第86話 老兵と帰還兵
前回までのあらすじ!
こいつら、いっつもピンチになってんな。
眠い。
魔剣ドライグで力天使の直剣を弾き、能天使の棍棒を、足をもつれさせながら躱す。
「……ッ」
風圧だけで数歩よろけた。膝の力が入らない。
すかさずネハシムが能天使に斬りかかるが、力天使の光線をすんでで躱したため、グウィベルは空を斬った。
瞼が重い。こんなことは初めてだ。老兵と呼ばれた時代から、肉体にここまでのダメージを負ったことは一度もない。
眠い。ただひたすら眠い。
「イルクレア!」
「……っ」
ネハシムの鋭い叫び声で、半分まで閉ざされていた瞼が上がった。
力天使が両手に持った直剣を、肩越しに引いている。直後に切っ先から放たれた光線を、ユランはドライグの腹で受け止めて散らした。
「まだよ!」
能天使の棍棒での追撃を、横から滑り込んできたネハシムがグウィベルで突いて逸らす。轟音とともに、カナン城居館の地面を棍棒が抉る。
飛び散った飛礫が、ユランのこめかみを掠めた。
つぅと、血が流れる。
もっとも、そんなものは口から流れ続けている血液の量に比べれば微々たるものだ。
二重三重に見える大天使や戦乙女の数は、すでに把握できない。完全に包囲網を敷かれてしまった。
これでは逃げるに逃げられない。
これは、もたんな……。
肉体が気絶したがっている。痛みから逃れるため、治療に専念するため、意識を手放そうとしている。
二重三重に見える棍棒や直剣を躱せているのは、老兵と呼ばれるようになるまで生き残ってしまった前世で得た経験則からだ。それがなければ、すでに挽肉になっている。
「クク」
自嘲が出てしまった。
己は本当に、何も満足に成し遂げることができない。
魔将軍によって遊撃隊を壊滅させられた。
四人の仲間で挑み、神軍に敗北した。
魔王を討ちにいくも返り討ちで肉体を失い、恩情だかなんだか知らないもので幼女として生かされた。
せめて魔王に肉体を返そうとするも、彼女の仲間を一人死なせてしまった。
挙げ句の果てに彼女の魂の居場所すらつかめぬまま、あろうことか借り物の肉体まで壊されようとしているときたもんだ。
二度目の生でも、何も成し遂げられない……。
なんなのだ、この人生は……。
ゼヒュー、ゼヒューと呼吸器が鳴っている。時折ごぼりと血を吐く。そして咳込み、呼吸音はさらにひどくなる。
呼吸が苦しい。息を吸っても肉体は満足せず、ただ瞼を押し下げようとする。
それでも攻撃を躱し、去なし、鈍いが反撃までをも行うのは、ユラン・シャンディラという老兵の強靭なる精神力のなせる業だ。
だが、それも、もう。
「目を閉じないで!」
闇の中で声を聴く。ネハシムの声だ。
けれども、瞼は上げられない。幼女の肉体で持つ剣よりも、二枚の瞼が重い。
ああ、臭い。血の臭いが体外からも体内からも漂っている。
再び意識に闇の波が押し寄せた直後、己の眼前で凄まじい轟音が鳴り響き、暴風が巻き起こった。直後に滑ってきた大きな背中に跳ねられて、ユランは血塗れの絨毯に転がっていた。
かろうじて瞼を上げると、その背中がバレストラのものだとわかった。
脇腹から血を流した騎士バレストラが、魔王となった己を庇っている。能天使の棍棒を受けたのか、バレストラの持つ大曲剣が大きくひび割れ、欠けていた。
「ぬ、ぐぅ……!」
バレストラが再び膝をつく。
もっとも、己などは不甲斐ないことに、すでに片膝を立てることさえできないのだが。
剣戟の音が響いているのは、ネハシムが力天使と打ち合っているのだろう。
気づけば再び視界は闇に包まれていた。
それだけではない。頬に絨毯があたっている。倒れたのか、己は。
不甲斐ない……まったくもって不甲斐ない……。
背中に暖かい手がのせられた。だがもう首を持ち上げることはおろか、瞼を上げることすらできない。
誰だ……?
言葉は出ない。だが、思考を読んだかのようにこたえは返ってきた。
「動くな、治癒魔法をかけてる」
セアラの声だ。
おれは、どれくらいで動けるようになる?
「わかんないよ、そんなことッ! わたしはアデルリアナ先生みたいに万能じゃないんだ!」
泣きそうな怒声が戻ってきた。どうやらセアラはまだ、奇跡的に無傷のようだ。
びしゃり、と何かが頬に振ってきた。
血の臭いが濃くなる。
何が起こった?
「……バレストラの血だ……ッ、……お願い、早く治って……ッ」
背中に当てられたセアラの手のぬくもりが、内臓に達する。
まだ肉体は動かない。だが、意識だけは手放さない。痛み程度では屈しない。
轟音が響くたび、バレストラのものと思しき血液が雨のように降り注ぐ。天井付近に移動した羽音と剣戟の音はネハシムのものか。
大天使や戦乙女が手出ししてこないのは正直助かる。上位天使の戦いには介入できないのか。
それにしても……やれやれ、己が足を引っ張るとは。
「バカ! 皮肉なんて言ってる場合じゃないだろっ!」
声、かろうじて出ているのかと、今さらながらに気づく。
まずくなったら逃げろよ、セアラ。
「どこへだよ、バカ! こんなの絶対無理だろ! 完全に囲まれてるんだぞ! …………おい、おい、魔王!」
待て、まだ生きてる。おれを揺するな、死ぬ。
だが、セアラはユランの身体を持ち上げ、肩を貸して引き摺りながら後退する。
「バレストラ! ……バレス……トラ……、……起きて……だめなのか……?」
バレストラめ、やられたか……。
「だめ……だめだ……、……もう……」
赤い靴は引き摺られたままだ。セアラの背中が壁にあたった。
ユランの瞼が揺れる。
かろうじて開いた瞳で見たものは、粉砕された大曲剣と、両腕の形状を失い、仰向けに崩れ落ちているバレストラの姿だった。
途中から金属音が消えたと思っていたら、バレストラは両腕で棍棒を受け止めていたらしい。右腕を潰され、左腕を砕かれ、胸部を打たれて崩れた。そんなところか。
「ドラ……イグ……は……?」
無意識だった。己はドライグの柄を放さずに、特大剣を引き摺っていた。
それでもセアラがドライグごと己を運べたのは、ドライグの重量軽減魔法が効いているからなのだろう。
震える足で立ち、肩を借りているセアラを、左手で力なく押す。けれども、セアラは頑として動かなかった。
情けない。小娘一人押しのけられないとは。
「……さ……がれ……セア……ラ……」
「無理だよ! そんな身体じゃ!」
ネハシムの援護は期待できない。それに、彼女が力天使を引きつけていてくれなければ、とっくに終わっている。
能天使が、一歩一歩、こちらに近づいてくる。
力、まだ戻らない。一度、振れるかどうかといったところか。最初の一撃を躱し、カウンターを叩き込む。
想像しろ。その未来を。
横薙ぎならば屈んで躱し、足を断つ。縦斬りなら……ステップは踏めない。己の負けだ。
己らが大天使や戦乙女に包囲されていることさえ忘れて、老兵幼女は能天使に集中する。
おもしろみのない顔をしている。毛はなく、容姿に個性は一切感じられない。ただ人と同じ目鼻口があり、呼吸をしているだけだ。
口もとが嘲りに歪んでいるから、感情はあるのだろうけれど。
「ふー……」
ドライグの柄を両手でつかむ。
吐血は止まった。小さな傷口も塞がっている。だが、失った血の量が多すぎる。身体が揺れそうになる。いや、実際に脳内ではぐらぐらと揺れている。
能天使の足が止まった。棍棒とドライグ、両方の間合いで。
ユランは注視する。
能天使の腕が真上に上がった。横薙ぎではない。縦斬り、叩きつけのかまえだ。
だめか……。
ならばせめて一太刀、相討ちでも、と。
膝を沈めた瞬間だった。
響く、轟く、場違いなる魔物の咆吼が――ッ!!
敵味方を問わず、ほんの一瞬のみ、その動きを奪うあの叫びが。
ユランの目が見開かれた。重かった瞼が、その重量をなくす。心臓が内側から強く胸を叩いた。一瞬で涙腺が弛んだ。
ルビー・レッドの頭髪を振って、視線を能天使から外した。
並み居る天使を蹴散らし、彼らの包囲網を血飛沫と肉片に変え、その物体は地響きを立てながら凄まじい勢いで接近してきている。
「げぎゃっ、げぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃばばばばばぁぁーーーーーっ!!」
咆吼で一瞬止まっていた能天使の腕が、あさっての方角に視線を向けていたユランの頭部を目掛けて振り下ろされる。
だが、ユランの眼前まで滑り込んできたそいつは、両の腕に装着した手甲の爪を頭上で交叉して、能天使の棍棒を寸前で受け止めていた。
「~~ッ」
ずん、と大きな震動が起こり、暴風と衝撃波が散った。セアラと髪とユランの髪が、勢いで後方へと流れる。
魔王の瞳から、いや、老兵の魂から、涙が一筋流れ落ちた。まるで本物の子供に戻ったかのように、ぐちゃぐちゃに顔を歪めて笑う。
笑ったのだ。老兵の魂と、魔王の肉体の両方が。
眼前に広がるは、逆三角形となったトロールの背中。毛皮は無惨に灼け爛れ、傷だらけとなった背中。
棍棒を受け止めたまま、トロールが肩越しに振り返った。右目が潰れている。けれど愛嬌は失われていない。
「ただいまお~さま」
「ふ、はは、ははは……。貴……様……、……ずいぶんと遅かったではないか……、この駄肉め……っ」
決して知能の高くないトロールの渾身、捨て身とも言えるジョークをスルーして、幼女が真っ白な歯を剥いた。
瞬間、力が戻る。
それがセアラの治癒魔法によるものか、精神の充実によるものかはわからない。けれども、魔王の肉体と老兵の魂の両方に、力が戻った。
「言ったでしょ。生き残れる確率が少しでもあるのは、ぼくだけなんだーって」
「ああ……っ言った、言っていたとも! たしかにな!」
赤い靴で勢いよく踏み込み、能天使の胴体へとドライグの刃を叩きつける。まるで岩石を打ったかのような手応え。
「ぐ……ッおぅぅらあああぁぁ!」
だが、それでもドライグの刃は止まらなかった。高熱を発し、能天使の胸部を横一文字に溶かし斬って、背中から抜けた。
能天使が言葉にならない悲鳴を上げ、上半身だけで這いずるように逃げて――片膝をついたバレストラに潰れた右手で頸部をつかまれ、強引にへし折られた。
上空から飛来したヴァルキリーが、勢いそのままにトロロンへと抱きつく。
「トロロン……っ!」
「わっ」
「……っバカ! もう二度とあんなことしないで!」
「う、うん。……ごめんねはしむさん」
トロールは懲りずにジョークを呟いたが、やはりスルーされた。
ユランは彼女を追って来襲する力天使へと跳躍し、その直剣の切っ先をドライグの腹で強引に払う。
「邪魔だァ! どるぅああああ!」
力天使は中空でバランスを崩し、地面に叩きつけられ、跳ね上がって壁に背中をぶつけた。力天使が慌てて大天使の群れに紛れ、逃走する。
それを見送ってセアラと傷ついたバレストラを中心に、ユランとネハシム、そしてトロロンが背中を合わせる。
胸、躍る。
大天使や戦乙女が何体いようが、もはや負ける気がしない。
幼女は不敵な笑みを浮かべて尋ねる。
「……トロロン、貴様、どうやってここまで抜けてきた? 貴様の力だけでは到底居館までは辿り着けんだろう」
魔軍の愉快な仲間どもか。ならばどうして姿を見せん。
「あ。それはね~、あの人が旅の道連れ~ってことで、手伝ってくれたんだよ」
トロロンがミスリル製の爪で大天使の集団を指さした。その直後、集団の一角が力を失ったかのように膝を折って崩れ落ちる。
「……!?」
そこに立っていたのは、頬を赤らめ呼吸を荒くしている人類勇者の片割れだった。
「ハァハァ。ふ、ふひひ、待たせたね、僕の天使ちゃん。キミの助言通り、あの勇敢なトロールくんと旅をしてきたよ」
ああ……。言ったか、そんなことを……。はぁ~……言ってしまったか……。大失敗だ。
貴様だけ死ねばよかったのに……。
人類最強の勇者、天才エドヴァルド……。
幼女から力強い笑顔が消失し、虚無感に囚われた冷めた視線だけが残った。
だめだめだめっ、まだテンション下げないでえええええっ!




