■第二〇夜やん:グッバイ・マイ・フェアレディ
木漏れ日を聴いたような気がした。
世界を撫でていく優しい風と葉擦れ。
うららかな春の陽に温められた草が香る。
そっとだれかの指が、髪をかいぐる。
覚醒を促す感触に、しかし、オレはつかの間のぬくもりを手放したくなくてタヌキ寝入りを決め込むことにした。
はは、とちいさくだが、自嘲ぎみに唇が歪むのを止められない。
こりゃ夢だ。
どう考えたって夢だろう。
いつか、見た。
幼い。
だからこそ切実な。
だったら、せめて覚めないでいてくれ。
覚まさないでいてくれ。
ちょっとだけ、ちょっとだけだが……疲れたんだ。
そう願ったのに、オレの髪をかいぐる指の持ち主は呼ぶんだ。
いや、あとでわかったんだが……喚ばれたんだ。
「ゲン……ダイスケ……かえって、還ってきて」と。
それはたぶん、歌だったと思う。
ぱちくり、とオレは目をしばたかせた。
眼前に天地逆転した美貌があったからだ。
おかげでオレは、とんだ恥をかくことになる。
だってオマエ……こんな完璧な生き物が、現実のものであるはずがねえじゃねえか。
そう──彼女はエルフだったんだ。
本物のな。
それも王女さまだった。
実在するはずのない、居ていいはずのない、だからこそ完璧で美しい存在だったんだ。
「キレイだ」
ハッキリ言うが完全に無防備で、まるっきり素だった。
ようするに、心底からの本音だったってことだ。
それに気がついて、あとで死ぬほど赤面することになるんだが、とにかくこのときのオレには自覚ってヤツがまるっきりなかった。
たぶん、配慮とか男としての矜持みたいなもんが完全に欠落してて……すまない、少年そのものだったと思う
聞かされたアイツは……たまったもんじゃなかったんじゃねえだろうか。
本音ってのーは、伝えりゃいいってもんじゃねえ。
ねえはずだ。
迷惑ってもんが、あるからな、ヒトには。
それなのに、どうしてコイツは──いまオレをひざまくらして、髪をかいぐって、名を呼んで、現実側に呼び戻してくれたこの娘は、そんなにはにかんで、微笑んで、泣くんだ。
オイオイ、涙がさ、落ちてくるんだよ、雨みたいに。
安心したぜ。
エルフの涙もしょっぱいんだな。
「なあ……おしえてくれ……アンタがだれで……オレはどうしてここに、こうして、いる?」
そんでもってオレの口から出た質問は、今世紀最大に間が抜けていた。
エリスにひざまくらされたまま、自分の名前から彼女のそれ、そして馴れ初めやら、いま異世界と現実の境目を彷徨っているという相棒:トビスケの話を聞いても、オレにはどうにも現実感というものが湧かなかった。
いや、たいへんなことになっていて、どうにかしなければならない、なによりもいま、眼前にいるエリスという娘を守ってやらなければイケないんだ、ってことだけはとてもよくわかるんだが……どうして、こんな状況になったのか。
それだけが、どうしても飲み込めなかった。
もしかしたらそれは周囲の状況が関係していたかもしれない。
そこは……なんというか、あまりに不思議な場所だったんだ。
頭上には巨大な……たぶん、樹齢は余裕で数百年、もしかしたら千年に届くかもしれないニレの大樹が繁っていた。
ここはちょっとだけ小高い丘で。
あたりには詰んで揉めばいい香りのする草原が、ずーっとずーっと向こうまで、それこそ地平線の向こうまで、広がってやがる。
それでもって、いい感じにごきげんな雲のやつがふわふわと流れていく青空では、姿が見えねえのにヒバリたちが、鳴き交わしてやがる。
はじっこの方に、巨大な峡谷が見えた。
もしかしたら、植物を利用した葛橋みたいなもんがかかっているのかもしれない。
なんにせよ、オレたちの世界にはありえないほどの絶景だ。
こんな夢みたいな場所で、自分が本当はだれだったのか、なんて話をされたって……思い出したいと思うか?
「オマエは撃ったんだ。自分で、自分の頭を。わたしを取り込み始めた……異世界から──わたしを助けるために」
泣きながら経緯を説明するエリスに、オレの口から出た感想は「へえ」だった。
詳しく聞くと、どうやらエリスは同人誌即売会併設の古本ブースで、なつかしの本を見つけて手にとった途端、そいつが反応して、異世界と現実との間を開く《門》現象に巻き込まれたらしい。
で、オレは彼女を助けるべく、その本を撃ったんだそうだ。
準備動作で、オレ自身の頭を撃ち抜いて。
意味がわからん。
「頼むから……泣いてくれるな、あんた、エリス。美人が台無しだ。その、いまこうなる以前のオレがどうしてそんな……テメエでテメエのドタマをぶち抜いたのかは知らねえが……それよりも、聞きたいことがあるんだ」
目の前で美人に、それもエルフのお嬢さんに泣かれっぱなしってのは、どうにもイケない。
こういうのにオレは弱いんだ。
だから、話題を変えた。
このまわりの風景のことを知りたかった。
どーみたってオーサカではない。
ありえない。
美し過ぎたから、だ。
「深層の森の投影」
魔法の一種だ、とエリスは教えてくれた。
わたしたちエルフがそれぞれの心のなかに持つ森の姿を投影するものだ、と。
一種の結界で、使い手と使い手が守護すると決めたものを守り、それ以外を排除するのだと。
魔法、そいつは、すごい。
だけれどもだ。
「魔法は現実じゃあ、安定しねえんじゃなかったか? 多大な代償がいるって……言ってなかったか?」
どーしてオレはそれを知っていたんだろう?
ただ、こんだけデカイ魔法を使ったとしたら、とんでもない代償を支払わなけりゃならねえんじゃなかったか?
そう問うオレに、エリスはますます泣いて言うのだ。
「これが……この本の残り火が、わたしにその《ちから》をくれたんだ」
胸元を広げて見せるエリスに、オレはぎょっとした。
女のコがそんなことをしちゃいけない、としらふだったら怒っただろう。
けれども、そのときのオレは、オレ自身がオレにぶち込んだ強力な寝言に貫かれて、完全におかしくなっていたのだ。
つまり、英雄的に。
そして、エリスが見せてくれた胸元に青白く光る、いままさに燃え尽きようとする本の残滓を見たとき──ようやく、オレは夢から醒めたんだ。
「──っとまあ、そういう経緯でさ。なんとかかんとか生き延びたって寸法よ」
道路の補修工事なんかもう完全に放棄されて路面状況最悪の道を北進しながら、オレは長い長い回想とともに、一部始終を相棒:トビスケに語り終えた。
ふーん、とトビスケはドアの内張に肘をついて相づちを打つ。
「それでそんなに……なんだよ、ゲン。オレがくたばってる間に、オマエ、いい目しか見てねえじゃん」
「拗ねるなよ。聞いてなかったのか? 死にそうになったんだって!」
「いーじゃねーか、いつ死んじまうかわからねえような稼業についてんだし、いつものこったろ! それより、なんだよ、その本って。なんだ、そういうのがあれば魔法が使えるわけ?」
「あー、それな。じつはいくつかそのあと試したんだが……ダメだった」
「特別な本、ってわけか……題名は?」
「あー、それがだなあ」
「なんだよ?」
「忘れ……ちまったんだ」
オレの煮え切らない態度に、トビスケは怪訝な顔をした。
「忘れたって……エリスは?」
後部座席を振り向いたトビスケは見たはずだ。
同じように、題名を思い出せなくなって目を泳がせるエリスを。
「なんで? どうして? 忘れちまったんだよ。大事な手がかり、だぞ?」
詰寄るトビスケに、オレは苦笑しながら、事実を伝えるしかなかった。
「撃っちまったからだよ……オレが、寝言で。そんでもって、アレは物語の側に還っちまった。解き放たれて……虚構の側に行っちまったのさ。もういちど、だれかが言葉をかき集めてカタチにするまで……この世には存在しない」
「存在しないって……一冊もか?」
「なにしろ五十部しか刷らなかった……同人誌だからな。アレが最後の一冊だったとしても、なんの不思議もねえよ」
「オマエ……それを撃ったのか」
トビスケが目を白黒させる。
こいつ、書籍の信奉者だからな。
もしかしたら、本を寝言銃で撃ち抜いたオレのことを、非難してるのかもしれない。
……と思ったら違った。
「そりゃあ……つらい決断だったな」
「なあに、オレ自身もそのときはもう文字通り『我を忘れて』いたからな。さすがオレの寝言銃とおまえの言弾だぜ。抜群に効いたよ。二度と体験したくねえな」
笑いながらタバコに火をつけかけて、やめた。
せっかく暖まってきた車内に煙が充満したら、オレやトビスケはともかくエリスが可哀想だ。
「いや、そういう意味じゃねえよ」
「なんだよ」
「もういい。オマエがいいならな」
「つっかかるなよ」
「……それより、いまのオマエの話を聞いて気がついたことがある。なるほどな。だから、いまオレたちは旧バンパク公園、EXPO70跡地に向かってるってわけか。合点がいったよ」
オレのとりつくしまのない態度に、トビスケは事情の一切合切を察してくれたらしい。
あの日、エリスが胸に抱いてあこがれたと告白してくれた本は、オレの書いたものだってことを。
そして、エリスをこちらに留めるために、オレはオレ自身で、現存する最後の一冊だったその本を撃ったことを。
エリスは、本の作者がだれか、知らないことを。
オレには知らせる気がないことを。
「察しがよくて助かるぜ、トビスケ」
「へっ。どんだけ腐れ縁してると思ってやがる──よっし、そんじゃ、ぶっ飛ばせッ!!」
「しっかりつかまってろよ! こっから先は、道が悪いぜッ!!」
こうしてオレたちは、かつてみんなが夢見た未来の跡地に向かったんだ。
それじゃ、オレの語りはここまでだ。
ちょっと疲れちまったから、交替だぜ、トビスケ。




