■第二二夜やん:ときにはふしぎなはなしを
《門》という現象を科学的にはどう捉えるべきか、という議論はもしかしたらオーサカの外では進められているのかもしれない。
いくら国体が危うくなっていようが、まだ日本という国家は存在しているし、異世界との衝突は国際的規模の問題でもあるからだ。
だが、専門の研究チームなんてけっこうなものを維持どころか結成する余力などどこにもない現在の現場、つまりオーサカにあって、それについて真剣に考えてきたのはおそらく寝言師とその関係者たちだけだっただろう。
たしかに、自らそのなかへと身を投じた者がいなかったかといえば……嘘になる。
無謀な知的好奇心に突き動かされ、あるいは文字通り自暴自棄となって。
ごくごく初期のことだ。
だが、その試みはオレの知る限り三度目で打ち止めになった。
なぜって?
あんまりにもひどい結末が、彼らには訪れたからだ。
いや、訪れたんだと思う。
オレ自身が立ち会い、残した手書きの記録によれば、な。
だれも彼らのことを憶えていない。
正確には、憶えていられない、というのが正しいのか?
《門》へ飲み込まれた人々は、忘れ去られる。
多くの人々が、物語の登場人物たちのことを忘れ去ってしまうように。
オレ自身も手元に残した記録が、オレの空想の産物──つまり寝言なのか、事実だったのか、じつはもう確証が持てない。
物理現象としてほんとうにこの説明であっているのかどうか、オレ自身にもわからないんだが、仮説としてすこしは理解の助けになるかもしれないから聞いてくれ。
《門》というこの現象は直接的な異世界との接点なのではない。
我々の世界では輝く球体として認識されるそれは、数学上でのみで実在が証明することができる二次元的平面宇宙に実存を半分置いている。
なにいってんだか、もう全然わからねえって?
安心しろ、オレにもよくわからねえよ。
だけどもあんまりにも不親切だから、もうちょい噛み砕こう。
つまるところ、コイツは別の理屈で動いてる宇宙へ向かって開いた穴なんだ。
で、その宇宙の理屈は二次元。
そう、美少女とか、巨大ロボとか、怪獣くんとか、まあそういう……あってんのかなコレ。
まあいいや、とにかくそういう場所に。
そしてその二次元的平面宇宙は、どうもオレたちの心の在り方に非常に大きな影響を与えているらしいんだな、これが。
特に、記憶という領域と物語という領域の境界線上に。
たぶん、この《門》はオレたちの意識に開いた穴、そのものでもあるってことだろう。
で、むりくりにこの《門》をくぐって異世界に行こうとすると、だ。
その境界線をなんの準備もなく飛び越えることになる。
行き先を決めずに飛行機に飛び乗るようなもんだ。
どうなる?
物語の側の住人になってまって──生きたまま寝言になっちまう。
どこの世界の登場人物にもなれない不確定要素として取り込まれちまうんだ。
シュレディンガーの猫って知ってるか?
可能性を留保されたまま生死の境で重なり続ける矛盾した猫の話。
無策にも《門》に生身で飛び込んだヤツらは、まさにその領域に行っちまったってわけだ。
つまるところ、現実でも異世界でもないところで「保留」されちまっているって話だ。
量子的ふるまいがどーたらこーたら……自分で話しててアレなんだが……あってんのか、コレ?
でまあ、ようやっと現実の話だ。
ゲンのヤツがオレに提案した《門》に寝言を食らわせる、という話にやっと戻ってくる。
つまりところ「じゃあ、オレたちの寝言そのものを《門》にぶちこんでみたらどうなるんだ」とヤツは言ったんだ。
そう来たか、というのがオレの正直な感想だった。
物理的存在や現象に、寝言が効かないって話は前にもしたよな?
言語を理解できるか、あるいは物語そのもの──つまるところ書籍を代表とするテクスト群にしか、寝言は効果を及ぼさない。
だから、いくら「異世界転生上等!」などとデコトラに寝言でぶちこもうと異世界には行けないし、台風や地震を寝言で制圧することもできない。
だが、《門》はどうだ?
最初にオレはこの現象は半分実存を二次元的平面宇宙に置いている、と仮説したよな?
さらにその宇宙は、オレたちの心にも通じる穴だ、と。
その意味では、人間自身も寝言の固まりだと言えなくはない。
だが、あまりにも夾雑物が多過ぎる。
物語と、物語の作者を比べて失望したことはないか?
語られた物語の素晴らしさと、作者という人間のギャップに。
美しい物語を貴石の類いだとたとえれば、作者とはつまりその構成要素を含んだ石ころに過ぎない。
過激な物言いかもしれないが、たとえ話だから聞いてくれ。
ダイヤモンドも構成を組換えれば炭でしかない。
だとしたら。
いままで試みられた異世界侵入の失敗は、この人間の不完全さにあるんじゃないのか、とゲンは言っているのだ。
だが、寝言はどうだ?
研ぎ澄まされた寝言は、たしかにひとつの作品と言い切れないこともない。
いやむしろ、ヒトの心に作用させるためには、並のそれを凌駕していなくてはならない。
効くのか、《門》に?
オレはオレ自身に、もう一度、問いかけた。
「効く……と思うが」
断言に至らなかったのは……いま思い返せば、きっとどこかに、一足飛びで正解に辿り着いたゲンへの嫉妬みたいなもんがあったんだと思う。
だから、続けて出た反論にも、否定的なニュアンスがあった。
「だが……どうなるか、わからねえぞ。それこそ、いまは閉じた状態で小康状態を保っている《門》が開き、両方の世界が急接近することで……こんどこそ世界の境界線が崩壊するかもしれない。制御を誤ったら……いや、その程度で済むかどうか」
アレは《門》は、どこへ通じているかわからねえ「穴」そのものなんだ。
どこに向かうものかわからねえ。
なにが出てきてもおかしかねえんだぞ。
うめくように言うオレに、ゲンは真剣な顔で言った。
「大丈夫だ、トビスケ。ちゃんと行き先は特定できる。そして、閉じることもな」
「なんで言い切れる」
「エリスが《門》になりかけたとき、オレの弾丸は確かに効いた。始動キーになったのがエリスの心と共感した本だというのなら、それを撃ち抜いて現象を止めたのも、オレの放ったオマエの寝言だったんだ」
可能だ、とゲンは言い切った。
また適当フかしやがって。
笑えねえぞ。
たぶん、言い出したのがコイツじゃなくて、件の本の作者がコイツじゃなかったらオレはこのプランに断固反対していただろう。
けれども、ゲンはオレに駄目押しを握らせて訊いたんだ。
「トビスケ……こいつがオレの切札だ。言弾にできるか?」
渡された原稿は……四〇〇字詰め原稿用紙に十枚程度。
物語を始めて広げて閉じるには、けっこうカツカツの文字数だ。
なんども繰り返された推敲の後が、見て取れる。
最近じゃあなかなかお目にかからない血のにじむような原稿。
そこに描かれていたのは──これもあとで聞いてわかったんだが……エリスの故郷、異世界:ファーラウドを舞台にした物語……その草稿だった。




