は「お願いします」と返してきた。互いに会釈しながらのそのやり取りは、書類を渡す会社員とそれを受け取る上司のようだと思った。中学生らしい単純な連想に浸りながら、「じゃあ」と言って戻っていく佐倉くんの背中にもう一度会釈する。後輩にやたらと頭を下げる弱そうな上司だ。
学級日誌を開くと、達筆なページに思わず目が止まってしまった。
記録者の項目に佐倉くんの名前がある。あまり意識していなかったが、そう言えば彼は字がとてつもなく上手いのであった。習字教室にはまだ通っているのだろうかと思いながら、一種の作品のようなそのページを眺める。
そつがなく丁寧に書かれたそれは、あまりに上手すぎて一文字一文字が独立しているように見える。漢詩を読んでいる気分だ。この隣に自分の字が載るのかと思うとシャーペンを握る手も緩んでしまう。
後でしようと思い、冊子から逃げるようにしてページを閉じ、机の端に置いておいた、ボロボロのブックカバーに覆われた文庫本を手に取った。
「この時間は朝言いましたように、文化祭の担当決めを行いたいと思います」
騒がしいクラスメイト達を制するように、樋口先生は大声でそう呼び掛ける。もちろんそのくらいで屈する彼らではないけれど、それに先生はしびれを切らしたのか「静かにせんか!」なんて強面の父のような口調でその場の空気を一瞬にして凍りつかせた。
その後いつもの下りでお説教に一五分ほど時間を要し、教室内に気まずい空気が残ったまま、私を含めた学級委員は恐る恐る席を立ち、教卓に立って担当決めの進行を始めた。
黒板に間を開けながら担当項目を書いていき、まず志望している項目の所に自分のネームプレートを貼って、定員に合わせて整理していくと言った形で話は進められた。
佐倉くんが黒板に右から『劇』、『壁新聞』、『モザイクアート』、『校外授業 プレゼン』、とぎこちない様子でチョークを走らせる。黒板で書くのは慣れていないのか、彼は『劇』の段階で書いては消して書いては消してを繰り返していた。西岡くんがそこで「こまけぇんだよ」と佐倉くんの背中に悪態をつくものだから、彼は目の前の字に不満を持ちつつも、諦めてチョークを持つ手を速くした。
最後の『ン』を書き始めたのを見計らって清水さんが「じゃあ、ネームプレートを貼りに来てください」と促す。先陣を切った西岡くんに続いて次々と黒板前にクラスメイト達が流れ込んでくる。教室の端で腕組みをして明らかに苛立ちを感じている樋口先生を横目で怯えながら、早く終わってと心の中で懇願した。ネームプレートを握り締め、出し惜しむように「なにする? なにする?」なんて数人の友達に交互に巡回する人もいて、結局全員が終わるのに五分かかった。
ちなみに私は最後尾が近付く辺りで、出来るだけ目立たないように『劇』の項目にプレートを貼り付けた。最初から劇に行くことを決めていたのだが、私は西岡くんのように堂々と自分のやりたいことを晒せることが出来ない。こうやって光の当たらないところで人知れず選択するのが性に合っている。
後ろめたいことなんて、何も無いはずなのにな。
「『劇』八、『壁新聞』二……て少なっ。『モザイクアート』七、『プレゼン』一四、か」
清水さんは口元にシャーペンのノック部分を押し付けてうーんと声を漏らす。
過疎化している壁新聞と三年間にして不動の人気を見せるプレゼンと言う対照的な二項目を見比べて、彼女は黒板に背を向けた。
「えっと、定員なんですけど、右から言っていきますね。劇が八人、壁新聞が七人、モザイクアートが十人、プレゼンが六人、です。劇は丁度なので決まりです。誰か、プレゼンから他のところに移動しても良いって人いますかー?」
淡々とした口調で司会を進行していく清水さんは、女の私から見ても格好いい。
成績優秀、品行方正、まるで漫画みたいな優等生だと、川崎さんと口を合わせて言ったものだ。そして何より彼女は、それを誇ろうとはしない。あそこまで出来た人間なら、この中学校の生徒会長などなんなくこなせるだろうに、そこで食い下がるのが清水さんの人柄だ。
けれど、学級委員長としての彼女も、眩しすぎて目を塞ぎこんでしまうくらい、すごく輝いていた。私の理想像は、今も昔もこの人に変わりはない。
清水さんの透き通るような声は放送委員もしてほしいくらい聴きがいがあるけれど、今は欲を抑えてクラスの様子を伺う。そこで真っ先に手を上げたのが川崎さんだった。
「多いなら私行きまーす。壁新聞で!」
「川崎さんは壁新聞ね。おっけー、他には?」
川崎さんの挙手に吸い寄せられるように他の女子達がえーと不満を持ちつつ、「晴夏行くならわたしもー」と言って手を上げたおかげで、壁新聞の人数はあっという間に埋まった。何か行動を起こすだけで影響力のある彼女は、少し羨ましい。
しかしそれでもプレゼンの定員は溢れているので、その後ジャンケンをしてやっと人数を全て合わせることが出来た。
「それじゃあ、午後の学活では学年全体で集まった後、それぞれ担当の人は指定された場所に行ってください」
数秒の沈黙後、主に気の強い男女の自信ありげな「はい」と言う返事でクラス全員の了承が決められた。見えないスクールカーストとやらが働いている証拠である。
樋口先生がやっとこさ自分の出番だと言うように、組んだ足と腕を解いてパイプ椅子から立ち上がる。きぃと言う妙に心地の悪い音が静寂を手にした教室内に響いた。
「じゃあ、学級委員は席について。自分の役割とか場所は把握しておいてください。午後になって聞いても先生は知りませんからね」
刈り上げ頭に骨っぽくもどっしりとした筋肉の目立つ樋口先生は、数学の担当教師にしては強そうと言うか険しそうと言うか。初見は熱血的な体育教師を彷彿とさせる容姿をしている。熱血と言う性質に関しては外見にも引かない生徒愛を醸し出しており、毎日その洗礼を受ける生徒からの評判はあまりよろしくないようだ。
まあ、実際すごく面倒くさい性格をしている。一人でも授業内容を理解出来ていない人がいれば生徒全員を巻き込んで分かるまでその子に付き合うし、いじめの前兆(先生の勘違いも含めて)を感じ取ればすぐに学級活動の議題にする。
愛情が空回りして過保護気味と言うか過保護な彼だが、別に悪い先生ではないのだ。毎朝ホームルームが終了した後の朝自習は生徒の間で決まって樋口先生の愚痴会が開かれ、年中長袖ジャージだの大熊だのほとんど関係のない罵詈雑言が飛び交う様子はさすがに気の毒だと私でも思う。
そんな清水さん同様、漫画に描いたような熱血教師だが、根っからの堅物ではないようで、豊富なボキャブラリーを駆使して生徒達を笑わせることもある。その他で可愛いところもあって、普段は丁寧語なのに怒りを露にすると口調が荒々しくなり、何故かたまに関西弁が混じる。関西出身なのかと聞くと実は違うらしく、この中学校を卒業していたらしい。よく黒板の誤字を指摘されていて、わざとなのかと思うくらい滑稽な間違いをする。
そんな濃度の高い個性をあわせ持つ彼は、ボケや天然ぶりを発揮しクラス内を和気あいあいとさせる一方で、このように生徒らの爆発寸前の不満が静かに漂う重苦しい雰囲気にさせたりもする。
「まじ樋口だりー!」
「要点まとめろぉ! 要点を!」
樋口先生が教室を出ていったことでクラスの起爆スイッチが押された。
狂ったように男子が雄叫びを上げ、それに隠れるかのように女子達が密度を高めてヒソヒソと愚痴を言う。いつもの光景だった。
火の手がこちらに及ばないよう、私は息を潜めて文庫本を開く。いちいち誰かの話に感情のこもっていない同意をするのは疲れるのだ。人と言葉を交わすより他人の書いた物語を黙読する方が気が楽だ。本の世界は、現実よりずっと綺麗だから。
最近では現実味のある濃厚な話も目についてきたが、何故かそれが鬱になることはなく、逆に頷いてしまっていっそう本に溶け込んでしまうようになった。
話の唐突な展開に思わずぷっと笑ってしまう。ないでしょそこは~、なんて思いながらもページをめくってしまうのだから本の力とは計り知れないものだ。その様子を見られているとは知らず、私が文面を読み進めていると、清水さんとは対照的な元気そうな声が耳に響いた。
「なにニヤニヤしてんの~」
「うえ、え、や、してないしてない!」
慌ただしい返事に川崎さんはハハハッとトーンの高い笑い声で「嘘だよ絶対してた~」と軽くからかうように私の肩に手を置いた。それにつられるように私も笑みを浮かべる。
川崎さんは今年の九月に隣県から引っ越してきた子で、その時からこうして仲良くしてくれている。
「名取さん、髪切ったよね?」
「あ、うん。切ったよ」
指摘された嬉しさを平坦な口調で隠し、私はそっと横の髪を耳の後ろに流した。以前は川崎さんより短めのポニーテールだったけれど、何故髪型を変えたのかはご想像におまかせするとしよう。
川崎さんは白い歯を見せて「似合ってる~」と笑う。それに対し私はさして風変わりでもないつまらない返事をし、会話が止まった。
すると彼女は空白の埋め合わせをするかのように喉から言葉を引っ張り出してきた。
「それにしても樋口の不人気度は相変わらず健在だな~」
「ん、私は生徒思いの良い先生だと思うけど……」
思いすぎて暑苦しいのがたまに傷だけれど。
「なんかさー、めんどくさいって言うかさー。樋口は頭が固いんだよ」
「あー……」
両腕を上げ、お手上げだと言うようなポーズをとる川崎さんに対する上手い返事が思い浮かばず、中途半端な相槌を打って私は下を向く。
すると川崎さんは、背後から手慣れた仕草で彼女の肩に腕を回してきた別の女の子に、「はるちゃんはるちゃん」と人懐っこい犬のように頬擦りをされた。ぐええ、と気だるげな声を漏らし川崎さんは犬を引き剥がす。その光景がとても可愛らしく思えて、ふとサツキのことを思い出した。今頃おばあちゃんの部屋のベットで体を丸めて睡眠を謳歌しているに違いない。
基本彼女はご飯だと言わないとベットからは降りないし、家の中を歩かせてもその場ですぐに寝てしまう(廊下も例外ではない)。健康面を考えて私が毎晩散歩に連れていこうとすると、意地でも首の力を強めてリードを握る私の手に抵抗する。食いしん坊で面倒くさがりで困った子だが、その溢れ出す愛らしさと不定期の気まぐれに私は何度と慰められていた。仲が良かった友達と激しい口論になり、下校の道中、濡れた顔を一生懸命隠しながら家に帰りつき、居間のソファで寝転がっていた私に最初に飛び込んできたのも、サツキだった。察しが良いのか単なる偶然なのか定かではないけれど、お腹にのしかかった重量と温もりは私の心を癒してくれた。
この二人のほんわかとした会話に入り込める余地がないと判断した私は、再び文面に視線を落とす。しかし彼女達の声はノイズには中々なってくれず、文を読み進める速度は鈍いままだった。
目を閉じれば現実の風景は遮断されるけれど、耳だけは現実から逃げられない。誰かを褒め称える言葉だろうと、誰かを罵倒する言葉だろうと、嫌でもそれは私のもとに届く。それが私に向けたものではないかと不安に思うこともある。
肯定文は受け付けないくせに、否定文だけを自分の中に吸収する、嫌な脳みそを頭に抱えてしまったものだ。
クラスメイトの「トイレ行こー」と言う言葉に川崎さんは促され、私の席から去ろうとする。その際、彼女の「じゃあね」と言う挨拶と一緒に、いつもの笑顔を受け取った。
二人が手を繋いでスキップしながら教室を出ていくのを見送った後、ふと正面を向くと、黒板に残された『劇』の項目に目が止まる。几帳面にも綺麗に陳列されたネームプレート。きっと清水さんが並べ直してくれたのだろう。
その中に、もう呼ぶことがないと思っていた名前があった。